幕間 フィリア
幕間一 フィリア
三百年というのは、長いようで短い。
少なくとも、フィリアにはそう感じられた。
皆は三百年という数字を聞くと目を丸くするが、フィリアにとっては昨日のことが昨日のままで、百年前のことが百年前のままで、ただそこにある。
時間が積み重なるのではなく、横に並んでいく。
遠近感がない。
だからソラのことも、まだ昨日のことのように覚えている。
最初に会ったのは、この国がまだ今より小さかった頃だった。
フィリアが城の図書室に居座るようになって、まだ百年も経っていない頃だ。
この頃のソラは若かった。
若い、というのは見た目の話ではなく、目の話だ。
まだ絶望を知らない目をしていた。
「ここで何をしているんだ」
ソラが図書室に入ってくるなり、そう言った。声に警戒があった。
見慣れない小さな人影が床に座っていたのだから、無理もない。
「本を読んでおる」
「なぜ床に」
「落ち着くから」
ソラはしばらくフィリアを見ていた。それから、隣に座った。
「俺も座っていいか」
「好きにしろ」
それが最初の出会いだった。
ソラは定期的に図書室に来るようになった。
ただここに来て、本を読んで、帰った。
話すこともあったし、話さないこともあった。
フィリアはそれでよかった。
三百年生きると、何も言わない時間の価値がわかるようになる。
ある夜、ソラが聞いた。
「お前は、長く生きて怖くないのか」
「何が怖い」
「変わっていくことが怖い。人が死んで、街が変わって、自分だけが同じままでいる。それが怖い」
フィリアは少し間を置いた。
「慣れる」
「慣れるのか」
「慣れる。慣れたくなくても、慣れる。それはまた、それで怖いが」
ソラは黙った。
しばらく黙って、それから笑った。
乾いた笑いではなかった。
本当に可笑しいと思って笑う顔だった。
「正直だな」
「嘘をついても仕方がない」
「そうだな」
その頃のソラは、まだそういう笑い方ができた。
フィリアが後悔しているのは、その後のことだ。
ソラが初めて世界を救った後、人々が変わった。
感謝していたはずの人々が、少しずつ距離を置き始めた。
魔族の血を持つ者への恐れが、感謝より大きくなっていった。
ソラはそれを黙ってそれを受け入れていた。
少なくとも、表向きは、黙って受け入れていた。
フィリアにはわかった。ソラの目が、少しずつ濁っていくのが。
言えばよかった。
見ていると。
わかっていると。
言えばよかった。
一人じゃないと、言えばよかった。
言葉にしなくても伝わるだろうと思ってしまった。
三百年生きると、言葉にしなくても伝わることが多くなる。
だからつい、言葉を省いてしまった。
しかしソラには、言葉が必要だったのだ。
排除が始まった時、ソラはもう図書室に来なかった。
フィリアも会いに行かなかった。
行けばよかったのだ。
行って、ただそこにいればよかったのだ。
しかし行かなかった。
行けなかったのではなく、行かなかった。
その過ちが、三百年、心のなかにずっとある。
ソラが魔王になったと聞いた時、フィリアは図書室の床に座っていた。
いつもと同じ床に、いつもと同じように座っていた。
しかしその知らせを聞いてフィリアの中で、何かが決定的に変わった気がした。
自分が言えばよかった言葉の重さが、その時初めてわかった。
三百年生きると、後悔の仕方も変わる。
激しく悔やむのではなく、静かに抱えるようになる。
忘れることもできず、ただ過ちとして、ずっとそこにある。
エレナを初めて見たのは、エレナがまだ六つの頃だった。
城の廊下で転んで泣いていた。
膝から血が出ていた。
周りに誰もいなかった。
フィリアは通りかかって、少し考えてから、膝の傷に薬を塗った。
泣き止んだエレナが、顔を上げた。
エレナの目を見た時、フィリアは少し動きが止まった。
ソラの若い頃の目に、似ていた。
まだ絶望を知らない目。
しかし何かを背負っている目。
その重さをわかっていて、それでも前を向こうとしている目。
似ている――と思った。
だから図書室に連れてきた。本を一冊渡した。
読めるか、と聞いた。
読めます、と答えた。
ならよい、と言って棚の奥に消えた。
それが最初だった。
その後、エレナは定期的に図書室に来るようになった。
ソラと同じように。
ここに来て、本を読んで、帰った。
少しずつ話すようになった。
少しずつ、フィリアはエレナのことを知っていった。
今夜、エレナに血統の話をした。
全部ではない。
まだ話せないことがある。
しかし話せることは話した。
エレナは黙って聞いていた。
途中で口を挟まなかった。
感情的にもならなかった。
ただ、耳を傾けていた。
話し終えた後、エレナが言った。
ありがとうございます、と。
フィリアは礼はいいと言ったのだが、でも言いたいので、とエレナは言った。
その言葉が、何かに触れた。
ソラは礼を言わなかった。
言わなかったのではなく、言えなかったのかもしれない。
言葉を受け取ることに慣れていなかった人間は、言葉を渡すことにも慣れていない。
エレナは言葉を受け取ってきた。
レオンから、シオンから。
だから言葉を渡せる。
三百年前、フィリアがソラに言葉を渡していれば、或いは。
その問いは、答えが出ない。
出ないまま、ずっとそこにある。
しかし今夜、フィリアはエレナに話した。
ただ、エレナに知っておいてほしかったのだ。
ソラという人間が、かつていたということを。
そしてフィリアが、三百年間、後悔を抱えてきたということを。
言葉にはしなかった。後悔の話は、していない。
でもエレナはわかっている気がした。
わかった上で、ありがとうございます、と言った。
三百年遅れた言葉が、今夜少し、軽くなった気がした。
フィリアは図書室の棚を見た。
古い本が並んでいた。
ソラが書いた論文が、どこかにある。
三百年前に、二人で床に座って読んだ本が、どこかにある。
エレナが来るたびに、頭の上に本を乗せている。
気づいたら、そうしていた。
ソラが隣に座った時のことを、覚えていたかったのかもしれない。
フィリアはそう思い、少し目を伏せ、それから、いつも通り本を開いた。




