第5章:獣の少女と赤い夜
1.脚本にはない地獄
西の森は、赤く脈動していた。
僕たちが息を切らせて駆けつけた時、そこに広がっていたのは、もはや「戦闘」と呼べるような生易しいものではなかった。
地獄だ。それも、人間が作り出した、最も醜悪な種類の地獄。
「……あ、あぁ……」
隣でエリナが呻き声を上げ、膝から崩れ落ちそうになるのを、僕は無言で支えた。
獣人族の集落が燃えている。
素朴な木造の家々が紅蓮の炎に包まれ、黒煙が星空をどす黒く塗りつぶしていく。
風に乗って漂ってくるのは、木材が爆ぜる乾いた音と、そして鼻をつく、肉と獣毛が焼ける鼻持ちならない臭い。
だが何よりも僕の鼓膜を刺したのは、逃げ惑う人々の悲鳴と、それを追う騎士たちの高笑いだった。
「ヒャハハハ! 逃げろ逃げろ! 異端の獣ども!」
「浄化だ! 神の名の元に、薄汚い血を根絶やしにせよ!」
銀色の鎧を纏った騎士たちが、松明と剣を手に、武器を持たない獣人たちを追い回している。
子供を抱えて逃げる母親の背中を、無慈悲に斬りつける。
命乞いをする老人の家に、笑いながら火を放つ。
彼らの目は、使命感に燃えているのではない。嗜虐の喜びに濁っていた。これは「正義の執行」という名目を借りた、ただの娯楽としての殺戮だ。
「こんな……これが、騎士団のやることですか……? 異端審問の規定にも、非戦闘員への無差別攻撃など……!」
エリナの声が震えている。彼女の信じてきた「教会の正義」の根幹が、目の前で音を立てて崩れ去ろうとしていた。
僕は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで冷静さを保った。
足元のポチ(木箱)が、ガタガタと激しく震えている。恐怖ではない。怒りだ。ルシアンが作ったこの魔道具さえも、この非道に怒っているのだ。
(……許さない)
ルシアンの脚本に、こんなシーンはない。
あいつは「魔王軍が村を襲う」というシナリオを書く時でも、必ず住民を逃すルートを確保し、被害を最小限に抑えるよう配下に厳命していた。
「恐怖は演出だが、絶望は毒だ」というのが、あいつの美学だったからだ。
だが、これは違う。
レオンたちは、ただの鬱憤晴らしと、歪んだ選民思想のために、罪のない命を踏みにじっている。
「……止めなきゃ」
僕が呟くと、エリナがハッとして顔を上げた。
「ですが勇者様、相手は正規の騎士団です。私たちが介入すれば、教会への反逆罪に……」
「知るかよ、そんなこと!」
僕は初めて、エリナの前で声を荒らげた。
彼女が驚いて目を見開く。
しまった。「臆病な勇者」の仮面が剥がれかけた。
僕はすぐに深呼吸をして、強引に「ビビリの演技」に戻した。心臓が早鐘を打つふりをする。
「あ、いや……だ、だって! ほら、可哀想だし! もしあの中に無実の人がいたら、女神様に怒られちゃうよ! 僕たち勇者一行なんだから、困ってる人は助けないと! ね?」
「……っ、はい。そうですね。勇者様のおっしゃる通りです」
エリナは迷いを振り払うように立ち上がった。その瞳には、まだ戸惑いがあるものの、確かな決意の光が宿っていた。
僕たちは燃え盛る集落へと駆け出した。
2.猫耳の少女と断罪の剣
集落の中心広場は、処刑場と化していた。
逃げ遅れた獣人たちが追い詰められ、騎士たちに包囲されている。
その中心で、黄金の甲冑を煌めかせている男――レオンが、恍惚とした表情で剣を振るっていた。いつの間にか追いついてきたのか、それとも最初からここにいたのか。
「見ろ、この穢れた血を! これこそが魔王に魂を売った証拠だ!」
彼が剣を振り下ろすたびに、悲鳴が上がる。
その足元には、すでに数人の獣人が倒れ伏していた。
「やめて! お父さんを離して!」
幼い少女の叫び声が響いた。
見れば、燃え落ちた屋根の瓦礫の陰から飛び出してきたのは、猫の耳と尻尾を持つ小さな少女だった。歳は10歳くらいだろうか。ボロボロの服を着て、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、倒れている父親らしき獣人に覆いかぶさっている。
「おや、生き残りか。……ふん、穢らわしい」
レオンは冷ややかな目で少女を見下ろし、血濡れの剣を向けた。
「子供といえど、魔族の眷属。その芽は早めに摘み取るのが慈悲というものだ」
「いや……来ないで……!」
「アリアンロッドの御名において、消え去れ!」
レオンが剣を振り上げた。
少女は絶望に目を閉じ、父親を抱きしめた。
間に合わない。ここから走っても数秒かかる。
エリナの魔法も届かない。
(……アドリブだ。派手にやるぞ、ポチ!)
僕は走りながら、足元のポチを蹴り飛ばした。
いや、正確には「パス」を出した。
「いっけぇぇぇ! ポチ、なんか吐き出せぇぇぇ!」
僕の情けない掛け声と共に、ポチは空中で蓋をパカッと開き、中から「煙玉」を無数に吐き出した。
これは以前、ルシアンからの補給物資に入っていた「忍者の道具(試作品)」だ。
ドポン、ドポン!
広場の中央で白煙が爆発的に広がり、レオンと少女の視界を一瞬で奪う。
「なっ、なんだ!? 敵襲か!?」
レオンが怯んだ隙に、僕は煙の中に飛び込んだ。
勇者の身体能力をフル稼働させる。
音速を超え、音もなくレオンの懐に入り込む。
剣を振るう腕の関節を、指先でピンポイントに弾く。
カキンッ!
レオンの剣が手から滑り落ち、石畳に落ちる音。
「誰だッ!?」
「わあぁぁぁ! ごめんなさい、前が見えないよ〜!」
僕は叫びながら、少女と父親の襟首を掴み、煙の外へと放り投げた。
もちろん、外からは「煙に巻かれて偶然転がり出てきた」ように見える角度と速度で。
ドサッ!
少女たちがエリナの足元に転がる。
「キャッ!? ……こ、これは……」
「エリナさん! その子たち、怪我してる! 早く治してあげて!」
煙の中から僕が叫ぶと、エリナは一瞬躊躇した。教会の教えがブレーキをかける。
だが、少女の怯えた瞳と目が合った瞬間、彼女は聖杖を構えた。
「……わかりました。癒やしの光よ、傷を塞げ! ヒール!」
彼女の魔法が少女たちを包み込む。
教会のタブーを破り、聖女が「異端」を救った瞬間だった。
「おのれ、何奴だ! 姿を見せろ!」
煙が晴れ、レオンが激昂して周囲を見回す。
そこには、腰を抜かしてへたり込んでいる僕の姿があった。
「あ、あはは……レオン卿、また会っちゃいましたね。いやー、ポチが暴走しちゃって」
「貴様……! また貴様か! どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
レオンの顔が怒りで赤黒く変色している。
彼は落ちた剣を拾い上げ、今度こそ僕を殺そうと切っ先を向けた。
「もういい。事故に見せかける必要もない。公務執行妨害と、魔族への内通罪で、この場で処刑してやる!」
殺気が肌を刺す。
今度は本気だ。逃げ回るだけでは済まされない。
僕が腰の聖剣に手をかけ、本気で迎撃しようとした、その時だった。
オォォォォォォォォッ!!
空気をビリビリと震わせる、凄まじい咆哮が夜空を引き裂いた。
3.東の狼、乱入
轟音と共に、広場の石畳が粉砕された。
上空から何かが降ってきたのだ。隕石のような衝撃波が、僕とレオンを吹き飛ばす。
舞い上がる土煙。その中から現れたのは、レオンよりも一回り巨大な、筋骨隆々の巨体だった。
身長2メートルを超える、銀色の毛並みの狼男。
背中には身の丈ほどの巨大な戦斧を背負い、その双眸は金色に輝いている。
魔王軍四天王が一角、東方将軍ヴァルグ。
「……あ?」
僕は思わず声を漏らした。
ルシアンの手紙には「ヴァルグが暴れたがっている」とは書いてあったが、まさかこんな所に現れるとは。
ヴァルグは周囲の惨状――燃える家々と、倒れた同胞たちを見回し、低く、地響きのような唸り声を上げた。
「……人間風情が。俺の縄張りで、随分と好き勝手やってくれたじゃねぇか」
その威圧感は、レオンの比ではなかった。
本物の「魔」の覇気。歴戦の猛者だけが持つ、絶対的な強者のオーラ。
騎士たちが恐怖で後ずさり、剣を取り落とす。
「貴様は……魔王軍四天王、ヴァルグか!?」
レオンだけが、恐怖をねじ伏せて叫んだ。むしろ、大物を前にして功名心が勝ったのか、その表情には狂喜が浮かんでいる。
「ハッ! 願ってもない獲物だ! 雑魚狩りには飽きていたところだ。貴様の首を王都への手土産にしてやる!」
「ほざくな、金ピカの雑種が」
ヴァルグは鼻で笑い、背中の戦斧を片手で軽々と引き抜いた。
ブンッ! と一振りするだけで、突風が巻き起こり、周囲の炎がかき消される。
「俺は腹が減ってるんだ。テメェみたいな不味そうな肉は食いたくねぇが……その首、噛み砕いてやるから覚悟しな!」
激突。
レオンの神速の剣と、ヴァルグの剛力の斧がぶつかり合った。
キィィィン! という金属音が、広場の空気を震わせる。
火花が散り、衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばした。
「うわあああ! 怪獣大決戦だぁぁ!」
僕は悲鳴を上げて、ポチを抱えて物陰に退避した。
……というのは建前で、素早く戦況を分析する。
レオンは強い。王国最強の名は伊達ではない。技術とスピードではヴァルグを翻弄している。
だが、ヴァルグはタフだ。多少斬られても、瞬時に傷が塞がる再生能力と、規格外の馬鹿力がある。
勝負は五分五分か。いや、怒りのボルテージが高い分、ヴァルグの方が有利か。
(……好都合だ)
彼らが戦っている間に、住民たちを逃がせる。
僕は瓦礫の陰から、エリナに合図を送った。
「エリナさん! 今のうちにその子たちを逃がそう!」
「……っ、はい!」
エリナは躊躇わなかった。
彼女は怪我をした少女――ミュウというらしい――を背負い、他の生存者たちを誘導し始めた。
騎士たちはレオンとヴァルグの戦いに釘付けで、こちらに気づいていない。
「お兄ちゃん、ありがとう……」
背負われたミュウが、僕を見て小さな声で言った。
その瞳は、まだ恐怖に震えているけれど、僕を「敵」とは見ていなかった。
僕は彼女の頭をポンと撫でた。
「礼には及ばないよ。……ごめんね、遅くなって」
僕はポケットから、ルシアンの手紙に入っていた「赤岩の実」を取り出し、彼女の手に握らせた。
「これを食べな。元気がでるよ。……それと、これを森の奥まで逃げたら開けてみて」
僕はもう一つ、小さな羊皮紙を渡した。
それはルシアンが以前送ってきた、「もしもの時のための隠れ家」の地図だ。魔王軍も騎士団も知らない、中立地帯の洞窟。
「……うん」
ミュウは頷き、エリナと共に闇の中へと消えていった。
4.勝者なき夜明け
戦いは、決着がつかなかった。
ヴァルグの猛攻に押され始めたレオンが、部下を盾にして撤退を指示したからだ。
「憶えていろ、獣! 次に会う時が貴様の命日だ!」
捨て台詞を残して去っていくレオンの背中は、もはや騎士の誇りなど微塵も感じさせなかった。
一方のヴァルグも、深追いはしなかった。
彼は肩で息をしながら、生存者が逃げた森の方角を一瞥し、そして僕の方を見た。
「……おい、そこの人間」
金色の瞳が、僕を射抜く。
心臓が止まるかと思った。バレたか? 僕がルシアンの協力者だと。
だが、ヴァルグはフンと鼻を鳴らし、ニヤリと笑った。
「……いい『逃げ足』だったぜ。腰抜けに免じて見逃してやる。次会ったら食うからな」
それだけ言い残し、彼は豪快に跳躍して、闇夜へと消えていった。
おそらく、彼なりに僕が住民を逃がしたことに気づいていて、礼を言ったつもりなのだろう。あの主にして、この配下あり、といったところか。
集落には、燃え尽きた灰と、静寂だけが残った。
ポチが、僕の足元で静かに蓋を閉じた。
「……ひどい有様ですね」
戻ってきたエリナが、焼け跡を見つめて言った。
彼女の純白の法衣は、煤と泥、そして誰かの血で汚れていた。
だが、その横顔は今まで見たどの瞬間よりも、人間らしく、凛としていた。
「勇者様。……私は今日、初めて教会の教えに背きました」
「……後悔してる?」
「いいえ」
エリナは首を横に振り、胸のペンダントを強く握りしめた。
「私は、自分の目で見て、自分で決めます。何が正義で、何が悪なのか。……レオン卿の行いは、決して正義ではありませんでした」
彼女の中で、何かが変わった。
「教会の監視者」という殻が割れ、一人の「人間」としての意思が芽生え始めたのだ。
それは、僕たちにとっても危険な兆候かもしれない。彼女が真実に近づくということだから。
でも、僕は嬉しかった。
「そうだね。……僕も、もっと強くなりたいな。誰も泣かせないくらいに」
僕が空を見上げると、赤い煙の向こうに、星が一つだけ輝いていた。
ルシアン、聞こえるか。
君の脚本はメチャクチャだ。人間の悪意が、君の計算を超え始めている。
でも、役者は揃った気がするよ。
「選ばれなかった男」の憎悪。「獣の少女」の涙。「監視者」の覚醒。
そして、「嘘つきの勇者」。
ここからが第2幕だ。
僕たちの「赤い夜」は、まだ明けていない。
僕は聖剣の柄を強く握りしめた。次は、僕が脚本を書き換える番だ。




