血統の真実
図書室を出たのは、夜だった。
廊下に出ると、夜の空気が違った。
昼間と同じ廊下のはずなのだが。
同じ松明が同じ間隔で並んでいた。
同じ石畳が続いていた。
でも何かが違った。
自分が変わったから、見え方が変わった、ということだろうか。
私は少し立ち止まった。
フィリアから聞いた言葉が、頭の中でまだ響いている。
人間の血と、魔族の血が混ざった時、特別な力が生まれる――
二つの円が重なった図が、目の裏に残っていた。
人間と魔族、どちらでもあって、どちらでもある。
その重なった部分に、自分はいる。
最初は呪いか、と思った。
すぐに、違うと思った。
呪いなら、フィリアはそう言うはずだ。
でもフィリアはただの事実だと言った。ただの事実。
呪いでも誇りでもなく、ただそういうものだと。
ただの事実として受け取れるかどうかを、今の私にはまだわからなかった。
わからないが、怒りはどこに向けるべきかもわからなかった。
王に向けるべきか。
先祖に向けるべきか。
三百年前に血を変えることを選んだ誰かに向けるべきか。
それとも、何も知らずに今まで生きてきた自分に向けるべきなのか。
どれも、違う気がした。
怒りはある。でも向かう先がない。
向かう先のない怒りは、どこへ行くのか。
廊下を歩きながら、私は自分の手を見た。
普通の手だった。
剣を振りすぎて皮膚が固くなっている。
昨日の訓練の跡が残っている。
ごく普通の、人間の手だった。
しかしこの手に、魔族の血が流れている。
流れている。
流れ続けている。
ずっと、気づかないまま、流れ続けていた。
不思議と、気持ち悪い、とは思わなかった。
思わなかった自分に、少し驚いた。
魔族の血が流れている、と聞いたら、もっと激しい反応があると思っていた。
嫌悪か、恐怖か、少なくとももっと心が揺れると思っていた。
でも揺れなかった。
揺れなかったのは、なぜか――
考えながら歩いた。
廊下は続き、松明が揺れる。
わからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この手で剣を握ってきた。
この手で素振りを続けてきた。
この手でレオンのカップを受け取った。
この手をシオンに握られた。
魔族の血が流れている手で、そういうことをしてきた。
血が何であれ、してきたことは変わらない。
フィリアが言った言葉が、また浮かんだ。
お主の血は、お主のものじゃ。何が混ざっておろうと、その手で剣を握り、その足で歩いてきたのはお主自身じゃ。
そういうものか、と思った。
完全には飲み込めなかった。
しかし少しだけ、輪郭が見えた気がした。
角を曲がったところで、宗一郎と鉢合わせた。
これで何度目だろう、と私は思った。
この廊下で、いつも会う。
宗一郎が私を見た。
私は何も言わなかった。
宗一郎も何も言わなかった。
でも宗一郎の目が、少し変わった。
いつもの確かめるような目が、今日は少し違った。
何かを待っているような目だった。
「知ったのか」
一言だけ聞いた。
「はい」
「全部」
「全部ではないかもしれません。でも、大事なことは」
宗一郎は少し間を置いた。
「なにか変わったか」
「怒りがあります」と私は言った。
「でも向かう先がわかりません」
「そうか」
「向かう先がわからない怒りは、どこへ行くんでしょうか」
宗一郎は少し考えた。
「行き場のないまま、あり続ける」
「それは、しんどくないですか」
「しんどい。でもそういうものだ」
「そういうもの、というのは」
「答えが出ない怒りがある。向かう先がない怒りがある。それを持ったまま、前に進むしかない」
私は少し黙った。
「宗一郎さんにも、そういう怒りがありますか」
「ある」
「どんな怒りですか」
「救っても変わらない世界への怒りだ。誰に向ければいいかわからない。世界に向けても仕方がない。人間に向けても仕方がない。向かう先がない」
「それをずっと、持ち続けているんですか」
「そうだ」
「しんどくないですか」
「慣れた」
私は宗一郎を見た。
慣れた、という言葉が、今日は少し重かった。
前に聞いた時は、ただ事実として受け取っていた。
でも今日は、その言葉の奥に何があるかが、少し見えた気がした。
向かう先のない怒りを持ったまま、何十の世界を渡ってきた。
慣れるしかなかった。
慣れることが、この男の生き方だった。
「私は、魔族の血があるから魔王を倒せるんですね」
「そうだ」
「それは、呪いですか」
「お前はどう思う」
私は少し考えた。
「まだわかりません。でも今日は、ただの事実として受け取ろうとすることはできます」
「ただの事実」
「フィリアさんがそう言いました」
「フィリアらしいな」
「そうですか」
「三百年生きると、そういう言い方ができるようになる」
「宗一郎さんも、そういう言い方ができますか」
「俺は三百年は生きていない」
「何年生きましたか」
「数えていない」
「なぜですか」
「数えると、失ったものの量がわかってしまうから」
私は黙った。
数えると、失ったものの量がわかってしまう。
その言葉が、頭の中に残った。
「宗一郎さん」
「なんだ」
「私は、魔族の血があることを、いつかただの事実として受け取れると思いますか」
宗一郎は少し間を置いた。
「もうなっている」
「え」
「受け取れるかどうかを考えている人間は、すでに受け取り始めている。完全に受け取れていないとしても、向き合っている」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
テオが甲高い声で何か言った。
「そうだ、と言っていますか」
「腹が減ったと言っている」
「夕食にしましょう。みんなを呼びます」
「ああ」
私は歩き出した。
廊下を歩きながら、さっきまでより少し頭が軽くなっていた。
向かう先のない怒りは、まだある。
でも怒りを持ったまま、前に進める気がした。
宗一郎が、そう言ったからではなかった。
宗一郎が、そうしてきたから、それを信じようと思った。




