212.出撃 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
結果から言うと、事前に娯楽施設へ蓋をしておいたのは正しかった。
いや、正しいどころじゃない。
大正解だった。
古今東西、人の心を本気で動かすものは、決して高尚なスローガンなんかじゃない。
自由、民主、平等、博愛。どれも耳ざわりはいいし、実際尊い。
でも、そういうものが根を張るには、いくつかの前提条件がいる。
腹が満ちていて、服が暖かくて、今夜は死ななくて、明日も生きて温泉に浸かれる見込みがあること。
その前提があって、ようやく「理想」が花をつける余地が生まれる。
そうじゃないとき、人を奮い立たせるものはもっと原始的で、もっと素朴だ。
たとえば、温かい食べ物。
たとえば、ベッド。
たとえば、熱いシャワー。
それから――アスガルドの人工ビーチ。
この情報を流した途端、効果は笑えるほど即効だった。
長時間の低出力巡航とエウロパ作戦の準備、それに加えて、たまにわたしと真紀に捕まって会議へ引きずり出され続けた結果、顔色が海軍式グレーになりかけていた学生たちの表情が、見事に持ち直した。
足取りに「生きて帰れば砂浜を踏める」という、馬鹿みたいに具体的な希望が宿る。
人類文明、本当に単純だ。
ご褒美が十分に魅力的なら、瀕死一歩手前からだって人を引きずり戻せる。
もちろん、ほんとうに危険なお楽しみ要素は、口をつぐんだままだ。
バー――じゃなかった、高級軍官クラブ――は、わたしと真紀、それからヘートヴィヒの三者合意に基づき、固く秘匿事項とされた。
とはいえ、世の中どんな制度にも、必ず数人はルールを破りたがる奴がいる。
ジェス・マッカロウは、その「数人」をぎゅっと一人分に濃縮した存在だ。
この数日のあいだに、ジェスは何度も高級軍官クラブと娯楽室への侵入を試みた。
一度目は、整備班の上着を羽織って紛れ込もうとしたが、通路の角で二階堂・フレイヤに正確無比に止められた。
二度目は、清掃員のふりをして、掃除用具をひとつも載せていない清掃カートを押して行った。カートの中身は、替えの服とお菓子だけだった。当然、また二階堂に撃墜された。
三度目は、論外だ。
どこから拾ってきたのか分からないサングラスをかけて、「たまたま通りかかったついでに皇族居住区の動線を確認しておこうと思って」とか言いながら歩いていったが、扉の前まで辿り着く前に、感応ドアの手前で二階堂のブロックに遭った。
その鮮やかさは、ほとんど「風紀委員長に、ジェスの犯罪衝動を検知する専用レーダーが搭載されている」としか思えないレベルだった。
最後に、ジェスは食堂前で立たされることになった。
丸三日。
それも食事抜きで。
この処罰の残酷さは、あまりに徹底していて、二階堂が事前にジェスの精神構造を分析したうえで、一番ダメージが出るやり方をわざわざ選んだとしか思えない。
ジェスにとって、「立たされて説教」はどうでもいい。「三日間トレイに触れられない」が、本物の人格破壊だ。
一日目、ジェスはまだ力があって、行き交う学生相手に「娯楽施設の開放権は全学生共通の権利である」的な演説をぶっていた。
二日目には、明らかに声が弱って、他人の手に持たれたパンを、悟りきった目で見つめるようになった。
三日目には、魂を抜かれた幽霊みたいになって、口だけはかろうじて動いていた。
「副艦長……」潔絲は壁に背中を預けたまま、声が宇宙背景放射に吹き飛ばされそうなほど薄かった。「今なら、あたし、一生分の名誉と引き換えに熱いスープ一杯でもいい……」
「お前の人生の名誉、もともと大した残高ないから」わたしは容赦なく現状評価する。「それに、自業自得」
「人は、より良い生活を求めただけで、こんな扱いを受けるべきじゃない……」
「受ける。少なくとも二階堂の管轄では受ける」
「フレイヤは……制度の擬人化……」
そして、最終的にヘートヴィヒが自ら出てきて、この問題を処理した。
ヘートヴィヒが心を痛めたからではない。
正好相反。
ヘートヴィヒは、社会性を失う寸前まで飢えたジェスを一瞥し、ごく穏やかにこう言った。
「ジェスの食事を許可して」
二階堂は微かに眉をひそめたが、即座には反対しなかった。
ヘートヴィヒはそのまま後半を続けた。
「今日から、ユグドラシルに皇族娯楽区と高級軍官クラブを第一級限入区として再タグ付けさせます。アスガルド主座、艦長、副艦長のいずれかからの認証なしに、その周辺へ接近した時点で、当該区画を封鎖し、個人識別の通報が自動で上がるように」
ジェスは当場愣した。
わたしも一瞬固まった。
これがヘートヴィヒの恐ろしいところだ。
真紀は規則を作る。
二階堂は規則を執行する。
ヘートヴィヒは規則そのものを、誰も挑戦できない環境へと上書きする。
知恵比べでも、口喧嘩でも、「これが正しいかどうか」の議論でもない。ヘートヴィヒはただ問題を一瞥して、問題と再発の可能性を制度の層から一緒に消し去るだけだ。
ジェスは数秒沈黙してから、震える声でようやく感想を漏らした。
「……殿下、あんた、二階堂よりえげつない」
ヘートヴィヒは静かに紅茶を一口飲んだ。
「ありがとう」
わたしは傍らでそれを見ながら、この数日で自分の中のヘートヴィヒ像が、また一層新しく更新されていくのを感じていた。
ヘートヴィヒは凄まじい。
「皇女なのに片手で主砲を撃てる」というレベルの凄さじゃない。
火力の話でもない。
政治の話でさえ、完全にそうではない。
決断という一点において、ヘートヴィヒは本当に理不尽なほど強い。
冷酷。
端的。
一切引きずらない。
そして恐ろしいのは、ヘートヴィヒが「自分が冷酷であること」を証明するために冷酷に振る舞っているわけではないことだ。彼女はただ、多くの人間よりも早く、そして徹底的に一つの事実を受け入れているだけだ――あの席に座る以上、誰かが命令を下さなければならない場面が必ずある、ということを。
こういう人間が帝国にいれば、十中八九、次期女王になるだろう。
連邦にいれば、間違いなく最高評議会の議長になる。しかも、会議の席で反対派全員を「宿題を忘れた小学生」のように吊るし上げるタイプの議長に。
わたしが突然そんな感慨に耽ったのは、ジェスが餓死しかけたからではない。
俘虜のことだ。
十数名の帝国兵と将校が、アスガルド下層の隔離区画に収容されていた。ヘートヴィヒは何度か直接説得しに行った。恩を施すためでも、演劇的な帰順要求のためでもなく、ただ静かにいくつかの活路を示して、その人たちに自分で選ばせただけだ。
しかし相手は受け入れなかった。
死を選んだ。
砕けても曲がらないと決めた。
中にはヘートヴィヒの前で歯を食いしばって裏切り者と罵り、皇女を罵り、アスガルドが汚されたと罵る者もいた。
わたしはヘートヴィヒがもう少し待つと思っていた。
もう一度だけ試みると。
もう一度だけ機会を与えるだろうと。
しかし、なかった。
ヘートヴィヒは最後にその人たちを見て、航路修正を告げるような口調で言った。
「この者たちを、エアロックから放出しなさい」
わたしは今でも、あの瞬間の静けさを覚えている。
激しい言い争いはなかった。
「やりすぎだ」という正義の叫びもなかった。
普段は全ての命に生き残る理由を見つけようとして、あれこれ考える真紀でさえ、今回は声を上げなかった。
真紀はただ沈黙した。
その沈黙は、賛成よりも重く、反対よりも深かった。
誰もが知っていたからだ。これは校則の問題でも、道徳の議論でも、生徒会の多数決でもない。これは帝国に追われている一隻の戦艦であり、その中には投降も協力も拒む敵兵が十数人閉じ込められている。そして前方にエウロパが迫り、ホーエンツォレルンの影がじわじわと圧し掛かっている。
この状況下において、抑え込めないリスクは、リスクそのものだ。
わたしは遠くに立って、その気密扉が開いて閉じるのを見ながら、心臓が何かに軽く絞られたような感覚を覚えた。痛みとは言えないが、ひどく息苦しかった。
一番恐ろしいのは、ヘートヴィヒが残酷であることじゃない。
一番恐ろしいのは、誰も反対しなかったことだ。
わたしも含めて。
――わたしは人類の平和を望んでいる。
その言葉が、記憶の底からふいに浮かび上がってきた。
月面都市で、ヘートヴィヒが口にした言葉だ。当時のわたしは半信半疑で、美しすぎる政治的修辞のように感じていた。しかし今、アスガルドの金属の廊下に立ち、音なき処刑が終わった現実の後ろに立って、わたしはただ祈るしかなかった――
あの言葉が、本心であってほしいと。
もしヘートヴィヒでさえ本心から平和を望んでいないのなら、この宇宙に残されているのは、誰がより効率的に殺せるかという差だけになってしまうから。
*
しかし、時間はわたしの感傷に付き合って立ち止まってはくれない。
わたしが急に平和主義者に目覚めたからといって、エウロパが慈悲深く自ら機能を停止して降伏してくれるわけでもない。
やがて、木星が視界に入った。
あの巨大なガス惑星は、主投影の半分以上を占め、橙褐色と乳白色の気流が幾重にも渦巻いていた。まるで機嫌の悪い古の神が、宇宙の中心に居座っているかのようだった。あまりにも大きくて、本能的に思わされる――わたしたちは本当に、目的地に来てしまったのだと。
それは同時に、あの狂った計画を実行に移す時が来たことを意味していた。
九島真紀が再び会議招集を発令した。
わたしがあくびを噛み殺しながら艦橋に入ると、真紀はすでに主投影の前に立っていた。蘭とアカリがそれぞれ情報席と感知席を占めている。ヘートヴィヒは主座に座り、鞘に収めた刃のように静かで、少し前に十数人の命を一声で真空に放り込んだことをほとんど忘れさせるほどだった。
「頼むから、いいニュースだと言ってくれ」わたしは戦術席に座り、宇宙に施しを乞うような切実な声を出した。
真紀は振り返りもしない。
「いいニュースは自分で作れ」
真紀は少し間を置いて、その一言では拷問として不十分だと感じたのか、ごく平然と追い打ちをかけてきた。
「もうすぐエウロパが見える」
「それはいいニュースじゃない。カウントダウンだ」
「働く側にとっては、だいたい同義でしょ」
わたしの目の下のクマは、木星の暴風帯くらいはっきりしているだろう。
そのとき、アカリが深い青のジャンプスーツを差し出してきた。
「星野、あんたたちジェスと一緒にこれを着て」
受け取って見た瞬間、表情が露骨に不満げなものになる。
「これ、学校支給の全環境作戦服じゃないか」思わず文句が出た。「林間学校の時にも着せられたやつ。評価は散々だった。蒸れるし、重いし、ウエストラインに一欠片の審美センスもない」
ジェスが横から覗き込み、即座に同調した。
「わかる。着ると『青春の尊厳を真空パックしました』って感じになるよね」
「それは環境のせい」蘭が口を挟む。
蘭の口調は平坦で、長年不当な評価を受けてきた工業製品の名誉を挽回するかのようだった。
「潜水服としては非常に優秀。耐圧、保温、関節部の密閉性も十分。それぞれDPVを一台ずつ配備する」
「DPV?」わたしは仮想ホログラムを見上げた。
蘭は自然にデータを展開した。小型水中推進器の構造図が空中に浮かぶ。細長い流線型で、後部の噴射口とグリップはどちらも実用的に作られていて、人間をひどく厄介な場所へ、しかも専業的に引きずり込むための装備という感じだった。
わたしの口角がひくつく。
「Diver Propulsion Vehicle、あのDPVってやつ?」
「そう」蘭が頷く。
「わかった、装備は受け入れる」わたしは画面を睨みつけながら、最も答えを聞きたくない、しかし聞かざるを得ない質問を投げた。「で、わたしたち、どうやって下りるの?」
蘭は答えなかった。
アカリも答えなかった。
ジェスは瞬きをし、その表情にはむしろ期待感が浮かんでいた。
最後に、艦長席の真紀が、過剰なほど冷静な声で答えを落とした。
「その時になればわかる」
わたしは二秒ほど沈黙した。
そして心の中で、非常に文明的で、非常に文化的で、副艦長の品格に完全に相応しい言葉を一言――
――クソが。
これは普通のまずさじゃない。
「事前に教えたら、会議の席で艦長の首を絞めかねないから黙っておく」タイプのまずさだ。
深い青の作戦服と、傍らのDPVの構造図を見比べながら、わたしは強烈な予感を覚えた。エウロパのこの一件で、最初に氷海へ突き落とされるのは帝国軍ではなく、たぶんわたしの理性だ。
ジェスはわたしほど悲観していなかった。
「なんかスリリングでいいじゃん」ジェスは作戦服を撫でながら、目を輝かせた。「副艦長、そう思わない? 水中潜入、艇の奪取、プラットフォーム爆破、アンテナ爆破、格闘艇で回収されるって、これ完全にハイレベルな課外授業だよ」
「その『ハイレベル』の使い方に節操がない」
「わかってないな」ジェスは真顔で言った。「人間は死に近づけば近づくほど、どんなことでも自動的に青春として脳内変換する生き物なんだよ」
「じゃああんただけ先に青春してて。わたしは生きたい」
真紀が軽くテーブルを叩いて、会議を再び本題へ引き戻した。
「とにかく、最終段階の準備に入る」真紀が言った。「エウロパの外縁に到達後、アスガルドは低出力ステルスを維持。外周分隊は各委員長が率いて配置につけ。星野、ジェス、下水の準備を」
真紀のその一言が落ちた瞬間、艦橋の空気が半度ほど下がったように感じた。
わたしは全環境作戦服を膝の上に置き、エウロパの投影を数秒見つめた。氷層、内海、アンテナ群、プラットフォーム、潜水艦。あの狂った計画に必要な要素が、すべて揃っている。
そして、ふと気づいた。
自分は実は、それほど本気で退きたいわけではない、ということに。
病気だからじゃない。
人間はここまで来てしまったら、もう前に進むしかないからだ。
前にはエウロパがあり、後ろには帝国がいる。その間にアスガルド、学生たち、ヘートヴィヒ、真紀、ジェス、そしてわたしたちが持ち帰るつもりで奪った皇族の化け物戦艦がいる。
今さら迷うことこそ、いちばん割に合わない。
わたしはゆっくり息を吐いて、作戦服を持ち上げた。
「わかった」わたしは言った。「もし本当に氷海で死んだら、遺言はもう少し文学的な文章にしてくれよ」
「任せて」ジェスがすかさず受けた。「英雄叙事詩にしてあげる」
「エロ小説にされそうで怖いんだけど」
「副艦長、あたしの文学的造詣に対する誤解が深すぎるよ」
「いや、あんたの下限は正確に把握してる」
主座に座っていたヘートヴィヒが、わたしたちを見つめ、ようやく口を開いた。
「星野」
わたしは顔を上げた。
ヘートヴィヒの視線がこちらに落ちる。静かで、揺るぎなく、余分な感情はすべて皇女式の冷淡さの下に押し込められているようだった。だからこそ、その言葉は際立って鮮明に響いた。
「生きて帰れ」
ただ、それだけだった。
飾りはない。
無駄な修飾もない。
慰めにさえ聞こえなかった。
だが、それこそがヘートヴィヒらしかった。
わたしは半秒ほど呆然とし、それからわざと軽く口角を上げた。
「殿下、そんな言い方をすると、心配されてるって勘違いしちゃいますよ」
ヘートヴィヒは視線一つ動かさなかった。
「勘違いじゃないわ。心配しているの」
艦橋が一瞬、静まり返った。
ジェスが隣で盛大に息を呑んだ。主砲が室内で試射されたのを目撃したような顔だった。
真紀はごく軽く視線を外した。今この瞬間にコメントを挟むのは得策ではないと判断した、戦術的沈黙のようだった。
そしてわたしは――
情けないくらい、心拍が一つ跳ねた。
まったく、見事なものだ。
氷海に潜る直前だというのに、この女はついでにわたしの神経線まで戦術的にかき乱していく。
「……了解しました」わたしは咳払いをして、なんとか声を正常な範囲に押し戻した。「殿下のご心配が無駄にならないよう、努力します」
ヘートヴィヒはそれ以上、何も言わなかった。
しかし、ヘートヴィヒの口角がごくわずかに動くのを、わたしは見た。
その弧は淡く、淡すぎて錯覚のようだった。だが、確かに見えてしまったものは、見えなかったことにはできない。
そして、余計に毒づきたくなった。
ヘートヴィヒに対してじゃない。
自分自身に対して。
だって、こんな命懸けの瞬間に、脳の片隅を少し割いて、ヘートヴィヒが「心配しているの」と言ったときの声を記憶していることに気づいてしまったから。
終わった。
わたしは本当に、救いようがない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




