201.張り詰めた糸 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
部屋に戻ったとき、ドアの鍵が軽く「カチャ」と鳴った。
音は小さいが、妙に退勤のタイムカードを切るような響きがあった。
残念ながら、私の今夜の勤務はまだ終わっていないらしい。
終わっていないどころか、厳密に言えば残業の疑いすらある。一般人の「夜の予定」には、帝国ホテルへの潜入、シャンパンの補充、女爵の暗殺、貴族たちの派閥争いの盗み聞き、そして人工天体要塞と一人の皇女の政治的価値の整理など含まれていないのだから。
上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
レティシア女爵から奪った印章指輪、手配カード、そして脳内で何度も反芻したキーワードを、一つずつ机の上に並べていく。
机の上は綺麗だ。
今夜の出来事には到底見合わないほどに。
腰を下ろし、まずは指輪を見る。
スイートルームで掌に握り込んだとき、それは権力のように感じられた。
だが今、明かりの下に置いてみると、何やら縮小された拷問器具のようにも見える。貴族というのは、血を美しく飾り立て、命令を精巧に仕立て上げ、「すべては秩序のため」という言葉を食後のデザートのように語るのが好きだ。文明社会の最も恐ろしい部分は、おそらくそこにある。ナイフが不足することはない。ただ、それを装飾品に加工する意思があるかどうか、それだけだ。
「……よし」
人差し指を机に押し当て、情報の再構築を始める。
第一に、レティシア女爵の失踪。
「死亡」ではない。少なくとも、今のところは。対外的にはまだ失踪扱いだ。即座に死を公表するより都合がいい。死人は封鎖を招くが、失踪は口論を招くからだ。前者は引き締めやすく、後者は隙が生まれやすい。今夜、西側第三ボックス席にいたあの蜂の巣を突いたような連中が、すでに身をもってそれを証明している。
第二に、南側の手配網の麻痺。
正確には全滅ではなく、切断だ。女爵の息がかかった連中が動くには、彼女の印が必要になる。それがない以上、少なくとも表向きは半数の人間が身動きを取れない。つまり、明日誰かがヘートヴィヒに手を出そうとしても、戦力は一段階落ちるということだ。万事解決とはいかないが、私が数分長く生き延びるには十分だ。今の私にとって、数分というのは極めて高級な贅沢品である。
第三に、二人の皇子が本当に警戒しているのは、ヘートヴィヒ本人ではない。
私は少し思考を止めた。
立ち止まる必要があるほど、重要なことだ。
物事は、知っていることと、腑に落ちることとでは全く違う。前者がパズルのピースを拾うようなものだとすれば、後者は壁一面を壊して組み直さなければならないことに気づくようなものだ。
ヘートヴィヒは、ただの皇女ではない。
可愛らしい政治的装飾品でもない。
プロパガンダのポスターに載せて、臣民に帝国の未来は明るいと思わせるための、よくできた象徴でもない。
彼女は、鍵だ。
そしてその鍵が本当に開けるのは、彼女自身ではなく、彼女の母親――帝后エリザベート・フォン・ホーエンローエであり、ホーエンツォレルンという名の人工天体要塞だ。
椅子の背にもたれかかり、手を上げて眉間を揉む。
ホーエンツォレルン。
その名前は今や、教科書に載っているような「帝国国境防衛の象徴」だとか「銀河秩序の盾」といった、子供や議会を誤魔化すための便利な宣伝文句ではなくなっていた。もっと現実に近い、生々しいものに変わっている。
直径百二十キロメートル、質量約六百兆トンの巨大な人工天体。
航路、防衛線、軍権の構造、そして皇位継承のバランスすら変えうる鋼鉄の要塞。
国家という皮を被りながら、実際には貴族の家系と帝后の派閥に握られている鍵。
帝国に「貸与」されている。
その事実だけで、玉座に座る者は誰もが夜も眠れなくなるだろう。
古代には辺境伯というものがいた。
領地を持ち、兵を持ち、城壁を持ち、旗を持ち、いざとなれば中央に牙を剥くこともできた。
では、今はどうだ。
今はさらに高度なバージョンだ。
どこかの辺境惑星の侯爵ではない。
丸ごと一つの人工天体を抱え込み、あろうことか帝国自身が軍事教範に書き込んでいる辺境伯だ。
……なるほど。
私は心の中で呟いた。
第一皇子も第二皇子も恐れるわけだ。
どちらも、ヘートヴィヒが本物の足場を固める前に、彼女を摘み取ってしまいたいと考えるわけだ。
ヴァイスラン大佐が私をここに放り込み、ついでに爆薬の箱を押し付けてきたのも頷ける。これは皇女の遠足の護衛などではない。青春というオブラートに包まれた、帝国内戦の前夜なのだと警告しているのだ。
私は俯き、机の上の指輪を見つめた。
ヘートヴィヒは、ただの一人の人間ではない。
少なくとも、奴らにとっては。
ヘートヴィヒ=ホーエンツォレルン。
=帝后エリザベート・フォン・ホーエンローエ。
=いざとなれば、帝后の派閥が要塞全体を「帝国の共有財産」から「ホーエンローエの私有財産」へと強引に引き戻すための正当性。
ヘートヴィヒは皇女だ。
だがさらに厄介なことに、ヘートヴィヒは入り口でもある。
そう考えると、以前のあの皇女殿下に対する私の評価は、いくらか失礼だったような気がしてきた。彼女本人の性格が無実だと言いたいわけではない。皇族の性格に過度な期待はしていない。ただ、私は彼女を単なる高価値目標だとばかり思っていたが、実際には盤面全体を吹き飛ばす起爆スイッチのようなものだったのだ。
「……見えないものだな」
椅子の背にもたれ、小さく息を吐く。
昼間、ヘートヴィヒはせいぜい、成績優秀でしつけが厳しく、大抵いつも機嫌が悪い女子生徒にしか見えなかった。キャンパスを歩いていても、近寄りがたいと思われるのが関の山で、一見して直径百二十キロの人工天体要塞を連想させるような存在ではない。
だが、帝国とはそういうものだ。
世界を吹き飛ばせるような代物を、最も美しく、体裁が良く、宣伝にうってつけの箱にしまっておくのが大好きなのだ。
手を引っ込め、改めて時間を確認する。
もう遅い。
これ以上起きていると、明日の朝、武官府へ行ったときに、あまりにも死人のような顔をしているせいで、あの平凡な顔の男に「ヴァイスラン大佐もついに部下を壊したか」と誤解されかねない。
……まあ、ある意味では完全に誤解というわけでもないが。
指輪と手配カードをしまい、今夜脳内で整理した結論を、一つ一つ記憶の奥底に押し込む。
レティシア女爵、処理済み。
南側の手配網、一時的に麻痺。
二人の皇子が恐れているのは皇女ではなく、帝后とホーエンツォレルン。
ヘートヴィヒはただの皇女ではなく、鍵。
よし。
パズルは少なくとも、一枚の絵らしくなった。
その絵が最終的に私自身を棺桶に描き込むことになるかどうかは、明日考えよう。
卓上ランプを消し、ベッドサイドの小さな明かりだけを残す。
部屋は少し暗くなり、そして少しだけ誠実になった。
昼と夜の最大の違いは、おそらくそこにある。昼間はまだ業務プロセスを処理しているふりができるが、夜になれば命を処理するしかなくなるのだ。
ベッドに倒れ込み、目を閉じる。
最後に浮かび上がってきたのは、レティシア女爵でも、ホーエンツォレルンでも、経費精算の却下通知に印刷するのにぴったりなヴァイスラン大佐の顔でもなかった。
ヘートヴィヒだ。
不機嫌な視線。
綺麗な顎のライン。
そして、いつでも世界の粗探しをする準備ができているような、あの静けさ。
……鍵、か。
暗闇の中で、私は小さく笑った。
「今の時代、皇女もただの皇女ではいられないらしい」
そして、私は眠りに落ちた。
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