219.無音潜航 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
貴族専用予約制で、十三層建て、空気までオークションにかけられそうな豪華客船を一隻まるごと強奪したあと、最も「それらしい」締めの画面が何かと訊かれたら――わたしはてっきり、艦橋全員が顔をこわばらせて、巡回艇の帰投時間、航路の誤差、静音潜航の窓口を計算している光景だと思っていた。
結果は違った。
現実というやつは、戦術常識の顔を靴底で撫でるのが本当に好きらしい。
「――フォン・ボーデルスヴィヒ伯爵夫人からの内々のご招待状、だそうです」
ジェスは喉を軽く鳴らしてから、やけに朗々と読み上げた。善意の寄付金の山から引きずり出してきた紙切れではなく、帝国上流社交界・年次朗読コンクールの決勝原稿でも手にしているかのような口ぶりで、わざと半拍ほど溜めまで入れた。
わたしは隣で聞きながら、こめかみがじわじわと痛み始めていた。
ジェスは、どうやらその痛みを標本として採取したいらしく、さらに一枚めくった。
「――フォン・ラインバッフェン男爵令嬢、債券の裏に個人番号を記入」
もう一枚。
「――ツーア・ゾルムス゠ラウバッハ公爵令嬢、自宅住所を記したメモを現金の束の中に隠す」
ジェスはとうとう声を上げて笑った。
例の紙切れを表向きにし、わざわざわたしの目の前へ突き出してくる。その親切さは、もはや博物館の学芸員じみていた。
「ほら、ちゃんとキスマーク付き」
二秒ほど眺めてから、わたしは非常に静かに一つの事実を受け入れた。
帝国の貴族たちは狂ったわけではない。
単に、長年の過剰な快適生活の結果、「武装募金活動の最中であっても発情する余裕がある」という、奇妙に高度な器官を生物的に進化させてしまっただけだ。
アスガルド艦橋では、今まさに分配が――いや、清点が行われている。
この二つの言葉の差は漢字数にすればわずかだが、政治的正しさと、将来軍法会議で首が飛ぶかどうかの境目にすれば、およそ三つの星系分は離れている。だからわたしは非常に理性的に、後者の単語を選んだ。各々の顔つきが、まるでさっき洗ったばかりの裏金まみれの預金口座のように見える理由については、後世の歴史家に委ねる。
艦橋中央に設えられた清点テーブルの上には、現金、債券、宝石、記名カード、そして戦利品一覧には本来混入してはならない私物が、きっちりと仕分けられていた。
蘭が記録を取り、ロイが数字を確認し、アカリは哨戒ステーション方面の情報を監視しながら、「お前たち正気か」という色を消そうともしない目でこちらを見ていた。ヘートヴィヒはと言えば、実に端正で優雅に腰掛けていた。まるで帝国のチャリティー晩餐会に臨んでいるかのように。ただしテーブルの上に並ぶのはデザートではなく、外交問題を量産しうる証拠物件一式だったが。
ジェスはアスガルドに戻ってきたので、多少は人間らしい態度に戻るかと期待していた。
浅はかだった。
金を数えることすら放棄し、抱えたままの手紙の束を一通ずつ開封しては読み、一通読み終えるごとに笑う。どうやら人生の新しい職業を見つけたらしい。損害管制官でもなければ突撃班員でもない。貴族令嬢たちの胸の内を回収するリサイクル業者、もとい芳心回収ステーションの臨時駅長だ。
「シモ、あんた顔で食っていけるよ」
ジェスは手紙を数えながら、口の端を歪めてわたしを見る。その様子は、誰かの黒歴史現場に屋台を出してホットドッグを売っている悪質な露店商そのものだった。
わたしは息を一つ吸った。
「ジェス。今から三つ数える。三秒後にまだそれを持っていたら、覚悟しろ」
言い方はとても誠実だった。
あまりにも誠実だったので、もしこの女が三秒以内に手紙を手放さなければ、次の瞬間には弾薬昇降機の中に放り込んで十分ほど冷やしてこようかと、本気で検討し始めていた。
が、その台詞が言い終わる前に、背後から真空よりも冷たい声が刺さってきた。
ジェス自身が、ニュースキャスターめいた口調で自分へのナレーションを入れたのではない。本当に空気の温度を屍体保存域まで落としたのは、その直後にわたしの背中側から現れた人物だ。
「ジェス」
真紀の声は大きくはなかった。むしろ穏やか、と言ってもいい。
だが問題は、彼女を知る者なら誰でも分かっていることだ。この手の穏やかさは、ろくな意味を持たない。すなわち、「まだ止めようとしている」段階を通り越し、「そろそろ後始末の手順を具体的に検討し始めた」領域に入ったという合図だ。
振り返るまでもなく、彼女が今どう立っているか想像できた。腕を組んでいるかどうかまでは分からないが、顔はたぶん無表情で、目だけが冷たい。あの冷たさは氷の温度ではなく、議事録と戦術盤と校則に鍛え上げられた秩序の刃だ。
そしてジェスは、その刃先にわざわざ指先を伸ばす。
「うわ、正妻が機嫌悪くなった」
ひらひらと、その束を揺らしてみせる。
わたしは一秒だけ目を閉じ、彼女の遺言に黙祷した。
真紀は語尾に一滴の甘さも混ぜなかった。
「ジェス・マッカロウ」
一音ずつ区切りながら、恐ろしいほど安定した声で読み上げる。
「そんなに、外に出して罰立ちさせてからじゃないと満足できないの?」
ジェスは舌をちょろりと出した。
本当に。
本当に舌を出したのだ。
その瞬間、わたしは少しだけ感心した。勇気にではない。死のリスクに対する感受性が、軍用装甲の試験に出してもいいレベルで鈍いという点において。
「いいよ」
その一言が飛び出した瞬間、蘭のペン先が半拍止まり、ロイは顔をそらして肩を震わせた。笑いを堪えているのか、将来の艦内治安記録の惨状を予感しているのか、判別しづらい震えだ。ヘートヴィヒでさえ、わずかに眉を上げ、「連邦士官学校の風紀管理は帝国宮廷より観賞価値がある」とでも言いたげな顔をした。
わたしは――
危うく吹き出しそうになるのを、全力で抑え込んだ。
決してジェスが「可愛い」からではない。そこを勘違いされては困る。あくまで、雷が落ちると知りつつ釘付きの靴で雷雲の上をダンスする才能が、これほどまでにジェスらしいことに対する感心だ。ある意味では才覚だ。ただし、この種の才覚は履歴書には載らず、専ら反省文に直行する。
最後は、真紀の一瞥だけでジェスは大人しく手紙の束を机に戻した。
爆発もなく。
口論もなく。
艦橋から蹴り出されることもなかった。
だが、一通でも読み上げを続けていたら、その場で生徒会長直筆の処分票が発行されていたに違いない。細かい条項と執行時間付きで。
戦利品清点現場を恋文投函箱に変えかけた問題児を片付けたあと、真紀は視線を再び前へ向けた。
振り返る動きは、ナイフが鞘に納まる速度と同じくらい速かった。
「二人とも、状況を」
アカリが先に顔を上げた。
相変わらず無駄のない、十字線のような声だった。
「哨戒ステーションの巡回艇は全部外に出ています。いまごろ地図一面探し回っているはず」
その一言を聞いた瞬間、AU-1206周辺宙域の戦術図が頭に浮かんだ。ほんの少し前まで所定位置で「歯車」として防衛ネットワークに噛み合っていた光点の群れが、今はわたしたちの過剰に華々しい「チャリティ募金」に引きずり出され、あちこちに走っている。
ある意味、直接叩き壊すより有効だ。人間はミスをする。人は焦る。残業が長くなればなるほど、レーダーの反射まで悪態をついているように見えてくるものだ。
蘭も続けた。
「要塞周辺に、別種の雑音はなし」
通信台に置いた手に力を込めながら、極めて冷静に言った。「雑音なし」とは、少なくとも今この短い時間帯について言えば、本当に局地の空間を中空にできているということだ。
哨戒ステーションは幽霊退治に忙しく、要塞はこのレベルの「民間トラブル」に関わるつもりがない。状況は、わたしたちが最も好む方向へと動いている――向こうが混乱し、こちらは静かでいられる方向へ。
真紀は報告を聞き終えると、わたしを一瞥した。
問いでも催促でもない。
「ついて来れているか」の確認だった。
もちろん、ついて行く。
ついて行けないなら、そもそもここには立っていない。そもそも、隣にわたしがいるがために生まれた貴族からの私信を山積みにしたテーブルなど、存在していない。
続けて、ヘートヴィヒに視線を送る。
ヘートヴィヒはすぐには答えず、極めて控えめに頷いた。皇女として同意を安売りしたくないのだろう。その仕草はわずかに過ぎる程度に小さかった。だが、頷きは頷きだ。つまり、帝国の辺境行政ロジックも、少なくとも現時点ではわたしたちの肩を持っているということだ。
そこでようやく、真紀は結論を下した。
「動けるわね」
そしてわたしを見た。
「副艦長、静音潜航警報を発令。ニヴルヘイムの霧の準備」
その瞬間、艦橋にまだ残っていた冗談の匂いが、見えない刷毛で一気に掃き落とされた。
わたしは立ち上がる。
「了解」
壁の通信端末へ向かい、受話器に手を伸ばした。金属外装は冷たく、「笑うのは勝手だが、これからやることは遊びではない」とでも言いたげだった。
全艦放送ボタンを押す。
「全艦に告ぐ。これより本艦は静音潜航に移行する。不要な音を立てず、安全指示に従え」
わたしの声が内部通信網を通じて、アスガルドのすべての通路、すべての扉、あらゆる輪機室や整備シャフトにまで流れていく。さっきまでロイヤル号の戦利品をこそこそ噂していた連中も、次の瞬間には呼吸と足音を同時に引き締めなければならない。これが軍艦だ。さっきまで修学旅行、次の瞬間には「棺の中で全員息を止める」訓練になる。
真紀の命令が続く。
「艦橋シャッター閉鎖。全艦、赤色警報」
即座に復唱する。
「艦橋シャッター閉鎖。全艦、赤色警報」
言い終えて数秒もしないうちに、艦橋両側のシャッターが無音で降り始めた。さっきまで開け放たれていた観測窓は、瞼が閉じるように何重にも覆われていく。光量が落ち、制御盤と戦術投影の冷たい光だけが空間に浮かび上がり、全員の顔をよりはっきりと切り出した。
戦術長席に戻り、操作パネルの上を指で滑らせて周囲空域のレイヤーを展開する。
ほぼ同時に、ロイの声が響いた。
「光学迷彩システム『ニヴルヘイムの霧』起動」
ロイは航法系を操作しながら、小惑星に打ち込んでいた錨を回収させていた。外部構造が錨点を順に離脱していき、そのフィードバックが、手の中に綺麗に収まる切り離された糸のようにコンソール上に灯っていく。
それから、ごく控えめな推力。加速ではなく、「何かを起こしてはならない」と念じながら、巨大な船体を静止状態からそっと押し出す。
ユグドラシルのシステム音が中立的に告げた。
「ニヴルヘイムの霧、起動中。プリズム粒子、放出開始。パーセンテージ、三十五……四十八……六十五……」
声音には感情がない。だからこそ緊張を煽る。
前方の投影では、プリズム粒子の拡散が色のない霧のようにシミュレートされ、まず船体にまとわりつき、やがて外へとゆっくり広がっていった。単なる「透明化」ではない。アスガルド全体を一枚の視覚とセンサーを歪める外套で包み込むのだ。肉眼に形を掴ませず、レーダーに影を噛ませない。巨大な獣を、丹念に調整された幻影の中へ押し込めるように。
数字は上がり続ける。
「パーセンテージ、七十九……九十一……一〇〇」
完了の報告と同時に、戦術盤上の外部シルエットがいっせいに暗転した。
アスガルドは、「存在」から「認識不能」へとモードを切り替えた。
消えたわけではない。
ただ、隠れただけだ。
夜闇に飲まれた一本の針のように。細く、冷たく、静かで、それでいて十分致死的なものとして。
指をコンソールに置いたまま、艦内から伝わってくる微細な振動を感じ取る。それは不安の震えではない。出力が抑え込まれ、縮められ、規律の枠の中に封じられていく手触りだ。周囲の誰もが、自分の持ち場に留まっている。さっきまでわたしを冷やかしていたジェスも今は黙り、腕を組んで投影をじっと見つめていた。その目はようやくおとなしく座った猫のものに似ている。真紀は艦長席の前に立ち、肩のラインは真っ直ぐ、視線は揺るがない。ヘートヴィヒはわずかに顎を上げ、その眼差しから、この「敵の懐で針を通す」遊びを内心ではかなり気に入っていることが分かった。
さっきまで手紙に付いた口紅印をどう処理するか悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。
問題は、あんなものが残っていることではない。
本当に厄介なのは、今ここにいる連中だ。
「出るわよ」
真紀が言った。
たった二文字。
しかしその二文字が落ちた瞬間、艦全体が一斉に息を詰めた。
そして、目標を告げる。
「ターゲット、回廊の裂け目」
わたしは星図上、これまで何度も計算し、何度も測り直してきたあのスリットを見つめながら、手のひらをほんの少し強くコンソールに押しつけた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




