閑話:物自体、実演
私は、博士から渡された冊子を読み終えた。
股間に聖剣があった
――分かり合えないと分かり合う哲学
最低のタイトルだった。
だが、読み終わったあとも、妙に頭に残っていた。
数日後。
私はいつもの喫茶店にいた。
博士は、いつものように白衣でコーヒーを飲んでいた。
「読んだかね」
「読みました」
「どうだった」
「最低でした」
「最高の褒め言葉だ」
博士は満足そうだった。
「でも、思ったんですよ」
「何を」
「騙されました」
「ほう」
「あのタイトル、普通にチンポの話だと思うじゃないですか」
「思ったか」
「思いました」
「騙されたな」
「認めるんですか」
「いや」
博士は静かにコーヒーを置いた。
「私は聖剣と言った」
「はい」
「君が何を想像したかは、君の内側の問題だ」
「最悪ですね」
「哲学者だからな」
「カントに怒られろ」
博士は少し笑った。
そして紙ナプキンを一枚取った。
そこに短く書いた。
見えたと思ったものは、見た者の側にもある。
「いやでも、普通はそう読むでしょう」
「普通とは」
「また始まった」
「君は、タイトルを見て“物体”を想像した」
「はい」
「股間に聖剣があった。ならば聖剣そのものが問題だと思った」
「思いました」
「だが、本文で扱っていたのは聖剣そのものではない」
「チンポジですね」
「そうだ」
「つまり、聖剣はチンポではなかった」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
聖剣はチンポではない。
聖剣はチンポジである。
「最低の定義ですね」
「だが、ここが重要だ」
「重要なんですか」
「重要だ。君は聖剣を物体として読んだ」
「はい」
「だが本文で、聖剣はチンポジへ変換された」
「物体から概念へ」
「そうだ」
「最悪なのに、ちゃんとしてますね」
「哲学だからな」
「カントに謝ってください」
「まだ早い」
「早いんですか」
「ここからだ」
博士は紙ナプキンをもう一枚取った。
そして、ゆっくり三行を書いた。
股間に聖剣があった。
物自体。
チンポジ哲学。
「並べるな」
「並べると面白い」
「最低ですよ」
「だが、ここで君は事故る」
「事故る?」
「そうだ」
博士は一行目を指した。
股間に聖剣があった。
「君は“もの”を見た」
「はい」
博士は二行目を指した。
物自体。
「ここで君は、“もの自体”へ引っ張られる」
「はい」
博士は三行目を指した。
チンポジ哲学。
「だが本文で、聖剣はチンポジへ変換される」
「物体じゃなくなる」
「そうだ。概念になる」
博士は静かに言った。
「君は最初から、“概念”を“物体”として読んでいた」
「……カントに怒られろ」
「怒られるだろうな」
「認めるんですか」
「認める。だが、少し褒められるかもしれん」
「絶対怒られます」
博士は楽しそうだった。
「つまり、こうだ」
博士は紙ナプキンに線を引いた。
股間に聖剣があった
↓
読者は聖剣を物体として読む
↓
聖剣=チンポだと思う
↓
しかし本文では、聖剣=チンポジになる
↓
物体が概念へ変換される
↓
物自体は概念なのに、字面では“もの自体”に見える
↓
読者はまた物体へ引っ張られる
↓
本題は、ものではなくチンポジである
「最低なのに整理が綺麗ですね」
「私は哲学者だからな」
「だからカントに怒られろ」
「何度でも怒られよう」
博士はコーヒーを一口飲んだ。
「大事なのは、君が最初に“見えた”と思ったことだ」
「はい」
「タイトルを見て、何の話か分かった気になった」
「なりました」
「だが、読み終わると分かる」
「はい」
「見えていたと思ったものは、実は君の認識が作ったものでもあった」
「……物自体ですね」
「少しかすめる」
「カントに怒られろ」
博士は紙ナプキンに大きく書いた。
私は聖剣と言った。
君は“もの”を見た。
だが私は、チンポジの話をしていた。
「これが物自体だ」
「カントに怒られろ」
「では、こう言い換えよう」
博士は少し考えてから書き直した。
これが、物自体をめぐる心得である。
「逃げましたね」
「逃げていない。慎重になった」
「それは賢明です」
「哲学者には慎重さがいる」
「チンポジ博士なのに」
「チンポジ博士だからだ」
博士は少し真面目な顔になった。
「物自体とは、問いを残すための答えでもある」
「問いを残すための答え」
「そうだ。わかった、で終わらせないための答えだ」
「見えたと思ったものを疑う」
「そうだ」
「理解したと思った相手を疑う」
「そうだ」
「社会問題だと思ったものも疑う」
「そうだ」
「自分のフィルターを疑う」
「そうだ」
博士はうなずいた。
「つまり、このタイトルも同じだ」
「タイトルも?」
「君は、タイトルを見て勝手に見た」
「はい」
「そして本文で、その見方をずらされた」
「はい」
「そのズレが、問いを残す」
「何を見ていたのか、と」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
見たと思った時ほど、問いを残せ。
「これは普通に良いですね」
「普通とは」
「そこは流してください」
「不問にしよう」
私はため息をついた。
「でも、これ、作者がそこまで考えていたんですか」
博士は少しだけ沈黙した。
そして言った。
「読めてしまうものは仕方がない」
「逃げた」
「逃げていない」
「本当に?」
「作者がどこまで考えていたかと、読めてしまう構造があることは別だ」
「出ましたね」
「分けないと事故る」
「便利すぎる」
「便利なものは使う」
博士は紙ナプキンに書いた。
作者の意図。
読者の解釈。
作品の構造。
これらを混ぜるな。
「文学っぽいですね」
「文学でもある」
「哲学でもある」
「そうだ」
「ギャグでもある」
「それもそうだ」
「しかも下ネタ」
「入口はな」
「最悪ですね」
「最高の褒め言葉だ」
博士は笑った。
「君は、チンポだと思った」
「言わないでください」
「だが本文は、チンポジだった」
「はい」
「物体だと思った」
「はい」
「だが概念だった」
「はい」
「物自体は概念なのに、もの自体に見えた」
「はい」
「そして、その誤読そのものが、物自体の問題を演じていた」
「……かなり高度ですね」
「そうだ」
「カントに怒られろ」
「それも含めて哲学だ」
「含めないでください」
博士は席を立った。
「博士」
「何かね」
「結局、騙したんですか」
博士は少し考えた。
そして、こう言った。
「私は聖剣と言った。
君が何を想像したかは、君のフィルターだ」
「最低ですね」
「最高の褒め言葉だ」
博士は笑って、喫茶店を出ていった。
私は一人、紙ナプキンを見た。
股間に聖剣があった。
物自体。
チンポジ哲学。
どれも、まともに並べてはいけない言葉のように見える。
だが、並べると妙に絡まる。
聖剣は物体に見える。
けれど本文では、聖剣はチンポジになる。
チンポジは物体ではない。
本人にしかわからない、私的な収まりの概念である。
物自体は概念である。
けれど字面では、もの自体に見える。
私は、タイトルを見て物体を見たつもりになった。
けれど本文は、見えないチンポジの話をしていた。
つまり私は、最初から少しだけ騙されていた。
いや、騙されたというより。
私が勝手に見たのだ。
見えたと思ったものは、見た者の側にもある。
博士の文字が、紙ナプキンに残っていた。
たぶん、この最低な仕掛けそのものが、チンポジ哲学だったのだ。
カントには怒られるかもしれない。
でも、少しだけ笑ってしまった。




