①出発前の朝
時は二〇一八年、冬。すでに世界の構造は、静かに形を変え始めていた。
サイバーサイジング社は、二〇一四年から黄金期に入っていた。技術も、資本も、制度も、どれもがかみ合い、拡張は止まることなく続いていた。ニュースでは連日その名前が流れ、街の中でも、誰かが当たり前のように口にする。人々はそれを疑わず、ただ便利なものとして受け取り、生活の中で使い続けていた。
二〇一六年。アダソン夫妻の長男ジェイムズは、親の名を使うことなく、その会社の採用試験を受けた。二〇〇七年にギネスに認定されるほど世界でもっとも難く倍率が高いと言われる選考だった。結果が出たとき、周囲にあったのは驚きよりも、静かな納得に近い空気だった。選ばれたのは血縁ではなく、能力だった。
そして二〇一八年。同じ試験を通って、次男のマックも入社する。
二人は同じ部署に配属され、同じフロアに立っていた。専門技術職部門、システムエンジニア。端末の前に座り、同じように画面を見つめ、同じように作業を始める。周囲の誰もが忙しく動いている中で、その光景だけは特別なものには見えなかった。
これは、その少しあとの十一月か、あるいは十二月のできごとである。
はっきりした日付を覚えている者はいない。
ただ、その頃から、何かがわずかに変わり始めていた。
会議の時間はいつの間にか短くなり、判断も前より早くなっていた。誰かが考えて決めているはずなのに、その過程だけが抜け落ちたように見えない。それでも業務は止まらず、むしろ前よりも滑らかに進んでいく。
どこかおかしいと感じる者はいる。だが、それをはっきり言葉にできるほどの違いではない。誰も手を止めず、止める理由も見つからないまま、その流れだけが静かに続いていった。
気づいたときには、判断の速さだけが、ほんの少しだけ人の理解を追い越していた。
それでも日常は変わらなかった。仕事はいつも通り回り、結果も出て、誰も困ることはない。そのまま次の業務が始まり、同じように一日が終わっていく。だから、その変化にわざわざ名前をつけようとする者はいなかった。
人はそれを、これまで通り「企業」と呼び続ける。その呼び方をしているあいだは、まだ同じものだと思っていられたからだ。
第一章は、こうして始まる。これは、まだ世界がそれを『企業』と呼んでいた時代の最後の記録である。
出発前――フィラデルフィア市内、アダソン宮殿の朝。
空は白く、光は弱い。夜の名残のような静けさが、街全体を覆っている。前夜に降った雪が、庭園と石畳を薄く覆い、その上を歩く足音だけがやけにくっきりと響いた。新しく降り積もる気配はないのに、空気は張り詰めている。
宮殿の中は、外とは別の場所のように静かで、温度も光も一定に保たれていた。廊下の奥で、誰かの気配が動く音だけが規則正しく続いている。窓の外に見える雪の白さとは対照的に、室内の光はやわらかく落ち着いていた。
すでに出発の準備は整っていた。
アレックスは黒いコートに袖を通す。壁際のハンガーに掛けられていたそれを手に取り、そのまま肩に落とす。毎年、年末やクリスマスの時期になると身につけている特注のものだった。広い部屋の中で、布の重さだけがわずかに動きを残す。鏡の前で袖口を整えると、姿勢がそのまま静かに整う。首元にはオレンジのマフラーが巻かれていて、折り目のところに同じ色のバラの刺繍が控えめに入っている。
少し離れた場所では、アラクネアも同じ部屋の中で赤いコートの前を整えていた。長い鏡に映る赤が、窓から入る朝の光にやわらかく馴染んでいる。首には赤いマフラー。そこにも、小さな赤いバラの刺繍がある。手元で布を整える動きが、音を立てずに続く。
部屋の中には余計なものが置かれていない。整えられた衣装と、壁にかかる鏡、それだけで十分だった。その装いは、毎年のクリスマスや年末年始にサイバーサイジング社の公式配信で見慣れているものと同じだった。けれど今日は、撮影のための光もカメラもない。ただ、鏡の前で整えられていく動きだけが、いつもの季節の姿をそのままここに置いているようだった。
同じ部屋の奥、ソファにはすでにジェイムズとマックが座っていた。先に支度を終えていたジェイムズとマックは、言葉を交わすでもなく、目の前で整えられていく両親の動きをそのまま見ている。テーブルの上には開いたままの端末が置かれていて、画面の光だけが静かに残っていた。
アレックスが袖口を軽く整え、振り返る。
「日本に行ってくる」
その声に、端末へ落ちていた視線が上がる。
ジェイムズがそのまま顔を向けた。
「例の件?」
「ああ。天皇皇后両陛下への挨拶と視察だ。長くはならない」
そのやり取りのあと、アラクネアが静かに言葉を足す。
「それと、キッザニアも見てくるわ。教育領域、もう少し精度を上げたいから」
その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。
ソファの背にもたれていたマックが、わずかに眉を上げた。
「国と教育、両方か。やっぱり規模が違うな」
アレックスは短くうなずく。
「もう、分けて考える段階じゃない」
「こっちは問題ないよ。欧州側も安定してる」
そのあとで、ジェイムズが手を伸ばし、画面を閉じる。軽い音が、静かな部屋の中でひとつだけ響いていた。
「南米も同じだ」とマックが続ける。
「多少の揺らぎはあるけど、許容範囲内」
そこで一度、言葉が途切れる。
そのあと、一家はそろって玄関へ向かった。廊下を進むあいだ、誰も急がない。足音だけが静かな室内に重なり、正面の大きな扉の前で、使用人が一歩下がって道を開ける。扉が開くと、外の冷たい空気が流れ込んできた。室内の温度が一瞬だけ揺れ、すぐに外の気配に押し戻される。
宮殿の正面には、一台のリムジンが静かに停まっている。黒い車体が、雪の白にくっきりと浮かび上がっていた。特別な車ではない。宮殿と本社、そして空港を往復するための、いつもの移動用車両だった。
警備車両の姿はない。それが必要だと判断されていないからだった。この移動は、あまりにも普段通りだった。
アレックスとアラクネアが石段を下りる。黒と赤のコートが並び、その首元でマフラーの刺繍がわずかに揺れる。
ジェイムズとマックは、少し後ろで足を止めたまま、その動きを見ている。
アラクネアが二人を見る。
「無理はしないでね」
仕事の確認とは少し違う、家の中の声だった。
ジェイムズは小さく頷く。
「うん。そっちも」
マックも軽く手を上げる。
「気をつけて、パパ、ママ」
アレックスはわずかに目を細め、短く返す。
「ああ」
リムジンの扉が開いた。
夫妻は短く視線を交わし、そのまま車内へ乗り込む。外の冷気が一瞬だけ入り込み、すぐに閉じ込められる。ドアが閉まる音は小さく、それでもはっきりと耳に残った。
その動きを見届けるように、ジェイムズとマックは自然に手を振る。大きな言葉はない。ただ、その仕草だけで十分だった。
リムジンはゆっくりと動き出す。雪の上に残るタイヤの跡だけが、さっきまでそこにあった動きを示していた。エンジン音が少しずつ遠ざかり、やがて門の向こうへ消えていく。
兄弟はその場に数秒だけ残った。白い息が、薄く空へほどけていく。
先にジェイムズが視線を戻した。
「……私たちも行こうか」
マックが短くうなずく。
「ああ」
そのあと二人は、宮殿の脇に用意されていた別の車へ向かった。運転席には、アダソン家の使用人がすでに待っている。後部座席のドアが開かれ、兄弟は並んで乗り込み終わるとドアが閉まり、車が静かに動き出す。
向かう先は――サイバーサイジング社アメリカ本社。




