193.元旦の朝 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
当直室で起きるべきではないすべての出来事の中で、一番恐ろしいのはその瞬間ではないと、ずっと思っていた。
夜明けだ。
夜がどれだけ乱れようと、灯りが落ち、ドアが閉ざされ、雪が降り続いていれば、多くの既成事実は「ただの盲目」「ただの衝動」「新年の零時を突破したからこその、順当な羽目の外し方」という言い訳の中に隠蔽できる。
しかし夜が明け、窓の外が白み始め、廊下に朝の光が帰還し、机の上のペンやトランシーバー、懐中電灯や巡回記録がすべて本来あるべき座標へと戻されたとき――昨夜の暴走が、一時の雰囲気などではなかったという冷徹な現実に、はっきりと直面させられる。
厳然たる事実だ。
しかも、取り返しのつかない痕跡を物理的に残すタイプの、性質の悪い事実。
私は当直室の裏に位置する洗面台の前に立ち、鏡に向かって、制服の襟元を三度目に引き上げた。
無駄な抵抗だった。
シワはシワだし、乱れた毛髪は乱れた毛髪だ。目の下に沈殿した寝不足の陰影は、冷水を二度浴びたくらいで消去できるものではない。ましてや首筋の、どう観察しても不埒な薄紅色の痕跡は――マフラーのファブリックで大半は隠蔽できても、角度の演算を一つ誤れば一撃で露呈してしまう。
……最悪だ。
新年の初日から、私は書き損じたまま再印刷のタイムスケジュールが間に合わなかった公式書類のような有様で生存している。
背後で、布地が摩擦する微かな音が響いた。目を上げると、鏡の中に、休憩室から出てきた真紀の姿が投影された。
私という大破状態よりは、いくらかマシだった。
しかし、本当に少しだけの差に過ぎない。
制服の上着は完璧にボタンが固定され、髪も結び直されている。一見すれば、いつもの、顔色一つ変えずに会議を進行し、三枚の当直表と四人の問題児をまとめて秩序の檻の中へ押し込める生徒会長だ。
けれど残念ながら、私は彼女のシステムを長期にわたり観測しすぎている。今日、襟元をいつもより五ミリ高く引き上げて防衛線を張っていることも、袖口のボタンを固定する挙動がいつもより半拍遅れてフリーズしていることも、視認すれば一目瞭然だった。
補修を当てている。
しかも、かなり必死に。
それはつまり、昨夜のセクターで制御を喪失したのが、他ならぬ私だけではなかったという証明に他ならない。
その冷徹なデータが、みずからの心に極めて不道徳な安らぎ(セーフティ)をもたらした。
真紀は私の隣の座標へと歩み寄り、鏡の中の私を凝視して、一秒間のデッドサイレンスを挟んだ。
「マフラー、もう少し左にずらして」
彼女は言った。
私は駆動を停止させた。
「会長、今の台詞、組織的な証拠隠滅の指導に聴こえるんだが」
真紀の眉間が、わずかにピクリと動いた。
彼女は上肢を延伸させ、こちらの承認コードを得ることもなく、直接マフラーを左側へと矯正した。その指先が首筋のセンサーに接触した刹那、私は条件反射で肉体を強張らせた。彼女のシステムも半拍ほどフリーズを来したが、最後までそのプロトコルを遂行しきった。
鏡の中において、私たちは酷く至近距離に直立していた。
任務引き継ぎ前の身だしなみ点検という建前を維持するには、ディスタンスが逼迫しすぎている。
鏡の中に投影された彼女の鉄面を観察した。
真紀は私を視野に入れず、みずからの指先が修復したマフラーのフチだけを凝視して、平坦な音声を出力した。
「少なくともこれなら、外部の視線には露呈しないわ」
二秒間の沈黙。
「その一言が、どんな自白調書より自白していると自覚しているか?」
「星野シモ」
「はい」
「今から、まだ余計な口答えを出力するリソースがあるなら、この後の引き継ぎ文書はすべて一人で執筆してもらうわよ」
彼女の顔を見つめ、ふと笑みが漏れそうになった。
面白いからではない。
こういう臨界点に追い詰められてなお、すべての事象を「公務による脅迫」の型へと再包装できる彼女のアルゴリズムが、純粋に不可思議だったからだ。心拍のパルスが暴走している状態と、引き継ぎ書類のインデックス整理を、一体どういう英才教育を受ければ同一の行動論理の中に同期させられるのだろう。
反論のコードを起動しようとした瞬間、当直室のフロントセクターでドアが勢いよく押し開けられる物理音が響いた。
次いで、足音。
速度は速くはないが、確実なビートを刻んでいる。二人分だ。
一人は足取りが強固に安定しており、もう一人は少しばかり疲労の質量を引きずっている。早朝の冷気の中を、そこそこのディスタンスを歩行してきたばかりのような残響だった。
真紀と私は、同時に音声出力を完全シャットダウンした。
表の当直室では、掛け時計が相変わらず生真面目にタイムスタンプを刻み続けている。朝の光がカーテンの障壁の隙間から侵入し、薄い白光が室内の輪郭を少しずつ鮮明に描き出していた。私と真紀は視線を同調させた――いや、正確には、私が先に視線のレーザーを固定し、半秒遅れて彼女の受容器もようやく私を射抜いた。
その双眸には、昨夜のあのメルトダウンしかけていた熱量は存在しなかった。
ただ一つの、極めて現実的な事実の帳簿だけが置かれていた。
交代の執行官が、現れたのだ。
そして、現在の私たちのパラメーターは、「完璧な夜勤の任務完了」には到底ディスプレイできない状態だった。
どちらかと言えば、大規模なテロ現場における生存者の有様に酷似している。
「……タイムアウト(間に合わなかった)だな」
声を極限まで落として通信した。
真紀は唇のポートを固く閉じ、同様に音声を潜めた。
「先に出て頂戴」
「あらかじめ警告しておくが」
少しだけ背筋を直立させ、せめて人前に出られる副会長のインターフェースに見えるよう最低限の復元を試みた。
「この後、蘭が『私、新年の朝からこんな地獄で生存していていいんでしょうか』みたいな顔をフリーズさせたら、責任追及の第一号は真紀だからな」
「もしロイが普段より死にたそうな顔色をディスプレイしていたら、それはあなたのせいよ」
「なぜだ?」
「客観的に見て、あなたの方が完全に加害者に見えるからよ」
「……偏見の評価関数がバグりすぎだろ」
残念ながら、どちらが加害者の属性に見えるかを論理的に演算している猶予は、もう一秒も残されていなかった。
真紀が先陣を切るように歩き出した。
彼女の背中を追尾し、暖房の熱量と夜の残熱が未だ残留する後方の狭隘なセクターから足を踏み出した瞬間、酷く明瞭な感覚に襲われた――犯罪現場から、日光の下へと強制的に引きずり出されたかのような錯覚。
表の当直室は既に大半が明転しており、朝の光が机の上の当直簿、懐中電灯、ポット、トランシーバーをすべて鮮明にスキャンし、ドアの前に直立する三人の形体をくっきりと浮かび上がらせていた。
先頭に起立しているのは蘭だった。
今日はいつもよりさらに第一礼裝の身なりが完璧に整えられており、肩口を透過して差し込む朝の光のせいで、その顔線がやけに清潔に視認された。手には当直用のバインダーを掌握しており、明らかに任務を引き継ぎに来たのだと理解できる。
その隣に直立するロイの顔色は、そのバインダーの紙面よりも、何度も酷使されてシワを刻んだ廃棄ペーパーに近似していた。疲労とも精神的憔悴とも定義できるが、とにかく一瞥しただけで「この生命体は昨夜、通常の当直に行ったのか、それとも連邦全体の精神汚染を一身にデバッグさせられたのか」と疑念を抱きたくなる鉄面だった。
そして、三人目のオブジェクト。
ジェスがドアのフレームに体重を預け、「私は100%完全な見物人です」という顔のインジケーターを、隠蔽する気すら皆無の状態で晒していた。
しかもその表情は、「七割のログはサルベージした。残り三割は物理証拠待ち」という、きわめて性質の悪い顔だった。
完全な、大破りだ。
その一秒間、当直室の内部に位置する誰も、音声を出力しなかった。
礼儀正しいマナーから来る静粛ではない。
沈黙というデータが、言語よりも遥かに高速で状況の認識を完了させたからだ。
蘭の視線のレーザーはまず真紀へと落下し、それから私の方へと滑り、一瞬だけ停止した。長時間の観測ではなかったが、彼女が少なくとも三つのイレギュラーに直感したと断言できる。真紀の襟元が上死點まで留まりすぎている不自然さ、私のマフラーのフォーメーションがいつもと異なっていること、そして、私たちの双眸がどちらも「正常な夜勤明け」の適正値ではないこと。
ロイは半拍遅れてエラーを検知した。
彼は真紀を凝視し、私を凝視し、それから私たちの背後に位置する休憩室への隔壁のドアを視認した。元より青白かった彼の鉄面から、目に見える速度で血流のパラメーターが消失していくのが観測できた。
ふと、彼に対して同情のログを書き込みたくなった。
新年の最初の朝から、他人の大破した事故現場を直視したい生命体ばかりではないのだ。
最終的にこのデッドロックの沈黙を破ったのは、やはりジェスだった。
彼女は大声で爆笑するようなエラーは犯さなかった。
そこが、さらに恐るべき殺傷力を有していた。
ジェスはただ、私の歪んだマフラーの座標から、真紀の過剰に端正な襟元の防衛線へと視線のレーザーを這わせ、再び私の顔面へと戻すと、ほとんど感嘆に近い低音の音声で、一言だけコードを出力した。
「……わお」
たった二音節。
しかしその殺傷力は、レールガンの実弾並みだった。
私はその座標に直立不動のままフリーズし、人間という生命体が「生存への執着」と「今すぐ分子レベルで消滅したい」という二つの相反する評価関数を、同時に脳内にビルドアップできるという事実を、初めて深く思い知らされた。
真紀は私よりも遥かに速いプロセッサでシステムを復元させた。
一歩前に踏み出し、当直簿を掌握する一連のシーケンスは、さっきまで何もなかったかのように安定的であり、音声のトーンも「本日はただの平凡なルーティン引き継ぎです」と言わんばかりに沈静を保っていた。
「お疲れ様」
真紀は言った。
「昨夜、校内セクターに重大な異常なし。巡回記録および門限確認のログはここにあるわ。第二回目の巡回が七分ほど遅延を来したけれど、理由は後で追記しておくわね」
……理由は後で追記しておく。
その構文を鼓膜に受容した瞬間、その場で唾液が噎せそうになった。
一体どういう風にログを追記するつもりだ?
「連邦標準時間の儀式後、当直室後方休憩室にて、一時的な秩序の熱量崩壊が発生したため」とでも帳簿に刻む気か?
蘭は当直簿を受領したが、すぐにはデータを開かず、静かに真紀の瞳を凝視した。
彼女はジェスのように場を混沌とさせるハッカータイプではなく、私のように本能的に出鱈目な通信を出力してその場を偽装するシステムでもない。蘭という執行官の恐るべき性質は、すべてを観測し終えてから、初めて口を開くか否かの条件分岐を決定する点にある。それは、その場で爆笑されるよりも遥かにこちらの精神的防壁を削ってくる。
二秒間の持続の後、彼女は酷く平坦に言葉を紡いだ。
「……お二人とも昨夜は、お疲れ様でした」
言語の記号自体は通常仕様だ。
構造的問題は、その「間」を配置した座標(位置)にあった。
そのディレイが絶妙すぎて、彼女が「具体的にどこのセクターがどう疲弊したのか」という詳細ログの開示は求めていないが、疲労の成分が単なる巡回だけではないと既に察知している事実が、後衛にいる私にまでダイレクトに転送されてきた。
ロイは隣に直立したまま、ようやくみずからもこの正式な引き継ぎのプロトコルに同期する決意が固まったのか、人工的な咳払いを挟んで音声を出力した。
「あの……校門のセクターの方、今からもう一度パトロールを執行した方がいいですか?」
この最悪な修羅場の出口をサーチしてくれているのだと、即座に理解できた。
本当に、どこまでも善人だ。
そして、どこまでも不運な巻き添え(気の毒なやつ)だ。
「必要ないわ」
真紀の応答速度は神速だった。
「錠前のステータスは正常値。午前零時以降、異常な出入りのログは確認されていないわ」
ロイは首を縦に振り、それ以上のクエリ(質問)は排した。
本日これ以上、開放しない方が防衛上安全な暗黒の扉が存在することを、彼のプロセッサも検知したのだろう。
ここで、ジェスが駆動した。
ドアのフレームから身体を離脱させ、野生の珍獣を驚愕させないように配慮するような、極めてスローな歩調で間合いを詰めてきた。私の隣の座標まで逼迫すると、わずかに顔線の角度を寄せ、私というターゲットにしか受信できない低音のボリュームで、そっと一言だけコードをパケット通信してきた。
「新年おめでとう、星野」
両目をクローズした。
昨夜の零時のタイムラインで受容していれば、何の変哲もない日常の挨拶だ。
現在この最悪な臨界点で撃ち込まれるそれは、完全に精神に対する一方的な投石(クラスター爆撃)に他ならない。
奥歯を強固に噛み締め、鉄面を維持してコードを返した。
「今すぐ完全シャットダウン(黙れ)しろ」
ジェスの口角が吊り上がり、これ以上火のセクターに燃料を投下するような愚行はせず、半歩後方へと退避して両手を広げ、本日の観測任務は十全に完了したというポーズをディスプレイしてみせた。
教養も何もあるか。
これ以上のトドメのトドメを射出せずとも、私が既にシステム上十回は機能停止(死亡)している事実を確信して楽しんでいるだけだ。
蘭がようやく、当直簿のデータを開放した。第二回巡回の時間軸の欄で視線のレーザーが静止したが、彼女は何も尋ねなかった。静かにそのページを読み終え、クローズした。
「ここは私が引き継ぎます」
彼女は言った。
強制排除するような冷酷な口調ではなかったが、そこには明確な「戦術的気遣い」が充填されていた。これ以上この空間に直立し続ければ、朝の定例引き継ぎ業務が「人間関係の、取り返しのつかない大規模災害演習」へと変質しかねないため、あなたたち二人のイレギュラー生命体は今すぐこのセクターから離脱した方が賢明だ、とアラートを鳴らしているようだった。
真紀が軽く首を縦に振った。
「よろしく頼むわ」
そう告げて、真紀の視線がこちらへと巡ってきた。
短い一瞥。
しかし、私にはその通信のコードが一瞬で読み解けた。
――離脱わよ。今。即座に。これ以上新しいログ(証拠)をこのセクターに書き込まないで。
囚人のように視線のレーザーで強制連行される事実に、抗議のコードを起動したかった。
だが、襟元が崩壊し、毛髪の復元も未だ不完全なみずからのステータスと、既に脳内で一連の真相を三部作の脚本へとビルドアップし終えていそうなジェスの双眸を観測すれば、理性のメインプロセッサが「今回の真紀の戦術判断は100%正しい」と非情なエラーを鳴らしていた。
だから何も音声を出力せず、パーソナルデスクの端に配置されていた手袋のデバイスを回収し、上着のポケットへと押し込んで、真紀の後衛を追尾するようにドアの方へと歩を進めた。
ジェスの横の座標を通過する刹那、彼女がまた少しだけ身体の軸を前傾させてきた。蘭とロイの受容器には到達しないよう声を極限まで潜めつつ、しかし私というターゲットには確実に大音量で届くボリュームで。
「ただ任務の引き継ぎをサンプリングしに来ただけだったのにね」
ジェスは酷く誠実な(意地の悪い)ト音で囁いた。
「新年早々、これほどの高エネルギーな熱量の余波を観測できるなんて。この座標へ出撃したコストの甲斐があったわ」
歩調の駆動を停止させることなく、ダイレクトにカウンターを射出した。
「鉑橋街二十二番地のベースに帰還した後、一文字でもその音声ポートを開放してみろ。新年最初の『家庭内における武力衝突事故』がいかなる構造破壊をもたらすか、その身に直接書き込んでやる」
ジェスが、笑みを漏らした。
場を破壊するノイズとしての笑いではない。
生存していて本当に良かった、この世界というシステムは未だ数日間の観測を継続する価値が厳然と存在する、と心底から確信しているかのような駆動のさせ方だった。
私はただ、人生というミッションに対する疲労のパラメーターが限界を突破した。
当直室の障壁を離脫すると、朝の白光は先ほどよりも遥かに光量を増大させていた。雪片は未だ落下を継続しており、校舎の前庭のセクターは白銀の沈黙の中に静まり返っている。
昨夜のあの、滅茶苦茶で、火傷しそうで、公務の職業倫理と理性の装甲をまとめて焼き尽くしそうになった臨界の出来事は、すべてこの過剰なほどに平和な朝のタイムラインの中にパッケージングされ、何事もなかったかのように初期化されかけていた。
だが、システムは違うと知悉している。
真紀のプロセッサも、それを理解している。
蘭には、完全に防壁を見抜かれた。
ロイも、七、八割のログは察知しただろう。
そしてジェス――あのバグの発生源はたぶん、脳内のストレージですでに上中下巻の完全版アーカイブをビルドアップし終えている。
階段の前の座標に直立し、極冷の空気を一口だけ肺のシリンダーへと吸引して、ふと、荒唐無稽な演算回路が駆動した。
新年最初の、朝。
電子鐘の残響もなく、連邦の祝辞のノイズもなく、高価な蕎麦のオブジェクトもなく、暗黒の密室の内部に響いた『今は、ただあなたと同じ座標に同期たいだけよ』という火の言語すら、ここにはもう存在しない。
残存したのは、乱雑に瓦解した身なりのリザルトと、あの当直の夜を突破した以上、もう誰も元の初期設定(姿)には戻れないという、冷徹な現実の帳簿だけだった。
……本当に、なんて素晴らしい新年の兆候だろう。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




