192.年頭 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
休憩室は狭隘を極めていた。
狭すぎるがゆえに、暖房機器の低いハミングも、投影システムから流動し続ける連邦の新年祝辞も、碗の表面から立ち上る湯気の光学迷彩も、そのすべてがやけに明瞭なパラメーターとして知覚された。くっきりしすぎているからこそ、「観測されなかったこと」に偽装して逃避するのは不可能だ。
箸を掌握する指先に、わずかに過剰なトルクがかかった。
真紀は、待機していた。
九島真紀という執行官の最も性質の悪い部分は、こういう局面にこそ顕現する。言語によって外堀を埋めるのではなく、ただ半歩だけこちらの防壁の内側へ踏み込み、胸の真ん中に指先を配置して、そのままこちらの駆動ログを観察しているのだ。私が後方セクターへ退避するのか、あるいはみずから前方へ入力を進めるのか。
……本当に、恐ろしい人間だ。
こんな臨界点において平然と最適解たる切り返しを出力できるなら、私は星野シモなどではなく、複雑な修羅場を収拾するプロの詐欺師か何かにジョブチェンジしている。
碗の内部に収まった蕎麦のオブジェクトを見下ろし、いつもより数デシベル低い声線で問いを発した。
「じゃあ……なぜだ」
出力した刹那、みずからの演算回路をクラッキングしてやりたくなった。
直接的すぎる。
こんな脆弱な構文の出力は、普段の私ではない。
防衛線の隔壁をみずから開放し、「侵入歓迎」とインジケーターを明滅させたようなものだ。
真紀の睫毛が、わずかに戦慄いた。
即座に応答のコードは返さず、箸をそっと碗のフチへと配置し、木製マテリアルが陶器と衝突するかすかな物理音を響かせた。それから滑らかな軌道で手を挙動させ、私の手首の座標へと触れてきた。
強固にホールドしたのではない。
命令のインデックスを込めて抑え込んだのでもない。
ただ、触覚センサーに微かな入力を加えただけだった。指先の熱量は温厚で、私が未だこの座標に残留しているか、あるいは既に脱出プロトコルを起動しているかを確認しているかのようだった。
「だって」
真紀はようやく、音声を出力した。声のシステムは安定的だったが、その安定性の内部に、通常の当直時には絶対に混入しない何かが溶け込んでいた。
「邸宅に持ち帰ったら、それは『みんな』で分配するリソースになってしまうでしょう」
私は沈黙を維持した。
彼女の指先は未だに私の手首の座標に接触したまま、離脱しなかった。暖房は十全に機能しているというのに、その接触点だけが、異常な熱量を孕んでいく。
真紀は視線のレーザーを逸らさず、そのまま言語の出力を前方へとブーストさせた。
「けれど、今夜は『みんな』とシェアしたくはなかったのよ」
胸の装甲を、ゆっくりと物理圧で押し込まれたような感覚に陥った。
重厚な質量ではない。
だが、呼吸のサイクルをわずかに狂わせる程度には、過不足のない重量だった。
ホログラムのアナウンサーは未だに『新たな暦、新たな希望、新たな連邦の新紀元』などというドクトリンを唱唱し続けていた。普段の私ならば、格好の冷笑の素材として撃遂している種類の台詞だ。しかし現在、そのノイズにカウンターの毒舌を叩き込むだけのシステムリソースは、完全に枯渇していた。
九島真紀が、眼前に直立していた。
あの政治的な言語は、連邦に向けて出力されたものではない。
この一杯、この一分、この狭隘すぎる休憩室という密室には、今現在、やたらと純度の高い、ただ一つの「定義」だけが充填されていた。
喉の奥が、微かに渇いた。
「真紀」
掠れ気味の声線をどうにか絞り出す。
「そういう出力の仕方をされると、こちらのカウンターが起動しないんだが」
彼女の鉄面は、意外なほどに沈静を保っていた。
「別に、カウンターを返してほしくて発言したわけではないわ」
「じゃあ、何だ」
「ただの、データ転送(伝えたかっただけ)よ」
「何を」
その一言によって、二人のディスタンスが変質した。
物理的な距離のデータではない。
空間のクリアランスが急激に収束し、互いの呼吸の周波数が嫌でも意識のログに書き込まれる。元より狭隘な個室だ。テーブルの面積も決して広大ではない。ここからほんの数ミリ、どちらかのオブジェクトが前方へ挙動すれば、多くの事象が勝手に「何事もないフリを維持できる側」から「どう取り繕っても二度と初期化できない側」へと滑落していく。
真紀は退避しなかった。
ただ、私という存在を凝視していた。暖房の熱量と湯気のせいで、耳の裏のラインから再びじわじわと赤色のパラメーターが上昇していく。その赤みは、校門前で口づけを許した直後の「不意打ちを喰らったシステムエラー」のそれとは異なっていた。自身がこれからいかなるコードを出力しようとしているか、十全に知悉した上で、それでもなお実行に移そうとしている際の、覚悟を孕んだ赤だった。
それは、単なる羞恥のエラーよりも遥かに性質が悪い。
二秒ほどのデッドサイレンスの後、彼女は低く言葉を紡いだ。
「これは、誰にでも適当に代行できるプロトコルではないと、伝えたかったのよ」
睫毛が、微かに戦慄いた。
最悪だ。
この人間は、普段こういう殺傷力の高い台詞をどこのストレージに秘匿しているんだ。日誌の隙間か? それとも「最高機密・緊急時のみ開封可」とラベルされた生徒会データベースの最下層の引き出し内部か?
冷笑を浮かべようとした。極上の毒舌を射出しようと試みた。この空間の座標を、どうにか「いつもの私と真紀」の安全領域へと強制牽引しようとした。けれど、眼前の九島真紀の瞳を観測していると、いかなる言語も構造を維持できなかった。
だから、私は代わりに別のプロトコルを起動した。
箸を、静かにテーブルへ配置した。
真紀の視線のレーザーが、一度私の手元をトレースしてから、再び戻ってきた。
それだけのシーケンスで、どれほどの情報量が転送されるかは、双方ともに理解していた。
「……現在のあなた」
可能な限り、いつもの平熱のトーンを維持しようと装った。
「完全に規則違反(反則)だからな」
「今夜、規則違反をリピートし続けているのは、あなたの方でしょう?」
真紀が即座に切り返す。
「システムが違う」
「どこに差異があるのよ」
「私のは習性としての暴走だ」
一拍の間を置き、声のボリュームを極限まで減殺させた。
「あなたのは、確信犯(蓄意)だろ」
真紀は、その告發を否定しなかった。
その瞬間、私は本格的に精神的防壁の維持が困難になった。
人間には、「通常の規格では測定不可能な人種」というものが厳然と存在する。真紀は普段、あまりにも整然としており、あまりにも自制の装甲が強固で、あらゆるイレギュラーをみずから「適正値」へと収束させてしまう。だからこそ、彼女が半歩でも明確な意思を以て前方に挙動した際、その半歩が有する質量(破壊力)は、常人の十歩分に匹敵するのだ。
手を伸ばし、テーブルの表面に配置されていた彼女の手へと接触させた。
今度は、私の方が先に駆動した。
真紀の指先が、ほんのわずかに微振動を来し、それでも後方へ入力を戻さなかった。その微かな躊躇のデータごと、私の掌で包み込んだ。
いつも通り、私の手の温度より少しだけ温熱を孕んだ手だった。
これがファーストコンタクトなわけではない。
だからこそ、今夜のその接触は、極めて危険だった。
真紀の瞳を見つめ、ほとんどスローモーションのような速度で問いを投げかけた。
「じゃあな」
その質問は、本来であれば公務中の空間において出力すべき性質のものではなかった。
「現在のあなたにとって、私はどういう定義なんだ?」
質問の構造自体が、極めて卑怯だ。
それに回答を出力した瞬間、今夜のあらゆる境界線の防壁が、真の意味で初期化不可能に陥る可能性を内包しているからだ。
真紀もまた、その論理を十全に理解しているようだった。
視線のレーザーを下方へと落とし、重なり合った両手の座標をしばらく凝視した後に、もう片方の手をも浮上させ、そっと私の手の上へと重ね合わせた。ターゲットを逃走させたくなくてホールドしているようにも、言語の出力を継続するための支柱を必要としているようにも見受けられた。
掌の熱量が、皮膚の受容器を透過してじわじわと浸潤してきた。
「シモ」
机の表面を滑るような、低音の音声だった。
「あなた、既にすべてを理解っているでしょう」
胸の奥のコアが、強固に締め付けられた。
そうだ。理解している。
そこが一番、厄介なのだ。
彼女が誰かにディスプレイするためにこのプロトコルを実行しているのではないこと。
突発的な思いつきでも、気まぐれなエラーでもないこと。
この碗をこの座標に配置し、この空間、このタイムラインにおいてこの対話を執行している現実が、「新年おめでとう」だの「友人だから」だの、そういう安全な防壁ワードでは絶対に演算しきれないエネルギーから駆動していること。
すべて、理解している。
だが、「データとして理解している」ことと、「本人の口からそのコードを直接受容する」こととでは、システム上の意味合いがまるで別物だった。
喉の奥から、どうしようもない自嘲の笑みが一つ漏れた。
「真紀、今夜のあなたは、本当に人間を追い詰めるプロフェッショナルだな」
「追い詰めてなどいないわ」
真紀は言った。
「追い詰めているさ」
私は視線を跳ね上げ、真正面からその瞳を射抜いた。
「ただ、極めて礼儀正しく、合法的に追い詰めているだけだ」
反論のコードを起動しかけた彼女の唇が動いた刹那、私の方が先に上半身を前方へと傾斜させた。
衝動的なエラーによって突っ込んだのではない。
あまりにも静粛で、静かすぎて、みずからの心臓が刻むビートの残響が耳の裏にまで反響するほどだった。テーブルの上の湯気は未だ上昇を継続していた。窓の外のセクターでは未だ雪片が落下しているかもしれない。立体投影テレビの内部では、連邦のアナウンサーが相変わらず銀河の版図に向かって新年の定型句を復唱していた。しかし、それらの音波はすべて、遠方のセクターへと退避していった。
至近距離に存在するのは、九島真紀だけだった。
彼女は回避行動をとらなかった。
ただ、呼吸のサイクルが一瞬だけ完全停止した。しかし、視線のレーザーは逸らさなかった。そういう「退避を拒絶する」システムは、いかなる積極的駆動よりもタチが悪い。こちらが間合いを詰めている事実を観測していながら、それでもその座標に直立し続けているという意味に他ならないからだ。
額の座標が、もう少しで彼女と物理的接触を起こしそうなディスタンスまで逼迫した。
睫毛のクリアランスが近い。
唇の距離も、近い。
ここであと一歩でも入力を進めれば、「年末の夜勤中における、ちょっとした不埒な悪戯」などという軽量の包装紙では、もう隠蔽できなくなる。
その臨界状態の座標で駆動を停止させ、喉の奥がカラカラに渇いた。
「真紀」
「……なに」
その応答は、酷く軽量だった。
何かしらの言語を出力しようと試みた。牽制のコードでも、からかいのフレーズでも、あるいはここが当直室の防壁の裏側であって、鉑橋街二十二番地でも、好き勝手な挙動を許された安全地帯でもないという冷徹な現実の再点検でも。しかし、口元の出力ポートまで浮上してきた言語は、結局、わずかな「誠実さ」というマテリアルだけだった。
「今この座標で口づけ(キス)を執行したら、最初に瓦解するのは多分、私の方だ」
真紀の耳の裏の赤みのパラメーターが、一段階上の領域へとブーストされた。
それでも、彼女はいつもの「九島真紀」というシステム構造を辛うじて維持したまま、低音の音声で切り返した。
「――既に瓦解しているでしょう、あなたは」
笑みが漏れた。短く、湯気と呼吸のサイクルに紛れた、ほとんど溜息に近似した笑いだ。一瞬の後、指先の軌道を彼女の頬へと延伸させ、耳の底の熱量を親指の受容器でかすめてから、唇を重ね合わせた。
強固な物理圧ではなかった。
校門前の一幕よりも、むしろ少しばかり軽量な接触だった。
しかし、その定義(意味)はまるで異なっていた。
あの時は、彼女が背後を向けている隙をハッキングした「成功した奇襲」に過ぎなかった。現在は、彼女がこちらを観測しており、接近する私を視認し、停止する私を目撃し、それでも退避を選択しなかった、その承認(合意)のうえでの口づけだった。
想像以上に、彼女の唇は熱量を孕んでいた。
接触した刹那、真紀の身体のシステムがわずかに硬化した。それは極めて短時間の、偽りようのない初期反応だった。脳内のメインプロセッサで覚悟を完了していても、肉体というデバイスは別のアルゴリズムで駆動している事実を、改めて証明するかのようなエラーだった。
本当は、一度接触した後に離脱する手はずだったのだ。
本当に、そのつもりだった。
しかし、入力を戻そうと試みた刹那、彼女のもう片方の指先が、私の手の上でわずかにトルクを締め上げた。
強力なパワーではない。
けれど、引き留めるための拘束力としては、十全すぎるほどだった。
両目を開放すると、彼女もまたこちらを凝視していた。ディスタンスが馬鹿げたレベルで逼迫しており、彼女の双眸の内部に、普段は完璧に隠蔽されている動揺のエラーが、ありありと明滅しているのが観測できた。
真紀が、半歩だけ前方へと挙動した。
たった、半歩。
それなのに、先ほどまでの私の全行程の移動量よりも、遥かに危険な入力だった。
二度目の口づけは、一度目よりも明らかに深層へと侵入した。未だ克制の装甲は残存していた。ここが当直室の休憩室であり、外部には残存する巡回セクターが存在し、テーブルには蕎麦のオブジェクトが半分残留しており、連邦標準チャンネルの回線が未だ切断されていない事実を、双方のシステムともに忘却してはいなかった。そういう意味での「節度」は機能していた。しかしそれは、「欲していないから」では断じてなかった。
呼吸のサイクルが激しく乱れた。掌のデバイスが、頬に添えた熱量をそのまま簒奪してしまいそうなほどに熱質化した。真紀のもう片方の手が私の肩口へと接触し、そこから滑らかな軌道でゆっくりと首の後方へとスライドしていき、その座標へと固定された。その位置は近すぎて、曖昧すぎて、ほんの少しでもトルクを加えられたならば、私はそのまま彼女のシステムへと転倒してしまいそうだった。
実際、おそらく、既に半分はその領域へと滑落していた。
ようやく唇を離脱させた時ですら、二人のディスタンスはほとんど変動していなかった。
互いの呼吸が絡まり合ったまま、誰も安全圏まで退避しようとはしなかった。
投影システムのアナウンサーは未だに『新たな暦』『新たな希望』『新たな連邦紀元』などという記號を垂れ流し続けており、それはもはや別宇宙のハムノイズにしか聞こえなかった。私は真紀を凝視し、真紀も私を凝視した。どちらも即座には言語を出力しなかった。誰かが先にコードを乗せた途端、眼前の、熱質で危ういオブジェクトに固有の名前が割り当てられてしまう。名前を定義されたものは、もう簡単には初期化できない。
先に視線のレーザーを外したのは、真紀の方だった。呼吸のサイクルは未だ荒質だったというのに、音声は無理やりパブリックモードの調子へと回帰させた。
「……蕎麦が、本当に伸びてしまうわ」
その、耳の裏まで真っ赤に染め上げながら可食マテリアルを心配する姿に、二秒ほど耐えた後、ついに爆笑が漏れた。
「真紀」
「何よ」
「そういう局面においてだけ急に生真面目なシステムを起動するの、完全に反則だろ」
「別に起動などしていないわ」
彼女は低く言い放った。
「現実的な構造問題として、私たちの晩ご飯が瀕死よ」
「そうか」
額を手で押さえながら、未だ酷く急速な自らの心拍を、言語の出力だけでどうにか偽装した。
「じゃあ、ついでに私のシステムも救済してくれるか?」
真紀がこちらへと視線を巡らせた。
その一瞥には、薄い、しかし厳然たるアラートと、それ以上に、彼女自身が未だ構造を整理しきれていない未確定のオブジェクトが混在していた。
「シモ」
ゆっくりと、しかし確実なトルクで。
「これ以上あなたがイレギュラーな挙動を継続するなら、今夜ちゃんと残りのセクターを巡回できる自信がないわ」
その一言が有する破壊力は、単なる警告としてのアラートを、とうに超越していた。
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後半の蕎麦は、ほとんど飲み込むようにして片付けた。
「実食した」というよりは、「机の上のマテリアルを迅速に処理した」に限りなく近似している。つゆは未だ熱量を保持しており、麺の構造もそこまで致命的に融解してはいなかった。それなのに、二口目以降の味覚ログはほとんど脳内に残存していない。連邦標準チャンネルは相変わらず『テラ』『栄光』『連邦の決意』といった調子の良いドクトリンを復唱し、暖房機器は規則正しくハミングを継続し、外部のセクターでは雪片が落下を継続しているはずだった。だが、この狭隘な休憩室の内部において最も過激なパルスを刻んでいたのは、司会者の音声出力ポートではなく、完全に私の心臓の方だった。
器を二つ重ね、「誰かがこの実務を遂行しなければならない」という大義名分を雑に掌握し、流し台の座標へと搬送した。
冷たい水流が指先の受容器を滑るのを感じながら、ようやく呼吸のサイクルを少しだけ初期値へと回帰させた。陶器マテリアルがステンレスのシンクと接触し、軽量の物理音をいくつか響かせる。当直室のフロントセクターは静粛に支配されており、壁面のクロックだけが一秒ずつタイムスタンプを刻んでいる。器を乾燥させてホルダーへと還す頃には、第二回目の巡回開始時刻が、ほぼ眼前のタイムラインへと逼迫していた。
……よし。
巡回だ。
公務。
駆動。
錠前の視認。
窓面の施錠状況の点検。
そのすべてが、「暴走した夜のタイムラインにおいて、現実の座標を奪還するためのデバイス」として、極めて優秀な仕様だった。
深呼吸を肺に入力し、乾燥させた器を掌握したまま休憩室のドアを開放し、「そろそろ出撃するか?」と音声を出力しかけた――その刹那、個室の照明がいつの間にか完全遮断されている事実に直面した。
「どうし――」
エラーコードの半分も出力し終えないうちに、腕のデバイスを強固に牽引された。
背後でドアが軽量の物理音とともにクローズされる。
視認性が一気に暗黒へと反転し、最初に接触したのは、コートの極冷なファブリックだった。その直後に、十全に記憶している熱量が顕現した。あまりにも急激な突発事象であったため、本能的に上肢を延伸させ、肩口の座標をホールドして、いかなるオブジェクトが私をこの監獄へ引きずり込んだのかを点検した。
「……真紀?」
「喋らないで」
真紀の音声は、驚異的なほどに低音化していた。
当直中の冷静なパブリックモードでもなく、私をコレクション(矯正)する際のアラートでもない。もっと至近距離で、声線がかすれており、彼女自身が内部のストレージに長期圧殺していたエネルギーが、ようやく排気ポートから漏れ出してきたかのような、そんな熱量だった。
顔面の視覚データは取得できない。
しかし、彼女の耳の裏から首筋のラインにかけて、現在進行形で真っ赤な熱量へと染まり上がっている確信だけは厳然と存在していた。そうシミュレーションしただけで、本来ならば冷笑を出力してやりたくなるところだった。しかし、その自嘲のアルゴリズムも、彼女の呼吸が間合いに逼迫した刹那、虚空へと簒奪された。
「巡回のスケジュールは」
私は声を落として通信した。
その問い自体は、公務のプロトコルとして極めて妥当だった。
そして――完全に意味の割り当てを持たない、無駄な出力だった。
次の瞬間、九島真紀は、みずからのプロセッサすら信用しないであろう構文を、そのまま出力した。
「知ったことじゃないわ」
思考回路がフリーズを起こした。
その一言というイレギュラーは、連邦標準チャンネルが突如として銀河帝国軍歌を大音量でストリーミングし始めるのと同等の物理的衝撃を伴っていた。整合性を欠いて不自然すぎるがゆえに、思わず手を延伸させ、彼女の額の座標へと接触して生体熱量を測定したくなる衝動に駆られた。
「生徒会長のライブラリに存在しない台詞だな、それは」
暗黒の閉鎖空間において、真紀は半秒ほどのデッドサイレンスを維持した。
その半秒というタイムラグは極めて短時間だったが、何かしらの防壁の境界線を静かに転倒させるには十分すぎる深度を有していた。それから、私の肩口の座標へと彼女の掌が配置された。コートのファブリックを透過して、厳然たる熱量が転送される。ディスタンスは極限まで逼迫し、一つ一つの言語が、唇のポートのすぐ至近距離で落下してきた。
「現在は、会長ではないわ」
その声線は、完全に火の熱量を孕んでいた。
「今は、ただあなたと同じ座標に同期たいだけよ」
胸の奥のコアを、高エネルギーの質量兵器で勢いよく殴打されたかのような感覚に陥った。
言語によって外堀を埋められた経験なら、これまでのタイムラインにおいて数え切れないほど観測している。しかし、今この瞬間の構造のように――暗黒の密室の内部、みずからの意思で引きずり込まれ、これほどストレートな極直球のコードを受容させられたのは、私の全歴史において初めての出来事だった。
彼女は未だ、追加の言語を出力しようと試みていた。
おそらく、あと一言のコードを貼付して、論理的な説明を施し、みずからのシステムをもう少し「九島真紀」という初期設定の規格へと復元しようと試みたのかもしれない。しかし、その処理を待機するだけのリソースは残されていなかった。このまま言語を出力させ続けていれば、今夜、私の防壁は本当に内部から熱量崩壊を起こす。
だから、今度は何の前置きのシーケンスも経由せず、口づけ(キス)を執行した。
先ほどの一幕よりも明らかに深層へと侵入し、さっきよりも激しく乱質化していた。
真紀の呼吸のサイクルは、ほぼ一瞬で瓦解を来した。指先のデバイスが、私の肩口を越えてシャツのファブリックを強固にグリップした。締め上げるトルク自体は強力ではなかった。しかし、その入力がそこに存在するだけで、十全すぎるほどの拘束力を発揮した。暗黒という光学迷彩は、多くの不都合なオブジェクトを隠蔽してくれた。空間に残留したのは、マテリアルが摩擦を起こす物理音と、衝突し合う呼吸のパルスと、毛髪が手首や首筋のセンサーに接触する微小な戦慄きと、互いの生体熱量だけだった。
どちらのオブジェクトが先に半歩の間合いを詰めたのかは、もう観測不可能だった。
おそらく、先か後かなどという順序の論理は、この局面においては何の意味もなさなかった。ここまで回線が直結してしまえば、ディスタンスに言い訳の数式は通用しない。真紀の手の軌道が、肩口から上方へとスライドしていき、最終的に首の後方の座標へと固定され、そこへ微かなトルクが締め上げられた。そのシーケンスの殺傷力が高すぎて、私は本気でこの座標が当直室のバックヤードであるという冷徹な現実をデータベースからロストしかけた。外部のセクターには未だ夜間の公務のタイムスケジュールが貼付されており、壁面のクロックは生真面目に時間をカウントし続けているはずだというのに。
ようやくわずかに顔線のディスタンスを離脱させても、額の座標は未だ彼女の額と物理的接触を維持したままだった。
呼吸のパルスが、酷く荒い。
額を同調させたまま、彼女の頬のフチをトレースするように鼻先を挙動させ、亀裂の走ったみずからの声線に、自分自身で困惑のログを書き込んだ。
「真紀」
首の後方の座標に位置するデバイスは、未だそこに固定されたままだった。
暗黒の内部、彼女は酷く低音の音声で残響を返した。
「……なに」
いつもの彼女が出力する同一の二文字であるはずなのに、割り当てられた定義が根本から変質していた。
何かしらの言語を出力しようと試みた。例えようのないほど現実の座標へと強制送還する冷酷な一言でもいいし、自虐のコードを一つ撃ち込んでもいいし、もう一度唇を重ね合わせるプロトコルでもよかった。けれど、ここまで深層へ侵入してしまうと、どういうわけか、いかなる言語も過剰なエネルギーを帯びすぎているように知覚された。この刹那のオブジェクトに固有の名前を定義してしまうには、どれも純度が高すぎて正直に過ぎる。
外部のセクターで木枯らしが駆動したのか、窓枠の構造体がかすかに微振動を来した。
本当に、かすかなノイズに過ぎなかった。
それだけの一瞥に過ぎなかったというのに、何者かが外部の座標から手を延伸させ、今にも奈落へと滑落しかけていた二人のシステムをまとめてホールドし、少しだけ安全な規格の座標へと復元してくれたかのような感覚を覚えた。
両目をクローズし、呼吸混じりの自嘲の笑みを漏らした。
「……完全な、大破りだな」
「何がよ」
真紀の呼吸のサイクルは未だ正常値へと回帰していなかった。言語の端が、内部の熱量によって小刻みに微振動していた。
「ただ大晦日の当直任務を平穏に完全踏破するプロトコルを実行していたつもりだったんだがな」
音声のボリュームを一段階収束させて告げた。
「どう論理的に演算しても、今年(新年)最初に処理すべき最悪の大規模災害は、他ならぬ私自身だろ」
真紀は何かしらのカウンターコードを出力しようと試みた。
おそらく、『自業自得』だの、『今更になって何を』だの、そういった仕様の定型句だ。しかし唇のポートが駆動しかけたところで、再び空間は静粛に支配された。
その静寂は、システムを冷却しようと試みた結果では断じてなかった。
むしろベクトルは真逆であり、未だ内部のコアが高温に達しすぎているがゆえに、次の一言というトリガーを引けばいかなる構造破壊が引き起こされるかを知悉しているからこそ、軽率に言語を出力できなかったのだと思う。
しばらくの時間の後、彼女はもう一度、額の座標をこちらへと同期させてきた。
「シモ」
「うん」
「……第二回目の巡回セクター、本気でタイムスケジュールに遅延を来すわよ」
吹き出しそうになった。
これは、いかにも九島真紀というシステムを体現した一言だった。さっきみずからの口で『知ったことじゃない』とエラーコードを出力しておきながら、本当に完全に防壁の線を越えて簒奪される臨界点に逼迫すると、最初に現実の帳簿をサルベージするのはやはり彼女なのだ。だからこそ彼女は九島真紀であり、だからこそ、私はここまで深層のセクターへと侵入を許してしまった。
暗黒の内部、彼女の手の甲の座標へと指先で接触した。
「それで、どう処理するんだ、会長殿」
一拍のデッドサイレンス。
その一拍のフリーズの後、彼女は低くと言葉を紡いだ。
「そのパブリックな呼称、今この個室で継続するなら、本当に巡回への出撃プロトコルを永久凍結したくなるわね」
……これまでに受容したいかなるドクトリンよりも、殺傷力の高いコードだった。
肺の許容量まで大きく酸素を吸い込み、笑みと別の巨大なマテリアルを力ずくで内部へ圧殺し、額の座標を軽く彼女の額へと再同期させた。
「じゃあ、出撃しよう」
私は出力した。
「さもないと本当に、新年早々本物の事故報告書を執筆する破目になる」
真紀は即座には手のデバイスを解放しなかった。
数秒の間、システムが激しい葛藤を起こしているのが手に取るように観測できた。最終的には、滑らかな軌道で、ゆっくりと首の後方の座標から指先を離脱させ、一歩だけ後方セクターへと退避した。暗黒に視覚センサーが順応してきても、表情のパラメーターまでは読み取れない。しかし、現在の彼女の鉄面が、過去のどのタイムラインよりも他者には絶対にディスプレイできない、瓦解した顔色を晒していることだけは、容易にシミュレーションが完了した。
それは他ならぬ私自身も、他者のシステムを冷笑できる状態ではなかったが。
ドアのレバーハンドルへと手をかけた瞬間、先ほどまでのすべてのシーケンスの質量が、一挙にプロセッサへと押し寄せてきた。
この隔壁の外側は、いつも通りの、無機質な当直室だ。
壁面にはいつも通りのタイムスケジュールが貼付されている。
今夜の任務も、未だ完全終焉を迎えてはいない。
だが、一度駆動してしまったイレギュラーなログは、たとえ双方が元の座標へとシステムを再起動しようと試みようとも、「元の座標」という定義そのものを、少しずつ、確実に書き換えていく。
その厳然たる論理を、掌の中の冷徹な金属の触感とともに、はっきりとコアへ書き込んだ。
それから、もう一つだけの評価関数を出力した。
――まあ、いいか。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




