黒い霧
黒い霧が広がった。
先日とは規模が違う。
一瞬で空き地全体を覆った。
触れれば何かが起きるとわかる。
ただそこにあるだけで、周囲の木々が加速して朽ちていく。
空気がさらに重くなった。
息をすると、肺の奥まで入ってくる気がした。
テオが宗一郎の肩の上で光を強めた。
しかし、その光が霧に触れると薄まった。
「エレナ」
宗一郎の声がした。
「はい」
「道を作る。ただ今日は」
宗一郎が少し間を置いた。
「いつもより時間がかかる。この黒い霧は俺でも簡単にはいかない」
「わかりました。時間がかかっても、待ちます」
「待つな。俺が動いたら、すぐに来い」
「わかりました」
宗一郎が前に出た。
剣を抜く。
その瞬間、霧が動いた。
先遣隊の時に魔族が宗一郎を避けたように、霧も本能で何かを察知した。
しかし今日の霧は違った。
避けようとしながら、同時に向かってきた。
意志がない力だった。
判断も恐れもない。
ただ、広がることしか知らない力だった。
宗一郎が一歩踏み出した。
霧が押し返された。
もう一歩。
また押し返した。
一歩ずつ、確実に、押し返していく。
だが、霧が追いついてくる。
一歩押し返せば、二歩分広がってくる。
レオンが前に出た。
盾を構えて、宗一郎の横に立った。
霧が二人の間に入ろうとした。
二人で挟んで、押し留める。
「シオン!」
「わかってる!」
シオンが後方から光を放った。回復魔法ではなかった。
もっと根源的な、浄化の光だ。
光が霧に触れると、密度が下がり、薄くなった。
しかし長くは保たない。
フィリアが地面に杖を突いた。
古い言語で詠唱した。
私の知らない言語だ。
地面から光が広がり、霧が地面を這う速度が、少し落ちる。
道が、少しずつ、開いていった。
細い道だった。幅が一人分しかなかった。
しかし確かに、前に続いていた。
「今だ」
宗一郎の声がした。
声を合図に、私は駆ける。
霧の中に入った。
冷たく、重い。
体に圧力がかかる。
前に進むたびに、抵抗があった。
空気を押しのけて進んでいる、というより、何かの膜を突き破って進んでいる感覚だった。
走りながら、体の奥に何かが入ってくるのがわかった。
冷たいものが、入ってくる。血の中に、入ってくる。
私は少し怯んだ。
しかし、止まれない。
ここで止まるわけにはいかない。
入ってくるものは、何かに似ていた。
自分の中にあるものに、似ていた。
魔族の血。
三百年前に誰かが選んだ血。
フィリアに教えてもらった血。
呪いでも誇りでもなく、ただの事実として受け取ろうとしてきた血。
冷たいものが入ってくる。
でもそれは、自分の中にも流れているものと同じ種類のものだった。
根っこが、同じだ。
道の両側で霧が動いた。
押し戻そうとした。
しかし宗一郎が剣を構えたまま動かないでいると、留まった。
ソラが見えてきた。
霧の中心に立っている。
先ほどより小さく見えた。
縮んでいるわけはない。
力が外に出ていくほど、中身が空っぽになっていく。
そういうことなのだろう。
器が、空になっていく。
「ソラさん!」
私は叫ぶ。
ソラが顔を上げた。焦点が定まりきっていない目を、少しだけ私に向けた。
「来たか」
「来ました」
「止められるか」
「わかりません。でもやります」
私は剣を構えた。
方法はわからない。
フィリアも知らないと言った。
宗一郎も教えてくれなかった。
教えてくれなかったのは、私が自分で答えを出す必要があるからだと思った。
同じ血。
魔族の血が、私にも流れている。
今まで、その血のことを考えないようにしていた部分があった。
知った日から、向き合えているようで、向き合いきれていなかった。
呪いではない。
誇りでもない。
ただの事実だ。
私は悟る。
――今が、その事実と向き合う時なのだ、と。
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