226.問題の蔓延 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
人工ビーチには行かなかった。
理由は単純で、しかもまるでロマンがない。
前に人工砂浜を見に行った時、すでにその規模がバカみたいにデカいとは思っていた。白い砂、デッキチェア、パラソル、ドリンクバー、そして一目で「軍艦を無理やりリゾートに偽装しようとしてるな」と分かる過剰設計。全体のスペックが、どこか頭のおかしい億万長者が予算で現実を殴りつけているみたいな贅沢さだった。
でも、問題はビーチが大きいかどうかじゃない。
問題は、あと少ししたら、あそこに「さっき死にかけから戻ってきたばかり」「さっき共同保有制度の説明を聞かされたばかり」「さっき『渡さないんじゃない、お金に先に解体されないためだ』って洗脳されたばかり」の二年生が、三百人近く一気に流れ込んでくる――その光景を想像しただけで、心底うんざりしたことだ。
あれは娯楽施設じゃない。
大規模集団行動観察フィールドだ。
そして私は今日、自分からそこに飛び込んで研究員の真似をする気はなかった。
ジェスはもちろん別だ。あいつの生態系は多分「人が多いところに向かって成長する」タイプで、やたらうるさくて、やたら行動力があって、しかも自力で話題を増殖させる海洋生物みたいなものだ。人工ビーチエリアに足を踏み入れた瞬間には、すでに人の群れに自然に溶け込んでいた。もともとあの砂浜で生まれましたって顔で。
止めはしなかった。
今あそこは風紀委員会のホームグラウンドだ。フレイヤたちがビーチの秩序を引き受けた以上、私は彼らの成績を横取りしない。同じ艦に乗っている以上、一番基本的な生存の知恵のひとつは、「自分から他人の管轄に突っ込んで、二つ目の公務を増やさない」ことだ。
だから私は踵を返して艦橋に向かった。
別に殊勝に働きたいわけじゃない。
急に航行管理への軍人魂に目覚めたわけでもない。
単に、途中まで歩いたところで、ある極めて致命的で、数日後には確実に悪夢になることを思い出しただけだ。
今が、アスガルドの戦闘データをコピーするベストタイミングだ。
ヴィスラン大佐みたいなタイプの一番怖いところは、怒鳴り方が激しいことじゃない。極端に落ち着いていて、極端に辛抱強く、極端に士官学校的な口調で、何度でもこう言ってくるところだ。
「星野、きみの戦術分析レポートは?」
「星野、データ整理の進捗は?」
「星野、忘れてるとは思わない。ただ、まだ出してないだけだと信じているよ」
敵艦にロックオンされるより、あの口調の方がよっぽど怖い。
敵艦は少なくとも、すぐに撃ってくる。
あの人は、まず羞恥で殺しにくる。
だから、艦内の空気が一番ゆるくて、メインコンピュータに余裕があって、データも一番抜きやすいこのタイミングで、さっさと宿題の素材を盗み出しておかないようじゃ、この文明で生きてる資格はない。
なのに、艦橋に入った瞬間、もうおかしいと分かった。
ちょっとおかしい、とかじゃない。
「今このタイミングで査察官が入ってきたら、まず三秒黙り、その後、本気で『艦全体の再編成』を検討し始める」レベルのおかしさだ。
まず、当直がいない。
さらに、航海長の席が空いている。通信長の席も空いている。艦橋全体はバカみたいに広くて、当直モードの柔らかい灯りがつき、スクリーンも正常に動き続けている。航路図、出力パラメータ、国境監視の映像、全部ちゃんと生きている。なのに、それらに責任を持つはずの人間が、まとめて蒸発していた。
艦橋に残っているのは、二人と半分だけ。
一人はアカリ。
彼女はレーダー席で寝ていた。
仮眠でも、目を閉じて休んでいるでもない。「聞いてるって、ただ時々まぶたが休憩してるだけだから」と言い張れるような高等サボりでもない。本当に椅子に丸まり、自分の上着を抱きしめ、まるで魂をレーダー波の中に一時預けてきたかのように眠り込んでいた。目の前のスクリーンはまだ光っていて、その光が顔に当たり、「正当な疲労ですけど何か」と言わんばかりの表情を浮かび上がらせていた。
もう一人はヘートヴィヒ。
艦長席に腰掛け、ユグドラシルと三次元チェスを指していた。
ハッチのところで二秒ほど立ち尽くして、頭の中にはひとつだけ、ひどく素朴な疑問が浮かんだ。
軍用AIを相手にチェスって、ちょっと贅沢すぎない?
ユグドラシルは普通の艦載システムじゃない。あれの演算能力は、本来なら航路補正、リスク計算、状況予測に使うべきで、少なくとも「軍用」の看板に見合う仕事をしているふりぐらいはしていてほしい。なのに今現在、彼女は帝国皇女と真顔で、三次元チェス盤上のビショップを三段回り込ませてキングサイドを攻めるべきかどうか議論していた。
この船は、ある角度から見ると、本当に終わっている。
「まあ、星野さん」
先に顔を上げて私に気づいたのはヘートヴィヒだった。その表情は驚くほど落ち着いていて、今、自分が艦橋の艦長席を占領して軍用AIと指しているのではなく、ティータイムにケーキを一切れ余分に取っているところを見つかっただけ、ぐらいの顔をしていた。
「今日は当直じゃなかったはずでしょう?」
その質問には答える気がしなかった。
私はメインコンソールの脇まで歩き、メモリーカードを主コンピュータに差し込む。インターフェイスが立ち上がったのを確認してから、淡々と答えた。
「宿題しに来ただけです」
彼女は瞬きをひとつ。
「ヴィスラン大佐の?」
「それ以外に、何があるっていうんです?」
交戦記録のコピー画面を呼び出しながら、ようやく本題を投げた。
「で、艦橋の当直はどこへ行ったんです?」
ヘートヴィヒは、ごく自然な動作で横を示した。
「アカリさんならいるわよ」
椅子と一体化しかけているその人間を一瞥し、私は半秒黙った。
「殿下」
振り返り、彼女を見た。
「それは、わざとでしょう」
その瞬間、ようやく表情がほんの少しだけ崩れた。
大きくではない。
だが十分だった。
まず、ごくわずかに唇を結び、次に視線が不自然なほど横に逸れる。それではかえって目立つと気づいたのか、慌てて平静を取り戻そうとするが、結局そのわずかな狼狽を完全には押し込めない。最後には、整備室の方を何度か盗み見る。答えがドアの隙間から這い出してくるのを恐れているかのように、異様に早い動きで。
その瞬間、私は全てを理解した。
ひどく完全に。
完全すぎて、追及したい気持ちすら起きなかった。
皇女と、眠り姫と、軍用AIだけが残された艦橋。その皇女が、チェス盤とは別の方向――整備室のドアに、チェスとは無関係な種類の関心を向けているのを見せられた時点で、推理難度は慈善事業並みに下がる。
私は教養のある人間を名乗ることにした。
だから、あえて暴かない。
ただ、ごく穏やかに航海長の席に歩み寄り、椅子を引いて腰を下ろし、両手を組んで目を閉じた。データのコピーは進んでいる。進捗バーはマイペースで延びていく。私も急がない。今この状況で焦るべきなのは、少なくとも私ではない。
ヘートヴィヒも、私が理解したことを察したのだろう。
それ以上何も言わず、軽く咳払いをしてから、視線を再びチェス盤へ戻した。ただ、その集中は少し無理があった。彼女が今指しているのは、もはやチェスではない。「隣で誰かが整備室の秘密を知ってしまった状況で、いかに皇女としての体面を維持するか」という、奇妙なソーシャル・サバイバル・シミュレーションだ。
その答えは、オープニング理論には載っていない。
たぶん三十分くらい経った。
四十分かもしれない。
とにかく、私が本気で寝落ちしかけるくらい。アカリが一度も体勢を変えないくらい。ユグドラシルがわざわざ「データコピー進捗八十三パーセント」と丁寧に知らせてきたくらいには長い時間が過ぎた後で、ようやく整備室のドアが開いた。
開く音自体は大きくない。
だがこの艦橋級の静寂の中では、自首の音と大差なかった。
私はすぐには目を開けなかった。
まず、足音が聞こえた。
前後に一人ずつ。どちらも、泥棒のようにやたらと足音が軽い。
それから、目を上げる。
ロイとランが、整備室から「抜け出して」きていた。
普通に出てきた、とは言い難い。
軍法会議に載るような罪を犯したわけではないのに、実際には一歩一歩、「床に口を開かれて告発されるんじゃないか」とでも思っているような歩き方だった。ロイが先に出てきて、耳がひどく正直に赤くなっている。ランが後ろから続き、その冷静さは、私が航海長の席に座っているのを見た瞬間に終わった。
そしてその瞬間、顔が爆発した。
私は椅子の背にもたれ、彼らを見つめて、限りなく穏やかな声で言った。
「ご機嫌はいかが?」
先に固まったのはロイだ。
ランの方は、その場で骨を抜かれたみたいに、肩まで縮み上がった。
「は、はいっ……星野・ふ、副艦長」
「副」の一文字まで危うく噛みそうな挨拶だった。
私は頷いた。
「結構。少なくとも、今の私が副艦長の肩書をぶら下げてることは覚えてるのね」
その一言で、ランの絶望は一段階深まった。
ロイは隣で、珍しく一言も挟まない。普段なら財務でも制度でもロジックでも、何を投げられても即応してくるタイプの人間が、今は完全に、廊下で先生に捕まった優等生のように黙っている。世の中には、決算書より扱いづらい場面が実在するという証拠だ。
ランは咳払いをひとつして、必死に声を取り戻そうとした。
「そ、その……いつから、いらしたんですか?」
あまりのゴマすり具合に、思わず拍手したくなるレベルだった。
「ロイに、『まだ足りない』って言ってたあたりから」
私はあくまで穏やかに言った。
ごく淡々と。
ただの、どうでもいいタイミングの確認みたいに。
そしてランは、一気に茹で上がった。
顔が赤くなった程度ではない。
完全に茹で上がった。
ここが艦橋でなければ、次の瞬間には彼女がその場で蒸発し、残されたのは制服と尊厳だけ、という事態になっていてもおかしくなかった。
「わ、わ、私あれは別に――」
「説明はいい」
私は手を上げて遮った。
「詳細には興味ない。その方が、私の精神衛生にいい」
ヘートヴィヒは艦長席で、そっと顔をそむけた。
笑いをこらえているのか。
それとも、帝国貴族教育の末路に黙祷を捧げているのか。
私はメモリーカードの進捗をもう一度確認し、それからようやく、整備室から発掘されたばかりのこの二人――艦橋から姿を消していた二名に視線を戻した。
「私たちは非正規の学生部隊だし」
私は言う。
「この船も、今となっては正規の軍艦とは程遠い」
「あなたと彼がどうやってイチャイチャしようと、本来は特に興味もない」
そこで一度言葉を切った。
「ただ、一人ぐらいは艦橋を見ていなさい、って言ってるだけよ」
ランは首を縮めた。
ロイがようやく口を開く。声は低く、そして明らかにどこか乾いていた。
「すまない」
「それが聞きたいんじゃない」
私は彼を見据えた。
「もしアスガルドが本当に自分から恒星に突っ込んでいったら、君たち二人とその恋愛熱量だけで、この艦を押し戻すつもりだった?」
「そんなことはない」
ユグドラシルが突然割り込んできた。
「私が二十四時間監視しています」
メインコンソール上の、いかにも無邪気そうなシステム表示ランプに目を向ける。
「頼むから」
私は言った。
「今、人に説教してるんだから、口を挟まないで」
「了解」
彼女は素直に黙った。
この船は、上から下まで、どこもかしこも正常じゃない。
私は深く息を吸い込み、少なくとも自分の担当部分だけは正常寄りに保つことにした。
「とにかく」
ロイとランをもう一度見た。
「あなたたちが付き合うのは勝手。十分、二十分こそこそ抜けるのも、逐一取り締まろうとは思わない」
「でも、他人の命を賭けのチップにするのは無し。そこだけは線を引きなさい」
ロイは視線を落とし、今度はきっぱりと頷いた。
ランもようやく観念したのか、甘えとごまかしで乗り切ろうとするのをやめ、唇をきゅっと結んで小さく言った。
「分かりました」
その一言は、さっきまでの慌てた受け答えより、よほど本物らしかった。
ちょうどその時、「コピー完了」の控えめな音が鳴った。
私は手を伸ばし、カードを引き抜く。
小さな一枚の中に、昨夜の戦闘データがぎっしり詰まっている。あれだけの量があれば、クラス全員がレポートを書いて人生を呪うには十分だ。ヴィスラン大佐が、私の分析レポートを締切通りに受け取って、「よし、まだ教育に値する」とでも言いたげな目でこちらを見る光景を想像して、気分がほんの少しだけマシになった。
立ち上がり、出口に向かって二歩ほど進む。
アカリの横を通り過ぎる時、ふと足を止めて覗き込んだ。
まだ寝ている。
徹底的に熟睡していて、自分が名目上はアスガルド最後の当直要員になっていたことなど、完全に知らない。この事実も、ある意味かなりホラーだ。もし将来、誰かが彼女の記念碑を建てるようなことがあれば、碑文にはこう刻むといい。
――彼女は目覚めなかったが、ずっとそこにいた。
ハッチのそばまで歩いてから、振り返りざまに最後の一言を投げた。
「次からは」
私が手にしたカードを軽く振る。
「せめてアカリは起こしてからにしなさい」
そう言い捨てて、そのまま出て行った。
ドアが背後で閉まる時、中が一瞬だけ静まり返る音が聞こえた。その静けさが少し面白かった。死ぬほど気まずい静寂ではなく、「今の自分たちは、恥ずかしいのか、運が良かったのか、どっちなんだろう」と必死に考えている二人分の沈黙だった。
通路を歩きながら、ふと笑いがこみ上げてきた。
他の連中は今ごろ人工ビーチで日光浴したり、水遊びしたり、椅子取りゲームをしたり、それともまだ「共同保有」とか「毎月の配分」とか「二年生が将来まるごと上場するかどうか」とかを議論しているのだろう。
その間、私は朝から真紀の代わりに艦上の経済法を読み上げ、続いて艦橋で当直体制がその場で崩壊しているのを摘発した。
副艦長という仕事は、守備範囲が広すぎる。
広すぎて、時々本気で思う。生徒会副会長って役職じゃない。何かしらの災害対応カテゴリの一種なんじゃないか、と。
そして、もっと厄介なのは、この船にいる連中全員が、それぞれのやり方で、張り詰めすぎた神経を「人間モード」に戻し始めていることだ。
ビーチに行く者。
レーダー席で寝落ちする者。
軍用AIとチェスを指す者。
整備室にこもって男女交流に励む者。
それから、戦闘データカードを手にして、敵艦よりしつこい宿題に立ち向かう者。
真紀は今ごろ、まだ私のベッドで寝ているはずだ。
そう思った瞬間、足が一瞬止まった。
……まあ、いいか。
少なくとも、整備室よりは健全だ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




