226.問題の蔓延 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
部屋に戻ると、案の定、真紀はまだいた。
しかも、布団にくるまって、髪を少し乱し、まだ眠気を目に宿している――そんな半覚醒状態では、全くなかった。
違う。
今の彼女は、自己診断を終え、コアを再起動し、エネルギーも安定し、すべてのシステムがスタンバイ状態に戻った戦術中枢のようだった。額に「戦闘モード移行完了」とテロップを出し忘れているだけ、と言った方が早い。
彼女は机に座り、手元にはカップ。服装はすでにきっちり整えられ、寝起き特有の緩みもきれいに片づけられている。昨夜「今夜はここにいたい」と言って私の布団に潜り込んできた人間と、今目の前で、指揮系統を一から並べ直せそうな視線をしている生徒会長。時間帯によって出没する二種類の生物が、たまたま同じ身体を使っているだけのように見えた。
彼女は顔を上げる。
「どうだった?」
私はドアを閉め、背中を板に預けたまま、彼女を一秒だけ見た。
「その『どうだった』は、ビーチ込み? それともビーチ抜き?」
彼女はわずかに首を傾げる。その一瞬で、私の一言の中にどれだけ報告案件を詰め込んでいるのか、判断しようとしているのが分かった。
私は近づき、今朝、食堂全体に制度的脳震盪を起こしかけた小さな紙片を机の上に置いた。
「お金の話を聞いてるなら、片はつけてきた」
真紀はその紙に一瞥をくれた。昨夜、さらっと書き上げて、今朝きっちり大規模集団イベントに育ち切った作戦記録でも見るような目だ。
「そう」
彼女はカップを取り上げ、ゆっくりと一口飲む。その動作はひどく穏やかだった。穏やかすぎて、まるで今朝、私に読ませたのが「共同保有」でも「信託スキーム」でも「三百兆」でもなく、「今日はドリンクバーのジュースを先に補充すべきか、氷を先に補充すべきか」という程度の話だったみたいに見える。
私は椅子を引いて腰を下ろした。
「経過だけ見たら、ほとんど革命の扇動だったけど」
彼女はその言葉を聞いてから、実際に少し考え込み、ようやく口を開いた。
「この代の子たちは、みんな頭がいいから」
カップをテーブルに戻しながら、理所当然といった調子で続ける。
「頭のいい相手には、取り繕うより先に、最初から方向性を固定しておいた方がいい」
私は彼女をじっと見つめた。その一言が、いかにも真紀らしい暴力に聞こえたからだ。
威圧でもない。
怒鳴り声でもない。
ただ、ひどく礼儀正しくて、ひどくロジカルで、それでいて人に逃げ道を残す気が一切ない処理の仕方。
彼女は私を一瞥した。
「なに?」
と訊く。
「その顔を見る限り、ビーチだけの話じゃなさそうね。どうせまたジェスでしょ?」
「違う」
私は反射的に早口で否定した。
「ジェスはうるさいけど、まだ制御可能圏内」
言った瞬間、自分で驚いた。
あまりにも彼女っぽい言い方だったからだ。
言葉遣いの問題じゃない。一人の人間をまず「面倒」カテゴリに放り込み、その面倒度を評価し、「現状許容範囲」と結論付ける――その処理ロジックが、あまりにも彼女的だった。長く隣に座りすぎて、無意識のうちに一部の「生徒会長文法」を取り込んでしまったらしい。
真紀もそれに気づいたようで、眉尻がかすかに動き、口元にほとんど見えない弧が浮かんだ。
「へえ」
とだけ言う。
「成長したわね」
「その成長、あんまりありがたく聞こえない」
「元からお祝いするつもりはないし」
即答だった。思考のラグすらない。
これ以上、絶対に勝てない系統の言い合いを続ける気はなかったので、さっさと本題を投げることにした。
「ランとロイが――」
そこで何故か、言葉がひっかかった。
私のせいではない。
現場で見るのと、それを自分のベッドにいる、今お茶を飲んでいる生徒会長に報告するのとでは、話の性質が全く違うのだ。
真紀は、私の言葉が止まったのを見て、きれいな困惑を浮かべた。
「二人がどうかしたの?」
私は喉を鳴らしてから言った。
「二人で、整備室でこっそり、その、あれしてた」
一秒、沈黙。
「その、あれ?」
彼女を見る。
彼女も私を見る。
部屋の空気は、非常に誠実な静けさに包まれた。
三秒ほど経ってから、彼女の顔が一気に赤くなった。
大げさなまでに真っ赤、というわけでもない。漫画みたいに湯気が出るわけでもない。ただ、普段ほとんど表に出ないだけに、一度出るとやたらと破壊力のある赤みだった。耳から染まり始め、頬を伝い、その「さっきまで完全起動してました」みたいな戦闘システム感を、一気に人間の範囲に引き戻した。
ちゃんと理解したらしい。
しかも、かなり詳しく。
笑いたくなったが、堪えた。今日ここに戻ってきたのは、艦橋の事故報告をするためであって、生徒会長のレアな表情コレクションを鑑賞するためではない。
「肝心なのはね」
私は話を続けた。
「ランとロイが整備室でそれをやってた時、ヘートヴィヒは、その外にいたってこと」
真紀の顔色は、まだ完全には落ち着いていなかった。
「外に?」
「そう」
私はきわめて静かな声で、最後の二文字を補った。
「チェス」
彼女は瞬きをした。
彼女の頭の中で、今、あの要素たちが全力で一つの現実に再構成されているのがよく分かった。
ロイ。
ラン。
整備室。
ヘートヴィヒ。
ドアの外。
チェス。
そしてその背後には、「当直がほぼ蒸発している艦橋」と「アカリがレーダー席で艦内アンカーのように寝落ちしている」という背景。
軍紀の観点から見ても、運用の観点から見ても、単純に人類文明の美意識の観点から見ても、かなり高密度に狂っている構図だ。
「ちょっと待って」
真紀がようやく口を開く。さっきの赤面の余波が、まだほんの少し残っていた。
「つまり、ロイとランが整備室の中で……その、あれやってる間、ヘートヴィヒはその外で、艦長席に座ってコンピュータとチェスを指してたってこと?」
「少なくとも、私の目にはそう見えた」
私は肩をすくめた。
「彼女は主座に座って、余裕の表情でユグドラシルと三次元チェス。アカリは横で、制度を見限った人間みたいな顔で寝てた」
真紀は目を閉じた。額に手をやりたい衝動を、最も抑制された方法で処理しているように見える。
「ほんと、あの二人は……」
そこから先は、言わなくても意味が分かる。
私は頷いた。
「一応、口頭で釘は刺しておいた」
そこで一度区切り、自分の主観も足しておくことにした。
「ただ、これはあくまで私個人の感想だけど」
真紀が視線を上げる。
「どんな感想?」
一秒だけ真面目に考えてから、なるべく婉曲で、かつ事実からそこまで離れていない表現を選んだ。
「ロイは、どちらかと言うと受け身側かなって」
彼女は一瞬きょとんとし、それから表情を非常に微妙なものに変えた。
我慢しているのは分かる。
笑いなのか、それ以外なのか、細かく分類はしないことにした。
「ランの方が、攻めの姿勢がはっきりしてる」
私は、異様に細かく、かつ本来なら副艦長経由で上がってくるべきではない種類の現場報告を続けた。
「少なくとも、航海長の席で三、四十分座って待った結果を見る限りではね」
真紀は、すかさず私を横目でにらんだ。
「……あんたも居座ってたわけ?」
その目は、綺麗だった。
怒ってもいないし、嫉妬でもない。ただ純粋に、「あんた、そこでどんだけ粘ってたのよ」というツッコミだった。
私は即座に自己弁護に入る。
「出てくるまで待たなきゃしょうがないでしょ」
ほとんど「今年の清廉潔白市民賞」にエントリーできそうなほどの無実の顔で言う。
「ジェスみたいに、空気も読まずにドアぶち開けるわけにもいかないし」
これにはさすがに説得力があったのか、真紀もすぐには反論してこなかった。代わりにカップを取り上げ、その陰に顔の一部を隠す。けれど、耳のあたりがまだ赤いのは、隠しきれていない。
珍しい光景だった。
艦橋の外でムード現場の見張りをしていても微動だにしなかった皇女が、私の「三、四十分待ってた」という一言で、微妙に表情を崩す。
ジェスなら、たぶんその事実だけで「艦内観察レポート」の一項目を書き上げていただろう。
残念ながら、私は彼女よりは性格がいい。
カップを置いた真紀は、ようやく話を本筋に戻した。
「で、あんたはどう考えてるの?」
と訊く。
「処分の方は」
一瞬、間が空いた。
「私、フレイヤじゃないし」
私は正直に言った。
「わざわざ人を締め上げる趣味はない」
責任逃れではない。本気だ。現場での説教や毒舌なら、いくらでもやる。でも、風紀委員長みたいに規則や条文、処分レベルやフォローのフローまで含めて仕組みとして叩き込むのは、ただひたすらに逃げたくなる。
「とりあえず、口頭で注意はしたけど」
それだけ付け加える。
真紀は首を横に振った。
「それじゃ足りない」
と言う。
「一時しのぎにしかならない」
その一言を聞いた時点で、二人の今後の人生プランが更新されるのは確定した。
案の定。
そう言いながら、彼女はすでに端末を手繰り寄せていた。
「今、彼らどこに住んでる?」
私も自分の端末を開き、名簿を呼び出す。
「ロイが男子B-85、六人部屋。ランが女子C-33、四人部屋」
真紀はそれを聞き、テーブルを指先で軽く叩いた。そのごく短いタップが、私にはよく分かる。頭の中で、もう何らかのプランの形が見えている時の合図だ。
「この船、まだ二等客室が余ってなかった?」
顔を上げてくる。
「二人部屋のやつ」
「探せばあるにはあるけど」
私はデータをスクロールさせ、キャビン配置図をそのまま彼女の方に投げた。
「場所は貴族区になる」
真紀は一瞥し、あたかも私が「貴族区」ではなく「物置の裏に一室余ってる」とでも言ったような反応しかしなかった。
「もういいわよ、そのくらい」
と言う。
「二人とも、そっちに移して」
私は眉を上げた。
「理由は?」
「いつまでも、あっちこっちで余計なことをされるよりマシでしょ」
あまりにも当然のように答えてくる。
私は思わず笑い、少しだけ悪意のあるニュアンスを乗せた。
「それ、処分じゃないよね」
と言う。
「公式に認可した生殖戦略の最適化、って言うんじゃない?」
真紀は、一拍だけ呆けた。
その後、迷いなく私の肩をぴしゃりと叩いた。
痛いほどではない。
が、かなりジャストな位置だった。
警告としては十分で、実害はそこまでない程度の加減。
「黙りなさい」
と睨みを利かせる。
「ついでに、補給ステーションで『アレ』を受け取らせて」
「アレ?」
最初は本気でピンと来なかった。
「アレ」なんて単語、この船では用途が広すぎる。機密保持契約の付録でもいいし、補給用コンテナでもいい。食券でもいいし、整備カードでもいい。あるいは、口にした瞬間に即座に空気を壊す類のもの、何でもありだ。
だが、一拍遅れて理解した。
そして、一緒に笑いそうになった。
「……了解」
できるだけ真面目なトーンで答える。
真紀はわざと私を見ず、そのまま視線を端末に戻した。さっき自分が、恋愛事故の後処理にちゃんとセーフティまで組み込んでしまったという事実を、管理者の顔で必死に塗りつぶしているように見えた。
だからこの人は厄介だ。
普通は、艦橋での現行犯を聞かされたら、驚いて、呆れて、処分するかどうかを悩むくらいで終わる。彼女は違う。住居配置から、環境リスク、動線管理に補給ステーションの在庫確認まで一気に飛ぶ。
もはや「生徒会長」という肩書きでは足りない。
青春期の事故すら艦隊ガバナンスに組み込んでくる、ある種の行政災害だ。
で、そのプランを私は正面で聞いている。
冷静に考えると、私の人生ルートも相当おかしい。
そんなことを考えていたところで、通信端末が震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、一瞬だけ手が止まる。
真紀がすぐに訊いてくる。
「誰から?」
「二階堂・フレイヤ」
メッセージをざっとスクロールさせる。
「相談したいことがあるって」
真紀の表情から、一瞬で公務モードのゆるみが消えた。さっきまで整備室案件で浮き上がっていた微妙な赤みと毒気は、見えない引き出しにまとめてしまわれたように消えていく。
「一緒に行く」
彼女は言った。
その声は静かだったが、そこには一切の迷いがなかった。
彼女を見つめながら、心底思う。
この人、本当にやばい。
さっきまで、ランとロイの部屋替えと補給ステーションでの受け取りについて話していたはずなのに、次の瞬間にはもう、「はい、次の案件は?」モードに完全に切り替わっている。効率が良すぎて人間味を疑うレベルのマシンみたいな癖に、夜中には私の布団に潜り込んでくるし、朝には三百兆のスキームを押し付けてくるし、今は他人の恋愛事故のリスクマネジメントまでやっている。
このギャップ、本来ならかなり厄介なはずだ。
問題は、私はもう、とうの昔に慣れてしまったということだ。
そして、たぶん少しだけ――自分でも認めたくない程度には、そこが好きでもある。
私は立ち上がり、あの小さな紙片と自分の端末を手に取った。
「了解」
と言う。
「じゃあ行こうか。風紀委員長がまた、どんな面倒を拾ってきたのか見に行かないと」
真紀も立ち上がる。
私の横を通る時、テーブルのまだ温もりを残したお茶を一息に飲み干した。無駄のない、きっぱりとした動き。それで短い休憩は終わり。これから先は、人工ビーチであれ、意見箱であれ、当直の事故であれ、今フレイヤから届いた案件であれ、もう一度彼女の処理範囲に戻ってくる。
すれ違いざま、彼女の手の甲が、ほんの少しだけ私の腕に触れた。
合図みたいに。
合意のように。
何も言わず、そのままドアの方へ一緒に歩く。
ハッチが開いた瞬間、妙な考えが頭をよぎった。
アスガルドって、もしかしたら戦艦なんかじゃないのかもしれない。
人間関係と資本構造と青春の事故と士官学校の規律と臨時の政治共同体を、一つの鍋に全部ぶち込んで、弱火でじっくりと煮込むための超大型実験装置なんじゃないか、と。
そして私たちは、まだ揃って鍋の中にいる。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




