220.九死に一生 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
艦体が一度、ぐらりと揺れた。
それほど大きな衝撃ではなかった。だが、胃の奥で超弩級戦艦〈ホーエンツォレルン〉の主砲影に圧し潰されていた緊張が、どっと下へと落ちるには十分すぎる一揺れだった。一秒前まで、艦橋は見えない巨大な手に圧搾され、死んでも放すまいと握りしめられていた。次の瞬間、空間を歪めていた超空間跳躍の圧力がふっと緩む。まるで、限界まで張り詰められた鋼索が、ついに断裂したかのように。
どうやら跳躍は成功したらしい。
「らしい」などという曖昧な表現を選んだのは、艦ごと、魂ごとワームホールの狭間に叩き込まれた直後、己がまだ完全に生者であるという確信を抱くのに、一瞬の躊躇いを覚えたからだ。
しかし、真紀にそのような感傷は皆無だった。
呼吸の律動すら乱さず、即座に命令を紡ぎ始める。
「ジェス、全艦の損傷チェック(ダメージコントロール)。微細な亀裂も見落とさないで」
「蘭、周辺警戒を継続。パッシブ・センサーに反応があれば即報告」
「アカリ、直ちに全天スキャン」
「ロイ、天体航法システム(コスモ・ナビゲーション)で本艦の現在位置を割り出して」
四つの布告が、四本の鋼釘となって、ワームホールを抜けた直後に霧散しかけていた艦橋の秩序を、瞬時に打ち直した。
戦術コンソールに深く腰掛けたまま、思わず横目で真紀を盗み見る。
肌の色は変わらず、息も乱れていない。その口調は、たった今帝国要塞の主砲射程圏から命からがら逃れてきた者のそれではなく、生徒会の会議室を第一から第二へ変更した程度の淡々としたものだった。
この女は、神経が人より太いのか。それとも、意志の結晶が硬すぎるのか。
いや、おそらくは両方だ。それはそれで、背筋が寒くなる。
「艦長、現在位置はおおぐま座外縁宙域と思われます」
ロイが素早く応じた。コンソールに指を走らせ、星図の上に今しがた命がけで穿った脱出ルートの最終確認を入れている。
「首都星系までは未だ距離がありますが、連邦の絶対勢力圏に滑り込んだのは確実です」
その一言が艦橋に落ちた瞬間、空気が劇的に変質した。
歓声は上がらない。
大げさに泣き崩れる者もいない。
ただ、極めて静謐で、極めて実利的な弛緩が伝染していく。全員が同時に、喉元に詰まっていた塊を呑み込み、「ああ、生きている人間はこうして普通に呼吸するのだ」という事実を、思い出したかのように。
私もまた、前方の戦術ホログラムに視線を落とす。
連邦識別の航路マーカーが、何事もなかったかのように明滅していた。背景はもう、あの〈ホーエンツォレルン〉が支配する、胃の焼けるような死の宙域ではない。
本音を言えば、その場でコンソールに突っ伏し、二十時間は泥のように眠りたかった。
だが、真紀はまだ眠っていない。
ならば、この〈アスガルド〉もまた、目を開けていなければならなかった。
「艦体に深刻なエラーなし」
ジェスの報告が先陣を切る。損害管制システムの全艦検修ステータスを眺めるその口調は、学園祭の後で折り畳み椅子でも数えているかのように軽妙だった。
「緊急跳躍の衝撃で何かを掴み損ねた、運の悪い連中が何人か床で転がっていること以外はね」
私の目が、わずかに細められる。
このシニカルな表現は、実にジェスらしかった。
温厚さの中に一滴の毒を混ぜ、その毒の中にすら最低限の人道主義を残す。要するに『死者はゼロ。あとは医務室がバラバラになった骨をパズルのように組み直すだけだ』という意味だ。
「周辺宙域に艦艇なし。民間船の影すら確認できません」
アカリが言葉を重ねる。視線は未だスキャンデータに張り付いたままだ。数百万キロメートル圏内の不審な宇宙塵を、一粒残らず光にかざして検視するつもりに違いない。
「艦長、こちらは民間周波数の信号を傍受しています」
蘭がそう言いながら、受信した音声をブリッジに開放した。
直後、艦橋を満たした音声の群れに、私は自分が跳躍の座標を誤り、どこか過剰に平和な並行宇宙へ迷い込んだのではないかと、本気で疑いかけた。
一つ目は、経済ニュースのキャスターが、残酷なほどに落ち着き払った声で読み上げる速報。
『本日の星間株価指数は今期最安値を更新しました。デュナン財政委員長は、市民は短期的な変動に過度な懸念を抱く必要はないと述べています。また、星間輸送、レアアース採掘、高軌道農業の三セクターについては、引き続き長期的な投資価値が存在するとのことです』
二つ目は、朝の料理番組のホストが、宇宙が明日にも目玉焼きの火加減一つで滅亡するかのような真剣さで叫ぶ声。
『おかえりなさい、〈モーニング・キッチン〉へ! 本日は、重力〇・三Gの居住環境でも、外はカリッと中はフワフワ、天井にフライハイしない「連邦産バターパンケーキ」の製法をご紹介します!』
三つ目は、宇宙交通情報チャンネルが、腹の底から声を張り上げる警告。
『カプラ航路を往来する民間貨物船各艦に入電。第十一デブリ帯の東側において高密度の微小流星群が発生中。Bー7回避航路へのデツアーを推奨します。繰り返します、保険会社の堪忍袋の緒で、ご自身の命をテストするのはおやめください』
四つ目は、さらに輪をかけて突き抜けていた。
涙声の老婦人による、公開迷い猫捜索の放送だ。
『灰白色で、左耳の先端が欠けており、「バター」という名に反応する家猫を見かけた方は、こぐま座第三コロニーリングのメリッサ夫人まで至急ご連絡ください。噛みつきはしません。ただ、少々人間を見下す悪癖があります。どうか、よろしくお願いいたします』
艦橋が、一秒間、完全に凍りついた。
アカリの指先さえ、半拍ほど停止したように見えた。
五つ目は、地方商店街の熱烈すぎるプロモーション。
『〈銀弧商店街〉、一周年記念メガセール開催中! 今週、家庭用エアコン、子供用学習端末、対放射線遮光カーテンをお買い上げの方、五万クレジット以上で二千キャッシュバック、十万以上でさらに限定マスコット付き保温ボトルをプレゼント! 人生はハード、でもセールはイージー!』
ノイズと共に放送が途切れると、艦橋に奇妙な沈黙が満ちた。
私はコンソールの前に座したまま、極めて非現実的な眩暈に包まれていた。
ほんの十分前だ。私たちは帝国最凶と謳われる要塞の主砲射程のキワから這い出し、背後から重力崩壊弾に追われ、前方の超空間に無理やり風穴をこじ開けた。半秒でも遅れれば、歴史教科書の挿絵に変わっていたはずだった。
それが今、この連邦では株価、バターパンケーキ、迷子の猫、そして保温ボトルの話をしている。
文明の断絶というやつは、時として喜劇的なほどに残酷だ。
最前線では命をチップにして明日を買い取る。
だが、その買い取られた明日の側では、朝食のトーストに蜂蜜を足すか否かで苦悩しているのだ。
しかし、どうしてだろう。この荒唐無稽なギャップのおかげで、私は初めて血の通った実感を抱いた。
ああ——戻ってきたのだ、と。
真紀もまた、その音声の意味を咀嚼したようだった。
あからさまに破顔することはなかったが、形の良い唇の端がごく微かに揺れる。
「結構」
彼女は私に視線を向けた。
「警報を解除して。それから、全クラスの代表を召集してくれる?」
私はまだ「噛みつきはしません。ただ、少々人間を見下す悪癖があります」の余韻に取り残されており、応対が半拍遅れた。
「……え?」
その間抜けな一音を発した瞬間、激しく後悔した。
真紀の視線が、私を射抜く。
怒気はない。だが、それだけに『副艦長、魂を肉体に追いつかせなさい』という無言の圧力を孕んだ眼差しだった。
私はわざとらしく、乾いた咳払いを一つ落とした。
「何をするつもりだ?」
「臨時学年代表会を開くの」
彼女は至極当然のように言い放った。帝国要塞のキルゾーンから生還した直後、まず着手すべきは「会議」であり、食事でも、シャワーでも、睡眠でも、あるいはせめて十分間ぼんやりと椅子に座ることですらない、と言いたげな口ぶりで。
そして、さらに一言を厳かに付け加えた。
「羽を伸ばす前に、いくつか釘を刺しておかなければならないことがあるわ」
私は彼女を見つめ、その鉄の合理性に感服すべきか、あるいはこれから召集される全生徒のために黙祷を捧げるべきか、しばらく懊悩した。
さすがは真紀だ。
羽を伸ばすという行為にすら、彼女の厳密なレギュレーションが必要らしい。
他の人間が口にすれば冗談に聞こえる。
だが、彼女が告げれば、全艦の電光掲示板に正式布告されてもおかしくない統治原則へと昇華されるのだ。
『本艦が敵地を脱出した後の限定的休暇と規律維持に関する暫定管理規則』。
条文の末尾には、きっとこんな注記が躍るに違いない。
——第一条、歓声を上げながら艙内の固定クランプを取り外す行為を厳禁とする。
——第二条、「生存」を理由として艦橋をダンスフロアに改造する申請は一却下する。
——第三条、ジェス・マッカロウは「打ち上げ」の名目で実質的な暴動を組織してはならない。
そこまで思考を遊ばせて、吹き出しそうになった。
視線を斜め前方にやると、ジェスはすでに「また私がピンポイントで狙い撃ちされているのでは」という顔をして、不服そうに腕を組んでいた。
口は開かない。
だが、その表情はすでに長文の抗議書を書き終えていた。
笑いを噛み殺しながら、全艦警報解除のシーケンスを引き出し、承認キーを叩く。
赤色の警報灯が区画ごとに融けて消え、艦橋を『いつ宇宙の塵になってもおかしくない』という極限状態に縛り付けていた血の色が、ゆっくりと退行していく。代わりに、穏やかな通常照明が蘇った。この頑強な軍艦がようやく、『随時、宇宙の残骸に変わる準備』から、『まだ問題は山積みだが、とりあえず今すぐ死ななくていい』モードへの移行を、自らに許可したかのように。
内部通信のハンドセットを手に取る。
「全艦に告ぐ。赤色警報解除。各クラスの代表は十分以内に第一会議室に集合せよ。繰り返す、各クラス代表は十分以内に第一会議室へ」
そこでわずかに間を置き、私自身、この歪んだ環境に毒されつつある自覚を抱きながら、付け加えた。
「なお、これは公式通達である。生ぬるい提案でも、可愛いお知らせでもない」
最初に吹き出したのはジェスだった。
蘭は顔を背け、肩を小さく震わせている。ロイは航海長としての威厳を死守しようと必死だったが、歪む口元までは統制しきれなかった。ヘートヴィヒでさえ片眉を跳ね上げ、連邦士官学校のこの「軍紀と悪ふざけの狭間を行く」特異な統治スタイルに、再び文化人類学的な興味を覚えたような表情を浮かべていた。
真紀が私を見た。
笑みはない。
だが、その切れ上がった瞳の奥を、ごく薄い、ほとんど慈愛に近い光が掠めていった。
一瞬だった。
錯覚と切り捨てられるほどに刹那の残光。
だからこそ、余計に胸を突いた。
まったく。
この女は、ブリッジで無機質に四つの救命命令を完璧にこなしたかと思えば、即座に臨時学年代表会を召集し、そしてたった一瞥だけで、さっきの私の余計な軽口を「それほど馬鹿げたものでもなかった」と錯覚させてくる。
ハンドセットをホルダーに戻し、シートに深く座り直した。
ホログラムに投影されたおおぐま座外縁の星図が、静かに明滅している。〈アスガルド〉の艦体ステータスはオールグリーン。外部宙域クリア。敵影なし。全艦の命が、ようやく帝国の銃口から、自分たちの領域へと軟着陸した。
だが、これが終わりではないことなど、痛いほど分かっている。
むしろ逆だ。
真の戦い(日常)が始まるのだ。
真紀が「釘を刺しておく」と言い放った以上、これから必ず誰かが、彼女の極めて冷徹かつ整然としたやり方で椅子に固定され、秩序と責任の意味、そして「さっきまで学年全体が追悼名簿に載りかけていた」という冷厳な現実を再インストールされる。
それなのに、不思議と。
その光景を想像すると、わずかに胸が躍るのを感じていた。
きっとそれは、冷酷な軍艦のようでもあり、傲慢な生徒会のようでもあり、時に精神科の臨床現場のようでもある、この不条理な宇宙船が——本当の意味で、私たちの居場所に見えてくる瞬間だからだ。
*
戦術席の一時代理を当直要員に委ねてから、整理したばかりの会議資料を抱え、艦橋から下層の会議区画へと向かった。
最初の角を折れた瞬間、この〈アスガルド〉において最も標準的な光景が視界に飛び込んできた。
疲弊し、満身創痍でありながら、口だけは一秒たりとも休ませない人間たちの群れ。
「ですから言ったんです。緊急跳躍の前には必ず固定クランプを掴んでください、と」
蘭が通路の隔壁に背を預け、片手に情報端末、もう片方の手をこめかみに添えながら、災害後の補習教材でも執筆しているかのような淡々とした口調で言っていた。
「警報を環境音楽と勘違いした手合いは、最終的に後頭部で床に熱烈なご挨拶をすることになるんです」
隣に立つロイの肩には、未だ払いきれていない灰色の擦過痕が残っている。彼は即座に不服を申し立てた。
「その表現は科学的に不正確だ。私は床に口づけしたのではない。慣性によって、重力の必要性を極めて悪意ある手法で説得されただけだ」
私は足を止め、ロイのその頑なな横顔を見つめた。
「翻訳すると、派手に転んだ、でしょ」
「副艦長、最後に残された私の体裁を破壊しないでいただきたい」
「そんなもの、最初から持ち合わせていたの?」
極めて誠実なトーンで問いかけてみる。
ロイはその場で言葉に詰まり、蘭は顔を背けた。形の良い唇が微かに震える。彼女のような人間が笑みを漏らすのは、表情の残高を惜しんでいるかのようにいつも控えめだが、今日これだけ動いたのは、連邦の平和に対するかなり積極的な支持表明と言えた。
「三人とも、そのくらいにしたら?」
対向から歩を進めてきたのはジェスだった。損害管制の検修端末を指先で弄ぶその足取りは、たった今死線から生還した者のそれではなく、学園祭の模擬店を冷やかしにいくかのように軽快だ。
彼女はまず、ロイを一瞥した。
「あなたはまだマシな方よ。格納庫のほうでは、後輩が一人、消火器を抱きしめたまま文字通り転がり出てきたんだから。そのフォームの完成度たるや、未来を夢見る一個のボウリング球のようだったわ」
「……それは慰めになっていない」
ロイが無表情に、しかし確実に傷ついた声で応じる。
「統計学的な慈悲よ」
ジェスは彼の肩をポンと叩いた。
「自分より凄惨な奴がいると知るだけで、人間の精神は劇的に回復するの」
「それはあなたの基準でしょう」
蘭が冷徹に、容赦のない追撃を放つ。
「一般人は他人の不幸で精神の恒常性を維持したりしません」
「だからこそ、私はこの艦の代替不可能な雰囲気担当なのよ」
ジェスは堂々と、誇らしげに顎を上げた。その表情は、『アスガルドから私という因子を排除したら、トラブルは三割減るけれど、娯楽は七割消滅する』というプロフェッショナルな自負に満ち満ちていた。
彼女の横顔を見ながら、この歪な宇宙船がここまで境界線を越えずに生き延びてこられたのは、真紀の指揮、ロイの操艦、蘭の通信、アカリの警戒に加えて、ジェスのような「不純物」が必要不可欠だったからかもしれない、と私は愚考する。
彼女が真っ当だからではない。
徹底的に、真っ当ではないからだ。
全員の精神が破断寸前まで張り詰められた時、誰かがそのペグを緩める役割を担わなければ、人間は容易に内側から瓦解する。その観点において、彼女は損害管制官ではない。
艦内の「精神的損害管制官」だ。
その修理の手口は、大抵の場合、一発殴り飛ばしたくなるものだが。
「ところで、シモ」
距離を詰めてきたジェスが、私の腕に抱えられた書類の山に視線を落とし、その目を狡猾に細めた。あの笑みだ。あの表情が浮かんだ時は、例外なく碌でもない台詞が脳内で編まれているサインだった。
「今のあんた、凄惨な一戦を終えて、その足で模範生表彰式に向かう優等生にしか見えないわよ」
己の身なりを一瞥する。
制服の襟元はまだ整っている部類だが、髪の毛は乱れ、双眸の奥には隠しきれない疲弊が澱んでいる。それでも両腕には学年代表会の資料を山ほど抱え、世界の終末を前にしても「書類仕事だけは先に片付けよう」と狂奔する役人にしか見えない。
「この船のシステムが、ハナから狂っているのよ」
私は溜息混じりに告げた。
「あなたたちは症状が表層に出るタイプで、私は制度的に病んでいるタイプ。それだけの差異よ」
蘭が、ついに明確な笑い声を漏らした。
ごく短い、吐息のような一音だったが、彼女は確実に笑った。
ロイもまた低く息を吐き出し、航海長としての厳格なモードから、学年代表会の一列席メンバーとしての諦念へとモードを切り替えたようだった。
「正直、未だに現実感がありません」
彼は首の後ろを自嘲気密に揉みほぐしながら言った。
「三十分前まで帝国要塞のキルゾーンを這い回っていたというのに、これから会議ですか」
「それこそが学生の特権にして呪いでしょ」
ジェスが肩をすくめる。
「災厄の直後には、必ず反省会という名の査問がセットになっているのよ」
「どうしてそこまで悲観的なの?」
「大抵の場合、私の予言は的中するからよ」
その時、前方の通路の闇から、足音が響いてきた。
急ぎもせず、乱れもせず、正確なメトロノームのように等間隔で床を叩く硬質な音。
私たちの言葉が、半拍、同時に消失した。
真紀が歩いてくる。
手にはバインダーを抱え、制服のボタンはミリ単位の狂いもなく留められ、その貌からは何の感情も読み取れない。だが、極めて注意深く観察すれば、その漆黒の瞳の奥に、薄氷のような疲労が張り付いているのが分かった。ただ、彼女の持つあの過剰なまでの克己心が、それを表層へと許していないだけだ。
この女は、時折、極めて高性能な構造材料を連想させる。
表面に亀裂が見えないからといって、内部が圧力を受けていないわけではないのだ。
ただ、他者にそれを観測させる意志が、彼女には皆無なだけだ。
彼女の冷徹な視線が、私たち数人を順に走査していく。
一秒。
二秒。
そして、ロイの肩の擦過痕と、ジェスの「まだ一暴れ足りない」と言いたげな表情の上で、ピタリと停止した。
「まだ、雑談に興じるリソースが残っているようで結構ね」
音量は上げなかった。むしろ穏やかとすら表現できる声音。
しかし、どうしてだろう。通路全体の空気が、瞬時に直立不動を強いるほどの低温へと凍りついた。
ジェスが真っ先に挙手する。
「報告があります!」
「却下」
「了解。今、脳内から消滅しました」
ロイは不自然に顔を背け、その肩を不審に震わせている。蘭は素早く情報端末へと視線を落とし、何か極めて重要な民間信号のノイズを解析している風を装った。私は——。
資料を胸に抱き直したまま、副艦長として「信頼に足る鉄面皮」の範疇に表情を留めるべく、全神経を集中させた。
真紀は私たちを見回し、それ以上の追及はせず、ただ簡潔なコードを告げる。
「ロイ、未だ席に着いていない者に、一秒でも遅れれば相応の処置をと伝達して。蘭、会議室のレコーダーと内部投影ホログラムの同調を確認。ジェス、医務室へ行く用事がないのなら、その『今すぐ規律を犯したい』という顔を更生させなさい」
「そんなにパブリックに露出してます?」
「極めて明瞭よ」
「理不尽だわ」
「評価ではなく、純然たる観測結果よ」
吹き出しそうになるのを、必死で堪えた。
ジェスは学術的な敗北を喫したような顔をしながらも、殊勝に口を閉ざした。三秒の猶予で、彼女を「煽り手」から「従順な羊」へと切り替えさせられる人間は、この〈アスガルド〉広しといえど、真紀をおいて他に存在しない。
数人がそれぞれの配置へと散っていくと、通路は静寂を取り戻した。
音が消失したわけではない。集団のノイズが一時的に退き、艦内の環境音と、遠くの足音、そして——私たちの間に横たわる、言葉にならない残響だけが残されたのだ。
真紀が、私へと一歩歩み寄る。
「資料、半分貸しなさい」
「問題ない。持てる」
彼女の目が、私を捉えた。
その眼差しが、私は少しだけ苦手だった。
怒気もなく、冷徹でもない。
ただ、あまりにも正確すぎるのだ。
問いかけるまでもなく、今の私が純粋な気力と「副艦長としての見栄」だけで骨組みを支えていることを、すべて見透かしているかのような瞳。
「持てるのは知っているわ」
彼女は拒絶を許さない所作で手を差し伸べた。その口調は、どこまでも事務的だった。
「けれど、正式な評議の前に、私の副艦長に倒れられるのは不条理だわ」
二秒ほどの沈黙の後、私は抱えていた資料の正確に半分を、彼女の手に委ねた。
引き渡す瞬間、互いの指先が、かすかに接触する。
ごく短い、刹那の接触。
静電気の火花すら散らないほどの短さ。
それなのに、その瞬間に、私はワームホールの中で見た狂った光の奔流を思い出した。〈ホーエンツォレルン〉の主砲射程内、息を吸うことすら罪悪に思えるほどの圧力の中にいた事実を思い出した。彼女が艦長席に座し、半秒の遅滞が全員の死を意味すると知りながら、冷徹に、一つずつ命令を紡いでいたあの光景が、フラッシュバックする。
その記憶のせいで、あの些細な接触が、どうしようもなく重くなりすぎてしまった。
私は喉の奥を小さく鳴らし、意識を現実へと引き戻す。
「……あなただって、大差ないでしょう」
「私は未だ、直立しているわ」
「説得力は皆無だけどね」
「けれど、実用的よ」
彼女は平然と、至極当然のように言い放った。
真紀という人間の最も狡猾な部分は、ここにあると私は思う。明らかに他者を慮っている(気にかけている)というのに、それを口にする時は、艦内設備の動作確認を行っているかのように響かせるのだ。おかげで、こちらが「ありがとう」という当然の返答を試みようとすると、妙に気恥ずかしさが先立ってしまう。
彼女は受け取った資料へ視線を落としたまま、再び静かに問いかけた。
「……まだ、持ちそう?」
短い。
淡い。
ただの例行確認にしか聞こえない声音。
しかし、彼女が他の誰にも、これと同じ問いを投げかけていないことを、私は知っていた。
この問いに正直に答えすぎれば、私は会議の前に強制的な休養を命じられ、彼女はたった一人で、あの血気盛んなクラス代表どもを相手にすることになる。それこそが「学生会長」の絶対的な威厳なのかもしれないが、私はその場から、自分の椅子を引きたくはなかった。
だから、私は虚勢と本音の、ちょうど中間にあるデッドラインの言葉を選んだ。
「会議が明朝まで遅延しなければ、生存を維持することは可能だと思う」
真紀の口元が、ごく微かに動いた。
笑み、と形容するにはあまりにも微細な変化。
秩序と責任という強固な外殻の隙間から、彼女が自身に許した、ほんの一滴の「人間性」が漏れ出たかのような、そんな動きだった。
「……それで十分よ」
彼女は言った。
なぜかは分からない。だが、帝国の領域からずっと胸の奥底に引きずってきた、あの硬い緊張の結び目が、その一言だけで綺麗に解けていくのを感じていた。
論理的ではない。
私は元来、他者の安易な慰めなど何一つ効かない性質なのだ。
それなのに、慰問とも作戦評価とも判別のつかない彼女のその言葉だけが、なぜか、最も深く私に作用する。
前方、第一会議室の自動ドア(エアロック)に、スタンバイを示す緑色のインジケータが灯っていた。
中にはもうすぐ、各クラスの代表、幹部、そして精神のどこかを損耗した学生たちが集結する。これから始まるのは、検討、説明、レギュレーションの再構築、警告。そして、真紀が最も牙を剥く「怒っているのではなく、次回、本当に彼らの名前を追悼名簿に載せないために施す」冷徹なガバナンスだ。
ドアの前に残されたのは、私たち二人だけだった。
私は残された半分の資料を抱え直しながら、視線を横へと向けた。
「学生会長」
「何?」
「今からあの部屋に入る連中が、少しだけ不憫になってきた」
彼女は開錠のセキュリティ・キーを押した。
その声はどこまでも平坦で、残酷なほどに淡かった。
「……それは、彼らにまだ『不憫』と呼ばれるだけの余力がある、という証拠よ」
ロック解除の、硬質な電子音が通路に響いた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




