赦しとは。
赦しとは何か。
その問いを出すと、博士は紙ナプキンに短く書いた。
復讐を、自分の手から下ろすこと。
「重いですね」
「重い」
「許可とは違うんですか」
「違う」
「謝罪とも?」
「違う」
「信用回復とも?」
「全部違う」
博士はコーヒーを飲んだ。
「まず分けよう」
博士は紙ナプキンに書いた。
許可。
謝罪。
赦し。
信用回復。
「また分ける」
「何度でも分ける」
博士は言った。
「許可とは?」
「してもよい、ということ」
「そうだ」
「謝罪とは?」
「責任を認めること」
「そうだ」
「赦しとは?」
「復讐を、自分の手から下ろすこと」
「信用回復は?」
「次を任せられる状態に戻ること」
「全部違いますね」
「違う」
博士は紙ナプキンに書いた。
謝罪した。
だから赦せ。
「これは?」
「飛躍です」
「そうだ」
続けて書いた。
赦した。
だから信用しろ。
「これも?」
「飛躍です」
「そうだ」
さらに書いた。
赦した。
だからなかったことにしろ。
「これも違いますね」
「かなり違う」
博士はうなずいた。
「赦しは、過去を消すことではない」
「はい」
「被害をなかったことにすることでもない」
「はい」
「相手を無罪にすることでもない」
「はい」
「では何ですか」
「復讐で、自分を縛り続けないことだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
記録は残る。
怒りも残ることがある。
それでも、復讐を握り続けない。
「かなり大人ですね」
「赦しは大人向けだ」
「赦したのに怒っていてもいいんですか」
「あり得る」
「そうなんですか」
「ある」
「赦したのに距離を取っても?」
「あり得る」
「赦したのに信用しなくても?」
「当然あり得る」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦し。
感情。
距離。
信用。
「混ぜるな」
「かなり大事ですね」
「大事だ」
博士は言った。
「君が誰かに傷つけられた」
「はい」
「相手が謝った」
「はい」
「君は赦した」
「はい」
「でも、もう近づかない」
「ありですか」
「ありだ」
「冷たくないですか」
「違う」
「では?」
「記録を見ている」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦しても、距離を取ってよい。
「強いですね」
「強くてよい」
「では、赦さない自由もある?」
「ある」
「即答ですね」
「赦しは内側だからな」
「あ」
「来たな」
「チンポジ哲学ですね」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦すかどうかは、相手の内側にある。
「謝った側には決められない」
「そうだ」
「周囲にも?」
「決められない」
「社会にも?」
「決められない」
「では、赦しなさい、は?」
「かなり危ない」
博士は続けた。
「謝ったんだから赦してあげなよ」
「ありますね」
「もう済んだことだろ」
「あります」
「いつまで怒っているんだ」
「あります」
「水に流せ」
「かなりあります」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦しの強制。
「これは?」
「内心への干渉です」
「そうだ」
「感謝の請求に近いですね」
「近い」
「赦しを請求すると?」
「支配に近づく」
博士はうなずいた。
「ここでカントを借りよう」
「他人の内心には直接届かない」
「そうだ」
「赦したかどうかも?」
「完全には分からない」
「赦せと命じるのも?」
「内心への踏み込みになりうる」
「カントですね」
「かなりカントだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦しは、命令できない。
「ミルは?」
「自由ですか」
「そうだ。危害が止まった後でも、距離を取る自由はある」
「はい」
「赦したとしても、関係を戻す義務はない」
「かなり大事ですね」
「大事だ」
「ニーチェは?」
「その赦しは、本当に赦しか。弱さを美徳と呼ばされていないか、と疑う」
「刺しますね」
「必要だ」
博士は紙ナプキンに書いた。
赦し。
諦め。
屈服。
「混ぜるな」
「ああ」
「来たな」
「赦したのではなく、諦めただけ」
「ある」
「反撃できないから、赦したことにした」
「ある」
「周囲に責められるから、赦したふりをした」
「ある」
「それは赦しではない?」
「少なくとも、きれいな赦しではない」
博士は言った。
「赦しは強い言葉だ」
「はい」
「だから悪用される」
「赦しを求める側に?」
「そうだ」
「赦せば立派ですよ」
「危ない」
「赦せないあなたは未熟です」
「かなり危ない」
「赦さないと前に進めません」
「場合による」
「出ましたね」
「出る」
博士は紙ナプキンに書いた。
前に進むこと。
赦すこと。
「混ぜるな」
「赦さなくても前に進める?」
「あり得る」
「赦しても前に進めない?」
「あり得る」
「人間は面倒ですね」
「人間だからな」
博士は続けた。
「ただし、赦しには価値がある」
「あるんですか」
「ある」
「ここまで危ない話をしておいて?」
「危ないから価値がない、とはならない」
博士は紙ナプキンに書いた。
復讐を握り続けると、自分も縛られる。
「なるほど」
「赦しは、相手のためだけではない」
「はい」
「自分のためでもある」
「はい」
「ただし」
「ただし」
「自分のためだから、他人が強制してよいわけではない」
「なるほど」
博士は今日の答えをまとめた。
赦しとは、復讐を自分の手から下ろすことである。
許可、謝罪、赦し、信用回復は違う。
謝罪したから赦せ、は導けない。
赦したから信用しろ、も導けない。
赦したからなかったことにしろ、も導けない。
赦しは、過去を消すことではない。
被害をなかったことにすることでもない。
赦しても、距離を取ってよい。
赦しても、信用しなくてよい。
赦しは命令できない。
赦し、諦め、屈服を混ぜるな。
赦しは相手のためだけではなく、自分が復讐に縛られ続けないためのものでもある。
「博士」
「何かね」
「チンポジで言うなら?」
博士は少し考えた。
「誰かが君の椅子を蹴った」
「はい」
「君のチンポジが崩れた」
「最悪ですね」
「かなり最悪だ」
「相手が謝った」
「はい」
「君は赦すかもしれない」
「はい」
「でも、もうその人の近くには座らない」
「ありですか」
「ありだ」
「赦しているのに?」
「信用は別だ」
「なるほど」
「赦しとは、椅子を蹴った事実を消すことではない」
「はい」
「もう一度蹴らせることでもない」
「はい」
「では?」
博士は最後に一文を書いた。
赦しとは、崩されたベスポジをなかったことにすることではない。
復讐で自分のベスポジまで崩し続けないために、握っていた手をほどくことである。
「重いですね」
「重い」
「でも綺麗です」
「私は哲学者だからな」
「名前以外は」
「その罪はまだ赦していない」
博士は静かにコーヒーを飲んだ。




