閑話 無知のベール実践、AとBのカード
無知のベールの話をしたあと、博士はまだ紙ナプキンを片付けなかった。
「続きがある」
「まだあるんですか」
「ある」
「無知のベールの続きですか」
「実践編だ」
博士は紙ナプキンに短く書いた。
AはBに対して、〜する。
BはAに対して、〜する。
「契約書ですか」
「そうだ」
「ずいぶん雑ですね」
「最初は雑でいい」
博士はさらに、紙ナプキンを二つに破った。
一枚にはA。
もう一枚にはB。
「カードですか」
「カードだ」
「何をするんですか」
「先に契約を書く」
「はい」
「そのあとで、カードを引く」
「はい」
「自分がAになるかBになるかは、契約を書いた後に決まる」
「嫌ですね」
「それがいい」
「嫌なのがいいんですか」
「嫌なら、そこを見る」
「そこ?」
「そうだ。嫌だと思った場所に、契約の歪みがある」
博士は紙ナプキンに書いた。
平等な契約とは、AになるかBになるか分からない状態で、それでも結べる契約である。
「かなり分かりやすいですね」
「かなりチンポジだ」
「チンポジですか」
「どちらのパンツを履くか分からない状態で、パンツのルールを決める」
「最悪に分かりやすいですね」
「分かればよい」
「ロールズに怒られますね」
「たぶん怒られる」
「でも通りますね」
「だが通る」
博士はコーヒーを飲んだ。
「たとえば、こうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
AはBに一万円を渡す。
BはAに昼飯を奢る。
「微妙ですね」
「微妙だ」
「一万円と昼飯では釣り合わない」
「そう感じるなら、カードを引く前に直せばいい」
「なるほど」
「自分がAになるかBになるか分からない」
「はい」
「その状態で、どちらを引いても納得できるかを見る」
「納得できなければ?」
「平等な契約とは言いにくい」
「無効ですか」
「そこまで言うな」
「違うんですか」
「法律の話ではない」
「では何の話ですか」
「平等性の検査だ」
博士は紙ナプキンに書いた。
法律上の成立。
契約の平等性。
「混ぜるな」
「また分ける」
「何度でも分ける」
「法的に有効な契約でも、平等とは限らない」
「はい」
「逆に、平等に見える契約でも、法的には別の問題があるかもしれない」
「はい」
「だから、ここでは法律の判定をしない」
「何を見るんですか」
「カードを引く前に、それでも結びたいかを見る」
「かなり単純ですね」
「単純でよい」
博士は紙ナプキンに書いた。
Aを引いたら得をする。
Bを引いたら損をする。
なら、その契約は平等ではない。
「強いですね」
「強くてよい」
「では、これはどうですか」
博士は書き直した。
Aがケーキを切る。
Bが先に選ぶ。
「これは聞いたことあります」
「古典的だ」
「Aが大きく切ると、Bに取られる」
「そうだ」
「だからAはなるべく均等に切る」
「そうだ」
「カードを引く前でも、まだ受け入れられる」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
片方が分ける。
もう片方が選ぶ。
「これは平等に近い」
「かなり平等に近い」
「くじ引きもそうですか」
「そうだ」
「誰が当たるか分からない」
「はい」
「だから、当たり外れの条件を先に決める」
「はい」
「その後で引く」
「はい」
「それなら、文句が出にくい」
「運ですからね」
「そうだ。平等のかなり純粋な形は、運に近づく」
「運」
「自分がどちらになるかを選べないからだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
平等を突き詰めると、運になることがある。
「身も蓋もないですね」
「平等は身も蓋もない」
「でも現実には、運だけでは回らない」
「その通りだ」
博士は紙ナプキンに、いくつかの言葉を書いた。
売る側。買う側。
貸す側。借りる側。
雇う側。雇われる側。
教える側。教わる側。
治療する側。治療される側。
「現実の契約は、ほとんど役割が違う」
「はい」
「売買契約なら、売る側と買う側がいる」
「はい」
「雇用契約なら、雇う側と雇われる側がいる」
「はい」
「賃貸契約なら、貸す側と借りる側がいる」
「はい」
「役割が違う時点で、完全な対称ではない」
「では、不平等ですか」
「非対称だ」
「違うんですか」
「違う」
博士は紙ナプキンに書いた。
不平等。
非対称。
「混ぜるな」
「違うんですね」
「違う」
「非対称だから悪、ではない」
「そうだ」
「売る側と買う側が違うのは当たり前」
「当たり前だ」
「雇う側と雇われる側が違うのも当たり前」
「そうだ」
「では、何が問題ですか」
「非対称性を隠すことだ」
「隠す?」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
Aは命令できる。
Bは従わなければならない。
Aは自由に解除できる。
Bは解除できない。
Aは説明しなくてよい。
Bは理解したものとする。
Aは利益を取る。
Bは責任を負う。
「ひどいですね」
「ひどい」
「Bを引いたら嫌です」
「そうだ」
「では、これは暴力ですか」
「まだ言うな」
「まだ?」
「契約の話で、すぐ暴力だ、無効だ、不成立だ、と言うと法の領域に踏み込む」
「では、何と言えば」
「怪しい」
「怪しい」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
怪しい契約には乗るな。
「かなり実務ですね」
「契約は実務だ」
「でも、片方だけが損をしているなら」
「怪しい」
「片方だけが解除できるなら」
「怪しい」
「片方だけが説明しなくていいなら」
「怪しい」
「片方だけが責任を負うなら」
「怪しい」
「では、それが暴力かもしれないなら?」
「逃げろ」
博士は紙ナプキンに書いた。
暴力かもしれない。
逃げろ。
「断定しないんですね」
「断定しない」
「なぜですか」
「裁くためではなく、生き残るための言葉だからだ」
「生き残る」
「そうだ」
「暴力だ、と決めつけるのではなく」
「はい」
「暴力かもしれない、と見て逃げる」
「はい」
「それなら法的判断ではない」
「危機回避ですね」
「そうだ」
博士はコーヒーを飲んだ。
「契約は、優しさで読むものではない」
「冷たいですね」
「冷たい」
「契約は冷たいんですか」
「冷たい」
博士は紙ナプキンに書いた。
契約は善意ではなく、文字でできている。
「かなり冷たいですね」
「冷たくてよい」
「なぜですか」
「温かく読むと騙されるからだ」
「騙される」
「そうだ」
博士は少し間を置いた。
「詐欺は許さん」
「はい」
「人を騙して契約させる者は悪い」
「はい」
「そこは動かない」
「はい」
「だが、契約書を読まないのは甘えだ」
「かなり無慈悲ですね」
「契約は無慈悲だ」
「被害者でも?」
「被害者でもだ」
「厳しい」
「厳しくしなければ、また署名する」
「詐欺師を許すんですか」
「許さない」
「では?」
「相手の悪さと、自分の甘さを混ぜるな」
「また分ける」
「何度でも分ける」
博士は紙ナプキンに強く書いた。
騙す方が悪い。
だが、騙された側が無謬になるわけではない。
騙されないために、契約を見る目を持て。
「無謬」
「絶対に間違っていない、という意味だ」
「騙された側にも間違いがあることがある」
「ある」
「騙した側が悪いのに?」
「悪い」
「でも、読まなかったのは甘え」
「そうだ」
「分からないのに署名したのも?」
「甘い」
「急がされたら?」
「逃げろ」
「持ち帰れないなら?」
「逃げろ」
「説明されないなら?」
「逃げろ」
「うまい話なら?」
「疑え」
「かなり冷たいですね」
「契約は冷たい」
博士は紙ナプキンに書いた。
分からないなら聞け。
聞いても分からないなら持ち帰れ。
持ち帰らせないなら逃げろ。
急がせるなら逃げろ。
片方だけが責任を負うなら逃げろ。
うまい話なら疑え。
「これ、契約の基本ですね」
「基本だ」
「でも、世の中には読めない人もいる」
「いる」
「専門用語だらけの契約書もある」
「ある」
「だから、読めない人への保護も必要では?」
「必要だ」
「では、読まないのは甘え、は強すぎませんか」
「強い」
「いいんですか」
「ここでは強くてよい」
「なぜ」
「これは契約を結ぶ側の心得だからだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
制度としての保護。
本人としての警戒。
「混ぜるな」
「また分ける」
「何度でも分ける」
「制度としては、詐欺を取り締まれ」
「はい」
「不当な契約を規制しろ」
「はい」
「弱い立場の者を守れ」
「はい」
「だが、本人としては?」
「契約書を読め」
「そうだ」
「読めないなら?」
「読める者を連れてこい」
「分からないなら?」
「署名するな」
「急がされたら?」
「逃げろ」
「冷たい」
「契約は冷たい」
博士は静かに言った。
「優しい契約などない」
「ないんですか」
「ないと思って読め」
「ある場合もありますよね」
「あるかもしれない」
「でも」
「最初から善意だと思って読むな」
「疑え」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
契約書とは、相手の善意を確認する紙ではない。
相手の悪意にも耐えるための紙である。
「強いですね」
「契約は強くないと意味がない」
「なるほど」
「善意の相手なら、契約書はあまり問題にならない」
「はい」
「問題は、揉めた時だ」
「はい」
「相手が悪意を出した時だ」
「はい」
「その時に、紙に何が書いてあるか」
「そこを見る」
「そうだ」
博士は、最初のAとBのカードに戻った。
「だから、カードを引く前に見る」
「はい」
「Aになっても困らないか」
「はい」
「Bになっても困らないか」
「はい」
「どちらかを引いたら極端に困るなら、そこに非対称性がある」
「はい」
「非対称性があること自体は悪ではない」
「はい」
「だが、説明されているか」
「はい」
「納得できるか」
「はい」
「断れるか」
「はい」
「抜けられるか」
「はい」
「責任が偏りすぎていないか」
「はい」
「そこを見る」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
誰が作ったか。
誰が変更できるか。
誰が抜けられるか。
誰が責任を負うか。
誰が違反を判定するか。
「ここに偏りがあると?」
「怪しい」
「暴力ですか」
「かもしれない」
「断定しない」
「断定しない」
「でも逃げる」
「逃げる」
「なぜ」
「契約前なら、それが一番安いからだ」
「安い」
「裁判するより安い」
「揉めるより安い」
「泣くより安い」
「奪われるより安い」
「その通りだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
怪しい契約は、論破するな。
契約するな。
「論破しないんですか」
「しない」
「なぜ」
「契約前に論破する必要はない」
「では?」
「乗らなければいい」
「かなり現実的ですね」
「現実だ」
「相手が怒ったら?」
「なおさら逃げろ」
「相手が急がせたら?」
「逃げろ」
「今日だけと言ったら?」
「逃げろ」
「今決めないと損だと言ったら?」
「逃げろ」
「みんな契約していると言ったら?」
「逃げろ」
「どれも逃げるんですね」
「逃げろ」
博士はコーヒーを飲んだ。
「ただし」
「ただし」
「現実には、乗らない自由が弱い契約もある」
「ありますね」
「家賃を払わなければ住めない」
「はい」
「働かなければ食えない」
「はい」
「利用規約に同意しなければサービスが使えない」
「はい」
「医療を拒めば命に関わる」
「はい」
「学校に行かなければ進路が狭まる」
「はい」
「その場合、乗らない自由は形式だけになることがある」
博士は紙ナプキンに書いた。
断れる。
ただし、断ったら生きられない。
「これは自由ですか」
「かなり怪しい」
「でも契約ですか」
「形式上は契約であることがある」
「ではどうするんですか」
「だからこそ、非対称性を見る」
「ここに戻る」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
説明。
同意。
解除。
責任。
保護。
「非対称な契約ほど、ここが重要になる」
「なるほど」
「雇用契約なら?」
「賃金、労働時間、解雇条件、安全配慮」
「そうだ」
「賃貸契約なら?」
「家賃、原状回復、更新、退去条件」
「そうだ」
「売買契約なら?」
「価格、品質、返品、保証」
「そうだ」
「利用規約なら?」
「変更条件、解約、個人情報、責任範囲」
「そうだ」
「非対称だから悪ではない」
「はい」
「非対称だから見ろ」
「そうだ」
博士は、AとBのカードをこちらに差し出した。
「平等を語るなら、カードを引け」
「はい」
「AかBか分からない状態で、それでも結べるか」
「はい」
「結べるなら、かなり平等だ」
「はい」
「結べないなら、非対称性がある」
「はい」
「非対称性があるなら、条件を見ろ」
「はい」
「説明を求めろ」
「はい」
「持ち帰れ」
「はい」
「分からないなら署名するな」
「はい」
「暴力かもしれないなら?」
「逃げろ」
「そうだ」
博士は今日の答えをまとめた。
平等な契約とは、自分がAになるかBになるか分からない状態で、それでも結べる契約である。
先に契約を書く。
AはBに対して、何をするのか。
BはAに対して、何をするのか。
その後で、AとBのカードを引く。
どちらを引いても受け入れられるなら、その契約はかなり平等に近い。
どちらかを引いた瞬間に「待て」となるなら、その契約には非対称性がある。
ただし、非対称性はただちに悪ではない。
現実の契約は、多くが非対称である。
売買、雇用、賃貸、教育、医療、行政、利用規約。
役割が違う以上、完全な対称にはならない。
だから、AとBのカードは万能ではない。
契約が法的に有効か無効かを決める道具ではない。
契約がどれだけ平等から離れているかを見る検査である。
非対称な契約を見る時は、内容だけを見てはいけない。
誰が作ったか。
誰が変更できるか。
誰が抜けられるか。
誰が責任を負うか。
誰が違反を判定するか。
そこを見る必要がある。
偏りが大きいなら、怪しい。
説明されないなら、怪しい。
持ち帰らせないなら、怪しい。
急がせるなら、怪しい。
断ると脅すなら、怪しい。
片方だけが責任を負うなら、怪しい。
暴力かもしれない。
逃げろ。
詐欺は許されない。
騙す方が悪い。
そこは動かない。
だが、騙された側が無謬になるわけではない。
契約書を読まないのは甘えである。
分からないなら聞け。
聞いても分からないなら持ち帰れ。
持ち帰らせないなら逃げろ。
急がせるなら逃げろ。
うまい話なら疑え。
騙されないために、契約を見る目を持て。
「博士」
「何かね」
「チンポジで言うなら?」
博士は少し考えた。
「先にパンツのルールを書く」
「はい」
「そのあとで、自分が履く側か、履かせる側かを決める」
「嫌ですね」
「嫌なら、そこに非対称性がある」
「はい」
「非対称性があるなら、確認しろ」
「はい」
「なぜそのパンツなのか」
「はい」
「誰が作ったのか」
「はい」
「誰が脱げるのか」
「はい」
「誰が締め付けられるのか」
「はい」
「苦しい時に逃げられるのか」
「はい」
「説明されないなら?」
「逃げろ」
「持ち帰らせないなら?」
「逃げろ」
「今すぐ履けと言われたら?」
「逃げろ」
「片方だけが締め付けられるなら?」
「暴力かもしれない」
「そうだ」
博士は最後に一文を書いた。
平等な契約とは、AとBのカードを引く前に、それでも結べる契約である。
「かなり狭いですね」
「狭い」
「使える場面は少ない」
「少ない」
「でも」
「平等とは何かを示すには十分だ」
博士は静かにコーヒーを飲んだ。




