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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:静音潜航
628/648

224.深夜のアスガルド 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

【視点:艦内夜間通路】


その扉が閉まった後も、通路は誰のためにも立ち止まらなかった。


照明は夜間モードを維持したままで、床の縁と金属の壁面に淡い反射を映し出す程度の明るさに抑えられている。遠くで空調システムが規則正しく稼働し、通気口から送り出されてくるのは温泉エリアの残留熱気ではなく、処理済みの少し冷たい艦内の夜風だった。清掃ロボットが設定されたルートに沿って床を滑っていく。車輪の動きは軽く、その音は礼儀正しいほどに小さい。まるで機械でさえ、今夜この船にはようやく限界を迎えた人間がいるのだから、これ以上の騒音は立てない方がいいと理解しているかのようだ。


アスガルドは眠っていない。


ただ、声をひそめているだけだ。


艦の腹の底にある反応炉は、頑ななまでに安定したエネルギーを吐き出し続け、電力は艦の骨格と配線を伝って各所へと送られている。艦橋には夜間当直の要員がおり、機関室には監視設備が動き、通信アレイは最低限の警戒を維持し、主要な通路には依然として巡回記録が残っている。それどころか、娯楽エリアのゲートシステムでさえ、すでに明朝〇九三〇の起動スケジュールが読み込まれていた。それはひどく場違いでありながら、異常なほど誠実なリマインダーのようだった。


今日、危うく宇宙の塵になりかけたというのに。


明日の朝には、予定通り人工ビーチが開放される。


この船はロマンに対しては何の敬意も払わないが、プロセスに対しては粛然とするほど忠実だった。


通路の突き当たりを、記録パッドを抱えた夜間当直の臨時学生スタッフが早足で通り過ぎる。最初は急ぎ足だったが、ある扉の前を通りかかった時、無意識に少しだけ歩みが遅くなった。彼女は部屋のプレートをちらりと見て、すぐに視線を逸らし、何も気づかなかったような顔を取り繕って、再び前へと進んでいった。


若者が秘密を尊重するのは、往々にして道徳心からではない。知りすぎない方が身のためだと、本能で理解しているからだ。


---


【視点:ヘートヴィヒ】


ヘートヴィヒは士官用展望回廊の片隅にある一人掛けのソファに座り、手元に機密保持契約書の写しを広げていた。


先ほどの湿気を帯びた上着はすでに脱ぎ捨て、簡素で質素とさえ言える艦内用の私服に着替えている。それでも、その服を纏う彼女の姿には、平民の世界に完全には降伏したくないというような、背筋の伸びた威厳が漂っていた。皇女の血筋とは、布地でも家紋でもなく、骨の髄にあるものだ。たとえ今、学生会に臨時で接収され、会議の直後に学生たちの風呂代わりにされかけた戦艦に座っていようとも、彼女は相変わらず、ひどく規格外で進行が荒唐無稽なだけの外交会談に出席しているかのように見えた。


展望窓の外には何も見えない。


星明かりがないからではなく、艦外装甲層と夜間モードによって外部の視界が暗く調整されているからだ。ガラスに映っているのは、かえって彼女自身の顔だった。


ヘートヴィヒはうつむき、もう一度その契約書に目を通す。


正確で、克己的で、感情の浪費がない。それでいて、一見中立的に見えるすべての言葉の裏に、非常に明確な境界線が引かれている。何を言ってはいけないか、誰と接触してはいけないか、どの情報がどの時点まで開示できないか、さらには契約違反時の責任の所在や立会い手順までもが、あらかじめ定められていた。


読み進めるうちに、彼女はふと、微かに笑みをこぼした。


おかしいからではない。


感心したのだ。


今夜、本当に接収されたのは、この船だけではないだろう。


「物語」もだ。


帝国、連邦、学生、軍艦、修学旅行、武力衝突、機密保持契約。これらの言葉は本来、同じテーブルに並ぶべきものではない。だが真紀は、それらを強引に一時的な運用秩序の中に押し込み、しかも大半の人間が反対する暇も与えず、ただ署名させることだけを間に合わせたのだ。


ヘートヴィヒは指先で紙面を軽く叩いた。


「見事ね」


彼女は低い声で言った。


「状況をコントロールしただけじゃない。先に状況に名前を与えたのよ」


それは、命令を下すよりも厄介で、そしてより高度な手腕だった。


ハッチの外から、極めて軽い足音が聞こえてきた。顔を上げると、温かい飲み物を二つ抱えたランが扉のそばに立っていた。その顔には「ただ通りかかっただけだけど、自分でもそんな言い訳は信じていない」と書いてある。


「まだ寝てないの?」


ランは中に入り、カップの一つをテーブルに置いた。


ヘートヴィヒは手を伸ばしてそれを受け取り、頷く。


「あなたもね」


「今、居住区の通路から戻ってきたところ」


ランは隣に座り、長く息を吐き出した。


「あの書類にサインしたら、自分たちは共犯になるのかって聞いてる奴がいたわ。従業員扱いになるのかって聞いてる奴も。中にはもっとストレートに、紙とペンを持ち出して、もし本当に買収が成立したら自分はいくらもらえるのか計算し始めてる奴までいた」


ヘートヴィヒはカップの縁から立ち上る湯気を見つめ、少しだけ視線を和らげた。


「彼女らしいわね」


ランは首を傾げて彼女を見る。


「それ、褒め言葉?」


「違うわ」


彼女の語気は平坦だった。


「でも、けなしているわけでもない。帝国の若い貴族がこういう事態に直面したら、大抵はまず名誉や立場、そして誰が責任を取るべきかを議論する。連邦の学生はそれよりも早く、自分がこの件においてリスク資産なのか、事情を知る証人なのか、それとも潜在的な配当対象なのかを考えるのね」


「ずいぶん研究熱心なのね」


「今夜、フィールドワークを終えたばかりだから」


ランは一瞬呆気にとられ、それからたまらず吹き出した。


ヘートヴィヒの口から出たその言葉は、財務諸表に銀のディナーナイフを突き立てるように冷たかった。だが、それがどうしようもなくおかしかった。


ひとしきり笑った後、ランは再び静かになった。


「彼女、いつまで押さえつけられると思う?」


名前を出さずとも、ヘートヴィヒには誰のことを聞いているのか分かった。


皇女はカップの中で揺れる熱い影を見つめ、淡々とした口調で答える。


「押さえつけられるかどうかだけを聞くなら、答えは『できる』よ」


「代償を聞くなら?」


今度は、ヘートヴィヒはすぐには答えなかった。


少し間を置いてから、彼女は言った。


「代償は通常、彼女一人で払うものではないわ。そこが厄介なところよ」


ランは何も返さず、ただ窓に映る影へと視線を移した。もちろん分かっている。真紀の手段が有効であればあるほど、艦内の人間はすべての複雑な問題を彼女に押し付けることに慣れていく。時間が経てば秩序は安定するだろうが、最も熱い鉄の塊は、常に同じ人間の手のひらに落ち続けることになる。


ヘートヴィヒは契約書を再び折りたたみ、テーブルに戻した。


「でも今夜、彼女は少なくとも全員に、まずは眠るための夜を勝ち取ってくれた」


彼女は言葉を区切り、さらに付け加えた。


「この状況において、それはすでに贅沢なことよ」


---


【視点:艦橋夜間当直席】


艦橋の夜勤は、昼間よりもドラマチックではなく、単なる習慣のように見えた。


赤色警報も、切迫したカウントダウンも、全艦の心臓を止めるような言葉を張り上げる者もいない。照明は暗く落とされ、メインディスプレイには航路、姿勢制御、連邦国境の識別データだけが表示されている。副操縦席の前に座る二人の臨時当直学生は、一人はパラメータを睨み、もう一人は「絶対に居眠りしてはいけない」という人生における最重要課題と向き合っており、どちらも真剣そのものだった。あと三分で期末テストが始まるかのような真剣さだ。


右側後列では、ロイが端末パッドを膝に乗せ、まだ数字と睨み合っていた。


本来、艦橋という場所は金を計算するのに適していない。距離、速度、タイムラグ、リスク値、あるいは次のミサイルを避けられるかどうかを計算する場所だ。しかし、連邦の学生には昔から一つの尊い能力がある。それは、どんな場所でも物事を瞬時に財務問題に変換する能力だ。その観点から言えば、ロイの存在は極めて時代に合致していた。


彼は画面上の仮集計欄を見つめている。眉間にはそれほど深い皺は寄っていないが、決してリラックスしているとは言えない。


アスガルドの運用コスト、艦内の利用可能在庫、娯楽施設の維持起動費、物資の分配、今後の修理費、名義上の買収、学生が契約書に署名したことで派生する権利認識……。


どれ一つとして、二年生の学生が修学旅行の途中で遭遇すべきものではない。


さらに馬鹿げているのは、遭遇しただけでなく、表を作成し始めなければならないことだ。


「まだ諦めてないのか?」


隣にいた夜間当直の男子学生が、ロイの端末を覗き込んで複雑な表情を浮かべた。まるで、そろばんで天災に立ち向かおうとしている勇者を見るような目だ。


「諦めてないわけじゃない」


ロイは顔も上げずに答える。


「俺が諦めたら、明日の朝には三十人がそれぞれ違うバージョンの配当金計算書を持って俺のところにやってきて、しかも全員が自分の理屈が正しいと思い込んでる状況になるのが怖いだけだ」


男子学生はたちまち同情の色を浮かべた。


「もう始まってるのか?」


「二時間前からな」


ロイはついに顔を上げ、麻痺に近いほど平坦な視線を向けた。


「この船が資産扱いになるなら、契約書にサインした自分は出資者になるのかって聞いてくる奴がいた。買収が成功したら、学生会は全員に向けて権利説明会を開くべきじゃないかって言う奴も。もっとストレートな奴は、重力弾で宇宙の塵にされるリスクを負ったんだから、理論上自分の命は何桁の価値があるのか知りたがってた」


「で、なんて返したんだ?」


「まずは数学の単位を落としてないか聞いてやった」


隣の学生はたまらず吹き出した。


ロイは視線を戻し、端末の縁を指先で軽く叩きながら、それでも落ち着いた声で言った。


「彼らが強欲なのが問題じゃない」


彼は言う。


「問題なのは、今日サインしたあの一筆が、単なる『黙っておく』というだけの簡単な話じゃないってことに、彼らがようやく気づき始めたことだ」


それは認定だ。


立ち位置の表明だ。


そして、単なる修学旅行の参加者から、もっと厄介な身分へと一歩足を踏み入れることでもある。


事情を知る者、証人、関係者、既得権益者。


さらには、将来もし誰かが責任を追及することになれば、真っ先に尋問されるグループになる。


艦橋の外の夜は静かだった。


ロイは端末の電源を落とす前、まだ計算の終わっていない草案の表を最後に見つめ、ふと思った。この船で最も高価な部分は、装甲でも、火力でも、動力コアでもないのかもしれない。


この学生たちがついに学んだこと。つまり、世の中には一度サインしてしまえば、もはやただの冒険譚では済まされないものがあるという、その事実だ。


---


【視点:二年A組女子代表】


居住区の共有ラウンジは、まだ半分の照明が点いていた。


数人の女子がテーブルを囲んで輪になり、その上には飲み物、タオル、ドライヤー、そして広げられた機密保持契約書のコピーが置かれている。光景全体としては、ひどく非正規な深夜の勉強会のように見えるが、議論のテーマは明日の小テストではなく、「もし戦艦が法的に学生の集団に一時的に命綱を握られた場合、私たちは何者になるのか」だった。


A組の女子代表は契約書の最後のページをめくり、自分のサインがある場所を見て、今更ながらあの時少し潔く書きすぎたような気がしていた。


あの時、会議室の空気は張り詰めていて、真紀の語気は揺るぎなく、すべてが次から次へと押し寄せてきて、深く考える余裕など全くなかった。だが今、居住区に戻り、ドライヤーの音が止み、周囲が静かになると、脳が勝手に補習授業を始めてしまう。


「で、結局私たちってどういう扱いになるの?」


彼女は顔を上げ、正直に尋ねた。


向かいに座っていた生徒がすぐに答える。


「証人じゃない?」


「それだけじゃないでしょ」


ストローを噛んでいた別の女子が、真剣な顔で眉をひそめる。


「ただの証人なら、なんであの『今後の規範と資産管理に関する付録』なんてものがついてるのよ?」


「私が知りたいのは、『関連収益の分配については今後の公告に準ずる』っていうあの一文が、私の理解してる通りの意味なのかどうかよ」


その言葉が出た瞬間、先ほどまでの少し法律的なパニックを帯びていた空気が、極めて現実的な精神によって即座に引き上げられた。


背筋を伸ばす者がいる。


コピーを自分の前に引き寄せる者がいる。


中には、スマホの電卓アプリを立ち上げる者までいた。


A組の女子代表はテーブルを囲む同級生たちを見て、連邦の教育が最も成功しているのは、市民としての素養を育てたことではなく、恐怖、好奇心、そして利益を追求する衝動を、極めて短時間で一つの表情に混ぜ合わせる術を若者に教え込んだことかもしれないと、ふと思った。


「ちょっと待って」


彼女は声を潜める。


「あんたたち、まさか本気で計算してるの?」


「なんで計算しないの?」


隣の女子は悪びれずに答えた。


「サインしちゃったんだから、自分がどこに足を踏み入れたのかくらい知っておくべきでしょ。それに、今日のあの状況なら、私たちだって少なくとも『ハイリスク共同経験者』くらいにはなるじゃない?」


「その単語、今作ったでしょ?」


「でも、なんだか補償金が出そうな響きじゃない?」


テーブルの周りが一瞬、静まり返った。


それから数人が同時に笑い出した。押し殺したような、それでいて正直な笑いだった。まるで、あまり大きな声で笑うと、まだ公開すべきではない強欲さが事実になってしまうと恐れているかのようだった。


A組の女子代表もつられて笑いそうになったが、紙面を見つめているうちに、その笑みはすぐに薄れていった。


ふと、別のことを思いついたからだ。


もしこの契約書に本当に重みがあり、今日の接収と機密保持が法や政治の記録に痕跡を残すのだとしたら、彼女たちが今やっている冗談半分の計算は、単なる悪ふざけではない。


それはつまり、こういうことだ。


この件に巻き込まれた後、将来、私たちは一体どの項目に分類されるのだろうか?


---


【視点:二年C組男子代表】


別の階にある男子居住区は、ずっと騒がしかった。


大騒ぎしているわけではない。全員が意図的に声を潜めているのだが、その低い声が十数人分重なった結果、かえって取引所の閉場十分前のようなざわめきを生み出していた。


C組の男子代表はベッドの縁に座り、ペンを握り、修学旅行の荷物には本来入っているはずのないノートに向かって猛烈な勢いで文字を書き殴っていた。


そこには、びっしりと何行も書き連ねられている。


もしアスガルドの評価額が戦艦クラスで計算されたら。


もし学生会が一時的に代理しているだけだとしたら。


もし機密保持者に補償が支払われるとしたら。


もし後で口止め料が出るとしたら。


もしそれが口止め料ではなく、警備料だとしたら。


もしその二つが実は名前が違うだけだとしたら。


彼が半分ほど書いたところで、隣のベッドの人間が顔を出した。


「お前、一体何やってるんだ?」


「モデリングだ」


「何のモデリング?」


「トラウマ後収益予測」


その男子生徒は丸二秒間、呆然とした。


「それ、人間の口から出る言葉か?」


「じゃあ何だ? 今日死にかけたんだぞ。夜くらい、人生を理解するための方法を探したっていいだろ」


C組の男子代表は大真面目だった。


「宗教にすがる奴もいれば、俺みたいにスプレッドシートにすがる奴もいる」


横から、苦しげに押し殺したような笑い声が弾けた。


上の段のベッドから、別の男子が顔を覗かせる。


「で、何か計算出たのか?」


「一つ分かったことがある」


彼はペンを置き、神聖なほど深刻な顔つきになった。


「今、俺たちにとって一番価値があるのは命じゃない。知りすぎていることだ」


下の段で誰かが舌打ちをした。


「カッコいい台詞だけど、金には換わらねえな」


「金に換わるかどうかは分からない」


C組の男子代表はページをめくった。


「だが、間違いなく厄介事には換わる」


その言葉が落ちた瞬間、部屋中が嘘のように静まり返った。


あまりにも図星だったからだ。


つい先ほどまで配当金の数字を夢想していた者たちでさえ、今夜自分たちが抱え込んでいるのは宝箱ではなく、「利益になる可能性あり」と「ヤバい事態になる可能性あり」が同時に書かれたチケットなのだと、認めざるを得なかった。


だが、静寂は二秒しか続かなかった。


次の瞬間、また別の誰かが身を起こす。


「じゃあ、もし本当に補償が出るとして、頭割りで分けるのが妥当か? それともリスクに応じて分けるのが妥当か?」


「リスクだろ」


「馬鹿言え、全員同じ船に乗ってたんだぞ。リスクにどんだけ差があるってんだよ?」


「大ありだろ? 後方座席と艦橋じゃ全然違うじゃないか」


「じゃあ、吹っ飛んで死にかけたのは労災に入るのか?」


これで部屋は完全にカオスに陥った。


C組の男子代表は顔を覆い、連邦の学生は歴史に名を残すこと自体は恐れていないが、その残り方が十分に金にならないことだけを恐れているのかもしれないと、本気で思い始めた。

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