多様性とは。
多様性とは何か。
その問いを出すと、博士は紙ナプキンに短く書いた。
違うものが、違うまま存在していること。
「多様性とは、違うものが、違うまま存在していることだ」
「良いことですね」
「良いことに見える」
「見える?」
「多様性は、きれいな言葉だ。だから危ない」
博士は紙ナプキンに、もう一行書いた。
多様性=全員を同じ方向に向かせることではない。
「ここを間違えるな」
「どういうことですか」
「多様性を掲げた瞬間に、多様性に賛成することを強制する者がいる」
「ああ」
「違うままでよい、と言いながら、違う意見を許さない」
「ありますね」
「それは多様性ではない」
博士は紙ナプキンに書いた。
多様性を守るために、異論を消すな。
「チンポジ哲学ですね」
「かなり近い」
博士は言った。
「人にはそれぞれ収まりがある」
「はい」
「本人にしか分からない感覚がある」
「はい」
「最適解は人によって違う」
「はい」
「だから、一律には決められない」
「はい」
「ここまでは多様性と相性がいい」
「その先は?」
「自分の収まりを、多様性の名で他人に押し付けると壊れる」
博士は紙ナプキンに書いた。
多様性とは、自分のベスポジを増やす権利ではない。
他人のベスポジを潰さない作法である。
「では、私が自分のベスポジを伝えたら、博士は採用しますか」
「しない」
「即答」
「聞くことと、採用することは違う」
「冷たくないですか」
「冷たくない。対等だ」
博士は紙ナプキンに書いた。
他人のベスポジは聞く。
だが、自分のベスポジを捨ててまで採用しない。
「多様性とは、全員のベスポジを採用することではない」
「では?」
「潰さずに並べることだ」
「かなり現実的ですね」
「現実的でなければ、多様性は運用できない」
博士はコーヒーを一口飲んだ。
「多様性って、全部受け入れることですか」
「違う」
博士は即答した。
「受け入れなくていい」
「いいんですか」
「よい。好きになる必要もない。理解しきる必要もない。正しいと認める必要もない」
「では?」
「不当に潰さない」
博士は紙ナプキンに書いた。
好きにならなくていい。
だが、潰すな。
「これは大事ですね」
「大事だ」
「嫌ってもいい?」
「内心は不問だ」
「ただし、嫌がらせはダメ」
「そうだ。外部行動を見る」
博士は続けた。
「ここで偉人を借りよう」
「誰ですか」
「ミルなら、他人に害がない限り踏み込むなと言う」
「はい」
「カントなら、他人を自分の目的の道具にするなと言う」
「はい」
「ウィトゲンシュタインなら、多様性という言葉がどの場面でどう使われているのか見ろと言う」
「使われ方ですね」
「ニーチェなら、その多様性は本当に多様性か。新しい支配の言葉ではないか、と笑う」
「煽りますね」
「煽る」
博士は紙ナプキンに書いた。
多様性の名を借りた一様化がある。
「これは怖いですね」
「怖い」
「多様性を認めろ、と言いながら、全員に同じ価値観を求める」
「そうだ」
「多様性への賛成を強制する」
「そうだ」
「それは多様性ではない」
「新しい同調圧力だ」
博士は今日の答えをまとめた。
多様性とは、違うものが、違うまま存在していることである。
全員を同じ方向に向かせることではない。
多様性を守るために、異論を消すな。
他人のベスポジは聞く。だが、自分のベスポジを捨ててまで採用しない。
好きにならなくていい。だが、潰すな。
理解しきらなくていい。だが、勝手に決めつけるな。
内心は不問。外部行動を見る。
多様性の名を借りた一様化に気をつけろ。
多様性とは、自分のベスポジを増やす権利ではなく、他人のベスポジを潰さない作法である。
「博士」
「何かね」
「多様性って、優しい言葉なのに怖いですね」
「優しい言葉ほど、運用を見ろ」
「運用」
「そうだ。多様性を掲げた結果、誰の自由が増えたのか。誰の自由が減ったのか。誰が黙らされたのか」
「そこを見る」
「そうだ」
博士は少しだけ間を置いた。
「多様性は、相手を自分の中に入れることではない」
「はい」
「相手の違いを、自分の正解に変換することでもない」
「はい」
「違うまま、そこに置いておくことだ」
「置いておく」
「そうだ。勝手に治さない。勝手に代弁しない。勝手に採用しない。勝手に潰さない」
「かなり難しいですね」
「難しい。だから美しい言葉だけでは足りない」
博士は最後に一文を書いた。
多様性とは、全員を好きになる思想ではない。
違うまま、踏み潰さずに並ぶための距離である。
「綺麗ですね」
「私は哲学者だからな」
「名前以外は」
「名前の多様性も認めたまえ」
「そこはかなり試されます」
博士は笑った。




