192.年頭 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
差し出された箸を二秒ほど凝視した後に、私は結局、それを受領した。
「何をしているの。早くしないと、本当に麺が伸びてしまうわ」
それは懐中電灯のバッテリー交換や、当直記録帳がトランシーバーの底部に敷かれていないかを点検する際と、完全に同一のトーンだった。あまりにも日常的すぎて、かえって欺瞞の介在を許さない。もし真紀が単に「年中行事のプロトコルを消化」したいだけであるならば、邸宅で実食すればよかったのだ。鉑橋街二十二番地の連中に争奪戦を敢行させてもよかった。高価な年越し蕎麦を明日の昼まで温存し、より「九島真紀らしい」折り目正しい手順で処理することも可能だったはずだ。
それなのに、彼女はそのルートを選択しなかった。
今この瞬間を、選択したのだ。
零時を突破したばかりの、この刻限を。
夜勤の中盤戦を。
当直室の防壁の裏に位置する、小型のテーブルと椅子が二脚、そして立体投影テレビが一台辛うじて収まる程度の、この狭隘な休憩室を。
そして――他ならぬ私を。
そこまで演算回路が到達してしまったせいか、掌の中の箸の質量が、普段よりも重々しく知覚された。
「……あらかじめ宣言しておくが」
椅子を半歩だけ引き寄せ、いつものように自己防衛のための退路を確保した。
「これが合成機のフェイク蕎麦と大差ない代物だった場合、私はその場で九島家を資本詐欺の罪状で告訴するからな」
真紀がようやく、顔を跳ね上げた。
その双眸には、私のよく知悉している九島真紀の色彩が灯っていた。校門前で口づけを許した直後の、あの制御不能に陥っていた鮮烈な赤みでもなく、先ほど標準時に向かって頭を垂れていた際の儀式的な端正さでもない。ただ、私というイレギュラーな存在に対して、ほんの少しだけ「仕様がない」と諦念を抱いている際の、あの瞳だ。
「一口実食してから判断しなさい」
「特権階級の余裕というのは、本当に嫌味が効いているな」
「これはおじい様が送ってくださったのよ。私が購入した資産ではないわ」
「ならばおじい様を告訴するまでだ」
「随分と度胸のパラメーターが高いのね」
「遠方の長輩に対しては強気に出る仕様だ。至近距離に位置する真紀に対しては、周囲の気温を観測しながら攻撃のインデックスを調整する」
真紀はそれには応答を返さず、器をテーブルの中央へと数ミリ押し出してきた。
熱いつゆは未だ、湯気を立ち上らせていた。本物の蕎麦の芳香は、思っていたほど過剰な主張を敷いてこなかった。安価なコマーシャル映像のように、私は本物であると全宇宙に向かってプロパガンダを展開する必要などない、と最初から知悉しているかのような、極めて沈静な香りだった。湯気のカーテンの内部において、穀物と出汁の成分が静かに融和していた。
……どこか、誰かの性質に酷似している。
最初の一口をリフトアップした。
率直に言って、その刹那までは、未だ少しばかり浅ましい期待を抱いていた。ほんのわずかでも調合に失敗していてくれれば、心置きなく毒舌を叩き込める。そうすれば、この静寂すぎる密室の空気を、私が慣れ親しんでいる防衛領域へと強制牽引できるからだ。
しかし、その期待はあっさりと撃沈された。
咀嚼した瞬間、敗北を直覚した。
システムが、全然違った。
麺には強固な、しかし過剰に硬質化していない絶妙な弾力が充填されていた。歯を入力しても、合成澱粉特有の「一気に歯茎まで跳ね返ってくる輪ゴムのテクスチャー」は皆無であり、滑らかに切断される。その直後に、わずかに粗糲で、しかし厳然と存在を主張する蕎麦本来の風味が残った。つゆもまた、化学調味料によって無理やりビルドアップされた「分かりやすい旨味」などではなく、ただ温厚で、安定的で、塩分の濃度も過不足がない。冬の夜の底において、胃の腑の底へと静粛な毛布を一枚敷き詰めるかのような、そんなテイストだった。
二度咀嚼した後に、駆動がフリーズした。
真紀はこちらを凝視していた。督促もしなければ、問いの音声も出力しない。
その表情のパラメーターは、一見すればいつも通り平坦だ。しかし実際には、「ある致命的な問いを黙ってテーブルの座標に配置し、敢えて読み上げもせず、私の返答の入力だけを待機している」鉄面だった。
卑怯極まりない。
ここで素直に「美味い」と出力してしまえば、あまりにも容易く防壁を陥落させられる気がする。しかし、ここで無理に難癖をつけようと試みれば、味覚が真っ先に反逆を開始するだろう。本物の蕎麦と煮沸した輪ゴムの差異を、いくら私が天性の口の悪さを誇っていようとも、観測されなかったことに偽装するのは不可能だ。
仕様がないので、可能な限り感じが悪く、かつ自身のプライドの残高を維持できる応答を選択した。
「……ちっ」
真紀の眉の端が、ほんの少しだけ微振動を起こした。
「それ、評価のログとしてどうなのよ」
「客観的に見て、極めて高得点だ」
真顔で箸を一度テーブルへと配置した。
「今の『ちっ』は、食品の領域における星野シモの最高レベルの譲歩だ。翻訳すれば『くそ、本当に美味い』に限りなく近似している」
彼女は私を凝視し、半秒ほどのデッドサイレンスが持続した。
それから、口元のラインがごくわずかに融解した。
明確に笑ったわけではない。
ほとんど表情の変動と呼称できないほどに短く、淡いパラメータの移行だ。
しかし、九島真紀の鉄面においてそれが顕現したならば、それはもう立派な「新年の特異点」だった。
その微小なエラーを見逃さないよう視線を固定しながら、外部の連邦標準チャンネルが未だに『テラ』だの『栄光』だの『奪還』だののドクトリンを唱唱している現実が、急激にどうでもよくなってきた。あの言語群は、あまりにも質量が大きすぎる。巨大すぎて、虚空の看板のように発光しているだけで、この狭隘な休憩室の内部までは浸透してこない。現実に重力を保持しているのは、むしろ眼前に位置する一杯の熱いつゆと、二膳の箸と、先ほどの真紀の、ほんの少しだけ気の抜けた呼吸の残響だった。
彼女が、私がこれを気に入るか否かを、案外よく気に病んでいるのだと理解できる程度には。
そこまで演算が完了した瞬間、逆に平衡感覚が狂い始めた。器を凝視したまま、もう一口つゆを摂取し、視線をみずからの碗の内部へと沈降させた。
「……そりゃ、この儀式が存続するわけだ」
つゆの熱気を吹き飛ばしながら、最後のプライドの防壁を繋ぎ止めた。
「毎年これをサンプリングできるなら、誰が合成機のフェイク物質なんか咀嚼したいと思うものか」
「この前、自身で発言していたじゃない」
真紀は言った。
「あの疑似蕎麦は、一日中煮沸した輪ゴムのようだって」
「前言を撤回する」
顔を跳ね上げた。
「あれは輪ゴムというマテリアルに対して非礼だ。少なくとも輪ゴムは、自ら『年末の食品です』などという詐称文句は出力しない」
今回は、真紀ははっきりと笑みを漏らした。
短く。
しかし、確実にその感情を駆動させた。
思わず、箸を掌握する指先の座標がわずかにブレた。
「……おい真紀」
両目を細めた。
「そういうイレギュラーな挙動をされると、処理に困る」
「どこに困る要素があるのよ」
「本気で笑うからだ。連邦標準チャンネルがさっきの隙に、人類の暦と宇宙の物理法則を同時に書き換えるクラッキングを実行したんじゃないかと疑わざるを得なくなる」
「そのレベルの陰謀論は、コストとして安上がりすぎるわね」
「いいや、論理の整合性は取れている。さっき全員で四十六光年先の旧地球に向かって頭を垂れたばかりなんだから、この後に何かしらの超常現象が顕現しても、精神的防壁の準備は完了している」
「私が笑みを浮かべた程度で、超常現象のカテゴリに分類するの?」
「発生の周波数を考慮すれば、極めて妥当な評価関数だ」
真紀は私を凝視した。何か反論のコードを出力しようと試みたようだったが、結局は短く息を吐き出し、視線を器へと戻した。そして自らも蕎麦を一口、リフトアップした。
彼女は、想像以上に静粛に食事を摂取する人間だった。作為的にエレガントさを装っているわけではない。本当に、動線に無駄な挙動が一切ないのだ。顔線の角度を下げ、湯気を軽く払い、口内へと搬送し、咀嚼し、嚥下する。それから、再びゆっくりと視線を上昇させる。一つ一つのシーケンスが、必要最低限のエネルギーへと刈り込まれていた。きっと「浪費していい時間」などどこにも存在しない高圧的な環境で長期育成された人間の、これが食事のシステムなのだ。
さっき零時前に、彼女の背中を追尾して疾走したタイムラインを、ふと、脳裏に再生した。
「それで」
箸で碗の内部のオブジェクトを軽くつつきながら、あくまで雑談のインターフェースを維持した。
「毎年、こういう仕様なのか?」
「どれのことよ」
「巡回の後半セクターを命がけのスクランブル劇へと変質させ、標準時ギリギリに滑り込み、ホログラフを観測して、この最高級の助成金レベルの蕎麦を咀嚼する一連のプロトコルだ」
真紀の手の軌道が停止した。
即座には応答を出力せず、まず立体投影テレビのボリュームインデックスを一段階下げた。アナウンサーの音声が少し遠方へと退避する。背景にしつこく流動し続ける連邦の新年祝辞だけが、なおも政治的なハムノイズのように残留した。
「幼少の頃から、邸宅においてこの儀式を重く配置していたからよ」
彼女は言った。
私というオブジェクトを視界に入れず、器の座標だけを凝視していた。湯気が上昇し、睫毛と横顔の輪郭の境界線を柔らかく曇らせていく。
「標準時が到来したら、現地のローカル時間が何時であろうとも、どこのセクターに位置していようとも、一旦すべての駆動を停止させる。頭を垂れ、挨拶を執行し、それから年越し蕎麦を実食するのよ」
眉を吊り上げる。
「外部の戦域に位置していてもか?」
「外であってもよ」
「流石は十家族だな」
舌打ち混じりに言葉を吐き出した。
「年越しという概念すら、作戦命令のシーケンスのように処理するんだな」
「習慣であると定義してもいいわ」
「私は家訓専制主義と呼称したいがね」
「あなたは秩序化されたオブジェクトに対しては、すべて最初から棘を立てるシステムなのね」
「そんなことはないさ」
涼しい鉄面で切り返した。
「美味に秩序化された食べ物に対しては、極めて寛容なシステムだ」
真紀は、この程度の屁理屈のログをいちいちサルベージするのが面倒になったらしく、そのまま通信を継続した。
「以前は、おじい様が自らこれを分配してくださっていたわ」
指先の駆動が、一瞬だけ停止した。
その一言によって、碗の内部の蕎麦は突然、単なる「高価な輸入年越し食品」という記号ではなくなった。別の重い質量が混入した。悲しみや、湿っぽい情緒などではない。酷く具体的な情景のアーカイブだ。私の預かり知らぬどこかの食卓において、私の預かり知らぬ最高権力者が、年に一度のこの麺を孫たちへと配給し、秩序と気遣いを同一のパッケージとして手渡している光景。
器を凝視しながら、「こういうプライベートな話を提示された際、一体どういうトーンで音声を出力すればいいのか」、急激に演算回路がフリーズを起こした。
……本当に、面倒極まりない人間だ。
九島真紀という生命体は、普段から既に充分ハンドリングしにくい性質だが、「家」や「過去」という単語を会話のタイムラインに混入してきた瞬間、その難易度は数段階跳ね上がる。
眼前の座標において、校門前で私の頭部を押さえつけて強制的に礼を同調させた人間。巡回ルートを秒単位でセグメントする人間。当直室において私の言葉の端を容赦なく撃墜してくる人間。その彼女が、「何者かによってこういう風に育成され、こういう構造へと整形された」のだという事実が、一度でも脳内を過ると、舌の駆動が妙に重質化する。
私はそういう、みずからの防壁の「甘さ」が、大嫌いなのだ。
だから慌てて、空気を元の座標へと引き戻した。
「で、そのおじい様が、あなたがこの高価な戦略物資を当直室の密室に持ち込み、こっそり私有化していると知悉した場合、勘当のプロトコルが作動するんじゃないか?」
真紀がこちらへと視線を巡らせた。
「まず、これは『こっそり』ではないわ」
「堂々たる合法私物化か」
「それから、おじい様は最初から『友人と分け合いなさい』とこれを出荷してくださったのよ」
「友人」と言った際、その音声に特別なモジュレーション(抑揚)は存在しなかった。
しかし、私という観察者が過敏すぎるのか、その二文字が空間の座標へと落下した刹那、一瞬だけすべての事象が凍結したかのような錯覚を覚えた。
蕎麦をもう一口つまみ、ゆっくりと咀嚼しながら、箸先の座標へと視線を落とした。
友人。
極めて安全な記号だ。
消火用の防火布のように、安全すぎる。
だって、友人という定義ではないとするならば、一体どういう呼称を割り当てればいいというのだ。
「家の中に潜伏している、もう一人の準九島」とでも?
「ややこしいタイミングにおいて、ややこしいイレギュラーを発生させてくる常習犯」とでも?
それとも――。
そこで、みずからその演算の回線をぶった切った。
だめだ。思考を深化させればさせるほど、みずからが掘削したデッドロックの穴に転落するだけだ。
「……だが、邸宅には持ち帰らなかったわけだろ」
音声を出力した瞬間、自分の声のボリュームが、先ほどよりも微小に低下している事実に直面した。
真紀は私を凝視したまま、応答のコードを返さなかった。
ホログラムの内部のアナウンサーは、未だに『母星の記憶が連邦を新たな夜明けへ導く』だの何だのの宣伝文句を垂れ流し続けており、耳障り以外の感情を誘発する余地は皆無だった。雪の結晶の摩擦音なのか木枯らしのノイズなのか判別のつかない気配が窓のフチに薄く堆積しており、暖房機器は相変わらず、この狭隘な休憩室を「小型の共犯現場」のような温度へと維持し続けていた。
真紀はようやく箸を持ち上げたが、即座には口内へと搬送しなかった。
「持ち帰ったら」
彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「意味の定義が、変質してしまうわ」
胸の奥の鼓門が、ほんのわずかに跳ね上がった。
これはもう、「友人」という安全な防壁ワードではなかった。
未だ、明確な言語としては整形されていない。
きちんとした固有の呼称として確立するには、未だディスタンスが存在している。
だからこそ、そのわずかなディスタンスという隙間が、一番性質が悪い。そこへ明確なルートが開通しているのは視認できているというのに、それがどこの座標へと直結しているかまでは、現在は未だ、モザイクがかかって見えないのだ。
口内の駆動が完全停止した。
真紀も、言葉の出力を急がせようとはしなかった。
ただ箸を器のフチへと配置し、指先でテーブルの表面を軽くホールドした。何かを圧殺しているようにも、システムの出力を調整しているようにも見受けられた。彼女がこんなふうに、対話のシーケンスを途中で停滞させるのは極めて異例だ。普段の九島真紀は「説明を完全クローズさせる」「手順をエンドロールまで言い切る」「境界線を曖昧にしない」システムなのだ。けれど現在は、みずからが次に音声として出力しようとしている言語に対して、初めて少しばかりの迷い(エラー)を来しているかのように見えた。
滅多に観測できない、貴重なアーカイブだ。
そして同時に、極めて危険なアーカイブでもあった。
急激に、軽薄な冗談を挟み込むような余裕が簒奪された。
……本当に、恐ろしい人間だ。
「シモ」
彼女が名前を呼称した際のニュアンスは、いつものそれとは根本的に異なっていた。
当直中におけるコレクション(矯正)でもない。私が馬鹿な不祥事をしでかした際の、姓名まで含んだアラートでもない。ただ、静かに名前を呼んだ。それだけだ。けれど、そういう出力をされた方が、よほど退路が存在しない。
箸を掌握する指先に、自動的に過剰なトルクがかかった。
「……何だ」
まことに遺憾ながら、出力された返答は、いつにも増して脆弱な性質のものだった。
真紀は、その脆弱さを嘲笑しなかった。
ただ顔を跳ね上げ、私の瞳を正面から射抜いた。暖房の熱量と湯気の光学迷彩のせいで、耳の付け根のラインがじわじわと赤色へと染まり始めていた。
そして、彼女は告げた。
「おじい様に『友人と食べなさい』と言われたから、この座標に持参したわけでは、ないわ」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




