カントとは。
「博士」
「何かね」
「そもそも、カントって何なんですか」
博士は少しだけ黙った。
そして、静かに言った。
「人類に“待て”を教えた男だ」
「急に格好いいですね」
「かなり格好いい」
博士は紙ナプキンに書いた。
見えた。
分かった。
――本当に?
「カントとは、この“本当に?”を人類に突きつけた哲学者だ」
「疑いの人なんですね」
「半分正しい」
「半分?」
「カントは、全部疑って壊したいわけではない」
博士は続けた。
「むしろ逆だ」
「逆?」
「人間が、どこまでなら分かるのか。どこから先は分からないのか。その境界線を引こうとした」
「設計屋ですね」
「かなり設計屋だ」
博士は紙ナプキンに書いた。
人間は、世界そのものを直接見ているわけではない。
「これが有名な話だ」
「物自体」
「そうだ」
「つまり、本当の世界は見えない?」
「そこまで単純ではない」
博士は少し考えた。
「君はリンゴを見る」
「はい」
「赤いと思う」
「はい」
「丸いと思う」
「はい」
「だが、それは“人間に見えているリンゴ”だ」
「はい」
「人間の感覚、人間の脳、人間の認識方法を通ったリンゴだ」
「つまりフィルター込み」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
人間は、世界を“そのまま”見てはいない。
「では、物自体とは?」
「人間の認識の外にある“そのもの”だ」
「届かない?」
「完全には届かない」
「じゃあ意味ないじゃないですか」
「意味はある」
博士は即答した。
「なぜですか」
「“分かったつもり”を止められる」
「……ああ」
博士はうなずいた。
「人間はすぐ、“これが真実だ”と言いたがる」
「はい」
「“こいつはこういう奴だ”と言いたがる」
「はい」
「“社会はこうだ”と言いたがる」
「はい」
「カントはそこへ、“待て。本当にそのものを見たのか”と差し込む」
博士は紙ナプキンに書いた。
物自体とは、思い込み停止装置である。
「雑すぎません?」
「カントに怒られるだろうな」
「絶対怒られます」
博士は少し笑った。
「だが、心得としては割と正しい」
「心得」
「そうだ。物自体は、“全部分からない”ための道具ではない」
「はい」
「“分かったつもり”を疑うための道具だ」
「それはかなりチンポジ哲学ですね」
「だから相性が良い」
博士は紙ナプキンに書いた。
他人のベスポジは、完全には分からない。
「はい」
「だから押し付けるな」
「はい」
「だが、分からないから何もしない、でもない」
「はい」
「観測しろ。対話しろ。外部行動を見ろ。だが、内側を断定するな」
「かなりカントですね」
「かなり雑カントだ」
「カントに怒られろ」
「何度でも怒られよう」
博士はコーヒーを飲んだ。
「だがな」
「はい」
「カントがすごいのは、“分からない”を言いながら、思考停止していないところだ」
「どういうことですか」
「分からないから全部自由、ではない」
「はい」
「分からないから全部無意味、でもない」
「はい」
「人間には限界がある」
「はい」
「だからこそ、どこまでなら分かるかを真面目に考える」
「設計屋ですね」
「だから私は好きだ」
博士は少しだけ嬉しそうだった。
「じゃあ、博士の“カントに怒られろ”って」
「半分ツッコミで、半分敬意だ」
「なるほど」
「雑に使っている自覚はある」
「ありますよね」
「だが、雑にでも使えるくらい強い」
博士は紙ナプキンに書いた。
見えていると思った時ほど、問いを残せ。
「これが、かなりカントだ」
「かなり雑ですけどね」
「哲学は、入口がいる」
「チンポジで?」
「最低の入口から、妙に真面目な場所へ行くこともある」
「それ、博士の小説ですね」
「そうだ」
博士は少し笑った。
「だから、カントとは何か」
「はい」
博士は最後に一文を書いた。
カントとは、人類に“待て。本当に見えているのか?”を教えた哲学者である。
「かなり綺麗ですね」
「私は哲学者だからな」
「名前以外は」
「名前も、認識フィルター込みで見たまえ」
「便利ですね、その理論」
「便利なものは使う」
博士は笑った。




