プロローグ:泥濘に消ゆ
視界を埋め尽くしていたのは、濁流と土砂、そして容赦なく降り注ぐ豪雨の音だった。
「三郎さん! 逃げてください! 斜面がもう持ちません!」
泥まみれの無線機から、部下の悲鳴のような声が響く。
樫山三郎は、その声に答える余裕もなかった。徳島県、吉野川上流の山道。大型台風による記録的な大雨で、建設中だった砂防ダムの現場は地獄と化していた。
(……逃げる? 冗談じゃねえ)
三郎は、崩落の予兆を見せる法面を睨みつけ、重機のレバーを握りしめていた。
あと数メートル、この土砂を積み上げ、排水路を確保しなければ、山裾にある集落は土石流に呑み込まれる。
三郎は、いわゆる「社畜」だった。
大手ゼネコンの現場監督として、全国の過酷な現場を渡り歩いてきた。独身、四十路。家族もいなければ、これといった趣味もない。ただ、図面を引き、土を動かし、水の流れを制御することだけに人生を捧げてきた。
「俺がやらなきゃ、誰がやる……。あいつらの畳の上での安眠を、俺が守ってやるんだよ!」
叫んだ瞬間、地底から響くような不気味な音が鼓膜を震わせた。
山が、動いた。
数万トンの土砂が、重力に従って一気に滑り落ちる。
三郎が操縦する重機は、まるで玩具のように紙屑のごとく押し潰された。
(あぁ……クソ、やっぱりか)
潰れた運転席の中、骨が砕ける音を聞きながら、三郎は不思議と冷静だった。
これまで守り続けてきた他人の命。その代償が、泥の中での孤独な死。
(……次は、次は自分のために生きてえな)
意識が遠のく中、最後に感じたのは、自分を呑み込んだ土の冷たさと、重い水の匂いだった。
誰にも看取られず、泥に埋もれて死んでいく絶望。
温かい畳の上で、誰かに手を握られながら、穏やかに最期を迎える――。そんな当たり前の幸福が、これほどまでに遠いものだったのか。
(……次は、絶対。死んでも、死にたくねえ……)
激しい渇望が、濁流に消える意識を繋ぎ止める。
暗闇の中、三郎の魂は、激流に揉まれる石のように、時間を、次元を、そして理を超えて流れていく。
次に彼が目覚めたとき。
鼻を突いたのは、現代の排ガス混じりの雨の匂いではなく。
立ち込める湿気、青臭い草の香。
そして、産着を通り越して肌を撫でる、戦国時代の阿波の風だった。
「……おめでとうございます。元気な男児にございますぞ、義維様!」
赤子の泣き声と共に、二度目の人生が幕を開ける。
それが、後に歴史の影で「土鼠」と呼ばれ、泥の中から天下を造り替える男、足利三郎維直の誕生であった。




