219.無音潜航 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「ロイ」
真紀の声が艦橋に響いた時、空気の一つ一つの分子までが弦の上に並べられているように感じられた。
「パイク宙域まで、あとどれくらい?」
ロイの手は操艦輪から離れず、視線は航路、推力曲線、前方空域を行き来していた。答えはほとんど反射のように返ってきた。彼女がこの質問を次に投げてくることを、前から知っていたかのように。
「この航速なら……およそ五分です」
五分。
普段なら、ジェスがちょっとした事件を起こすにも足りない時間だ。だが今の五分は、わざと拷問用に設計された長い廊下にしか見えない。廊下の片方の端にはホーエンツォレルンがあり、もう一方には「生きて辿り着けるかどうかまだ誰も知らない出口」がある。そして、その間の床一面に、「見えないなら全域砲撃」という帝国流の情熱が敷き詰められている。
真紀は即座に命じた。
「トワイライトの射程から外れた瞬間、ワームホール跳躍に入るわよ!」
言い終えると、アカリに向き直る。
「本艦に近づくべきではないものがあったら、真っ先に知らせて」
「了解」
アカリは感測画面から目を離さない。耳を限界まで研ぎ澄まし、全身の毛を逆立てている獣のようだった。ただし普通の獣と違い、彼女が危険を嗅ぎ取った場合、逃げるのは彼女だけではなく、艦全体がその相手をする羽目になる。
最後に、真紀の視線が、わたしのところへ滑ってきた。
その一瞥は短かった。
「ラブレターを書くには足りない」程度には短かったが、背筋を引き締めさせるには十分だった。
「星野。フレアとデコイ・ポッドの準備」
「了解」
即座に戦術台の反制御インターフェースを開く。複数の投射管のステータス表示が立ち上がり、艦尾の放熱パターン、疑似尾焔モジュール、信号ジャミングのパラメータが次々と展開された。確認欄を指でなぞりながら、ふと自分のしていることを俯瞰する。
今やっているのは、本質的には後ろから追ってくる帝国製の凶犬たちにおやつを投げてやるようなものだ。
ただし、犬が餌を噛み損ねれば、ちょっと恥ずかしいですむ。
あの後ろを飛んでいる連中が噛み損ねれば、こちらは骨灰すら要らない。
「残り三分」
ロイの声は金属音のように硬かった。
最後のフレア設定を確定させたところで、アカリの席から甲高い警報音が炸裂する。
アラームが耳を刺す瞬間、頭に浮かんだのは、あまり上品ではない一文だった。
やっぱり、幸運は消耗品だ。
そしてわたしたちは、前半を豪勢に使いすぎた。
「重力弾接近! 三発!」
アカリはほとんど叫んでいた。
三。
実にいやな数だ。
適当にばら撒いているのではない、と理解させるには十分で、こちらが「狙われた」と悟るには多すぎることもない。
「星野!」
真紀の声が鞭のように飛んでくる。
「フレア散布!」
押し返すようにボタンを叩いた。
直後、アスガルドの艦尾から扇状に複数の缶状デコイが放たれた。高熱源、擬似尾流、意図的に「うざったく」調整されたエンジン残留信号。その全てが一瞬で空間にばらまかれる。スクリーン上で、これまで艦の尾流にぴったり張り付いていた三つの危険マーカーが、ほぼ同時に視線を逸らした。血の匂いを嗅いだ鮫が、突然別の餌を見つけて全速力でそちらに向きを変えるように。
軌跡が逸れたのを確認した瞬間、自分がその間、呼吸するのを完全に忘れていたことに気づいた。
「誘導成功!」
報告した時の自分の声が思ったよりも安定していたのは、正直上出来だと思った。さっきの三つの点があと半秒進路を変えるのが遅れていたら、今ごろわたしの存在形式は、かなり抽象的なものになっていただろうから。
「ロイ!」
真紀が振り返る。
ロイの指が操艦盤の上で信じられない速度で踊る。視線は一ミリもぶれない。
「残り一分!」
あと一分だ。
戦術図で見るトワイライトの射程境界は、信じられないほど細い一本の赤線にしか見えない。わたしたちは今、全長数百メートルの鉄の塊を、無理やりその線の外へ引き上げている。その過程で宇宙が得意とすることは、いつだって同じだ――あらゆる精密な計算が、最後の最後で「あとほんの少し」を残して終わることを思い知らせてくる。
真紀は二秒間、黙った。
たった二秒だ。
だが艦橋ではその二秒が、一種の投票に相当した。ニヴルヘイムの霧を維持するか、捨てるか。隠れたままゆっくり滑るか、マントを破り捨てて全速で走るか。
彼女の横顔を見ながら、その二秒間に彼女がすでに、全乗員の命、ホーエンツォレルンの反応速度、駐留艦隊の出撃時間、そしてわたしたちの残り運勢ポイントを一度全部計算し終えているような気がした。
最終的に、彼女は腹を括った。
「ニヴルヘイムの霧を解除」
冷たく、切れ味のある声だった。
「解除と同時に、全速前進。要塞主砲射程から離脱!」
胸がぐっと締まった。
この命令の意味するところは単純だ。
さっき半時間かけて、小泥棒のように身を縮め、息を殺しながら死神の足元を這ってきた。今度はその慎重さを丸ごと引きはがし、立ち上がって踵を返し、出口に向かって全力疾走するということだ。
ユグドラシルのアナウンスが飛ぶ。
「ニヴルヘイムの霧、解除開始……完了。ステルスモード解除済み」
相変わらず感情は一滴も乗っていない。
さすがだ。
このタイミングで平然としていられるのは、機械か、悟りを開いた人間くらいのものだ。
「ロイ!」
「了解!」
ロイは言葉を噛み締めたまま答えた。
「アスガルド、エンジン・フル!」
次の瞬間、艦全体が再び背中を蹴り飛ばされた。
推進炉の出力が跳ね上がり、慣性に背中を押されて前へ飛び出す。床から低く重い振動が伝わり、固定された機器の全てが、微かに共鳴音を立てた。安全ベルトが肩を強く締め付ける。内臓が見えない手に掴まれて後ろへ引かれていくような感覚があった。
さっきまでは綱渡りだった。
今は綱ごと抱えて駆け出す。
ロイの報告と、エンジンの咆哮はほぼ同時だった。
「要塞、反応!」
蘭の声は明らかに震えていた。
「混乱しています。向こうもいきなりわたしたちを視認したみたい……駐留艦隊が出てきます!」
「遅いわ」
真紀は冷たく笑った。
刃の先が氷上を走るような、薄く鋭い笑いだった。
「ビフレスト起動。跳躍警報を出して」
彼女の言葉が終わるのを待たずに、わたしは全艦放送用の受話器を掴んでいた。
「全艦に告ぐ。これより本艦は緊急跳躍を実施する!」
ここまでは、まだ副艦長として許容範囲のセリフだった。
しかし顔を上げ、スクリーンの中でホーエンツォレルンの液体金属の海面が悪夢の覚醒のように波立ち、砲塔とミサイル発射基が次々と頭をもたげるのを見た瞬間、腹の底から理性が吹き飛んだ。
「何でもいいから、掴まって踏ん張れ!」
言い切ったあと、自分で自分の口をふさぎたくなった。
「何でもいいから、掴まって踏ん張れ」。
正式な艦橋通信記録に残ったら、士官学校の教材に「人間味はあるが決して真似してはいけない台詞」として掲載されそうな一文だ。
だが、今は羞恥している場合ではなかった。
ホーエンツォレルンの画面内の動きが、本当に速くなっていたからだ。
普段は液態金属の下に沈んでいる砲塔が、一基また一基とせり上がり、深海の死者が一斉に立ち上がるように顔を出す。ミサイルサイロが開くたびに、整然とした冷光の列が現れる。要塞はもはや静かな死星ではなく、誰かが怒りの電源を一斉に繋いだ巨大な生物にしか見えなかった。このとき、わたしは一片の疑いも抱かなかった。あと少しでも遅れていれば、帝国式の最も正統な方法で、この艦ごと痕跡を消されていただろう。
「ビフレスト設定完了!」
前方の制御席から報告が飛んだ。
「目標、おおぐま座星系!」
真紀が一字一句、命じる。
「ワームホール開け!」
その瞬間、アスガルドの艦首前方の空間が、見えない刃で裂かれた。
炎もなければ、雷鳴もない。
ただ、極度に不自然な歪みだけがあった。平らだった宇宙という布に、誰かが指を突き立て、別の場所へ通じる亀裂を無理やり捻り出したような感覚。ビフレスト模擬発生器がフルパワーで動き出し、前方の星光が引き伸ばされ、中央へ押し込まれ、最後に脈動する光の空洞に収束していく。
それは門というより、こちらを見返す瞳孔に近かった。
「入る」
真紀は叫ばなかった。
二文字だけ。
だが、その二文字でロイはアスガルド全体を穴の中へ叩き込んだ。
艦首がワームホールの入口を切り裂いた瞬間、非常に不愉快な錯覚に襲われた。
誰かに背骨を掴まれ、身体から一寸ほど引きずり出されたような感覚だ。
視界は最初に粉々になった。
艦橋前方の投影は、もはや映像のフレームではない。高速で流れる川に投げ込まれた絵の具のように、あらゆる色が混ざり、伸び、裂け、再び絡み合った。赤い警報灯は血の筋のように滲み、ロイの操艦パネルは捻じれた金属箔のように歪み、視界の端で蘭の通信席は一瞬で十年先のように遠のき、次の瞬間には歯を食いしばる音が耳元で聞こえるほど近付いてくる。
これはあくまで、超距離座標変換に伴う感覚の誤差に過ぎない――とは分かっている。
分かっていても、好きにはなれない。
船体全体が連続的かつ微細な震えに包まれた。巨大な獣が、自分にはふさわしくない場所を歯を食いしばりながら這い進んでいるような震え方だ。耳の中では低い唸りが一面に広がり、世界全体が深い水の中に沈んでいるようだった。呼吸のリズムまでおかしくなり、肺に吸い込んでいるのが空気ではなく、冷たい光の液体であるかのような気がした。
一瞬だけ、本能的に真紀の方を見た。
彼女は、そこにいた。
肩の線は乱れず、掌はしっかりと肘掛けを押さえ、顔は歪んだ光の中でも刃物のように冷たかった。世界全体がひっくり返っているのに、「今は気持ち悪がっている場合じゃない」とでも言いたげな表情だ。
まったく。
こういう時に人を安心させる女は、ずるい。
その考えが頭をよぎったちょうどその時、ワームホール航程全体が、いきなり圧縮された。
引き伸ばされていた光が、一斉に反動で戻る。
誰かが宇宙の通路の途中を乱暴に握り潰したかのように。
次の瞬間。
飛び出した。
艦橋前方の映像が一気に鮮明になり、胸に圧し掛かっていた異様な重さも同時に消えた。肺の中に思い切り空気を吸い込んだら、その勢いで噎せそうになった。
星図はすでに切り替わっていた。
そこに広がっているのは、ホーエンツォレルンの吐き気のするような死の宙域ではなかった。
連邦の宙域だ。
おおぐま座星系だ。
にもかかわらず、わたしは一瞬、すぐに安堵できなかった。
ワームホールを抜けた直後には、いつだって半拍遅れで、「自分はまだ同じ『自分』なのか」、確かめる必要があるからだ。途中で二つ折りにされたり、見知らぬ宇宙に放り出されたりしていないかどうか、確認する時間が。
蘭が最初に声を取り戻した。
「跳躍完了!」
報告の最後には、張り詰めていた何かが弾けるような息遣いが混ざっていた。
ロイは何度も航行図と今いる座標を見比べ、ようやく「本当に、ここまで艦を引きずり出せたのだ」と信じ始めたようだった。
アカリは即座に後方宙域をスキャンし、何か悪夢が一緒に付いてきていないか確認している。
わたしはまだ受話器を握っていて、自分の掌が汗まみれになっていることに、半拍遅れで気づいた。
さっき、あと一秒――いや、半秒でも遅れていたら。
今ごろわたしたちは、ホーエンツォレルンの射撃記録に、ごく短く、同情する余地もない光学残像として記録されていたはずだ。
真紀はようやく、椅子の背にもたれた。
ほんの少し。
弛緩とは言い難い、弦を一ミリだけ戻した程度の動きだった。
そして、静かに言った。
「今日、まだ死ぬ必要はなさそうね」
わたしは、すでに連邦の航路マーカーに置き換えられた星図を見つめながら、このセリフのいかにも彼女らしいことに気づいた。
優しくもない。
ロマンチックでもない。
それでも、どんな空疎な慰めよりも、生きているということに近かった。
そして、ようやくここで、心のどこかで引っかかっていた感想を付け足す余裕ができた。
帝国の主砲、トワイライトという名は美しい。
だが――
今日、先に日の出を見たのは、わたしたちだった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




