193.元旦の朝 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
真紀は視線を落とし、手に保持したヘルメットを凝視し、しばらくの時間の後に再び音声を出力した。
「無理にバイクを停車させたかったわけではないわ」
「分かっている」
「ただ……」
彼女は言語の出力を途中で停滞させた。そのタイムラグは彼女というシステムにしては極めて異例であり、それゆえに、酷く純度の高い真実味を帯びていた。
「さっきのような臨界状態の後で、一体どういう顔をして、いつも通りあなたの後衛に座っていればいいのか、その最適解が分からなかったのよ」
彼女の顔を観測し、急激に自嘲の笑みを漏らしたくなった。
面白いからでは断じてない。
九島真紀がこういう脆弱なコードを出力する姿そのものが、完全に規則違反(反則)だからだ。大層な修辭を弄したわけでも、作為的に場を演出したわけでもない。ただ、こういう不器用で、抑制の装甲に包まれた、それでいて逃げ場のないほど率直なバグの出し方が、こちらの核心に一番致命的に突き刺さる。
眉間を手で押さえ、少しでも副会長としてのプライドの残高が目減りして見えないよう、必死に抵抗を試みた。
「あのな」
私は声を落とした。
「あなた、こういう局面においてすら『生徒会長』を死守してくれた方が、私としてはカウンターの防禦壁を展開しやすいんだが」
真紀は私を正面から凝視し、その双眸の内部に少しだけ、呆れ果てたような光彩が明滅した。
「あなた、そういう私をハンドリングする方が得意(システムに適合)しているものね」
「そうだ」
素直にそのログを承認した。
「だって、頑迷で、冷徹で、規律の化身のようなあなたであるならば、少なくとも私が十全に知悉している、扱い慣れた厄介事だからな」
「じゃあ、現在の私は?」
演算回路が完全にフリーズを来した。
雪の結晶が、ゆっくりと彼女の肩口のファブリックへと落下し、私の上着の袖の座標にも堆積していく。少しずつ、軽量に、しかしその落下運動を停止させようとはしない。こういう冷極の朝のセクターは、言語の出力を急がせる必要などどこにも存在しないと、生体センサーに錯覚させる。
どうせバイクの駆動は完全停止させたのだ。どうせ「何事もなかったフリ」という欺瞞の防壁は、自分たちの手で木っ端微塵にハッキングし終えたのだ。今更になって取り繕うなど、見苦しい以外の何物でもない。
だから私は彼女の瞳を射抜き、極めてストレートなコードを転送した。
「現在は、完全に未知の新型災害のようだな」
真紀は一瞬だけ、その双眸を丸くした。
それから――酷く静粛に、その口元を融解させた。
昨夜の密室、私に精神的境界線まで追い詰められかけて乱質化したあのエラーの笑みでもなく、昼間の公の領域において、礼儀正しいマナーとしてディスプレイする営業スマイルでもない。もっと微小で、淡く、しかしこれ以上ないほどに本物の笑みだった。雪片が皮膚に接触して瞬時に融解するのと同じくらい、短時間の閃光。
しかし、それが九島真紀の鉄面に顕現したというただそれだけの事実が、私の胸の内のコアを再び熱量崩壊させるには、十全すぎるほどの質量を有していた。
ふと、この新年の朝の物理法則は、酷く不公平に歪んでいると直感した。
他ならぬ私が先に精神的飽和に耐えきれなくなってバイクの制動をかけ、先に静黙のコードを破棄したというのに、結局、より深刻な構造破壊(瓦解)を来しているのは、完全に私の方ではないか。
「シモ」
真紀が、私の名前を呼称した。
通常とは根本的に異なる、固有のモジュレーション(トーン)を帯びた音声だった。
命令のインデックスも、注意喚起のアラートも、私が馬鹿な不祥事をしでかした際の一命を賭した姓名同時の死刑宣告でもない。ただ単に、名前の文字列を出力しただけだ。けれど、こちらの受容器が「受信拒否」を選択することなど、100%不可能な強制同期の呼び方だった。
「……何だ」
まことに遺憾ながら、肺のシリンダーから絞り出された返答は、いつにも増して脆弱な性質のものだった。
真紀は、その脆弱さを嘲笑しなかった。ヘルメットをタンデムシートの脇へと配置し、滑らかな軌道で手を挙動させ、私の上着の襟元の防衛線へとそっと接触してきた。
おそらく、初期プロトコルとしては、ただ付着した雪片を矯正しようと試みただけなのだろう。
しかし接触した直後、彼女の指先は即座に離脱を選択しなかった。
その、一瞬の停滯。
極めて短時間のシーケンスであったが、昨夜から今朝のタイムラインにかけて、辛うじてシステムの底へと沈殿させていた熱量を、再び一挙に表面へと浮上させるには十分すぎるほどのトリガーだった。
「昨夜、私が口にしたコード」
彼女は極限まで音声を低音化させて告げた。
「年末の狂気によるエラーではないわ。空間の雰囲気に呑まれたわけでも、ない」
私はその座標から微動だにしなかった。
「……知っている」
「理解っているの?」
「理解っているさ」
彼女の手の座標を見つめ、再びその瞳を正面から射抜いた。
「そうでなければ、私がなぜこの堤防沿いでバイクの制動をかけた(停まった)と思う?」
その通信のログが完了した後、私たちは双方が少しの間、デッドサイレンスを維持した。
その静寂の構造は、奇妙極まりなかった。転送すべきデータが枯渇したわけではない。むしろ、ある核心のコードは既に双方のストレージへと完全同期されており、これ以上の入力を進めれば容量が溢れ出して構造崩壊を来すし、かといって後方セクターへ退避するのも論理的に破綻している。
だから最終的に空間に残留したのは、一歩も座標を挙動させていないというのに、物理的接触を執行するよりも遥かに危険な、この逼迫したディスタンスの質量だけだった。
真紀の指先に微かなトルクが締め上げられ、ようやくメインプロセッサで決断を下したかのように、襟元に付着していた雪の結晶を払い落とした。
「帰還りましょう」
彼女は言った。
眉を吊り上げる。
「今度のそのコマンドは、通常のパブリックな帰還か? それとも別の意味の不発弾が混入された、イレギュラーな帰還か?」
真紀は私を凝視した。これほどの極冷の寒気の中に直立しているというのに、彼女の耳の付け根のラインが、再びゆっくりと鮮烈な赤色へと染まり上がっていった。本当に、不条理なほどに防御力がバグっている。
「――両方よ」
彼女は言った。
……素晴らしい、完全な大破りだ。
この人間は本当に、言語の出力ボリュームを極限まで減殺させたステータスのまま、ターゲットを一切の退路が存在しないデッドロックの奈落まで追い詰める、高度なハッキングの手法を熟知している。
視線を下方へと退避させて短い自嘲の笑みを肺から排出し、手を延伸させてヘルメットのデバイスを回収した。
「了解した」
バイザーをクローズする前の最終シーケンスとして、もう一度だけ彼女の形体を網膜にスキャンした。
「だが、あらかじめ警告しておくがな」
可能な限り、いつもの平熱のトーンへとシステムを復元させて告げた。
「復路のタイムラインにおいて、またさっきのように強固なトルクで背後から抱きつかれた場合、私はもう一度、この土手沿いで完全制動をかけるかもしれないからな」
今回は、真紀は即座のカウンターコードを起動しなかった。
ただ私というオブジェクトを凝視し、極めて軽量で、淡く、しかし拒絶のアラートを一切作動させない音声で、そのコードを出力した。
「――停まれば、いいわ」
胸の奥のコアに強烈な熱量が直撃し、危うくヘルメットの装着シーケンスをミスしかけた。
バイザーを完全クローズし、セルモーターを駆動させてエンジンに火を入れる。
真紀が再びタンデムシートの座標へと着座した際、今度はさっきのタイムラインのように半拍のフリーズを起こすことも、作為的に私の両脇のクリアランスに手を添えてお茶を濁すような挙動もしなかった。
彼女は極めて自然な動線で、その上肢を私の腹部へと回旋させ、強固に私をホールドした。
先ほどの土手沿いにおける通信の完了が、この密着した双載のフォーメーションに対する、最後の余計な言い訳の装甲を取り払ってくれたかのように。
エンジンの物理振動が骨へと伝達され、木枯らしが再び肉体の正面へと衝突を開始する。
しかし今度の巡航においては、さっきほど内部のアルゴリズムは混乱を来していなかった。
事態の構造が単純に初期化されたからではない。この道程に横たわる「何事もないフリ」という欺瞞のプログラムを実行する必要性が、ようやく完全に消失したからだ。
後衛のオブジェクトは未だそこに存在し、その手のホールドも確実にそこにある。
朝のセクターは相変わらず極冷であり、雪片の落下も継続している。ベースに帰還すれば、全銀河で最も顔面を質量兵器で殴打したくなるジェスの見物人インジケーターと、鉑橋街二十二番地という、いつ何時メルトダウンを起こしてもおかしくない高圧的な空気が待機している。
処理すべき厄介事は多い。
山ほど、ストレージを圧迫している。
だが、バイクが再び前方セクターへと滑らかに滑り出し、巡航スピードに乗ったその刹那、ふと、少なくとも一つだけの評価関数に関しては、もう推測を敷く必要がなくなったのだと直感した。
昨夜の暴走は、一時の雰囲気がもたらしたエラーではない。
新年のカウントダウンだからでもない。
あの一分間の失手による、偶発的な突発事故などでは断じてない。
九島真紀が、私の真後ろの座標に同期している。
そして私は――彼女がただ背後からホールドしてくれているという、その物理的な熱量の入力だけで、この土手沿いにバイクを停車させずにはいられない生命体なのだから。
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