幕間 ソラ
世界を救う、というのがどういうことか、最初は本当にわからなかった。
わからないまま、剣を握った。
わからないまま、魔族と戦った。
わからないまま、魔王と呼ばれる存在を倒した。
終わった時、人々が泣いていた。
喜びの涙だった。
安堵の涙だった。ありがとう、という声があちこちから上がった。
その声を聞いた時、理解した。
ああ、これが世界を救うということか、と。
単純だった。単純に、嬉しかった。
ソラはその頃、まだそういう人間だった。
力があることを、特別だとは思っていなかった。
生まれた時からそうだったから、それが当たり前だった。
魔族の血が混じっているということも、子供の頃から知っていた。
知っていたが、それがどうした、と。
フィリアに初めて会ったのは、城の図書室だった。
見慣れない小さな人影が床に座って、本を読んでいた。
「ここで何をしているんだ」
「本を読んでおる」
「なぜ床に」
「落ち着くから」
ソラはしばらく、その小さな人影を見ていた。
子供ではない、とすぐにわかった。
目が違った。深い目をしていた。
途方もなく長い時間を生きてきた目。
「俺も座っていいか」
「好きにしろ」
それが最初だった。
フィリアと話すのは、不思議な感覚だった。
長く生きているくせに、嘘をつかなかった。
慰めを言わなかった。
正論で押しつけなかった。
ただ、本当のことだけを言った。
慣れる、とフィリアは言った。
変わることに、慣れる。慣れたくなくても、慣れる。
それがまた少し怖い、と。
その言葉が、妙に腑に落ちた。
ソラは長く生きることへの恐れを、その頃からうっすら感じていた。
人が死んで、街が変わって、自分だけが同じままでいる。
その時が、いつかやってくる気がした。
フィリアはそれを知っていた。
知っていて、慣れる、と言った。
慰めではなかった。
事実だった。
事実だから、ソラには届いた。
世界を救って、その後が始まった。
最初は気のせいだと思った。
人々の目が、少しずつ変わっていくのが。
感謝が、恐れに変わっていくのが。
魔族の血を持つ者への恐れだった。
魔王を倒したのに。人々のために戦ったのに。
それでも、魔族の血が混じっているという事実は、感謝より強かった。
排除は、静かに始まった。
声高に言われたわけではなかった。
ただ、少しずつ、距離ができた。
一緒に食事をしなくなった。
目を合わせなくなった。
話しかけられなくなった。
ソラは黙っていた。
言っても仕方がないと思っていた。
言えば、言い訳をしているように聞こえる。
言えば、弱さを見せることになる。
強くあらねばならないと思っていた。
強くあれば、いつかわかってもらえると思っていた。
だが、そんな時は来なかった。
図書室には行き続けた。
フィリアがいた。
フィリアだけが、変わらなかった。
同じ床に座って、同じように本を読んでいた。
フィリアに言えばよかった、と今は思う。
苦しいと、言えばよかった。
一人だと、言えばよかった。
しかし言わなかった。
言葉にしなくても伝わるだろうと思っていた。
フィリアならわかってくれるだろうと思っていた。
しかしフィリアも、何も言わなかった。
フィリアは見ていたはずだ。
ソラの目が変わっていくのを、見ていたはずだ。
しかし何も言わなかった。
言葉にすることを怠った。
二人とも、言葉にしなかった。
その結果が、今のソラだ。
二度目の魔王討伐後、ソラは街を離れた。
感謝の声も、恐れの目も、もう聞きたくなかった。
見たくなかった。遠くへ行って、一人でいたかった。
長い時間が経った。
どのくらい経ったかは、もうわからない。
数えるのをやめたから。
数えると、失ったものの量がわかってしまうから。
その間に、ソラは何度か世界の断面を見た。
救った後の街が、どうなっているかを見た。
王家が分裂して、争いになっていた。
魔王を倒した後に、人間同士が殺し合っていた。
血統を恐れた人々が、自分たちで争い始めていた。
救った意味があったのか、とソラは思った。
思った、というより、問うた。
自分に問い続けた。
答えは出なかった。
出ないまま、長い時間が経った。
意志が折れた、という感覚は、なかった。
気づいたら変わっていた、という感覚だった。
いつから変わったのかはわからない。
ただ、ある時、鏡を見たら知らない顔が映っていた。
自分の顔だ。しかし知らない顔だった。
楽になりたい、と思ったのは、いつ頃からだったか。
疲れたからではなかった。
疲れは、もうずっと前からあった。
ただ、続ける理由がなくなった。
続ける理由が見つからなくなった。
救っても変わらない。
変わらないなら、救う意味もない。
意味がないなら、続けなくていい。
理屈は単純だった。単純すぎるくらい単純だった。
でも一つだけ、できなかったことがあった。
名前を、捨てられなかった。
ソラ、という名前を。
フィリアと並んで床に座っていた頃の自分の名前を。
捨てようとした。
何度も、捨てようとした。
しかし捨てられなかった。
なぜ捨てられないのかは、わからなかった。
ただ、捨てられなかった。
捨てられないまま、長い時間が経った。
そしてある日、かつてと同じ血の匂いを感じた。
遠くから、近づいてくる気配があった。
それがエレナだった。




