閑話 社会問題って、カントとミルで大体終わる
ある日。
私は新聞記事を見ながら言った。
「博士」
「何かね」
「世の中、社会問題だらけですね」
「そうかね」
「社会問題です」
「どれが」
「全部です」
博士はコーヒーを飲んだ。
「雑だな」
「ニュースを見れば社会問題。SNSを見れば社会問題。誰かが困っていると言えば社会問題」
「ふむ」
「もう何が社会問題なのか分かりません」
博士は少し考えた。
そして紙ナプキンに書いた。
まずカント。
「いきなりですか」
「いきなりだ」
「社会問題ですよ」
「だからだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
その内心、
本当に観測したのか。
「カントですね」
「そうだ」
「物自体」
「そうだ」
「他人の内心には直接届かない」
「そうだ」
博士は続けた。
「差別された気がする」
「はい」
「理解されていない気がする」
「はい」
「傷ついた気がする」
「はい」
「苦しい気がする」
「はい」
「全部、本人にとっては本物だ」
「はい」
「だが」
博士は指を立てた。
「だから相手の内心が確定するわけではない」
私は少し黙った。
「たしかに」
「差別された気がした」
「はい」
「だから差別した」
「飛躍ですね」
「そうだ」
「理解されなかった」
「はい」
「だから理解する気がなかった」
「飛躍ですね」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
本人の内心。
相手の内心。
別物。
「カントですね」
「かなりカントだ」
「これだけで減ります?」
「かなり減る」
博士は即答した。
「なぜですか」
「社会問題候補のかなりの部分が、他人の内心を確定したところから始まるからだ」
私は少し嫌な顔をした。
「ありますね」
「ある」
「かなりありますね」
「かなりある」
博士はうなずいた。
「だからまずカント」
「なるほど」
「内心を読むな」
博士は紙ナプキンに大きく丸を書いた。
そしてその下に書いた。
次にミル。
「来ましたね」
「来たな」
博士は続けた。
「ミルは何と言った」
「不快と危害を分けろ」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに二列書いた。
不快。
危害。
「気に入らない」
「不快」
「価値観が違う」
「不快」
「ムカつく」
「不快」
「殴る」
「危害」
「盗む」
「危害」
「詐欺」
「危害」
「なるほど」
「ここでまた大量に減る」
「そんなにですか」
「そんなにだ」
博士は言った。
「人間は不快を危害として扱いたがる」
「たしかに」
「傷ついた」
「はい」
「だから禁止しろ」
「ありますね」
「嫌な気持ちになった」
「はい」
「だから規制しろ」
「あります」
博士はうなずいた。
「だからミル」
紙ナプキンに書いた。
それ、
本当に危害ですか。
私はしばらく考えた。
「博士」
「何かね」
「異端審問とか踏み絵みたいですね」
「ほう」
「内心を問題にしているようで、実際には外から確認できる行為だけを見ている」
「面白い比較だな」
博士は少し考えた。
「異端審問は本来、相手の信仰心そのものを直接観測できない」
「はい」
「だから告白や行動や証言を見る」
「踏み絵もですね」
「そうだ」
「本当に信じているかは分からない」
「分からない」
「だが踏むか踏まないかは観測できる」
「なるほど」
博士は指を立てた。
「良い制度だったと言いたいわけではないぞ」
「でしょうね」
「ただ、人間は他人の内心を直接確認できないという事実は変わらない」
「カントですね」
「かなりカントだ」
「社会問題でも同じですか」
「同じだ」
博士はうなずいた。
「相手が差別主義者かどうか」
「はい」
「本心で憎んでいるかどうか」
「はい」
「そこは簡単には観測できない」
「はい」
「だから本来は行為を見る」
「危害があったかどうか」
「そうだ」
「そこでミルにつながる」
「なるほど」
私はしばらく考えた。
「博士」
「何かね」
「カントでかなり消えました」
「そうだ」
「ミルでもかなり消えました」
「そうだ」
「だいぶ減りました」
「だいぶ減る」
博士は静かに笑った。
「そして残る」
「何がですか」
「本物だ」
「本物」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
暴力。
搾取。
契約違反。
制度不備。
治安。
災害。
税金。
福祉。
医療。
「うわ」
「うわ、だな」
「重いですね」
「重い」
「哲学で消えませんね」
「消えない」
博士はコーヒーを飲んだ。
「むしろここからが本番だ」
「本番」
「そうだ」
「誰が負担する」
「はい」
「誰が責任を持つ」
「はい」
「どう運用する」
「はい」
「どこまでやる」
「はい」
「いつ終わる」
「はい」
「全部残る」
「うわぁ」
博士は少し笑った。
「だから哲学は便利なんだ」
「便利ですか」
「デバッグツールだからな」
「出ましたね」
「出たな」
博士は紙ナプキンに最後のまとめを書いた。
カントで内心を止める。
ミルで不快を止める。
それでも残ったら運用を考える。
「博士」
「何かね」
「社会問題って、思ったより少ないんですね」
「違う」
「違う?」
「社会問題候補は山ほどある」
「はい」
「だが」
博士は指を一本立てた。
「カントを通す」
二本目。
「ミルを通す」
三本目。
「それでも残るものだけ扱う」
「なるほど」
「そうしないと」
「そうしないと?」
博士は最後に一文を書いた。
人間の感想が、
全部社会問題になる。
私はしばらく黙った。
「それは大変ですね」
「大変だ」
「かなり」
「かなり」
博士は笑った。
「だから最初にやるんだ」




