219.無音潜航 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「アスガルド、まもなく狭隘回廊地帯に進入します」
アカリの声は大きくはないが、艦橋の空気を一斉に固くさせるには十分だった。
彼女の方へ目をやると、ほとんどレーダー画面に顔を押しつけているのが見えた。誇張ではない。本当に、あの胃もたれする緑一色のスキャンを凝視していた。彼女が瞬きを一つでもしたら、この「どう見てもステルス潜航向きではない」戦艦が、宇宙そのものに見つかってしまうとでも思っているようだった。
「少し肩の力を抜け」と声をかけたい気持ちもあったが、自分の指も戦術台の縁を白くなるほど握りしめていたので、その「思いやり」は誠実に葬った。
艦橋の照明はとうに最低まで落とされている。
ニヴルヘイムの霧が全展開してからのアスガルドは、冷たく理不尽な透明棺に封入されたかのようだ。外部からは見えず、レーダーにも映らない。艦内のクルーは足音一つにも気を遣っている。「静音潜航」という言葉を、雰囲気作りの比喩だと信じている馬鹿はもういないだろう。
文字通りの静音だ。
水を飲み込む音すら遺書の一文のように感じられる。
真紀は艦長席に座り、横顔は暗い艦橋の中で鋭く切り取られていた。誰にも催促せず、無駄口を一言も挟まず、ただ前方の投影と各席からの報告を見つめていた。その沈黙こそが厄介だ。彼女が静かにしているほど、皆が本能的に自分の持ち場を一段階精度高くこなそうとする。褒められたいからではなく、ただ彼女の前でミスをしたくないという理由で。
この女は時として、軍法より効き目がある。
カウントダウンが始まると、空気はさらに薄くなった。
十。
九。
八。
戦術図上の狭い通路の輪郭を見つめる。それは天然の航路ではない。宇宙がどこかの骨をうっかり折り損ね、かろうじて残った一本の肋骨に近い。両側を、大型艦艇の骨肉を引き裂くに十分な瓦礫帯と不安定重力剪断域に挟まれ、そのど真ん中を、教科書に載せるための新しいケーススタディにもってこいのサイズの艦で突っ切ろうとしている。
七。
六。
人類文明がどうしてここまで来てしまったのかを、真面目に考え始める。
五。
四。
答えはたぶん、いつだって「もう少しならいけるかもしれない」と思う連中のせいだ。
三。
二。
一。
アカリが小さく息を吸い込んだ。
「アスガルド、要塞主砲射程範囲内に進入」
報告し終えた時、こめかみに汗がにじんでいた。大粒の汗が頬をつたって流れ、低い照明の中でやけに眩しかった。
「ホーエンツォレルン、反応なし」
胸の奥で心臓が一度、大きく跳ねた。
要塞主砲の射程に入った。
にもかかわらず、反応なし。
この二つの文を並べると、典型的なホラー物語の「ドアの向こうには誰もいないみたいだ」という一文にしか見えなかった。
蘭がすぐに続ける。
「要塞からの通信を傍受。異常所見なし」
声は落ち着いていたが、通信台を押さえる指の関節が白くなっているのが分かった。「反応なし」は決して安全を意味しない。多くの場合、「反応なし」は単に「向こうがまだ、今踏み潰すかどうか決めかねている」という意味に過ぎない。
今のわたしたちは、帝国で一番凶悪なブーツのすぐ横を、つま先立ちで通り抜けようとしていた。
こんな時、時間というものは本当に厄介になる。
普段なら十五分といえば、ジェスが一件トラブルを起こすのにも足りないくらいだが、今は「遺書、遺品、遺影」を三回ずつ脳内でリハーサルできるだけの長さに引き伸ばされていた。
回廊に侵入して十五分。
ようやく、それが見えた。
ホーエンツォレルン。
教科書にこの要塞の項目が出てくるたびに、版面が妙にかしこまっていた理由が分かった。敬意のためではない。この単語が持つ荒唐無稽な重さを、文字で抑え込むにはページ全体を固くしなければならなかったのだ。
直径百二十キロメートル。
総質量、およそ六百兆トン。
超巨大人工天体。
数字は全部暗記している。試験前には煩わしさしか感じていなかったし、「学生をいじめるための問題」であって、実用性は薄いと思っていた。しかし実物を前にすると、紙の上の数字は、その圧に対して百分の一も伝えていなかったことを思い知る。
あれは施設ではない。
船でもない。
単なる武器ですらない。
むしろ、ある文明が「死」と「権力」と「敵への最大の悪意」に関する理解を、全部まとめて溶かし、一つに鋳固めた結果生まれた人造の凶星だ。
闇の中にどっしりと腰を下ろしている。
死神が歩くのをやめて、玉座ごと宇宙の中央に持ってきたように。
スクリーン越しに眺めながら、背筋が一寸一寸冷えていくのを感じる。
ホーエンツォレルンの表面は、厚い液体金属の海で覆われていた。文学的な比喩ではなく、本当に笑えない現実だ。基底を成すのはガリウム・インジウム・錫合金。その中にナノスケールの炭化タングステン粒子と磁性ナノ粒子が懸濁している。全体として流動性を持ちながら、磁場制御で防御構造を維持できる外殻だ。物理攻撃も、破片も、運動エネルギーも、すべてこの要塞にとっては、誰かがフォークで海をつついた程度の意味しか持たない。
少なくとも、これまでに連邦が試みた十数回に及ぶ要塞攻撃のうち、一度たりともあの金属海を貫けたことはない。
十数回。
教科書でその表現を見た時には、やや教科書臭い言い回しだと感じていた。
今は、こう書き換えるべきだと思う。
十数種の違った死に方を試した、と。
「こうして見ると、本当に……でかいな……」
口をついて出た瞬間、自分でも心底どうでもいいことを言ったと感じた。
「でかい」で済む話ではない。
「目の前に立つと、自分の恐怖心まで卑小に感じられる」類の代物だ。
それでも誰も笑わなかった。
たぶん皆、似たような言葉しか出てこない状態なのだろう。
何とはなしに視線を横にずらすと、主座のヘートヴィヒが目に入った。
背筋を伸ばし、ホーエンツォレルンを真正面から見据えている。普段から宮廷肖像画のような顔立ちだが、今はその上にさらに重さが加わっていた。けれど、なぜか思ってしまう。彼女は単に、目の前の要塞を眺めているだけではないのだと。
ホーエンツォレルンを通して、別の何かを見ている。
あるいは、別の時代を。
彼女は口を開かない。
わたしも訊かない。
この状況で余計な問いを投げるのは、他人の心臓に穴を開けて、その処置の責任を自分では負えないのに放置するようなものだ。
回廊侵入から三十分。
アスガルドとホーエンツォレルンは、ほぼ平行な位置関係になった。
距離が詰まるにつれ、あの怪物の細部も少しずつ浮かび上がってくる。
真紀はすかさず命じた。
「要塞の記録を開始して。これは好機よ。ここまで接近してなお攻撃されていない連邦艦は、これまで存在しなかった」
言い方は淡々としていて、ごく普通の測量演習の指示のようでもあった。
ただし、その「普通」が前提としているのは、星図上に連邦数百万の将兵の墓場が広がっているという事実だ。
CICの面々が、ようやく仕事にありついた。
その顔には、ほとんど感動に近い光が宿っていた。職務愛というよりは、極度の緊張状態の中で具体的なタスクを与えられた人間が、水面下からいきなり浮かび上がれる板切れを手にした時の表情だった。
記録。
アーカイブ。
測距。
火力ポイントのマーキング。
構造の識別。
手を動かしている限り、「いつトワイライトが発射され、自分たちの艦が宇宙背景放射のノイズにまで解像度を下げられるか」ということばかりを考えずに済む。
ホーエンツォレルンが恐ろしいのは、防御力だけではない。
攻撃側の心を夜毎に悪夢で締めつけるのは、その攻撃力だ。
数百、数千の対艦用副口径ビーム砲塔が液体金属層の下に隠れている。戦時にこれらが一斉にせり上がる様は、深海の底に横たわっていた怪物の群れが、同時に水面に浮上する光景に似ている。全方位に向けて、一斉に牙を剥く。
そのうえに、中層と表層にはミサイルサイロと格闘艇用カタパルトがびっしりと立っている。要塞はもはや要塞という範疇に収まらない。必要とあらば、自前で牙と爪と棘と艦隊を生やす、ひとつの殺戮生態系だ。
南北両極には駐留艦隊のポートがある。
戦術図の上では、たかがアイコンに過ぎない。
だが、そのアイコンから蜂の巣のように軍艦が噴き出してくる光景を想像すると、胃のあたりが不快に沈んだ。
そして何よりも、その主砲だ。
反物質共振ガンマレーザー砲『トワイライト』。
名前だけ聞けば美しい。
帝国人は時として、対象を基底粒子にまで吹き飛ばそうとするほどの兵器に、詩集の最終章めいた名前をつけるのが好きだ。
トワイライトの瞬間最大出力は九億二千四百万テラワットに達する。
かつては、この種の数字を「感覚の外側」にあるものだと感じていた。
今は考えを改める。
「感覚の外側」などではない。
感覚がそこまで追いついてしまった時、人間はただ吐き気を覚えるのだ。
この宇宙に存在するどんな物体も、あの砲撃には耐えられない。
この一文は常識のように簡潔だが、日本語に直訳するとこうなる。
あの砲が火を吹いたら、わたしたちは遺言すら遺跡に残らない。
時間はなおも前へ這い進む。
回廊侵入から四十五分。
蘭が急に顔を上げ、血の気が引いた。
「通信傍受!」
高くはなかったが、艦橋の中心に氷柱を一本突き立てるには十分な声量だった。
「こっちの手が読まれた!」
艦橋が一瞬、ざわついた。
誰かが叫んだわけではない。もっと質の悪い揺れ方だった。誰かの息が乱れ、誰かの指が止まり、誰もが本能的に前方投影と航路計算に目を走らせた。すべては短い動きだったが、張りつめていた糸が一度たわむには十分だった。
真紀が声を発した。
「慌てない」
口ではそう言った。
だが、顔色は決してよくなかった。
当然だ。この場面で「学生会の定例ミーティングか何か」と錯覚するような笑顔を浮かべていたら、その時こそ彼女が魂を別次元のどこかに避難させているのではないかと疑うべきだろう。
「敵はわたしたちが裏道を通っていると気づいただけ。忘れないで。まだニヴルヘイムの霧がある」
彼女の言葉は慰めではない。
皆を恐慌の土俵の外へ引き戻し、自席に縛り直すための命令だ。
蘭もすぐに次を告げる。
「艦長、向こう、闇雲に撃ち始めました」
頭の中に、その光景が即座に描かれた。
敵はわたしたちの正確な位置を把握していない。
だが、この一帯にいることは知っている。
そこで帝国式にして最も乱暴な解法が選択される――見えないなら、怪しそうな範囲を片っ端から叩き潰せばいい。
趣味はない。
だが効く。
そしてうるさい。
「持ち場を離れるな」
真紀の声は一段低くなった。
「アカリ。敵の方角と数」
アカリはすぐには答えなかった。
眉間に皺を寄せ、モニターへ身を乗り出す。彼女にしか聞こえない何かを聞き取ろうとしているように。
「後方――四時方向と六時方向から接近。速度は遅い。……あれ?」
一瞬、言葉が途切れた。
顔色が明らかに変わる。
単なる緊張ではない。
本来、ここで遭遇するべきではないものを識別してしまった専門家だけが見せる顔だった。
真紀がすぐに訊く。
「どうした」
アカリはさらに数秒、耳を澄ませ、それから先ほどよりも確かな声で言った。
「艦長。落水音が聞こえます」
落水音。
その三文字を聞いた瞬間、うなじに電流が走った。
言うまでもないが、本当に何かが水に落ちる音ではない――もっとも、この界隈に水があったとしても、人間の骨までまとめて溶かす類いの代物だろう。わたしたちがそう呼んでいるのは、重力弾が局所の重力井戸と空間層の乱流に突っ込んでいく時に戻ってくるエコーだ。
見えない水面に、巨大で意地の悪い何かが、一つずつ沈んでいくような音。
ぼちゃん。
ぼちゃん。
爆発ではないのに、爆発よりも歯に響く。
言うまでもなく、敵はわたしたちを超次元攻撃型の潜航艇だと見做したのだ。
判断の方向性は帝国らしく歪んでいるが、同時に合理的でもあった。まともな感覚を持つ者なら、まさか連邦士官学校の学生たちが、隠密行動には著しく不向きな巨大戦艦に光学迷彩を着せて、要塞の真横を擦り抜けていくなどとは、想像もできないだろう。
だからといって、重力弾の脅威が薄れるわけではない。
最悪の意味で、むしろ逆だ。
重力子空間魚雷と同じくらい卑劣な兵器だ。
彼らは、必ずしもあなたの姿を見る必要はない。
エンジンの排気を嗅ぎに来る。
そしてそれは、ニヴルヘイムの霧でも完全には覆いきれていない場所でもあった。
静まり返った黒い宙域を示す戦術図を凝視しながら、ロイヤル号で集めた寄付金と、貴族から届いた恋文、そして帝国巡回隊の残業で支えられていたあらゆるユーモアが、この数分のうちに利息付きで取り立てられる予感がした。
誰も、口を開かなかった。
全員が分かっていたからだ。
さっきまで、わたしたちは死神の門扉の隙間から、こっそり中を覗き込んでいただけだ。
今――
ようやく、こちらを振り向き始めた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




