198.月面都市コペルニクス 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
大使館内部の廊下は長かった。
オフホワイトの壁。艶消しの床。標準的な連邦式の案内板。十メートルごとに眩しくない照明。足音にわずかな残響がつくが、尾を引きすぎない音響設計。誰かがこの建物の音の性質まで管理しているのだろう。
案内に従って歩く。
三階へ。右へ。
今度は二階へ戻り、長い廊下を抜けてガラスのドアを一つ通る。
また一階へ下り、裏手の職員用廊下を通ってB1へ。
B1の廊下を突き当たりまで行き、右へ、左へ、また右へ。
そして、表記のない鉄扉を一つ抜ける。
それから――
「……暗記させたいのね、コース取りまで」
心の中でぼそりと文句を言った。
違う、暗記させたいのだ。足で一度歩けば、次から足で記憶できる。こういう古典的なやり方には心当たりがある。雪風以前の軍の教育だ――紙も残さない。データも残さない。映像も残さない。身体だけに記憶させる。
最後の角を曲がり終えたところで、一見ただの倉庫の入口のような扉の前に立った。
扉には看板がなかった。
部屋番号もなかった。
部の名前もなかった。
「ノックしてください」とすら書いていない。
二度、ノックした。
短く、二度。礼儀というより通知だった。
「どうぞ」
中から声がした。
――非常に、非常に、非常に印象の薄い声だった。
カフェで前に並んでいて、ターキーサンドイッチを注文しても、三秒後にはその存在ごと忘れてしまうタイプの声。
ドアを開けて入った。
部屋は想像していた以上に、「ただの倉庫」に近かった。
金属製の棚。ラベルの貼られていない箱が数個。古びた事務机が一台。その上には、少なくとも三世代前の型と思しきデータ端末。そして机の向こうに座っている男。
男は連邦の事務官用制服を着ていた。グレー。標準モデル。
顔は――どう言えばいいだろう。
三秒見て、目を閉じれば、跡形もなく溶けて消える顔だった。醜くもなく、美しくもなく、老けてもおらず、若くもなく、高くもなく、低くもなく、太ってもおらず、痩せてもいない。「連邦市民」と入力してランダム生成ボタンを押した結果、そのまま出てきたような顔。
彼は顔を上げて、私を一瞥した。
「綾瀬様?」
「はい」
「身分証」
身分証を机の上に置いた。
彼は一瞥しただけで、手にも取らなかった。
「来たのは、物を取りに?」
「はい」
「こちらへ」
男は立ち上がり、奥の鉄扉へ歩いていく。私はその後に続いた。扉を開けると、さらに奥まった空間があった。照明は少し暗く、棚にはさまざまな大きさのスーツケースが置かれている。彼は一番奥まで行き、大きな一つを引き出した。
黒。
ハードシェル。
今朝、艙室で片付けたものより一回り大きい。
「これです」
彼はそれを私の前へ押しやった。
「渡すべきものは全部中に。追加が必要な時は、早めに言ってください」
彼を見た。
彼もまた、こちらを見た。
――いや、正確に言うと、彼の目は私の方向を向いている。
けれどその視線は、私自身には向けられていない。私の胸章、顎のライン、耳の後ろのウィッグの縁に軽く落ちて、それから離れていく。
非常に標準的で、非常に場慣れした目だった。
「……了解です」
頷いて、ケースを受け取った。
重いが、鈍重な重さではない。中身に層があり、配分があり、誰かが丁寧に詰め込んだことがわかる重さだった。このケースを詰めた人間は、想像以上にプロだ。
彼は頷き、振り向いた。
そして――扉へ向き直る直前、一瞬だけ――
彼は静かに言葉を足した。
「……大佐いわく、今週で三つ目だそうです」
「……は?」
顔を上げた。
「今週で」
それだけ言って、彼は身を翻した。
その背中には、躊躇いも、言い足りない気配もなく、一切の言葉を追加するつもりもないようだった。
その場に立ち尽くした。
手には黒いスーツケース。
頭の中には、その「今週で三つ目」という一言と、その後ろにわざと残された、大きな空白だけがあった。
三人目の綾瀬汐里?
ここからケースを持ち出す三人目?
ヴィスランが送り出した三人目?
それとも――三人目の「戻ってこなかった者」?
心の中で四つの可能性を並べ、優先順位をつけてから――
「……まったく」
息を吐いた。
「どうしてこういう人は、いつも最後まで言わないかな」
事務官はすでに自分の机に戻っていた。
一秒だけ、彼は顔を上げて私を見て、それから視線を端末へ戻した。
余計なことは言わなかった。
何も聞かなかった。
私もそれ以上は何も言わず、
キャリーのハンドルを引き上げて、部屋を出た。
ただし、あの顔を、心の中で一度だけしっかりと焼き付けた。
たとえその顔がどれだけ「ランダム生成」に見えようと、
次に会ったときに見分けられないとしても、
あの声、「今週で三つ目だ」という節回し、そのまま背を向けていく角度――
それは覚えておくことにした。
こういう人間とは、また会うことになる。
この種の予感の命中率は、昔からやたらと高い。
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コペルニクス・散歩
大使館を出て、すぐにホテルへは向かわなかった。
理由は二つある。
一つ目は真面目なものだ。環境の把握。
二つ目はもっと真面目だ。尾行がいるかどうかを確認し、混乱させ、必要であれば、こちらの観察しやすい場所へ誘い込むため。
三つ目――まあ、これはあまり真面目ではない。月面都市を見たい。人生で初めて来たし、ここまでの道中、横を見もせずに我慢してきたのだから、ホテルに入る前くらい、一度くらいは観光客になってもいいだろう。一度だけだ。観光客をやるのは綾瀬汐里であって、星野シモではない。だから任務違反にはならない。うん、そういうことにしておく。
コペルニクスは――どう表現すればいいだろう――明らかに月なのに、必死で月に見えないようにしている街だった。
低重力は建築によって強制的に中和されていて、歩いていても足取りが地球と違うと感じさせるのは、歩幅のリズムがわずかに浮いていることくらいだ。路面は地球式の舗装で、看板は地球式のフォントで、レストランの前には地球式の黒板メニューまで出ている。そこにはチョークで今日のスープが手書きされていた。
――マッシュルームスープ。
――月で、キノコ。
心の中で、そのスープに三秒間黙祷を捧げた。
連邦区は街の西半分、帝国区は東半分。間には、やたら幅の広い中央大通りが挟まっている。通りの両側には、名目上「中立」とされる商業施設が、勘繰られまいとでも言うように肩を寄せ合っていた。表向きは共同管理都市、実態は二大国が通りを挟んで睨み合っている構図だ。それぞれの看板は、どちらも怒らせないように慎重にデザインされている結果、最終的には全部同じような見た目――オフホワイト、金属の縁取り、清潔なフォント、眩しくない輝度――になっていた。
カフェに入り、カフェインのいらないハーブティーを注文した。
「こちらでお召し上がりですか?」
「店内で、お願いします」
「窓際のお席でよろしいでしょうか?」
「……お願いします」
窓際に座った。
窓の外には通行人が見えた。その中に、一人、さっきから二ブロック離れた距離をきちんと保っている男がいる。グレーのジャケットに黒い帽子。靴底は一般的なものより少し厚い――流行のデザインではなく、長時間の尾行で関節に負担をかけないよう、配慮された厚みだ。彼はプロではないが、素人でもない。「中の下」くらい。
中の下。この等級の尾行が一番面倒だ。
致命的なミスを犯して一目でバレることもないし、優秀すぎてこちらがどう足掻いても巻き切れないわけでもない。少しずつ、粘り強く、今夜私が泊まる部屋番号までしつこくついてくるタイプだ。
カップを持ち上げて、ハーブティーを一口飲んだ。
――だから、いきなり撒きはしない。
――あちらに見せてはいけないものを、いくつか見せに連れていく。そうすれば、戻ってから怒られるのは彼らの役割だ。その方が教育的だ。
カップの絵柄に目を落とした。月の模様だった。ここでも月。はいはい、月面都市なのは理解した。何にでも月を描かなくてもいい。
席を立って会計を済ませ、わざと歩みを遅くして店を出た。
まず中央大通りで一番人の多い市場区画へ向かった。マフラーを一本買い、現金で支払う。それから本屋に入り、適当に二、三冊手に取り、三分ほど立ち読みして、出る。次に小さな公園に入り、ベンチに五分座って鳩を眺める――そう、月面都市には鳩もいた。この街は地球を真似できるところは何でも真似している。鳩まで真似している。帝国も連邦もこの街を手放したがらない理由が、少しわかった。あまりにも「地球らしさ」のコピーが徹底されていて、息苦しい――それから立ち上がり、地下道に入り、方向を一度変え、また地上へ出た。
グレーのジャケットの男は、このときすでに少し振り回されてきていた。彼は二つの小さなミスを犯した。一度は市場区で私を見失うまいとして、余計な裏路地を回ったとき、靴に油をつけてしまった。もう一度は地下道の出口で、私が左側から上がり、彼が右側から上がってきて、二人が危うく正面から鉢合わせしそうになったときだ。彼は必死にスマホを見ているふりをしていたが、その画面は真っ暗だった。
――「……あのさ、おじさん。尾行したいなら、せめて画面くらいつけておこうよ」
心の中で、そっと突っ込んだ。
――「というか、次はちゃんと電源を入れておいて」
でも、正体を暴くつもりはなかった。今日は彼を撒く必要はない。ただ確認したかっただけだ。尾行はいる。等級は中の下。送り主は不明だが、帝国の正規軍ではない――正規軍のブーツが、こんな短時間で油を吸うわけがない。これは連邦側の、どこかの小さな組織、どこかの仲介者、どこかの誰かが、「月面都市駐在・武官候補生・綾瀬汐里」の様子を見に寄越したのかもしれない。悪意はないかもしれない。少しはあるかもしれない。ただのルーティンかもしれない。
どれであれ、答えは同じだ――今は見なかったことにする。今日は彼に手を出す日ではない。
地下道を抜けた後、北側の高台へとゆっくり歩いた。
月面都市のこの区域には、人工の斜面に作られた遊歩道があり、観光客も地元の人も訪れるが、両者が交わることは決してない、そういう空間がある。遊歩道の終端には、東側――帝国区を正面に見渡せる展望デッキがあった。
欄干に近づき、ウエストポーチから小型の双眼鏡を取り出した。
綾瀬汐里の荷物には、「普通の女の子」が持ちそうにない物がいくつも入っている。これもその一つだ。でも彼女は「武官候補生」だ。小さな観測機器を携帯していても、不自然ではない。何しろ、胸章に書いてある。「安全協力兼礼賓調整」。調整というのは、よく観察することから始まる。
双眼鏡を東に向けた。
帝国区の行政ビル。広場。旗の海。オベリスク。そして宇宙港。
コペルニクスの帝国軍宇宙港は、要するに大型の船着き場だ。この街は共同管理都市なので、双方がそれぞれの港区を借りている。その間には、「実用性より政治的意味合いの方が強い」緩衝帯がある。緩衝帯の向こう側が連邦港で、私はさっきそこへ着いた。緩衝帯のこちら側が、帝国港だ。
帝国港の一番奥――
倍率を一段上げた。
もう一段。
もう一段。
……ん?
「……ああ、これは面倒だ」
双眼鏡を覗いたまま、武官候補生らしい、きわめて標準的で、きわめて感情のない表情を顔に貼り付ける。
内心では、すでに三回ほど白眼を剥いていた。
ヴィスラン大佐が言っていた新造艦は、
しっかりと。堂々と。一切隠す気もなく。「隠す必要があると思っていない」と言いたげに――
帝国軍宇宙港の最深部に停泊していた。
問題は。
その隣にも、もう一隻。
さらにその隣にも、もう一隻。
そのまた隣にも、もう一隻。
合計五隻。
五隻。
同一型。同一ロット。同じ光沢を持ち、船体番号も連番になっている新造艦が五隻。
一列に並び、静かに港に繋がれている。銀河帝国の濃紺の旗が、低重力下で不自然に翻っていた。
私の位置からでも、船体側面にまだ風化も摩耗もしていない白いステンシルが見えた――エントリー後三ヶ月以内の艦にしか見られない印だ。
新造艦。
五隻。
きっちり一列。
「実験艦一隻をこっそり隠しました」ではなく。
「見せてやる。さあ、何ができる」とでも言いたげな並び方だった。
双眼鏡を畳み、礼儀正しくウエストポーチに戻し、頭をかいた。
「……船は見つけた」
小さく呟いた。
「でも、五隻ある」
欄干の外から風が吹き上げてきて、月面都市特有の乾き気味の空気を運んできた。
動かずに立ち尽くした。
ヴィスラン大佐、
私を送り出した時点で、
五隻あることを、知っていたのか?
頭の中で二つの可能性を並べた。
一つ目:彼は五隻あると知っていて、一隻とだけ伝えた。
理由:私を試すため。戻ってきたときに、実際の数を報告するかを見たい。現場で慌てるかどうかを見たい。独断で判断を変えるかどうかを見るため。
二つ目:彼は一隻分の情報しか持っていなかった。
理由:帝国の秘匿が予想以上にうまくいっている。あるいは――最初から、この情報は私に全貌を教える目的では渡されていない。
……
考えたくない第三の可能性が、勝手に頭をもたげた。
三つ目:五隻あることを知りながら、一隻とだけ言った。任務の規模を実際より小さく見せるため。そうすれば、私は断らない。乗船する。この展望台まで来る。そして自分の目でこの一列を確認する。そして私は――
「……まったく」
もう一度頭をかき、ウィッグのこめかみを耳の後ろへ押し戻した。動作はごく自然だった。
「あなたという人は、どうして毎回こうなの」
風が吹き続けた。
月面都市の空は人工のものだが、色は非常によく調整されていて、この時間帯には、ごく薄い、水で薄めたような青が広がっている。この青は、人に一時的に「頭上にあるのは本物の空だ」と錯覚させる。
――「今夜部屋に戻ってから怒ろう」
自分にそう言い聞かせた。
「今はまだ仕事中」
最後にもう一度、あの五隻を目に焼き付けた。
五隻。
見間違いでも、屈折でも、寝不足のせいでもない。
確かに五隻。
今すぐヴィスラン大佐を罵倒したくて仕方なかった。
でも、今ではない。
綾瀬汐里が上官を罵ったりしないからではない。
今、私は綾瀬汐里の顔を被っているからだ。この顔で展望台に立っている間は、いかなる感情も見せない方がいい。罵るなら部屋に戻り、ドアを閉め、鍵をかけてから、最短の一言だけを選んで罵るべきだ。それが職業倫理というものだ。
だから私はただ鬢角を耳の後ろへ整え、少し長く見ていただけのふりをした。
「……船は見つかった」
静かに言った。
「ただ、五隻ある」
まあ、まだ正常に聞こえる。
心の中のもう少し正常ではないバージョンは、今夜まで取っておく。
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ホテル
ホテルは中央大通りの連邦側に位置していた。五つ星、白い石材の外観、銅色の縁取り、入口には非常に正式な服装のドアマンが二人いた。私の胸章を見た瞬間に二人とも自然に両側へ退き、一人が内側に向かってさりげなく手を動かした。フロントはすでに私の到着を知っているという合図だ。
「いらっしゃいませ、綾瀬様」フロントの声は穏やかだった。「三階の通りに面したスイートをご用意しております。非常に静かなお部屋です。こちらがルームカードでございます」
「……ありがとうございます」
ルームカードを受け取った。カードに部屋番号はない――このレベルのホテルの慣例で、部屋番号はカード内部のチップにだけ記録されていて、提示したときのみ表示される。安全性への効果は限定的で、本気で探す人間には何の役にも立たないが、同じホテルの他の客には一定の効果がある。「我々はプライバシーを重視しています。だから皆さん、引き続きお互いに存在しないふりをしましょう」というデザインだ。
「お荷物はお持ちしましょうか?」
「結構です。ありがとうございます」
「何かございましたら、いつでも礼賓部にお申し付けください」
「……よろしくお願いします」
エレベーターへ向かった。
エレベーターの中には音楽が流れていた。旋律がまったくなく、和音だけで構成された、密閉空間での気まずさを解消するためだけに作られたような音楽だ。これを発明した人間が誰なのか知りたいし、その人の家の呼び鈴を一晩中押し続けたい。
三階。
廊下。
扉。
ルームカードを当てる。
緑のランプ。
カチリ。
開く。
入り、ドアを閉め、内鍵をかけ、「起こさないでください」の札を外側に掛けた。それから肩を半センチだけ下げた。
綾瀬を解除したわけではない。
そんな贅沢はない。
ただ、この皮に一息つかせただけだ。
ウィッグも制服も証明書も、今日の名前も、まだそこにある。ただ武官候補生特有の、規律正しくて少し退屈な緊張感を、一段だけ緩めた。
それで十分だ。
息をつくには十分で、星野シモ本人のように息をつきすぎることもない。
「……まだ終わっていない」
自分に言った。
「サボらないで、まず仕事をする」
部屋の点検を始めた。
礼儀としての点検ではない。職業的な点検だ。
まずドア周辺。内側の鍵、正常。ドアの下に紙片や盗聴線が挟まれた隙間はない。のぞき穴のガラスに異常な反射はない。ドアの裏のフック、ホテルの案内カードの位置は他の部屋と一致していて、動かされた形跡はない。
窓周辺。フルハイトの窓ガラス、二重強化。カーテンは機械式と感知式の二軌道、正常。外のバルコニーは隣室に通じておらず、スイートの仕様に合っている。
壁面。装飾画が三枚。一枚目の裏、何もない。二枚目の裏、何もない。三枚目の裏、何もない。全部正常で、正常すぎるほどだ。心の中でもう一度警戒を上げた――異常がないこと自体が、このレベルのホテルで最も合理的な異常だ。もし誰かが部屋を動かしたなら、彼らは非常に丁寧に動かした。丁寧すぎて、何も動かしていないと信じるしかない。
そういうレベルの丁寧さができる人間は一種類しかいない。最初から何も動かす必要がない人間だ。
言い換えれば、この部屋で彼らは何もしなくても、今夜私が何をするかを、もうすでに知っている。
この感覚には慣れている。
この感覚の名前は、「また、全員が私より先に入場している場所に放り込まれた」だ。
ようこそ、中尉。
心の中で「中尉」という二文字に非常に投げやりな敬礼をしてから、浴室へ向かった。
浴室は問題なかった。シャワーヘッド、水圧、鏡の角度、換気口の角度、すべて合理的な範囲内だ。鏡には双面ガラス特有の不自然な鮮明さがない。換気口のネジに少し埃がついていた。これはいいことだ。少し埃がついた換気口は、最近誰も開けていないことを示す。
それからクローゼット、ミニバー、机の上のウェルカムフルーツ、ベッドサイドテーブル、シーツ、枕、ベッドの下、カーペットの端――
すべて。
一つ一つ。
順番通りに。
急がず、焦らず、省略せず。
十五分後、部屋の中央に立った。
「……よし」
頷いた。
「大体問題なし」
「少なくとも、私に見せようとして残されたような問題はない」
それで十分だ。
綾瀬汐里がそう判断すべきだからではなく、
この皮のために、まともな判断を一つ補ってやらなければならないからだ。今日ここに立っているのは星野シモではない。星野シモが自分の普段通りの顔で来ていたら、まずこのホテルが霊安室みたいに静かだと文句を言ってから換気口を確認していただろう。
でも換気口の確認は、どちらにせよやった。
だから本質的には、大して変わらない。
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ベッドの端へ戻った。
大使館の事務員に渡された大きな行李箱を、ベッドの上に平置きにした。
今朝客室で整理したものより一回り大きい。ハードシェル、指紋ロック。ラベルも文字も何もない、清潔すぎて気分が悪いほどの箱だ。
それを二秒ほど見つめた。
それから手を伸ばし、指を指紋ロックの上に置いて、止めた。
……怖いのではない。
迷っているのでもない。
これは非常に奇妙な、非常に星野シモらしい、三秒だけ引き延ばしたい怠惰だ。
なぜなら、この箱を開けた瞬間に、
「武官候補生・綾瀬汐里」という層が、もう一段奥へ押し込まれる。
「在月面都市大使館」という身分が、もっと遠い位置へ退く。
「星野シモ」という名前が、今夜仕事に使うための引き出しへ押し込まれる。
そして中尉――雪風の後で軍籍を保留されたままの中尉――が、一番上へ押し出される。
この箱を開けた瞬間から、この五つ星ホテル三階の、廊下が静かで、窓から中央大通りの灯りが見えて、机の上に無料の赤いリンゴが一個置いてあるこの部屋は、
もう部屋ではなくなる。
作業場になる。
指を指紋ロックの上に浮かせたまま。
窓の外の月面都市は今、正午のはずだ。
人工の空の光が最も明るい段階に調整されていて、カーテンの縁に非常に細く、非常に白く、非常に静かな光の線を作っていた。
静かに息を吸った。
勇気のためではない。
リズムのためだ。
「……よし」自分に言った。
「ヴィスラン大佐が今日、私のために何を用意したか、見てみよう」
指腹をロックに押し当てた。
一秒。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




