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哲学と私 あるいは、チンポジ博士の講義  作者: チンポジ博士


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虚無とは。

 虚無とは何か。


 その問いを投げると、博士は少しだけ楽しそうな顔をした。


「虚無は、相性がいい」


「何とですか」


「チンポジ哲学とだ」


「最悪の始まりですね」


「いや、かなり正確だ」


 博士は紙ナプキンを一枚取り、短く書いた。


 虚無=意味の接続先が切れた状態


「虚無とは、何もないことではない」


「違うんですか」


「違う。正確には、意味の接続先が切れた状態だ」


「意味の接続先」


「そうだ。今まで意味を与えていたものが、意味を与えなくなる。信じていたものが信じられなくなる。頑張る理由が消える。価値が抜ける」


「何をしても意味がない、みたいな」


「それは結果として出る感覚だ」


 博士はペン先で紙ナプキンを叩いた。


「虚無は、最初から何もないのではない。あったはずの意味が、抜ける」


「空っぽになる」


「そうだ」


 博士は少し考え、続けた。


「では、チンポジで試みよう」


「博士、今回は早いですね」


「虚無は得意分野だ」


「嫌な得意分野ですね」


「どこにも収まらない、という感覚がある」


 博士は真顔だった。


「右でもない。左でもない。上でもない。下でもない。固定しても違う。自由にしても違う。何をしても、しっくりこない」


「……通りますね」


「それが虚無に近い」


「何もないというより、収まりどころがない」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに、もう一つ書いた。


 虚無=どこにも収まらない状態


「人は、意味の中に収まっている」


「意味の中に」


「家族のため。仕事のため。夢のため。信仰のため。正義のため。愛のため。自分のため。誰かのため。そういうものが、収まりどころになる」


「それが切れると」


「どこにも置けなくなる」


「それが虚無」


「そうだ」


 博士はコーヒーを一口飲んだ。


「ここでニーチェを借りよう」


「虚無なら、やっぱりニーチェですか」


「そうだ。ニーチェは『神は死んだ』と言った」


「有名なやつですね」


「これは単に、神はいないと言いたかっただけではない。世界に意味を与えていた巨大な接続先が、もう機能しなくなったという話だ」


「神という意味の置き場所が切れた」


「そうだ」


「だから虚無主義」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 神は死んだ=巨大な意味の接続先が切れた


「人間は、何かを信じていれば動ける」


「神でも、正義でも、進歩でも」


「そうだ。だが、その意味の置き場所が壊れると、急に世界が平らになる」


「平ら」


「良いも悪いも、上も下も、目的も価値も、全部が薄くなる」


「何をしても同じに見える」


「それが虚無だ」


 私は少し黙った。


 虚無。


 何もないことだと思っていた。


 でも博士の説明だと、少し違う。


 何もないのではない。


 あったはずの意味が、つながらなくなる。


「博士」


「何かね」


「虚無って、悪いものなんですか」


「危険ではある」


「悪いとは言わないんですね」


「言わない。虚無は、意味が壊れた後に出る状態だ。そこで人は二つに分かれる」


「二つ」


「一つは、何もかも無意味だとして沈む」


「はい」


「もう一つは、新しい意味を作る」


「ニーチェですね」


「そうだ」


 博士は紙ナプキンに、力強く書いた。


 虚無の後には、意味を作る責任が残る。


「意味は、どこかから降ってくるとは限らない」


「神がいないなら」


「そうだ。神が死んだ後、人間は自分で価値を作らなければならない」


「重いですね」


「非常に重い」


「自由と似ていますね」


「近い。自由は選ぶ重さ。虚無は、意味を作る重さだ」


 博士は続けた。


「ただし、ここで雑に意味を作ると危ない」


「どう危ないんですか」


「強すぎる意味に飛びつく」


「宗教とか、正義とか、思想とか」


「そうだ。虚無は空腹に似ている。空腹の時、人は強い味に飛びつきやすい」


「辛すぎるラーメンみたいな」


「そうだ」


「ここでそれが来ますか」


「意味の味覚が壊れている時、人は極端な意味を欲しがる」


「濃い正義、濃い敵、濃い使命」


「その通り」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 虚無は、強すぎる意味を呼び込みやすい。


「これは危険だ」


「なぜですか」


「虚無から逃げるために、絶対的な意味へ飛びつくからだ」


「これが正しい。これだけが価値。これに反するものは悪」


「そうだ」


「虚無の反動で、正義が暴走する」


「ある」


 博士は少しだけ目を細めた。


「虚無に耐えられない人間は、強い物語を欲しがる」


「わかる気がします」


「自分は選ばれている。敵がいる。使命がある。世界は間違っている。自分たちが正す。こういう物語は強い」


「収まりどころができますね」


「そうだ。だが、強すぎる収まりは、今度は他人を押し込め始める」


「虚無から逃げて、他人を殴る」


「そうだ」


 博士は、そこで一度ペンを置いた。


「虚無は、何もないのではない。意味を失った後の空白だ」


「空白」


「そこに何を置くかで、人は変わる」


「何も置けないと沈む」


「そうだ」


「強すぎるものを置くと暴走する」


「そうだ」


「ほどほどの意味を、自分で置く必要がある」


「その通り」


 私は紙ナプキンを見た。


 意味の接続先が切れた状態。


 どこにも収まらない状態。


 強すぎる意味を呼び込みやすい状態。


 かなり厄介だった。


「博士」


「何かね」


「チンポジ哲学でいうなら、虚無はどう扱うんですか」


「まず、どこにも収まらないことを認める」


「認める」


「無理に右へ固定しない。左へも固定しない。自由にすれば治るとも思わない」


「はい」


「収まりどころがないなら、まず収まりどころがないと認める」


「そこから?」


「小さく試す」


「小さく」


「少し動かす。少し休む。少し変える。少し戻す。いきなり絶対解を探さない」


「意味も同じですか」


「同じだ」


 博士はうなずいた。


「虚無の時に、人生の意味を一発で決めようとするな」


「重すぎますね」


「重すぎる。まずは、今日食べるもの、今日寝る場所、今日話す相手、今日やめること。そのくらいでいい」


「小さい意味」


「そうだ」


「世界全体の意味ではなく、今日の収まり」


「その通り」


 博士は紙ナプキンに書いた。


 虚無に対して、巨大な意味を急いで置くな。

 まず、今日の収まりを探せ。


「これはかなり大事だ」


「優しいですね」


「哲学は、たまに優しい」


「たまに」


「いつも優しいわけではない」


「でしょうね」


 博士はコーヒーを飲み干した。


「虚無は、完全に悪ではない」


「なぜですか」


「古い意味が壊れた証拠でもあるからだ」


「古い意味」


「今まで自分を支えていたものが、もう自分を支えられなくなった。これは苦しい。だが、同時に、新しい意味を作る余地でもある」


「壊れた後の空地」


「そうだ」


「何も建てられないと荒地」


「そうだ」


「変なものを建てると要塞」


「そうだ」


「ほどほどの家を建てると暮らせる」


「よい比喩だ」


 博士は少し笑った。


「チンポジ博士に比喩を褒められるの、複雑です」


「名誉だ」


「どこに飾ればいいんですか」


「心の収まりどころに」


「便利に使いますね」


 博士は今日のまとめを書いた。


 虚無とは、意味の接続先が切れた状態である。

 虚無とは、どこにも収まらない状態である。

 何もないのではない。あったはずの意味が、意味を与えなくなった状態である。

 虚無は、強すぎる意味を呼び込みやすい。

 だから、絶対的な正義や使命に飛びつくと危ない。

 虚無の後には、意味を作る責任が残る。

 ただし、巨大な意味を急いで置く必要はない。

 まず、今日の収まりを探せ。


「博士」


「何かね」


「虚無って、思ったより生活に近いですね」


「そうだ」


「世界全体が無意味だ、みたいな話かと思ってました」


「それもある。だが、多くの場合、虚無は生活の中に出る」


「仕事の意味がわからなくなる」


「そうだ」


「人間関係の意味が切れる」


「そうだ」


「信じていた価値が信じられなくなる」


「そうだ」


「頑張る理由が消える」


「そうだ」


「その時、どこにも収まらなくなる」


「それが虚無だ」


 博士は紙ナプキンを畳んだ。


「だから、虚無をすぐ悪者にするな」


「はい」


「しかし、虚無を放置して絶対的な意味に飛びつくな」


「はい」


「小さく調整しろ」


「チンポジ哲学ですね」


「そうだ」


「今日の収まりを探せ」


「そうだ」


「明日の意味は?」


「明日探せ」


「かなり現実的ですね」


「虚無に対して、現実は強い」


 博士はそう言って、空のコーヒーカップを置いた。


 喫茶店を出ると、外は夕方だった。


 街の明かりがつき始めていた。


 人が歩いている。

 店が開いている。

 誰かが笑っている。

 誰かが疲れた顔で信号を待っている。


 世界には、意味があるようにも見えた。


 ないようにも見えた。


 たぶん、そのどちらでもあるのだろう。


 意味は、最初から空に書かれているとは限らない。


 どこかに絶対の答えとして置かれているとも限らない。


 でも、今日の夕飯を決めることはできる。


 帰って寝ることはできる。


 誰かに一言だけ返すことはできる。


 嫌なことから少し距離を取ることはできる。


 虚無とは、何もないことではない。


 意味の接続先が切れた状態。


 どこにも収まらない状態。


 だから、いきなり人生全体の意味を探さなくていい。


 まず、今日の収まりを探せばいい。


 その日から私は、虚無という言葉を少しだけ怖がらなくなった。


 ただし、虚無をチンポジで説明されたことについては、まだ収まりどころを探している。

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