第6章:聖剣、あるいは呪いの楔
1.灰の降る朝
翌朝、要塞都市ベルディアは、季節外れの雪のような灰に覆われていた。
西の森から風に乗って運ばれてきた、獣人たちの集落の燃えかすだ。
空は鉛色に淀み、街全体が巨大な喪章を纏ったような重苦しい空気に包まれている。
「……行きましょう、勇者様」
宿の扉を開け、エリナが毅然とした声で言った。
昨夜の泥汚れを落とし、純白の法衣に着替えた彼女は、以前よりもどこか透明で、それでいて折れない鋼のような強さを漂わせていた。
彼女はもう、ただ教会の後ろをついて歩くだけの人形ではない。
「うん。……でも、嫌な予感がするなぁ」
僕は愛想笑いを浮かべながら、腰の聖剣の位置を直した。
今朝からずっと、聖剣が奇妙に重い。
物理的な重量ではない。まるで剣そのものが脈動し、僕の腰に根を張ろうとしているような、生理的な不快感。
鞘の中で、刀身が微かに唸りを上げている気がする。昨夜の虐殺――あの「負の感情」を吸って、この聖なる武具が喜んでいるとでもいうのだろうか。
通りに出ると、異様な視線が集まった。
軽蔑、疑念、そして敵意。
昨夜の火事騒ぎと、レオンたちが広めた噂が、すでに街中に浸透しているのだ。
「聞いたか? あの勇者、魔物にビビって逃げ出したらしいぞ」
「あまつさえ、魔王軍と通じてるって噂だ」
「聖騎士様たちの邪魔をしたせいで、取り逃がしたとか……」
囁き声が、毒虫のように群がってくる。
レオンの手回しは早い。彼は自分の失態(ヴァルグに逃げられたこと)を、すべて僕の「無能と裏切り」のせいに仕立て上げたわけだ。
僕たちは街の中央にある大聖堂へと呼び出されていた。
名目は「昨夜の戦闘報告」。
だが、その扉の前に並ぶ重装歩兵たちの厳めしさは、どう見ても「審問」のそれだった。
2.痛みを知らぬ男
大聖堂の内部は、冷え切っていた。
ステンドグラスから差し込む光は色鮮やかだが、祭壇の前に並ぶ男たちの影は黒く、長い。
「遅かったな、偽物」
祭壇の前で腕を組み、勝ち誇った笑みを浮かべていたのは、レオンだった。
昨夜の泥汚れは綺麗に拭い去られ、新品の如く輝く鎧を纏っている。その横には、数人の高位神官と、見慣れない一人の男が立っていた。
その男は、異質だった。
漆黒のローブを纏い、痩せこけた体躯。顔色は蝋のように白く、頬には無数の自傷の痕のような切り傷が刻まれている。
だが、最も異様なのはその目だ。
光がない。感情がない。そして、「痛み」を感じる機能が欠落しているかのような、虚無の瞳。
「紹介しよう。教皇庁直属、異端審問官ガハド殿だ」
レオンの紹介に、ガハドと呼ばれた男は、蝶番が錆びついたような動きで首を傾げた。
「……お初にお目にかかる。勇者カイト殿」
声に抑揚がない。まるで古びた楽器が軋むような声だ。
「昨夜の件……勇者殿の行動には、いささか『教義に反する』点が見受けられたとの報告を受けました。つきましては、事実確認を行いたい」
ガハドが指を鳴らすと、祭壇の裏から二人の兵士が、何かを引きずって現れた。
それは、布袋を被せられ、鎖で縛られた小柄な人影だった。
嫌な予感がした。
「袋を取れ」
ガハドの命令で、布袋が剥ぎ取られる。
現れたのは、昨夜僕たちが逃がしたはずの獣人の一人――足が悪く、逃げ遅れた老人だった。
顔は殴打され、片目は腫れ上がり、意識も朦朧としている。
「こ、これは……! 酷い!」
エリナが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、レオンが剣の鞘でそれを遮った。
「下がっていろ、聖女。これは重要な証人だ」
「証人……?」
「そうだ。この獣は自白したぞ。勇者カイトが、魔王軍と密約を交わし、我々騎士団の情報を流していたとな」
レオンは老人の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「さあ、言え。勇者がお前たちに何を言った?」
老人は虚ろな目で僕を見て、震える唇で呟いた。
「……ゆ、勇者様が……助けてくれた……我らを逃がすために……火を……」
それは真実だ。だが、この場においては最悪の「証言」だった。
レオンは満足げに頷き、ガハドに向き直った。
「聞いたか、審問官殿。勇者は魔族(異端)を助けるために、意図的に街へ放火し、騎士団を妨害したのだ。これは明白な反逆罪ではないか?」
ガハドは表情一つ変えず、懐から一本の長い針を取り出した。
「……助けた、か。それは『慈悲』か、それとも『共謀』か。……痛覚による魂の浄化が必要ですね」
ガハドは迷いなく、その針を老人の肩に突き刺した。
躊躇いも、楽しみもない。ただ事務作業のように。
「あがぁぁぁぁっ!!」
老人の絶叫が大聖堂に響き渡る。
エリナの顔から血の気が引く。僕も、演技を忘れて拳を握りしめた。
こいつらは、狂っている。
真実なんてどうでもいいのだ。「勇者を罪人に仕立て上げる」という結論のために、この老人を拷問し、言わせたい言葉を吐かせているだけだ。
「やめろ……! その人は関係ないだろ!」
僕が叫ぶと、ガハドはゆっくりと僕を見た。
「……関係ない? 異端に情けをかける者は、等しく異端です。勇者殿、貴方も『痛み』を知れば、悔い改めることができるかもしれませんね」
ガハドが一歩近づく。
その瞬間、僕の足元のポチ(木箱)が、聞いたこともないような甲高い警戒音を発した。
同時に、僕の頭の中に、ノイズ交じりの声が響いた。
『――逃げろ、カイト!』
モロの声だ。いつものふざけた調子ではない、切羽詰まった声。
『そいつ(ガハド)はマズい! 教会の「裏の掃除人」だ! そいつと関わると、脚本がホラー映画になっちまう! 今すぐその場を離脱しろ!』
3.英雄の失格
モロの警告など聞くまでもない。
この場は、すでに法廷ではない。処刑場だ。
「勇者カイト。貴様の聖剣と身柄を拘束する」
レオンが剣を抜き、宣告した。
周囲の兵士たちが一斉に槍を構える。
完全に包囲された。ここで抵抗すれば、僕は「騎士団に刃を向けた逆賊」として確定する。
だが、おとなしく捕まれば、この老人と共に拷問され、廃人にされるだろう。
どうする?
「臆病な勇者」として泣いて許しを請うか?
いや、通用しない。彼らは僕を「排除」すると決めたのだ。
その時。
僕の前に、純白の影が立ちはだかった。
「……退きなさい」
エリナだった。
彼女は聖杖を構え、レオンとガハドに向けて切っ先を突きつけていた。
声は震えていない。瞳には、覚悟の炎が灯っている。
「聖女エリナ、何のつもりだ? 教会への反逆になるぞ」
「反逆? ……いいえ、これは『信仰』です」
エリナは言い放った。
「私は神に仕える者として、無実の弱者が虐げられるのを見過ごせません。たとえ相手が騎士団長であろうと、審問官であろうと!」
「……堕ちたな、聖女」
ガハドが、初めて感情のようなもの――微かな侮蔑を見せた。
彼は指をパチンと鳴らす。
「異端者(勇者)とその共犯者(聖女)を捕らえよ。抵抗するなら、四肢を切り落としても構わん」
兵士たちが殺到する。
もう、後戻りはできない。
僕は聖剣の柄を握った。
(……ごめん、ルシアン。君の書いた「世界中から愛される勇者」って役、クビになりそうだよ)
僕は深呼吸をし、腹の底に力を込めた。
そして、これまで隠していた「身体強化」の出力を、一瞬だけ限界まで引き上げた。
「うわぁぁぁ! やめろぉぉぉ!」
僕は悲鳴を上げながら、聖剣を滅茶苦茶に振り回した。
ただし、兵士に向かってではない。
大聖堂を支える、巨大な石柱に向かってだ。
ズドォォォォン!!
聖剣の一撃は、バターのように石柱を両断した。
アスカロンの切れ味は、持ち主の精神力に比例する。僕の今の「逃げたい」「ぶっ壊したい」という精神力は、皮肉にも最強の切れ味を生んでいた。
「なっ……!?」
レオンが目を見開く。
支えを失った天井の一部が、ガラガラと音を立てて崩落し始めた。
巨大な瓦礫が、ガハドと兵士たちの間に降り注ぐ。
「今だ! エリナさん、走れ!」
僕はエリナの手を引き、ついでに鎖に繋がれた老人の鎖を聖剣で断ち切って背負った。
ポチが先導するように走り出す。
「逃がすな! 追え! 殺しても構わん!」
レオンの怒号が響く中、僕たちは崩れゆく大聖堂を後にした。
背中で聞こえる轟音は、僕の「英雄」としての経歴が崩れ落ちる音のように聞こえた。
4.楔の呪い
ベルディアの街門を強行突破し、雪原へと続く荒野へ逃げ延びた頃には、日は高く昇っていた。
追手は撒いたが、もう街には戻れない。
僕たちは正式に、国家反逆罪の指名手配犯となったのだ。
森の廃屋に老人を隠し、一息ついた時だった。
「……勇者様、その手……」
エリナが指差した先。
僕の右手――聖剣を握っていた手が、黒く変色していた。
手袋が焼け焦げ、皮膚に奇妙な幾何学模様のアザが浮き出ている。
激痛はない。だが、芯まで凍りつくような冷たさがあった。
「これは……『呪い』?」
「……やっぱりか」
僕は聖剣を見下ろした。
白銀の刀身は、今は鈍く濁った灰色にくすんでいた。
さっき、石柱を斬った時、頭の中に直接響いてきた「声」があった。
『もっと……もっと血を。もっと秩序を』
それは無機質で、それでいて飢えた声だった。
ポチがガタガタと震えながら、一枚のメモを吐き出した。モロからの緊急通信だ。
『カイト、無事か? どうやら「聖剣」の安全装置が外れかけたようだな。
いいか、よく聞け。その剣はただの武器じゃない。
それは世界というシステムを固定するための「楔」だ。
使いすぎれば、お前の「感情」と「人間性」を食らって、お前を「システムの守護者(ただの殺戮機械)」に変える。
歴代の勇者が皆、最後には心を失った理由がそれだ』
僕はぞっとした。
レオンがあれほど聖剣に執着していた理由。もし彼がこれを手にしていたら、あの歪んだ正義感と共鳴し、最悪の殺戮者になっていたかもしれない。
あるいは、僕も……。
「……勇者様。たとえ世界中が敵になっても、私は貴方を信じます」
エリナが僕の黒ずんだ手を、両手で包み込んだ。
彼女の温かい治癒魔法が、冷たさを少しだけ和らげてくれる。
その瞳は、もう迷いのない「共犯者」の瞳だった。
「ありがとう、エリナさん」
僕は苦笑した。
勇者失格。反逆者。そして呪われた剣の持ち主。
肩書きは最悪だ。
だけど、不思議と気分は悪くなかった。
これでやっと、誰かの書いた脚本ではなく、僕たち自身の足で歩き出せる気がしたからだ。
「さて、行こうか。北へ」
目指すは雪原の彼方。魔王城。
そこへ行くには、この国を敵に回して縦断しなければならない。
空からは、灰ではなく、本物の雪がちらつき始めていた。
第2部、完。
そして物語は、凍てつく逃亡劇へと続いていく。




