220.九死に一生 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
評議室のエアロックが開いた瞬間、内部には未だ低いノイズのような囁きが浮遊していた。
喧騒ではない。むしろ、九死に一生を得た生者たちが、密やかに言葉を交わすことで「己が未だ生還していない」という錯覚を打ち消そうとしているかのような、微弱な音響。緊急跳躍の衝撃でどこの区画が歪んだかを小声で検証する者もいれば、学生会長がまずどこのクラスから血祭りにあげるかを推測している者もいる。――〈連邦〉に生還した、という厳然たる現実を脳細胞が咀嚼しきれていないのか、全員が白昼夢から覚醒したばかりのような、拠り所のない貌をしていた。
そして、真紀が足を踏み入れた。
刹那、あらゆる音階が消失した。
あたかも、評議室という空間全体と、そこに座す三百人の喉元を、一括して完全消音のシーケンスに叩き込んだかのような静寂。
私は彼女の斜め後ろに付き従いながら、自然な動作で雛壇の下を見渡す。各クラスの代表、各部局の幹部、そして緊急招集された例外の連中。全員が背筋をミリ単位の狂いもなく伸ばし、シートに深く腰掛けていた。彼らに高潔な軍人精神が突如として芽生えたわけではない。今、教壇の前に立つ少女が、たった今しがた、帝国最凶と謳われる要塞の主砲射程からこの巨艦をもぎ取ってきた事実を、骨の髄まで理解しているからだ。
この局面において、未だ彼女を「ただの学生会長」と侮る者がいるとすれば、それはよほど生存本能に欠陥のある手合いだけだろう。
その時、一人の少女の横顔が視界の端に引っかかった。
私は片眉をわずかに跳ね上げ、声を極限まで絞って真紀に囁く。
「……あの堅物を呼んだのは、君の差し金?」
真紀の視線が、私の視線を追うように動いた。
評議室の右後方、最果ての席に、二階堂が鎮座していた。
背筋の角度は垂直そのもの。相変わらず親しみやすさの欠片も微塵も感じさせないその貌は、存在そのものが「歩く学則」の具現。周囲の全員と同じ空間を共有していながら、常に半歩分の心理的ディスタンスを維持する特異な着座姿勢。仮にこの〈アスガルド〉が地獄の底から這い上がってきた直後であろうと、誰かの軍装が規定違反を犯していれば、即座に不適格の烙印を押す準備ができている――そんな佇まいだった。
真紀は表情一つ変えず、静謐なトーンで応じた。
「二階堂・フレイヤ(フレイヤ・ニカイドウ)のことなら、そうよ。私が私費で(オーダー)呼んだわ」
一拍のディレイ。議論の余地をハナから封殺する声音が続く。
「彼女にしか委ねられない、排他的な任務があるからよ」
私は彼女の横顔を見つめ、吹き出しそうになる衝動を必死で圧し潰した。
実に結構、申し分ない。
九島真紀という女は、今や恐ろしいほどに練達した最高経営責任者(CEO)の風格を纏っている。対象を好むか否かと、その駒を有効に運用できるか否かは、完全に独立した別問題なのだ。彼女はその手の商業聖典を、朝食のブラックコーヒーと共に残さず嚥下しているに違いない。
真紀が一歩前に出、主席の位置へと直立した。
先ほどまでの学園祭じみた空気は瞬時に霧散し、全空間が「学生会長モード」へと強制遷移させられる。
「臨時学年代表会を開始する」
音量は決して大きくはない。しかし、空間の分子構造そのものを掌握するような、絶対的な制圧力がそこにはあった。
「まず第一に。わたしたちは無事、連邦の版図へと帰還したわ」
その一言が評議室に投下された直後、雛壇の下の空気は一瞬だけ、凍結したかのように凝固した。
そして、歓声が先陣を切ったわけではなかった。
訪れたのは、奇妙な音響の波。
長く、肺の腑をすべて吐き出すかのように息を漏らす者がいた。ずっと噛み締め続けていた奥歯をようやく解放し、短い吸気を貪る者もいた。後方の席では、男子生徒が一人、両手に顔を埋めたまま、椅子の背もたれへ深く崩れ落ちた。さっきまで評議に出席していたというより、己の墓標とミリ単位ですれ違い、辛うじて生き延びたかのような、そんな劇的な弛緩。
その後に、ようやく、ぽつりぽつりと乾いた笑い声、デスクを叩く音、抑えきれない低い歓声が連鎖していった。それは暴走する狂熱ではなく、「私たちは生存したのだ」という事実を遅れて脳が承認した結果の、本能的なリアクションだった。互いに視線を交わし、目元を乱暴に拭う者。
「クソ、本当に生きてるぞ……」
小声でそう毒突いた少年の言葉は、あまりにも誠実すぎて、連邦の辺境プロパガンダ映像のオープニングを飾るにふさわしい純度を誇っていた。
私は傍らに直立したまま、その遅れてやってきた弛緩の波を眺め、真紀の「情報開示のタイミング」の妙技に、内心で舌を巻いていた。
この一文を、他の何よりも先に告げる必要があることを彼女は熟知していたのだ。
それが最重要だからではない。これが、この後に続く「極めて不愉快で面倒な現実」を、全員が拒絶反応を起こさずに聞き続けられるための、唯一の前提条件だからだ。人間はまず、己の生存を確定させてからでなければ、次の書類(現実)に向き合うことなどできはしない。
案の定、真紀はその歓喜の余韻を、それほど長くは許容しなかった。
「事前に約束していた艦内施設の私的利用に関しては、公約通り履行するわ」
その言刃が放たれた瞬間、前列のいくつかの貌が一気に輝きを帯びた。
結構なことだ。学生はどこまでいっても、やはり学生に過ぎない。「解放」や「特権開放」の単語が踊れば、たった今しがた死線を彷徨っていた生存者から、瞬時に「青春の輝き」を纏う凡俗へと退化する。
しかし、真紀の次の一瞥が、その輝きを瞬時に削ぎ落とした。
「——ただし。その報酬を受け取る前に、各クラスと明確に決着をつけておかなければならない事案があるの」
評議室の温度が、再び急速に低下していく。
彼女は手元のバインダーから、最初のマテリアルを開示した。
「第一条。本艦〈アスガルド〉の帰属問題について」
その五文字は、いかなる厳しい学則よりも迅速に、全員の頭上から氷水を一盆ぶちまけた。
私は彼女の半歩後ろから、極めて適切なタイミングを見計らって追撃のフレーズを補足する。
「このまま堂々と連邦の軍港へ帰港したとして、君たちを出迎えるのは、家族の抱擁と祝福の花束ではないかもしれない」
私は台下の、じわじわと恐怖で硬化していく生徒たちの貌を見つめながら、できるだけ親しみやすい、害のない笑みを浮かべてみせた。
「思想監察局の冷たい尋問室と、憲兵隊の手錠である可能性が極めて高い。何しろ君たちは、帝国第三皇女の指揮下に入り、帝国の軍服を纏った状態で帰還したのだからね」
数秒前まで劫後余生の喜びに満ちていた空間が、まったく質の異なる、底冷えのする静寂へと変質していく。
C組の委員長が、弾かれたように席を蹴って立ち上がった。
「わたしたちは強制されて——!」
「ええ、強制されて(不可抗力だ)」
私は彼女の悲鳴めいた弁明を笑顔で受け止め、丁寧に、かつ恭しく頷いてみせた。
「けれど。君がその貧弱な口頭でそう主張するだけで、一体誰がそれを証明し、誰が信じてくれるのかな?」
その一刀があまりにも鮮鮮で、容赦がなかったため、C組委員長はあたかも見えない不可視の圧力に圧し潰されたかのように、シートへと崩れ落ちた。唇が不格好に動いたが、最終的に小さく震えた後、それ以上の音声を紡ぐことなく沈黙に埋没していった。
その精神状態は実によく理解できる。
現実という怪物は、いつだってこのように無慈悲だ。真実から目を背けたい人間がいないわけではないが、冷酷な証拠のほうが、常に声高に事実を叫ぶ。そして今、この艦にいる全員の身に刻まれている「状況証拠」は、率直に言って、連邦の取調官が資料整理の手間を省いて定時退勤できるほどに完璧に揃い踏みしている。
「おまけに、ご丁寧に帝国の軍服を着て記念撮影に興じた愚か者までいる始末だ」
私はさらに笑みの口角を深く吊り上げてみせる。
「それは連邦の国家情報院に対して、『私は祖国を裏切りました、速やかに私を監獄(檻)へ叩き込んでください』と、自らプレゼンテーションしているのと同義だとは思わないかい?」
台下に、抑えきれない動揺のノイズ(ざわめき)が拡大していく。
隣の人間を戦犯を炙り出すかのように睨みつける者。あれは歴史的瞬間の記録だったのだと小声で自己弁護を試みる者。己もまたその狂気のイベントに参加していた事実を思い出し、顔面を真っ赤に染めて精彩を失う者。
この見事な右往左往を鑑賞しながら、私は極めて「公平」な世界だと感じていた。
帝国側においては主砲、重力崩壊弾、そしてワームホールの狭間によって次々と英才教育を受け、今度はこの冷酷な「社会の現実」が、彼らの一番目のカリキュラムを担当する番というわけだ。
真紀は、その醜悪な囁きが一定の閾値に達して収束するのを待ってから、冷徹に言葉を紡いだ。
「だからこそ、わたしから一つ、救済の提案があるわ」
その声音は、驚くほど穏やかだった。
「この近海宙域に、九島重工のプライベート・ドックが存在する。そこで、別の艦への乗り換え(トランスファー)を敢行するわ」
私は危うく、横にいる彼女の顔を凝視するところだった。
なぜなら、彼女のその口調が、
「家がすぐそこだから、お茶でも飲んでいかない?」
と、放課後の女子生徒が誘う軽さとなんら変わりがなかったからだ。
しかし、彼女が提示しているのは、優雅な茶会でも客間でもない。
軍渠だ。
帝国の領域から隠密裏に帰還した超弩級戦艦を、帝国の皇女と三百人の生き証人、そして政治的ダイナマイトの山ごと、まずは世間の目から完全に「秘匿」し、しかる後に隠蔽処理するための、九島家の私設要塞。
これほど凶悪な国家機密の隠蔽を、お茶の誘いと同等の深度で言ってのけるのは、一種の天賦の才だ。
台下では早速、利権に聡いどこかの委員長が反論のために口を開こうとした。
だが、真紀は視線すら向けず、美しく整えられた片手をスッと上げてそれを先制して封殺した。
「——これは全員の共有財産である、という主張をしたいのは理解しているわ」
その委員長の貌を見ることもなく、相手が脳内で編んでいた発言を丸ごと弾き返す。
「だから、無償で接収(取り上げる)などという野蛮な真似はしない」
そして、彼女は一つの「数字」を冷徹に告げた。
その莫大な金額が空間に提示された瞬間、評議室の空気が、極めて現実的な即物性へと変質した。
驚愕の悲鳴ではなく、歓声でもない。
全員が脳内の計算機でその数字を現在の頭数で割り、将来の学費、あるいは逃亡資金としての出費と掛け合わせ、「——これは、拒絶する方が狂っている」という冷酷な結論(沈黙)へと行き着く、そんな音響。
私は傍らに直立しながら、全員の脳内でそろばんの珠がマッハの速度で弾かれている駆動音が聞こえるような錯覚を覚えていた。
真紀の言葉が続く。
「九島家はその金額を以て、この〈アスガルド〉の所有権を完全買収するわ」
そう言って、彼女は傍らに座すヘートヴィヒへと視線を滑らせた。
「無論、艦の名義は——形式上、殿下のままでね」
ヘートヴィヒは席に座したまま、優雅に、ごくわずかに首頭を傾げてみせた。
その一連の所作は、宮廷の豪奢な夜会で礼儀としての挨拶を返すかのように洗練されていた。帝国の超兵器の所有権、国家反逆リスク、集団的な口封じ(保身)を、場違いな臨時学年代表会で生々しく取引しているとは到底思えない、絶対的な気品。
私は内心で、真紀に対して静かに、しかし熱烈な喝采(拍手)を送っていた。
一石で、二羽の怪鳥を仕留めたのだ。
〈アスガルド〉を「無知な学生どもが帝国の最高機密戦艦を私的に強奪してきた」という最悪の叛逆シナリオから完全に切り離しつつ、帝国の皇女の名誉と面子を担保し、さらに全員の「良心がしばらくの間、バカンスに出かけられる」だけの、巨額の口封じ料(封口金)を公平に分配する。
九島真紀。そう呼ぶほかない完璧なガバナンス。
ここで、D組の委員長が恐る恐る挙手した。
「……じゃあ、わたしたちはどうやって、我が家に帰ればいいんですか?」
極めて本質的な問いだった。
同時に、極めて「学生(子供)」らしい無垢な質問でもあった。
どれほど大局を語り、国家政治を語り、機密保持を語ろうとも、最終的に人間は、己の日常へと帰還しなければならない。それも、できれば「護送」や「監視」という不名誉な単語を伴わない形で。
真紀の応対には、一拍の遅滞すら存在しなかった。
「代替の民間シャトルは既に手配済みよ」
そう言いながら、彼女は手元から別の極秘マテリアルを引き出し、最前列の代表へと手渡した。
「——機密保持誓約書。三百人、一人として例外は認めない。どうやって彼らの口を割らせず、署名させるかは——」
一拍のディレイ。その口調は、ひどく無機質で、淡かった。
「——各自の『統治手腕』に期待するわ」
評議室の空間に、一斉に紙葉が擦れる音が拡大していった。
それは、通常の書類をめくる音ではなかった。
巨額の提示金が、彼らの安価な良心と、極めて生々しく交渉している音響だった。
最前列の数人が、貪るように書類の条項を読み解く姿を眺めながら、私は危うく笑みを漏らしそうになっていた。
特に、その誓約書の束が、あの「二階堂」の白皙の手元へと渡ったその瞬間——私は思わず呼吸を止め、彼女が正義の女神の如く毅然と立ち上がり、規律と信念、そして封口料の拒否について高潔な一席をぶち上げるのを、今か今かと待ち構えていた。
そうはならなかった。
彼女は書類の数字を凝視した。
二秒。
それから、無言でサイン(ペン)を走らせた。
……吹き出しそうになるのを、私はかろうじて圧し潰した。
滑稽だったのは、彼女が屈服したという事実そのものではない。
その、決断の迅速さだ。
私が脳内の仮想劇場で「正義と規律の化身たる風紀委員長が、巨額の封口金を毅然と拒絶する」という高潔な舞台を設営し終えるより前に、主役たる彼女はとっくにペンを下ろして舞台袖へと去っていた。
確かに、提示されたのは小さくない金額だった。
規律を糧とし、規範を呼吸とするあの二階堂でさえ、具体的な数字(現実)を突きつけられた後は、自らの原則にしばしのバカンスを許可することを選んだのだ。
残念ながら、私の口元の歪みを完全に隠蔽するには、些か私の自制心が足りていなかった。
二階堂が顔を上げ、私のその邪悪な笑みを正確に捕捉した。
「星野シモ。そこで何を、不愉快に歪んでいるのかしら?」
声音は極低温。その双眸は、風紀委員長としての職業的尊厳を最大限に込めて私を糾弾していた。
私は即座に、無実を主張するように両手を振ってみせる。
「いいえ、別に。ただ、君もまた、血の通った一人の人間(凡俗)だったのだと安心しただけだよ。てっきり、正義の鉄槌でも下されるかと身構えていたからね」
彼女の眼光が、さらに鋭利さを増していく。
「……私を愚弄っているの?」
私はその後に続くはずだったフレーズを、喉の奥へと強制嚥下した。
なぜなら、本来紡ごうとしていたのは、「汚職に手を染めた帝國の憲兵将校を演じさせたら、さぞや型に嵌まるだろうね」という、極めて致命的な一言だったからだ。
仮にその一言をこの空間に放てば、二階堂という名の時限爆彈が会議の前半戦で大爆発を起こすことは確実だった。
ゆえに、私は自重した。
臨時学年代表会のファースト・ステージで、風紀委員長に視線で極刑に処されるのは、私の本意ではない。
「——次の議題に移行するわ」
真紀が、評議室に未だ漂留していた金銭の残香、政治の血生臭さ、そして何人かの代表が機密保持誓約書に署名したことで魂を一時的に摩耗させた気配を、一括して鮮やかに回収した。
その口調は、教壇に立つ厳格な教師のように穏やかだった。
「艦内施設の、私的利用について」
この単語が放たれた刹那、台下の三百人の耳が一斉に跳ね上がった。
それは実に見事な(スペクタクルな)光景だった。
〈アスガルド〉の帰屬問題を議論していた時は、やむを得ず大人の仮面を被った生存者のようだった連中が、次の瞬間には「修学旅行の自由行動の説明を心待ちにする凡庸な学生」へと完全退化したのだ。全員の貌に刻まれたコードは一つ。——規律の話は後回しだ、まずはどこで遊べるかを教えろ。
青春というやつは。
つくづく、救いようがない。
真紀はバインダーを一枚、冷徹にめくった。
「人工ビーチ、娯楽エリア、サウナ、および岩盤浴……これら一連の施設は、毎日午前九時三十分から午後六時三十分までの開放とするわ」
台下に、さざ波のような動揺が拡大していく。
それは抗議ではなく、「本当にあの超兵器の施設がアンロックされるのか」という期待の戦慄だった。何人かのクラス委員長は早速視線を交錯させ始め、明日の午前中はまず人工太陽(日光浴)に身を委ねるべきか、あるいはサウナで泥のように眠るべきか、脳内で高速の作戦会議を最適化しているようだった。
そこで、真紀が半拍のディレイを入れた。
後方の席から、誰かが小声で、しかし全員の切実な願望を代弁するように呟いた。
「……バーは?」
「〈高級士官クラブ(オフィサーズ・サロン)〉、ですわ」
ヘートヴィヒが、隣のシートから静謐にその言葉を訂正した。
その指摘には帝國上流階級特有の厳密さと、頑ななまでの矜持が宿っており、「バー」などという単語はあまりに庶民的すぎて、そこに貯蔵されているアルコールの品位まで格下げしてしまうとでも言いたげだった。
私はこめかみを揉みほぐしたくなる衝動を、必死で抑え込んだ。
どちらも本質的には酒を配給する場所に過ぎないというのに、彼女の唇から出力されると、そこは酒を売る空間ではなく、特権階級たる軍官と貴族だけが触れる資格を有する液体の尊厳を販売する聖域へと変貌するのだから、恐れ入る。
真紀は表情の分子構造すら動かさず、その高貴な訂正のラインに沿って言葉を継いだ。
「——高級士官クラブ(オフィサーズ・サロン)の開放は、毎日夜二十時から翌午前三時までとするわ」
その漆黒の視線が全体を静かに走査する。一瞥するだけで、全生徒のなかに潜む「酒飲みの魂」を網羅して出席確認するかのような、無言の圧力があった。
「翌日にブリッジ当直のタスクを控えている者の飲酒は一却下するわ。その他の配置に関しては、各部局の責任者の裁量において、自己規律すること」
私はこの隙を利用して、さりげなく周囲の役員を観察した。
蘭はどこまでも静寂を保ち、ロイは手元のマテリアルを見つめ、その表情は星域法規の改訂に関する重大な最高評議会でも読解しているかのように厳粛だった。ジェスは唇を不自然に引き結び、誰かが最初に防波堤を崩せば即座に爆笑する構えを崩さない。そして、私はといえば——。
当然、極めて厳粛だった。
厳粛に、真紀が最初から「温泉」に関して一言も言及していない事実に、気づかない風を装っていた。
私たち艦橋の古参数名は、極めて呼吸の合った連携で互いに一瞬だけ視線を交錯させ、即座にそれぞれの座標へと視線を逸らした。
床の鉄板を凝視する者は床を凝視した。
蛍光灯のルクスを研究する者は蛍光灯を研究した。
どこにも視線のエスケープ・ルートがない者は、手元の紙葉の繊維の質感に、突如として深い学術的興味を覚えたフリをした。
誰も、その口を開かない。
なぜなら、ある種の機密は、公式のログに記録される必要がないからだ。
特に、その歴史に「酒」と「湯気」、そして風紀委員長がその場に居合わせればショック死しかねない凄惨な光景が混在している場合は、なおさら。
真紀は、私たちのこの絶妙かつ不穏な沈黙を完全に不可視としたまま、次の条項へと進んだ。
「風紀委員会は……高級士官クラブの周辺を重点監視区域に指定してちょうだい」
「酒」という単語の手前で彼女は半拍止まり、帝國宮廷式の高尚な命名法と遊ぶのに飽きたのか、最終的に総括責任者としての義務感から、正式なセクター名称を補填した。
彼女の視線が二階堂を射抜く。
「風紀委員のシフトおよび休憩時間に関しては、すべてあなたの裁量に一任するわ。学生会はそこには一切干渉しない」
二階堂は厳かに頷いた。その貌はミリ単位でも揺るがない。
その冷徹な立ち振る舞いは、「規律とは愛である」というディストピアの恐怖宣伝ポスター(プロパガンダ)に採用するのに、これ以上ない適性を誇っていた。
しかし、彼女がこれから管轄する「地獄の業務内容」を逆算すると、私は当番を務めることになる哀れな風紀委員たちに、三秒間の黙祷を捧げずにはいられなかった。
不憫極まりない。
他の全員が劫後余生の余韻に浸り、人工ビーチで四肢を伸ばす準備を進めているというのに、彼女たちは劫後余生の余韻の中で、高級士官クラブの門前に立ち、泥酔した獣どもを取り締まる戦闘配置に就くのだから。
青春という配給財は、どこまでも不平等だ。
真紀はバインダーの最後のページをめくった。
「最後に、一点だけ」
彼女は言った。
「すべての解放は明朝を以て正式に開始されるわ。各クラスの代表は、己のセクターを厳格に管理し、風紀委員会の負担を増大させないこと」
聞き終えた瞬間、私は脳内で極めて冷徹な毒舌を一つ吐き捨てた。
それは、お題目としては立派だが、実現可能性は皆無だ。
たった今しがた地獄の門前から生還し、その脳内に生存の狂熱、過剰な興奮、隠しきれない疲弊、そして「今日死にかけたんだから、もう誰にも私を止められない」という全能感がごちゃ混ぜにブレンドされている三百人の凶暴な学生どもが、大人しく飼い慣らされるわけがない。そんなものが本当に機能するなら、風紀委員会などハナから不要だ。せいぜい啓發ポスター数枚と自動給水機一台でも置いておけば統治できる。
しかし、評議の秩序として、このような形骸化した文言であっても厳粛に出力しなければならない。
人類文明の多くの領域は、「誰も完全には順守しない」と知りながらも、真剣にそのコードを口にし続けるという欺瞞によって、表層の品位を辛うじて維持しているのだから。
「——以上よ」
真紀はバインダーを閉じ、私へと視線を向けた。
その漆黒の双眸は、どこまでも穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に背筋が寒くなるほどに。
「副会長、何か補足はあるかしら?」
私は、一瞬だけ硬直した。
正直に告白すれば、これは彼女の「明確な悪意」だ。
彼女はすべてを熟知しているはずだ。重要事項をすべて開示し、レギュレーションを策定し、酒とモラルの境界線まで引き終えたこの完璧な盤面で、わざわざこの私にマイクを振れば、大抵の場合、キャンパスの安全基準を大幅に逸脱した劇物が排出されるということを。
しかし、全空間の視線が私へと収束している。
ヘートヴィヒの好奇の視線も。
蘭の冷ややかな視線も。
ロイの生真面目な視線も。
そしてジェスの、「後で私がいじり倒せるような、最高のネタ(爆弾)を投下しなさい」と言わんばかりの期待の眼差しも。
よろしい、結構。
そこまで期待されているのであれば、その期待に相応の対価で応えるのが副艦長の職責というものだ。
私は喉の奥を小さく鳴らし、教壇の一歩前へと進み出た。
「では、私から数点、実務的な補足を行う」
評議室の空間が、水を打ったように静まり返る。
私は台下の、未だ劫後余生の混沌が澱んでいる貌たちを見渡し、まずは公式の広報誌に掲載されてもおかしくないほどの、厳粛な「鉄面皮」を構築してみせた。
「まず第一に。今日の戦闘において、諸君らの果たした職責と奮闘は、極めて見事なものだったと評価する」
あまりにも退屈な出だしだ。
退屈すぎて、スピーカーである私自身が深い睡眠に落ちそうになるほどに。
しかし、このような「場を収めるための方便」が千年以上もの間、人類の歴史で消費され続けているのは、それがどれほど陳腐であろうとも、確実に精神の安定剤として機能するからだ。特に、帝國の主砲射程から生還した直後の三百人に対しては、正面からその労をねぎらう言刃が、一時的に必要不可欠となる。
「今日、この空間に座す全員が、純然たる『幸運』のみで生還したわけではない。艦橋、機関室、通信セクター、損害管制、そして各クラスの臨機応変な防衛対応。全員がそれぞれのパズルのピースを死守したからこそ、この生還のルートは維持された。それは紛れもない事実だ」
台下において、何人かのクラス代表がわずかに胸を張り、背筋を伸ばした。
よろしい、このセクション(前振り)は正確に彼らの脳細胞へ着弾したようだ。
「だからこそ、これから艦内施設を開放し、諸君らに最大限の休息を保障することは、当然の権利であると言える。学生会長が公約した以上、それは単なる『施し』ではなく、死線を超えた全員が正当に受領すべき、勝利の報酬だ」
私は意図的に、半拍のディレイを入れた。
このフレーズの残響を、評議室の空間にあと半秒だけ滞留させるために。
このような極限状態において、人間の精神は極めて脆く、感動しやすい。全員が今日という日に摩耗し、驚愕し、その心の防壁が普段よりも柔らかくなっている。聲音のトーンをわずかに低く落ち着かせるだけで、平時であれば「真面目すぎて反吐が出る」と一蹴されるような青臭い言葉も、今は絶対的な質量を伴って彼らの胸を打つ。
ゆえに、私はもう一層、冷酷な罠を重ねる。
「——しかし。受領すべき正当な報酬は、諸君らが獣のように『傍若無人に振る舞っていい理由』には、断じてなり得ない」
台下において、先ほどまで歓喜に浮かび上がりそうだった貌たちが、一瞬で引き締まった。
よろしい。
外科手術用のメス(刃)は、完璧に研ぎ澄まされた。
「酒を煽りたい者は、翌日のシフトに己の名が登録されていないかを先に行政確認しなさい。施設を私的利用したい者は、自分が自力で直立し、真っ直ぐ自室へ帰還できる状態であるかを脳内で演算しなさい。生還を祝したい気持ちは理解できるが、せめて連邦士官学校の二年生としての、最低限の体裁くらいは維持していただきたい。風紀委員会が翌朝、担架と始末書を携えて、通路に転がる諸君らの残骸を回収(収容)して回るような醜態だけは、断じて避けてもらいたいものだね」
このフレーズがスピーカーから出力されると、台下からいくつかの押し殺した失笑が漏れ聞こえた。
先ほどまで最も強張った表情をしていたクラス代表の数名も、その口元を歪めている。
——これで十分だ。ラインは完璧に見定めた。
そこで、私は深く、肺の腑に空気を満たし、本日の臨時評議会が後日、艦内ネットワークの噂話の絶対的な核心になることが確実な「一擊」を、キャンパスの公式な秩序と健全なる善良の風俗を心から憂慮する、哀れな副会長の鉄面皮を崩さずに言い放った。
「それから、各自、己の担当セクターに帰還後、この一条を全生徒へ周知徹底させるように」
全体を冷徹に見渡し、その声音はどこまでも誠実で、非の打ちどころのない純度を誇っていた。
「——公の空間において、破廉恥な行為(H)に興じることは厳禁とする。風紀委員会の業務をこれ以上、不条理に増大させるな」
——次の、刹那。
ジェスが、手元にあったミネラルウォーターを盛大に噴射した。
極めて潔く。
極めて、鮮烈な放物線を描いて。
彼女の食道が脳細胞と緊急ネゴシエーションを行う間もなく、私のその一言に対する最も誠実かつ本能的な評価を肉体が先に出力してしまった――そんな、見事な噴射っぷりだった。
「ごふっ、げほっ……ちょっと、何それ!? なに言ってるのあんた!!」
彼女は激しく噎せ返りながら口元を抑え、その肩をシートから滑り落ちんばかりの勢いで激しく震わせていた。
評議室の空間は、まず一秒間、完全な真空へと陥った。
しかるのち、誰かが高圧の笑い弾を、密集した人間たちのド真ん中へと直接投げ込んだかのように、連鎖的な崩壊が始まった。
前列の数名は、唇を死んでも噛み締め、その肉体の震えを制御しようと必死だ。
後方の席では、誰かが悲鳴めいた声を抑えるために急いで顔面をバインダーに埋めた。別のクラス代表が笑いを堪えきれずに「ぶふっ」と極めて不体裁な音響を出力し、慌てて偽装の咳払いを連打し始めている。
ロイは握りしめた拳を口元に当て、その耳の根が、肉眼で明瞭に判別できるほどの鮮血の赤へと染まっていた。蘭は完全に顔を背け、その華奢な肩を先ほどよりも明らかに激しく痙攣させており、総務長としての端正なる佇まいを維持することを、ハナから完全放棄した様子だった。
そして、渦中の二階堂は——。
ゆっくりと顔を上げ、私を凝視していた。その白皙の貌には、彼女の歴史において極めて稀有な、未知の表情が浮かび上がっていた。
怒気ではない。
嫌悪でもない。
彼女が常に常備している「今すぐ反省文を三千字書きなさい」という、制裁の執行猶予を告げる表情ですらない。
それはどう見ても——。
(——本当に、言いおったわね、この悪魔)
という、言葉にならない驚愕と戦慄の眼差しだった。
私と彼女の視線が完全同調した瞬間、私は笑みの防波堤を決壊させそうになるのを、超人的な意志でかろうじて踏みとどまらせた。
なぜなら、彼女のその表情があまりにも稀少価値に満ちていたからだ。
希少すぎて、今日のこの不愉快な書類仕事をこなした対価は、この一幕を鑑賞できただけで完全にお釣りが来ると確信したほどだ。
真紀は主席のシートに座したまま、細く美しい指先で、デスクの天板をコツンと一度だけ叩いた。
音響は微小。
しかし、空間全体に拡大しつつあった集団的な精神崩壊を、ジャスト理性の閾値の範疇へと押し戻すには、それだけで必要にして十分だった。
彼女は、すぐには次のコードを出力しなかった。
ただ、静寂の中で、私をじっと見つめていた。
その漆黑の瞳が雄弁に語っていたログは、おそらく——。
(——副会長、やはり、そのカードをここで切ったわね)
という、冷徹な諦念を孕んだ非難。
しかし、私はどこまでも無実だ。
なぜなら、私が提示したのは、今後の艦内統治における、極めて実務的かつ具体的な風紀上の懸念に過ぎないのだから。
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