212.出撃 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
艦橋に戻ってまずやったのは、非常に重要で、ついでに非常に政治的な作業だった。
――情報の選択的公開。
要するに、士気が上がるところだけ外に流して、艦内の学生全員が一斉にぶっ壊れそうな部分は、ひとまず蓋をしておく。
そういうわけで、まずは各クラスの委員長を艦橋に呼び出し、こちらも妙に格式ばった口調で伝えた。
帝都アスガルドの――いや、アスガルドの皇族居住区には、人工ビーチがある――と。
効果は、わたしの予想をさらに上回った。
その瞬間の艦橋は、とてもじゃないが作戦中枢には見えなかった。修学旅行中のホテルで、今夜はインフィニティプール解放しますと突然アナウンスが入った、だいぶ頭の悪い夜にしか見えない。
何人かの委員長の目が一斉に光って、さっきまでの疲労と緊張と寝不足はどこへ行ったのか、表情が一瞬で切り替わる。
――「わたしたちが強奪したのは戦艦じゃなくて、天国の部分所有権でした」とでも言いたげな顔に。
「砂は本物なんですか」と、その場で真顔で訊いてきたやつがいた。
「海水って、ちゃんとしょっぱいんですか」とか。
さらには、「人工ビーチがあるってことは、人工サンセットもあるんですかね」と、すごく真剣に確認してくるやつまでいた。
普段はそれなりに落ち着いて班をまとめているはずの連中が、その場で次々と崩壊していくのを眺めながら、わたしはごく冷静に考える。
――人類文明、何千年も発展してきて、結局いちばん強い集団統制術は、たぶんいまでもリゾート施設なんじゃないか、と。
ちなみにバー――じゃなかった。ヘートヴィヒの強い主張により、「高級軍官クラブ」と呼ぶことになっているあの空間――については、こちらも見事なまでに申し合わせて、一言も触れなかった。
卓球台も、ビリヤードも、ゴルフも、ボウリングも。同様に、完全スルー。
理由はきわめて明快だ。
真紀の説明によれば、アスガルドが正式に連邦領域に入るまでのあいだ、艦内でのアルコール飲料は禁止。
その一言を告げたときの真紀の顔は、もはや連邦法典そのものより法典じみていた。
下手をすると、誰かがこっそりボトルを開けた瞬間、真紀がそいつをその場で縛り上げて輪機室に引きずって行き、ハーヴィーに反応炉の熱交換システムで強制的に酔いを覚まさせる、くらいは本気でやりかねない。
温泉に関しては――
あそこへ通じるルートは、しばらくのあいだ生徒会専用とすることにした。
わたしと真紀の意図はきわめて単純で、同時にきわめて高尚だ。
まずは数日、わたしたちに入らせろ。それからだ。
もちろん、これは私利私欲なんかじゃない。
これは「高位幹部に必要なストレスマネジメント措置」という。
「副会長、その顔はちょっと醜悪だよ」と、ジェスが横で小声で呟いた。
「うるさい」わたしは顔色ひとつ変えずに返す。「これは権限ボーナス」
「でも、あたしも一応、生徒会籍あるんだけど」
「お前は損害管制官。温泉優先入場権とは別枠」
「くそっ、この組織、やっぱ腐ってる」
真紀がそばで腕を組み、淡々と一刺し入れた。
「ジェス。これ以上騒ぐなら、ビーチも出入り禁止にするわよ」
ジェスは即座に口を噤んだ。
よろしい。
アスガルドにおいて、真の威権が誰の手にあるかは、どうやらまだ健在らしい。
ひとまず群衆のテンションをなだめ終わったところで、艦橋の照明がふたたび絞られ、主投影が展開する。
ついさっきまで「どのタイミングで風呂に入るか」という話をしていた空間が、次の瞬間には裏方侵入作戦に切り替わる、この落差。
わたしはあらためて痛感していた。
この修学旅行、もうとっくに正常なレールから外れている。
いまさら「明日の朝食会議のついでに、惑星級港湾施設の接収プランを詰めます」と通達されても、たぶんわたしは「それはいいから、コーヒーは出るのか」としか訊かない。
ヘートヴィヒから新しく降りてきた高位権限のおかげで、木衛星帯に関する情報も、前より深い層まで引き出せるようになった。
そして、その新情報が持ってきた最初の仕事は――
わたしたちのこれまでの楽観を、派手にぶん殴ることだった。
「星野、エウロパの追加情報」蘭が主投影の前に立ち、指先を一撫でする。何層もの映像が同時に開いた。「低権限の時に把握できていたデータをもとに、エウロパと木衛三の外周施設を一つのモデルとして扱っていた。帝国軍は木衛三の氷殻下に直接基地を設置していると、そう仮定していたわけだけど――あれは間違い」
わたしは顔を上げ、投影を見た。
そこに映っているのは、幾層もの氷殻断面と、その下に広がる、宇宙版のお粥みたいな曖昧な構造影だった。
「宙吊りになっていた鉄骨は、基地そのものじゃない」アカリが冷ややかに言って、指先でいくつかの懸垂構造を指し示す。マーカーが赤く点る。「あれは大型アンテナとレーダーアレイ。本当の基地は氷層の中じゃなく、その下の海――内海上の浮遊プラットフォーム」
立体投影が回転した。
ようやく、その正体が見えてくる。
氷殻のさらに下、十数基の巨大懸吊アンテナが、金属製の鍾乳石みたいに海へ向かって垂れ下がり、そのさらに奥、黒い水面に一枚岩のようなプラットフォームが浮かんでいる。
全体は扁平で、やたらと図体がデカい。
誰かが軍港一つ分を、そのまま氷の下へ無理やり押し込み、「はい、これが秘匿施設です」とでも言い張ったような物体だった。
「つまり」わたしは投影を睨みながら、頭の中で結論を並べる。「あのプラットフォームを一枚まるごと叩き潰して、そのうえで十数基の大型アンテナもまとめて沈めろってこと?」
口元だけで笑い、肩をすくめる。
「わたしがジェームズ・ボンドに憑依されてたとしても、狙う場所を二つに割られたらさすがに同時爆破は無理だと思うけど」
ジェスがすかさず横から割り込んできた。
「シモはボンドっていうより、現場で好き放題やってボンドをキレさせる派遣アルバイトのほうじゃない?」
「その評価、丁重にお断りしたいんだけど」
「いや、わりと的確よ」真紀が言った。
思わず、真紀のほうを見る。
真紀は平然としていて、しかもどことなく理不尽な自信すら漂わせていた。
――これから人の人生を台無しにする仕事を振るところだけど、その正当性についてはすでに自分の中で完全に稟議を終えている人間の顔。
本当に、ろくでもない女だ。
「だからこそ、よ」真紀は視線をほかの委員長たちに移し、「B班、C班、D班、E班、それからF班の委員長をまとめて呼んだ」
何人かの委員長が、背筋を一斉に伸ばす。
艦橋の空気も、そこで一段、ぐっと締まった。
さっき人工ビーチの二文字で一瞬だけ浮き上がっていた青春の浮力は、ここで完全に水底まで押し戻されたらしい。
「各班から五~八名を選抜して」真紀の声は静かだった。「必ずしも最強である必要はないけど、足を引っ張らないこと。任務は正面突破じゃなく、散開して外周プラットフォームの運用を撹乱する。プラットフォームとアンテナ群の両端を、同時に忙しくさせる」
口調だけ聞けば、本当にただの学園祭の係決めだ。
だが実際にやろうとしているのは、氷殻下の帝国基地への浸透破壊だ。
B班の委員長が、眉をひそめる。
「つまり、うちは主力じゃなくて、混乱要員ってことか」
「そう」わたしが引き取る。「基地を撃ち抜くのが仕事じゃない。あんたたちの役目は、敵の注意を引き裂いて、本当に手を下す連中に『窓』を作ること」
「本当に手を下す連中って?」C班の委員長が訊く。
蘭は答えず、かわりに投影を一段切り替えた。
そこに現れたのは、細長くて背が低く、陰気なシルエットをした大気圏内潜水艦だった。
アスガルド上部構造の過剰にゴージャスな趣味と比べれば、あまりにも無表情で、あまりにも実務的な船体。
外殻そのものが「わたしは道具であって、それ以上じゃない」と主張しているみたいだった。
「銀河帝国軍の大気圏内潜水艦」蘭が言う。「星野、これがあなたたちの担当」
わたしは手を挙げた。
「悪い、一回確認させて」わたしは言う。「これを操縦して敵と海戦をやれって話? それとも――」
「違うわ」真紀があっさり遮った。
それよりよほどタチの悪いことを、当たり前のように言う。
「あなたとジェスが水中から強襲して、艦内に侵入して、潜水艦の制御を奪う。そのうえで潜艦ミサイルを撃ち尽くして、プラットフォームとアンテナをまとめて吹き飛ばす」
艦橋が一瞬、静まり返った。
わたしも、一瞬だけ固まる。
それから、自分を指さした。
「くそ。」わたしは言った。「わたし、特殊部隊じゃないんだけど」
真紀は、一拍の迷いもなかった。
「そうなの?」真紀はこちらを見て、取り立てて感情のない目で言った。「情報局のアルバイト」
クソ。
やっぱりまだ根に持ってる。
その瞬間、昔、あまり積極的には思い出したくない、いくつかの「情報局バイト案件」が、迷惑メールみたいに一斉に脳内へ舞い戻ってきた。真紀って女は、普段は冷静で公平そうに見えるくせに、報復の番になると記憶力が自動的に最高機密レベルまで進化するタイプだ。
「艦長、それ、公私混同って言うんだけど」わたしは歯ぎしりする。
「違うわ」真紀の声は相変わらず静かだ。「これは人的資源の最適配置」
「その言い方、『高級軍官クラブ』よりタチ悪いからね」
ジェスが横で手を挙げた。
「じゃああたしの役職は?」
「共犯」わたしは即答する。
「うわ、その肩書き、めっちゃそそる」
「お前の感性のほうが問題」
「副艦長。さっき温泉ルートを独占してた人に、他人の感性を評する資格はないと思うんだけど」
「……あれは管理措置」
「へぇ」
これ以上相手をしていると、こちらの血圧が先に死ぬ。
わたしはジェスから話題を引きはがし、もっと切実なところを掴みにかかった。
「まあいい。仮に、わたしとジェスがどうにかして水中から潜り込むとして」立体投影の潜水艦とプラットフォームを指さす。「撤退は? 誰があの地獄から、わたしたちを拾い上げるわけ?」
その問いに、F班の委員長が手を挙げた。
わたしが一目見て、「嫌な予感しかしない」と本能で判断した顔だ。
「そこは、うちの班でやらせてもらえませんか」F班の委員長は言った。「格闘艇の操縦経験者が、何人かいます」
自分でも分かるくらい、頬から血の気が引いた。
「……格闘艇の操縦経験?」
その単語は、わたしの耳には別の文に変換されて届く。
――大丈夫です、副艦長。わたしたち、小型高速機を全力でぶっ飛ばして帝国の氷海の火線に突っ込んでいって、爆心地からちゃんと回収してあげますから。
わたしはF班の委員長を凝視した。声がわずかに上ずる。
「おい……まさか、本気で……やめとけよ。あそこ、宇宙――じゃなかった、氷殻下の内海だぞ? 死ぬからな?」
F班の委員長は、真顔のまま微笑みに近い表情を作る。
「じゅうぶん速ければ、死にません」
あやうく戦術席から立ち上がるところだった。
「そんなわけあるか!」
思わず怒鳴ったら、艦橋のあちこちで、必死に笑いを噛み殺している気配がした。
振り向けば、ジェスは口元を一本線にしていて、肩が明らかに震えている。
B班の委員長も同様。
普段は氷点下みたいな目つきをしているアカリですら、ほんの一瞬だけ視線をそらした。たぶん、最低限の情けだ。
真紀は――
真紀は、最初から助ける気がない。
むしろ航路投影に視線を落とし、何でもないことのようにひと言、上塗りしてきた。
「星野。安心しなさい」
「一ミリも安心できないんだけど」
「F班の格闘艇操縦記録は、いまのところ各班で最高レベル」
「それ、安心材料にはならないから」
「他に撤退の手段はないわ」
「……」
こういう人間がいちばん厄介だ。
口論すらしてこない。事実を一項目ずつ並べて、「はい、他に選択肢は?」と静かに首を傾げるだけ。
多くの場合、人はそこで現実に殴られて黙る。
わたしも二秒ほど沈黙したのち、きわめて不本意ながら認めざるをえなかった。
――現状、これよりましな撤退プランは、ない。
水中突入、潜水艦奪取、ミサイル一斉射でプラットフォームと外層アンテナ群をまとめて吹き飛ばす。同時に外側では各班分隊が撹乱をかけ、帝国守備隊の注意を裂き続ける。最後にF班の格闘艇が高速で接近し、回収。
計画としては狂っている。
だが、効率よく狂っている。
そこが腹立たしい。
「副艦長」ジェスが肘で小突いてきて、実に楽しそうに言う。「見た? やっぱりシモ、特殊部隊っぽいって」
「わたしは今、あんたらにまとめて水深を測るために投げ込まれる、可哀想なモニター用オモチャの気分なんだけど」
「そんなことないって」ジェスはケロリとしている。「少なくとも、一緒に水の中には行ってあげるよ」
「その一言、何の慰めにもならないからな」
「でも、チームって感じはあるでしょ?」
「わたしが今いちばん欲しいのは、チームじゃなくて生命保険」
そのとき、ようやくヘートヴィヒが口を開いた。
ずっと艦長席で黙って作戦分解を眺めていた彼女は、こちらが本当にただ無謀なのか、それとも単に若さで死に方を知らないだけなのかを計っているみたいだったが――ここでようやく、視線を投影へと落とし、指先で一点を示した。
ユグドラシルの投影が、氷海プラットフォーム下方のエネルギー流路を拡大する。
「アスガルドからプラットフォームへ直接砲火を向ければ」ヘートヴィヒが言う。「成功率は高い。そのかわり、この宙域全体が一瞬で最高警戒状態に入る。ホーエンツォレルンへの通報は、ほぼ確実に飛ぶ」
静かな口調で、逃げ場を釘で打ち付ける。
「だから必要なのは、単なる破壊じゃない。破壊したあと、『どこから殴られたのか』を、最短時間で判別できなくさせること」
蘭が頷いた。
「そう。そのための帝国潜水艦強奪作戦でもある。アスガルドが直接手を出さない理由の一つね」
「となると、時間軸はシビアになる」アカリが言う。「プラットフォームが状況を認識する前に、外層アンテナ群がミサイルの連鎖爆撃で先に消えているぐらいじゃないと」
わたしは投影の中で逆さに吊られたアンテナ群を見て、それから内海プラットフォームをもう一度眺め、最後に長々吐き出した。
「はいはい」わたしは言う。「この世界がすでに十分イカれてるって事実は、受け入れました」
ジェスがすぐさま挙手した。
「はい、あたしも受け入れましたー」
「お前、その決断スピードおかしいだろ」
「だってさ。潜入、水中、奪艇、ミサイル、爆発、格闘艇で回収、でしょ?」ジェスは指を折りながら数えて、目をますます輝かせる。「どう考えても最高にカッコいいじゃん」
「どう考えても最高に死にやすいだろ」
「カッコいいと死にやすいは、本来よく隣り合ってるものだよ」
「納得度が高すぎて、即座に反論しづらいのが腹立つんだけど」
真紀が軽く咳払いして、会議を再び実務側へと引き戻した。
「じゃあ、役割分担を最終確認する」真紀が言う。「B班からE班までは、外周撹乱に出すメンバーと、その専門を整理してリストアップ。F班は格闘艇の操縦要員と回収ルートの候補。蘭は内海での通信制圧案を詰めて。アカリはアンテナ群とプラットフォームの間の感知死角を、もう一段階切り分けて。ジェス――」
「分かってる分かってる」ジェスはだらしない敬礼を一つ。「副艦長と一緒に水中の幽霊やってくればいいんでしょ」
「幽霊じゃない。任務遂行」
「それはそうだけど、なおさらワクワクするね」
こいつを論理で矯正しようとするのは諦めた。
こういうタイプは、誰かが生存率を計算しているとき、ちゃんと「カッコよさ」のほうを計算してくれる。こちらが「今回ばかりは寿命削る」と思っているとき、彼女は「楽しそう」と笑っている。
正直、殴りたくなる。
でも、任務からこういうやつを全部排除したら、多分、出発前に全員、圧で自壊する。
会議は徐々に解散し、委員長たちはそれぞれ分隊リストと人員の洗い出しに散っていく。
投影の中で木衛三はゆっくりと回転し続けている。氷殻、内海、アンテナ、プラットフォーム――一層ごとに、白くて冷たい罠の断面図。
わたしは戦術席の縁にもたれて、あの浮遊プラットフォームをしばらく見つめていた。
そこへ真紀が近づいてくる。
「どう?」わたしは顔を上げずに訊く。「まだ何か、新しい報復プランを思いついた?」
「いいえ」真紀は言った。
横目で見る。
真紀の表情は薄い。さっき、わたしを一回使い捨ての特殊工作員扱いしたときの冷えた顔ではなく――そこまで刺々しくもない。
「やれるわよ、あなたなら」
わたしは、少しだけ言葉に詰まった。
この女の、いちばん性質の悪いところはそこだ。
さんざんこちらを煽って仕事を押し付けておいて、最後に一言だけ、慰めとも違う、どうしようもなくよく効く言葉を投げてくる。
そのせいで、こっちの怒りの矛先がうまく着地しない。
「そういう言い方」わたしは低く言う。「人を売り飛ばすときの口上に聞こえるから、やめてくれない?」
「だって、効果あるもの」
「全然誇れるポイントじゃないからな、それ」
真紀は、小さく鼻で笑うと、艦長席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、わたしは深くため息をつく。
――了解。
エウロパは、もう逃げられない。
そしてわたし、星野シモ。連邦生徒会副会長、アスガルド副艦長兼戦術長、ついでに諸々の情報局バイト経験から、どうやらここまで追い立てられてきた不運な女は、これからジェスを引き連れて帝国の氷海に潜り、潜水艦を一隻強奪し、その顔面に向かってミサイルを山盛りで叩き込む羽目になった。
……修学旅行って、最高だな。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




