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第一話:泥に咲く、生存の牙

天文三年 水無月 / 西暦一五三四年 六月

 湿った土の匂いがした。

 四国の東端、阿波国――。吉野川が運ぶ肥沃な土壌と、瀬戸内の湿り気を帯びた風が混じり合う、平島館ひらしまやかた。そこは、京の都を追われ、将軍の座を奪われた「阿波公方」足利義維あしかが よしつなの亡命先であった。

(……間違いない。この土、粘土質が強すぎる)

 梅雨の合間の重苦しい湿気の中、平島館の裏庭で一人の幼子が泥まみれになっていた。足利維直あしかが これなお。数えで四歳になる、義維の次男である。幼名を三郎さぶろうという。ふっくらとした頬には泥が跳ね、絹の着物は台無しだが、その瞳だけは子供のそれではない。獲物を狙う獣のような、あるいは極限状態に置かれた技術者のような、鋭利な光を宿していた。

「若君、またそのような泥遊びを……。大殿に見つかれば、またお叱りを受けますぞ」

 溜息をつきながら歩み寄ってきたのは、世話役の老女だ。三郎は答えず、泥を捏ね続けた。彼の手の中にあるのは、単なる泥ではない。前世、阿波の山岳地帯で土木エンジニアとして生きた樫山三郎としての知識が、その「泥」を「防衛兵器」へと変えていた。

(叱られるくらい、安いもんだ)

 三郎は心の中で毒づく。彼には、この世界の未来が見えていた。足利将軍家という名門に生まれたばかりに、兄も父も、そして自分も、血みどろの権力争いの渦中に放り込まれる。史実では、阿波公方の家系は不遇を囲い、常に刺客の影に怯え、最後は歴史の濁流に消えていく。

(死んでたまるか。せっかく二度目の人生をもらったんだ。今度は、畳の上で大往生してやる。そのためなら、この阿波の土地すべてを俺の要塞にしてやるんだ)

 三郎が泥を捏ねていたのは、館の周囲の排水路に「ある仕掛け」を施すためだった。前世の知識――土質力学と流体力学。この館の裏手は、雨が降ればすぐに水が溜まる。そこに特定の角度で粘土を盛り、特定の植物の根を張らせれば、大雨の夜、侵入者は音もなく足を取られ、底なしの泥濘ぬかるみに沈むことになる。

 四歳児の小さな手は、すでにボロボロだった。爪の間には黒い泥が食い込み、湿気に晒された肌は赤く腫れている。だが、止めるわけにはいかない。明日、刺客が来るかもしれない。来月、戦が始まるかもしれない。「生き延びること」への強迫観念が、彼を突き動かしていた。

「三郎! またそのような卑しい真似を!」

 雷鳴のような怒声が響いた。振り返ると、そこには数えで八歳になる兄・幸若こうわかが立っていた。父の期待を背負い、日々武芸に励む兄は、泥まみれの弟を心底軽蔑している。

「我らは足利の正統。源氏の棟梁たるべき家柄ぞ。土をいじるなど、下衆のすること。そのように臆病で、どうして京へ登り、偽将軍を討てようか!」

 幸若の言葉は、武士としては正しい。だが、三郎にとっては噴飯ものの世迷言だった。

「……兄上。お言葉ですが、腹が減っては戦はできませぬ。この土は、豊かな実りをもたらすための……」

「言い訳は無用! 父上がお呼びだ。今日こそ、貴様の性根を叩き直すと仰せだ」

 三郎の背中に冷たい汗が流れた。父・義維。かつての堺公方であり、未だに将軍の座への執着を捨てきれない男。彼にとって、息子は自分を京へ連れ戻すための「駒」でしかなかった。

 平島館の大広間。重苦しい空気の中、義維は上座で腕を組んでいた。

「三郎。貴様、また庭を掘り返していたそうだな。近隣の国人たちに何と言われているか知っておるか? 『足利の若君は、土鼠もぐらの生まれ変わりだ』と笑われておるのだぞ」

「……申し訳ございませぬ、父上」

 三郎は平伏した。頭を下げながら、冷徹に父の足元を観察する。

(この男は、自分たちが今、どれほど危うい均衡の上に立っているか分かっていない。京の細川も三好も、自分たちの都合で俺たちを担ぎ、都合が悪くなればいつでも切り捨てる。そんな連中のために命を懸けるなど、正気の沙汰じゃない)

「明日より、お前を柳斎りゅうさいに預ける。武芸のいろはも知らぬままでは、足利の面汚しよ」

 三郎の心臓が跳ねた。賀茂柳斎。阿波の山々に潜む、修験者の流れを汲む兵法者だという。風の噂では、人の骨を枯れ枝のように折る怪力の持ち主だとも、山を自在に駆ける天狗だとも言われている。

(……最悪だ。生存戦略を練る時間が削られる。戦うための武術なんて、俺には必要ないんだ。俺に必要なのは、逃げるための足と、敵を寄せ付けない罠なんだ!)

 だが、四歳の子供に拒否権などなかった。

 翌朝。三郎は館から数里離れた山裾の廃寺に連れて行かれた。霧が立ち込める中、石段の上に一人の老人が座っていた。枯れ木のように痩せ細っているが、その眼光だけは、射抜くるような鋭さを持っていた。

「……お主が、土鼠と噂の若君か」

 賀茂柳斎は、濁った声で笑った。

「父上より、鍛錬を命じられました。三郎にございます」

 三郎が型通りの挨拶を済ませようとした、その時だった。柳斎が、手元の小石をひょいと投げた。それは三郎の顔面を直撃する軌道だったが、三郎は考えるより先に、体が動いた。一歩横へ飛び、同時に足元の小石を掴んで、柳斎の「足元」へ投げ返した。顔を狙っても当たらない。ならば、次に動くであろう足場を崩す――。前世で幾度も崩落現場を見てきたエンジニアとしての本能だった。

 柳斎の眉が、わずかに動いた。

「ほう。石を投げ返したのではない。拙者が避ける先を、殺しに来たか」

 柳斎は立ち上がり、ゆっくりと三郎に歩み寄った。

「若君。お主、なぜ泥を捏ねる? なぜ館の排水路を細工する?」

 三郎は息を呑んだ。誰にも気づかれていないと思っていた「工作」を、この老人は見抜いていた。

「……死にたくないからです」

 三郎は、震える声で本音を絞り出した。足利の誇りも、京への帰還も、どうでもいい。ただ、この理不尽な乱世で、一秒でも長く生きていたい。そのための術なら、何でもする。柳斎は、三郎の目をじっと見つめた。そして、哄笑した。

「気に入った! 足利の家系に、これほどの『臆病という名の才』を持つ者が現れるとは。誇りに狂った者どもは、早々に死ぬ。だが、若君のような死に損ないは、あるいは――時代そのものを変えるかもしれんな」

 柳斎はその日から、三郎に「武士の剣」を教えなかった。代わりに教えたのは、風の読み方、水の流れ、人の心の裏側、そして――「死なないための、阿波という土地の殺し方」だった。

 数ヶ月が経ち、暦は長月へと差し掛かっていた。三郎の「生存訓練」は、思わぬ形で試されることになる。京から、父・義維の命を狙う刺客が阿波に上陸したという報が入った。平島館は緊張に包まれる。兄・幸若は剣を抜き、父の部屋の前に陣取った。だが、四歳の三郎は違った。

(……来たか。絶好の実験場だ)

 三郎は師・柳斎の目を盗み、密かに館の裏庭へ向かった。そこには、彼が数ヶ月かけて作り上げた「地獄」が待っていた。前世、阿波の樫山三郎として培った土木知識。今世、賀茂柳斎から教わった兵法の理。そして、幼い手で必死に集めた、硝石の元となる「古い土」と「藍の搾りかす」。

 夜の帳が下りる頃。黒い影が、音もなく平島館の塀を越えた。京の細川家が差し向けた、手練れの暗殺者だ。彼らは、正面の厳重な警戒を嘲笑うように、最も警備が手薄な「裏手の排水路」を選んだ。

(バカめ。そこが一番死に近い場所だ)

 物陰で息を殺す三郎の手には、小さな火種があった。刺客が、三郎の仕掛けた「粘土の地雷原」に足を踏み入れる。一歩、二歩。その瞬間、彼らの足元の土が、生き物のように崩れ、同時に鼻を突く異臭が立ち込めた。

「な、何だ、これは!? 足が――!」

 刺客がもがけばもがくほど、三郎が設計した「逆サイフォン」の泥濘が、彼らの体を引きずり込んでいく。そこへ、三郎は震える手で火を放った。

 ドォォォォォォン!!

 激しい爆鳴と、火柱が上がった。それは、三郎が床下で秘密裏に精製した、不純物だらけの、しかし確実に殺意を持った「火薬」の爆発だった。夜の静寂が引き裂かれる。泥まみれになり、黒焦げになってのたうち回る刺客たちを、三郎は冷めた目で見つめていた。

 吐き気がする。手が震える。だが、心の一部が冷静に呟いていた。

(……計算通りだ。この土地(阿波)は、俺を守ってくれた)

 騒ぎを聞きつけた父・義維が、家臣を連れて駆け込んできた。無残な刺客の死骸と、爆炎の余韻に立ち尽くす四歳の息子を見て、義維の目は驚きに揺れた。

「三郎……。これは、お前がやったのか?」

 三郎は、咄嗟に膝を突き、震える演技をしながら答えた。

「……遊びで、穴を掘っていただけです、父上。そうしたら、急に雷のような音がして……怖くて……」

 義維はしばらく沈黙し、刺客が持っていた火器の残骸らしきものを見つけ、鼻で笑った。

「ふん、賊が自らの火薬を暴発させたか。あるいは阿波の地の神が、この足利の血を守ったか。……三郎、泥遊びもたまには役に立つようだが、あまりに卑しい。武士ならば、そのような幸運に頼るな」

 父は一瞥をくれただけで、興味を失ったように去っていった。その無理解に、三郎は心の底から安堵する。だが。

「……見事なものよ、若君」

 背後から、柳斎の声がした。師匠は、弟子の「殺戮の跡」を見ても顔色ひとつ変えず、ただ満足げに頷いた。その瞳には、すべてを見抜いた「理解」の光が宿っていた。

「大殿はああ仰せだが、拙者の目は欺けませぬぞ。偶然でこれほどの角度の落とし穴は掘れぬ。偶然で藍の滓を火薬に変えることなどできぬ。……若君、お主は死を恐れるあまり、この土地を『殺戮の場』に変えたのだな」

 柳斎は三郎の小さな肩を掴み、その指先に力を込めた。

「よろしい。大殿には『泥遊びの延長』と報告しておきましょう。だが、拙者の教えは今日から地獄に変わりますぞ。お主のその執念、拙者がすべて吸い尽くしてやろう」

 三郎は、自分の泥まみれの手を見つめた。生存のために、自分は一線を越えた。そして師の言う通り、平和を求める少年の「必死の足掻き」が、この日、戦国の勢力図を塗り替える巨大な歯車を回し始めた。

 阿波の泥公方。後に、天下を震撼させ、新たな日本を創り上げることになる「足利三郎維直」の、それが第一歩であった。

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