無知のベールとは。
無知のベールとは何か。
その問いを出すと、博士は紙ナプキンに短く書いた。
自分がどの立場になるか分からない状態で、ルールを考えること。
「見えないんですか」
「見えない」
「何が?」
「自分の立場だ」
博士はコーヒーを飲んだ。
「無知のベールとは、哲学者ロールズが唱えた思考実験だ」
「思考実験ですか」
「そうだ。自分がどの立場になるか分からない状態で、社会のルールを考える」
「かなり大きいですね」
「かなり大きい」
博士は紙ナプキンに書いた。
自分が誰になるか分からないまま、ルールを選べ。
「それが無知のベール?」
「そうだ」
「自分が金持ちか貧乏か分からない」
「はい」
「健康か病気か分からない」
「はい」
「多数派か少数派か分からない」
「はい」
「強い側か弱い側か分からない」
「はい」
「才能があるかないかも分からない」
「はい」
「その状態で、どんなルールを選ぶか」
「なるほど」
博士は紙ナプキンに書いた。
自分が有利な席に座る前に、椅子の並べ方を決める。
「かなり分かりやすいですね」
「かなりチンポジだ」
「早いですね」
「近い」
「普通に考えると、人は自分に有利なルールを作る」
「そうですね」
「金持ちは金持ちに有利なルールを」
「はい」
「強い者は強い者に有利なルールを」
「はい」
「多数派は多数派に有利なルールを」
「はい」
「自分のベスポジを基準にパンツを作る」
「来ましたね」
「避けられない」
博士は紙ナプキンに書いた。
自分の立場を知っていると、自分に寄せる。
「ありますね」
「ある」
「では、それを一度隠す」
「隠す?」
「ベールをかける」
博士は紙ナプキンに書いた。
無知のベール。
「自分がどの立場か分からない」
「そうだ」
「すると?」
「どの立場になっても、ひどく困らないルールを選びやすくなる」
「公平に近づく」
「そうだ」
「たとえば」
博士は紙ナプキンに丸をいくつか描いた。
「部屋に椅子がある」
「はい」
「一つだけ豪華な椅子」
「はい」
「一つだけ壊れた椅子」
「はい」
「残りは普通の椅子」
「はい」
「君は、どの椅子に座るか分からない」
「嫌ですね」
「その状態で、椅子のルールを決める」
「はい」
「壊れた椅子に座った者は我慢しろ、というルールを選ぶか」
「選びにくいですね」
「なぜ」
「自分が壊れた椅子に座るかもしれないからです」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
最悪の席に座るかもしれない。
「これが効く」
「強いですね」
「強い」
「では、全員同じ椅子にする?」
「それが公平では?」
「場合による」
「出ましたね」
「出る」
博士は紙ナプキンに書いた。
同じ。
公平。
公正。
「混ぜるな」
「違うんですか」
「違う」
「全員に同じ椅子を配る」
「はい」
「だが、身体の大きさが違う」
「はい」
「怪我をしている者もいる」
「はい」
「長く座れない者もいる」
「はい」
「同じ椅子が、公正とは限らない」
「同じ処理が、公正とは限らないんですね」
「そうだ」
「全員に同じものを配ればよい、という話ではない」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
同じ処理が、公正とは限らない。
「では何を見るんですか」
「どの立場になっても、受け入れられるかを見る」
「なるほど」
「無知のベールは、優しさの話ではない」
「違うんですか」
「違う」
「思いやりでは?」
「近いが違う」
「では?」
「自分がどの席になるか分からない状態での合理性だ」
博士は紙ナプキンに書いた。
かわいそうだから助ける。
自分がそこに座るかもしれないから設計する。
「違いますね」
「違う」
「前者は善意」
「後者は制度設計」
「そうだ」
「かなり重要ですね」
「かなり重要だ」
「ここでチンポジ哲学だ」
「来ましたね」
「君は、どのチンポジで生まれるか分からない」
「嫌な言い方ですね」
「だが通る」
「通るのが嫌です」
「続ける」
博士は紙ナプキンに書いた。
自分がどんな身体か。
どんな感覚か。
どんな椅子が合うか。
どんなパンツが合うか。
事前には分からない。
「つまり?」
「自分がどのベスポジの人間になるか分からない状態で、ルールを考える」
「かなりロールズですね」
「たぶん怒られるが、かなり近い」
「では、その状態で全員同じパンツを履け、というルールを選ぶか」
「選びにくいです」
「なぜ」
「自分に合わないかもしれないからです」
「そうだ」
「では、強い者が好きに決める、は?」
「選びません」
「なぜ」
「自分が弱い側になるかもしれないからです」
「そうだ」
「では、多数派が全部決める、は?」
「怖いですね」
「なぜ」
「自分が少数派かもしれないからです」
「そうだ」
博士はうなずいた。
「これが無知のベールの力だ」
「ただし」
「ただし」
「無知のベールも万能ではない」
「そうなんですか」
「そうだ」
博士は紙ナプキンに書いた。
何を隠すか。
何を知っていることにするか。
「ここが難しい」
「なるほど」
「全員が何も知らなければ、何も決められない」
「はい」
「だが、自分の立場を知りすぎると、自分に寄せる」
「はい」
「だから、自分の個別事情は隠す」
「はい」
「でも、人間社会の一般知識は残す」
「難しいですね」
「ロールズだからな」
博士は今日の答えをまとめた。
無知のベールとは、自分がどの立場になるか分からない状態で、社会のルールを考えるための思考実験である。
自分が金持ちか貧乏か、強い側か弱い側か、多数派か少数派か、健康か病気か、才能があるかないかを知らない。
その状態で、どんなルールなら受け入れられるかを考える。
自分の立場を知っていると、人は自分に有利なルールを作りやすい。
だから一度、自分の立場にベールをかける。
無知のベールは、単なる優しさではない。
自分がどの席に座るか分からない状態で、それでも受け入れられる椅子の並べ方を考える技術である。
「博士」
「何かね」
「チンポジで言うなら?」
博士は少し考えた。
「自分がどんなチンポジで生まれるか分からない」
「はい」
「どんな椅子が合うかも分からない」
「はい」
「どんなパンツが合うかも分からない」
「はい」
「強い側か弱い側かも分からない」
「はい」
「その状態で、部屋のルールを決める」
「なるほど」
「では、無知のベールとは?」
博士は最後に一文を書いた。
無知のベールとは、自分がどのベスポジに生まれるか分からない状態で、それでも履けるパンツのルールを考えることである。
「ロールズに怒られますね」
「たぶん怒られる」
「でも分かります」
「なら通る」
博士は静かにコーヒーを飲んだ。




