閑話:チンポジ哲学の始まり
その日、博士はいつもの喫茶店にいた。
白衣。
コーヒー。
紙ナプキン。
胸ポケットのサイコロ二つ。
いつも通りだった。
ただ、机の上に一冊の薄い冊子が置かれていた。
「博士、それは?」
「君に渡そうと思ってな」
「私に?」
「そうだ」
博士は冊子をこちらへ押した。
表紙には、こう書かれていた。
チンポジ哲学の始まり
「……タイトルが最悪ですね」
「内容は悪くない」
「自分で言いますか」
「言う」
博士はコーヒーを一口飲んだ。
「君は、哲学が嫌いだったな」
「嫌いでしたね」
「長い。難しい。まわりくどい。役に立つのかわからない」
「だいたい合ってます」
「私もかつてはそうだった」
「博士も?」
「そうだ。私もかつては、哲学というものが実感できなかった」
博士は窓の外を見た。
「正義とは何か。自由とは何か。愛とは何か。真実とは何か。そう問われても、言葉だけが宙に浮いているようだった」
「わかります」
「だが、ある時気づいた」
「何にですか」
「哲学は、遠くにあるものではなかった」
博士は冊子を指で軽く叩いた。
「他人の内側はわからない」
「はい」
「それなのに、人はわかったつもりになる」
「はい」
「自分の収まりを、他人にも履かせようとする」
「はい」
「そして、善意でも正義でも愛でも配慮でも、人は他人を踏む」
博士は静かに言った。
「そこから始まった」
「チンポジ哲学が」
「そうだ」
博士は少しだけ照れたように咳払いをした。
「これは、君が今日までここに来たことへの感謝だ」
「感謝?」
「哲学が嫌いだった君が、今日までここに来た」
「まあ、来ましたね」
「くだらない名前に呆れながらも、問いを持ち帰った」
「持ち帰りました」
「それは、哲学としては十分すぎる」
博士は冊子をもう少しこちらへ押した。
「よければ読んでみてくれ」
「ここで?」
「いや」
博士は即答した。
「帰ってから読め」
「なぜですか」
「恥ずかしい」
「博士が?」
「私にも羞恥心はある」
「意外です」
「失礼だな」
博士は空になったコーヒーカップを置いた。
「その冊子に書いてあるのは、完成した哲学ではない」
「違うんですか」
「違う。始まりだ。まだ整理されていない。まだ言葉も荒い。まだ怒りもある。まだ迷いもある」
「博士にもそんな時期が」
「当然ある」
博士は少しだけ笑った。
「哲学者とは、最初から哲学者なのではない」
「では?」
「問いから逃げられなくなった者だ」
私は冊子を手に取った。
軽かった。
けれど、表紙の言葉は妙に重かった。
チンポジ哲学の始まり。
「博士」
「何かね」
「これ、宣伝ですか」
「そうだ」
「認めるんですか」
「認める。だが、押し付けではない」
「よければ読んでみてくれ、ですもんね」
「そうだ」
「読まなくても?」
「かまわん」
「感想は?」
「言いたければ言えばよい」
「博士、今日は妙に謙虚ですね」
「宣伝は、押し付けた瞬間に布教になる」
「チンポジ哲学ですね」
「そうだ」
博士は席を立った。
「では、私は先に帰る」
「本当に帰るんですか」
「言っただろう。恥ずかしい」
「博士にもそういう感覚あるんですね」
「ある。本人にしかわからない収まりだ」
「便利に使いますね」
「使えるものは使う」
博士は伝票を持って、出口へ向かった。
扉の前で一度だけ振り返った。
「君が哲学を嫌いだったことに、私は少し感謝している」
「なぜですか」
「嫌いだったから、問いが残った」
それだけ言って、博士は出ていった。
私は一人、喫茶店に残された。
机の上には、薄い冊子がある。
チンポジ哲学の始まり
私はまだ開かなかった。
博士が、帰ってから読めと言ったからだ。
たぶんそれは、博士なりの配慮だった。
いや、もしかすると単に恥ずかしかっただけかもしれない。
どちらにしても。
私はその日、初めて思った。
哲学とは、偉い人の言葉を覚えることではない。
自分の中で、どうしても引っかかってしまう問いを、捨てずに持ち帰ることなのだと。
家に帰ってから、私はようやく冊子を開いた。
そして、表紙を見直した。
そこには、こう書かれていた。
股間に聖剣があった
――分かり合えないと分かり合う哲学
私はしばらく黙った。
博士らしい。
最悪の入口から、妙に真面目な場所へ連れていく。
たぶん、これがチンポジ哲学の始まりなのだ。
この下のやつです。




