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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:月面都市コペルニクス
550/583

192.年頭 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

零時が一分一秒と逼迫するにつれ、真紀の後半の巡回は、もはや「歩調を速める」という生ぬるい表現で片付けられる領域を完全に逸脱していた。


ほとんど、全力疾走(スクランブル)だった。


「……年に一度のただの時刻合わせだろ。なぜカルトの儀式めいた悲壮感を漂わせる必要があるんだ」


私は真紀の後方を小走りで追尾しながら、思わず低く毒づいた。


東側連絡廊下の残響が、私たちの過激な足音によってバラバラに粉砕される。懐中電灯の光線が、壁面の隅、階段のフチ、外扉のレバーハンドルの隙間を高速で行き来した。前半のセクターは教範(マニュアル)通りの安定的パトロールだったというのに、ラスト十分のカウントダウンに突入した途端、この夜勤全体が「終電を逃せば即座に死を意味する」系の悲壮なドキュメンタリーへと変質し始めた。


真紀は振り返る動作を完全に排していた。その歩行を停止させる気配すら皆無だった。


「あなたにとっては、ただの時刻合わせかもしれないけれど」


走行による呼吸の乱れを音声に孕ませながらも、その核心のシステムは微塵もブレていなかった。


「私にとっては、決してそれだけのものではないわ」


眉を顰める。


その一言は確実に鼓膜に受容した。しかし、それを追及する猶予など一秒も残されていなかった。真紀は言い終えるや否や、中央階段の角を直角に回頭し、教室棟の外扉から当直室へ直結する最終ルートへと舵を切った。残存するルートの距離、残秒数、施錠の確認ポイント、そして復路の歩幅に至るまで、脳内の方眼紙へ既に精密にマッピングし終えている人間の挙動だった。


この女に宇宙戦艦の指揮権を委譲すれば、主砲の斉射タイミングを秒針の隙間に正確に挟み込めるのではないかと、本気で疑念を抱かざるを得ない。


前庭に堆積した雪片は、さっきよりもわずかに深度を増していた。


重大な変動ではない。ただ、先ほどまでコンクリートが露出していた石畳の輪郭が、薄く白い膜によって隠蔽された程度だ。街灯の白光が雪面へと透過し、校庭の全域を過剰なほどに清潔に洗い上げていた。その清潔さは、どこか作り物のジオラマを連想させた。


真紀に牽引されるようにして最終セクターを駆け抜けながら、私は一瞬だけ、奇妙な既視感(デジャヴ)に襲われていた――私たちは夜間の巡回任務を遂行しているのではなく、「正しい姿勢への回帰」という目的のために駆動させられている、連邦(フェデレーション)という巨大な機構に埋め込まれた二本のネジに過ぎないのではないか、という錯覚。


不敬極まりない不遜な思考だ。


しかし、酷くしっくりとも来ていた。


当直室へと帰還するなり、真紀はドアを勢いよく押し開いた。閉じ込められていた暖気と室内の明かりが同時に正面から衝突してくる。彼女はほぼ半秒のタイムラグすら許さず、反射的にドアをクローズして施錠し、懐中電灯を机へと投棄すると、そのまま私の手首を強固に掌握して奥の休憩室(ブース)へと力ずくで引きずり込んでいった。


「おい、待て、ちょっと――」


「時間がないわ」


その一言を出力した際の真紀の音声には、いつものパブリックモードたる安定の中に、妙な緊迫感が混入していた。慌てているわけでも、システムが狼狽しているわけでもない。ただ、何者かが彼女の内部に存在する不可視のタイムリミットを限界まで引き絞っており、残された一分間だけは絶対に外すわけにはいかない、という強固な意志の顕現だった。


そのまま狭隘な休憩室へと拉致され、段差によってバランスを失いかけた頃には、もう彼女のグリップは解放されていた。真紀のファーストアクションは、自身の呼吸を整えることでも、乱れた毛髪を矯正することでもなかった。立体投影(ホログラフ)テレビのメインスイッチを駆動させ、即座に連邦標準チャンネルへと回線網を切り替えることだった。


画面が明転し、第一礼装を身に纏ったアナウンサーが、青と金の仮想地球(テラ)のホログラムの前に直立していた。一万回は反復練習を重ねたであろう、完全無欠の営業スマイルだった。


『連邦標準新暦元旦まで、残り一分です』


一分。


ドアの防壁にもたれかかりながら、ようやく肺の酸素を循環させ、その過剰に豪華な蒼い惑星のホログラムを呆然と凝視した。毎年毎年、よくもまあこれほど完璧なタイミングで人間の神経を逆撫でするプロパガンダを構築できるものだと感心する。


銀河連邦(ギャラクティック・フェデレーション)には、二つの「時間軸」が並行して存在している。


一つは、今現在みずからの足元に存在する、この惑星(ほし)の時間。昼と夜のサイクル、季節の移り変わり、何時に講義が開始され、何時に職務が終焉を迎え、何時に夕飯を摂取し、何時にベッドへ寝落ちすべきか――すべてはローカルな恒星の重力と公転周期に従属している。生身の肉体で生存するための、泥臭い現実の時間だ。


そしてもう一つが、標準地球時間(テラ・タイム)。


今いるセクターが昼だろうが夜だろうが関係なく、窓の外の環境が大雪だろうが灼熱だろうが酸性雨だろうが三つの月が南座していようが、とにかく四十六光年の彼方において、もはや政治的象徴(アイコン)以外の何物でもない「テラ」のデジタルインジケーターが「新暦元旦 00:00」へとシフトした刹那、連邦の全域が、不可視の警鐘を一斉に鳴らされたかのように、作業の手を完全停止させ、頭を垂れ、かつて祖先が揺りかごとしていたという蒼い天体へ向かって一斉に敬意を表明する。


ロマンチックに文芸化するならば、恒星間文明における記憶の継承。


身も蓋もなく露悪的に表現するならば、全銀河強制参加型の年次プロパガンダ。


そして連邦の統治機構は、こういう「一瞬」を政治利用する手腕だけは、不気味なほどに洗練されていた。


アナウンサーの背後で流れるBGMが、徐々に荘厳な重奏へと移行していく。地球の海洋、雲海、もはや誰もその座標に関心を抱いていないはずの旧世界の草原に落下する金色の光彩――そんな視覚アーカイブが次々とカッティングされ、ナレーションが『必ずや母なる星を奪還する』だの『銀河帝国(エンパイア)による旧地球の長期占領、および精神侵食を断固として糾弾する』だの、いかにもな定型句を厳粛に復唱した。


その映像を眺めながら、私は心の中で冷徹な嘲笑を漏らした。


私という観察者の視点から見れば、連邦も帝国も大差はない。


無理やりそのシステムに差異を見出すとするならば――連邦は、少なくとも「希望という名の欺瞞」を精巧に演出してくるところだろうか。


帝国(エンパイア)はもっと実利主義的で、「希望」という包装紙を貼付する手間すら惜しんで省略する。


実際の正解?


おそらく、どちらも同一の穴の狢だ。


ただ前者のシステムは、人間を泥沼の中に蹴り落とす寸前、丁寧にこう囁いてくれるのだ。――「明日を信じろ」と。


『――四十秒前です』


アナウンサーの音声が投影システムから出力された。


真紀はテレビの前に直立し、既に制服の上着を完璧に整え終えていた。普段からその姿勢のパラメーターが常人離れしている人間だが、現在はその端正さがさらに一段階上の領域へとブーストされていた。狭隘な休憩室などではなく、自身の家系、あるいは背負っている肩書き、彼女自身が重い質量を置いている何かしらの概念を代表する法廷に直立しているかのような、そんな佇まいだった。


その頑なな背中を見つめることで、先ほどまでの鬼ごっこめいた逃走の理由が、ようやく腑に落ちた。


これは単なる「時刻合わせ」などではない。


彼女というシステムにとっては――


どれほど日常のタイムラインが乱雑に瓦解していようと、どれほど慌ただしく、くだらない不祥事に巻き込まれていようと、この「一分間」が到来した際には、必ずこの座標に直立し、みずからが信奉する「秩序」に頭を垂れる。そういう、聖域の巡礼行為なのだろう。


面倒くさいにも程がある。


しかし、実に見事に九島真紀(くしま・まき)という人間を体現していた。


『――二十秒前』


窓の外から、都市の人工光が狭い窓を透過して差し込んでいた。外部のセクターは、驚異的なほどに静まり返っていた。音波が完全に消失したわけではない。メガロポリスという巨大な有機体が、特定の一瞬だけその呼吸のサイクルを極限まで浅くした際の、あの特有のデッドサイレンスだ。暖房機器の低いハミングすら、ガラスの障壁を越えた別世界のノイズのように錯覚された。


真紀が首を横へと巡らせ、私を一度だけ凝視した。


その双眸は極めてシンプルであり、督促も命令のプロトコルも含まれていなかった。ただ、「刻限よ」とだけ告げていた。


ため息を一つ肺から吐き出し、ポケットに突っ込んでいた両手を一度引き抜いた。


いいさ。


ここまで強制連行されたんだ。ここでシステムを拒絶すれば、前庭で荒い呼吸を消費した数百メートルの質量がすべて不発弾に終わる。


『――十、九、八……』


アナウンサーによる秒読み(カウントダウン)が開始される。


画面上の地球標準時刻がゼロに向かって跳ねる直前、私も真紀も、完全にその背筋を垂直へと固定した。


ごん――。


ごん――。


ごん――。


【00:00】へとシフトした刹那、都市のどこかから、電子合成された鐘の残響がかすかに鳴り響いた。ボリュームは大きくはない。人工的なクリーンさが過剰すぎて、むしろ現実感を喪失させる音響だった。それでもそれは、窓の障壁を越え、雪の夜の戦域を越え、当直室の壁面を透過して、この密室へと到達した。


その一秒間という刹那は、この休憩室だけのイレギュラーではなかったはずだ。


おそらく、この都市の全域、ひょっとすると連邦の全版図において、数億の生命体が同時にその駆動を完全停止させていた。


重力工場の作業員かもしれない。ホバーカーのパイロットかもしれない。どこかの医療ステーションで夜勤(ミッション)を遂行中の看護師かもしれない。あるいは、どこかの不運な学生が廊下で舟を漕いでいた瞬間かもしれない。ある者は星空を仰ぎ、ある者は壁面に向かい、ある者は足元の合金床に向かって深く頭を下げた。


四十六光年の彼方、あのかすかな黄矮星の公転軌道上に、かつて蒼い揺りかごが一つ存在し、自分たちの血脈を養っていた――


……少なくとも、連邦の宣伝アーカイブはそう主張している。


私は真紀と並んで、頭を垂れた。


顔を跳ね上げた際、ホログラムの中のナレーションは案の定、聞き飽きた連邦の年次スローガンへと切り替わっていた。母星の記憶を忘却するなだの、失われた栄光を簒奪し返せだの、帝国は我らの血脈と歴史を断絶できないだの――どの文句も歯切れが良く、スローガンさえ整列させれば構造的問題が自然消滅すると盲信しているかのような響きだった。


何か二言三言、極上の毒舌を叩き込んでやろうとしたが、その出力を駆動させるより早く、真紀がこちらへと視線を巡らせた。


先ほどの一分間で一度システムの底まで沈殿させた顔を復元したせいか、現在の彼女の表情は、逆にやけに平穏だった。


「――新年おめでとう、シモ」


一瞬、間の抜けた顔を晒してしまった自覚がある。


その物言いは、驚異的なほどに普通だった。ほとんど、淡々と出力されていた。作為的な柔らかさも、過剰な重みも存在しない。だからこそ、鼓膜に落下した際の質量は、かえって真っ直ぐに私の核心を射抜いた。


「……そっちこそ、新年おめでとう、真紀」


彼女が首を縦に振った。重要プロトコルを一つ処理し終えた、という職務完了の顔だった。それから休憩室の隅に配置されていた小さなコンテナボックスを回収した。


「で」


真紀はボックスを机へと配置し、封印を解除しながら、極めて自然なトーンで問うてきた。


「お腹、空いているでしょう」


横目でその手元を凝視した。


いや、それは疑問文の形をとった通信ではない。


九島式システムにおける、確定済みの肯定文だ。


つまり、既に演算結果は出力されており、私は大人しくその仕様に従うのが最適解である、という意味に他ならない。


蓋が開放される刹那、内部から何が顕現するかを即座に理解した。


「……年越し蕎麦か」


「ええ」


やはり、不発弾は仕込まれていた。


裕福な十家族(じっか)の特権階級しか執行しない、富の儀式だ。


首都星デュナン(デュナン)は土壌の成分構造に致命的な問題を抱えているため、本物の蕎麦の栽培は不可能だ。こういう嗜好品は他の恒星系からの輸送ラインに依存せざるを得ず、その価格設定もそれなりに「年末仕様」のインフレを起こしている。通常の人間――つまり、私のように人生に対してそこそこ正直に生存している人間――が摂取できるのは、大抵「炭水化物合成機(レプリケーター)」が吐き出した疑似蕎麦の類だ。


あれは過去に一度だけ実食した経験がある。


そのテクスチャーをどう形容するかと言えば、「輪ゴムを丸一日、高温の鍋で煮沸してから抽出し、『私は食品と何らかの法的な親戚関係にあります』と詐称させている物質」が最も的確だ。


私が顔面に晒していた複雑な演算回路など一切お構いなしに、真紀はボックスに付属していた小さな器を抽出し、保温ボトルから熱いつゆを注ぎ入れ始めた。湯気が立ち上る。線の細い醤油と出汁の芳香が、ふっと室内の空間へと拡散していった。かなり控えめではあるが、本物の有機物の匂いだった。


安価な合成香料のように、まず鼻腔を殴打してから味覚を侮辱する類のジャンクではない。食べ物が本来内包しているはずの、純粋な温度だった。


器の内部に収まった蕎麦の束を凝視し、二秒ほど沈黙を維持した。


「……これ、相当な価格(コスト)だっただろ」


「おじい様が送ってくださったのよ」


真紀は箸を器のフチへと配置しながら、特別視するでもなく、事務的な処理を施すかのように、いつもの口調で言った。


「友人と分け合いなさい、ってね」


「ああ」


と相槌を出力してから、視線は自然現象として机の上へと還っていった。


この絶対的な分量では、鉑橋街二十二番地の居候全員どころか、さっき校門前で一緒に低体温症になりかけていたあの気の毒な風紀委員にすら、一筋も回らない。


絶対に、全員分のシェアは存在しない。


つまり――。


これは「みんなで一緒に年末の雰囲気をサンプリングしよう」と持参したオブジェクトではない。


この時間、この狭隘な密室において、私に配給するために、最初から狙い澄まして持ってきた物質なのだ。


休憩室の空間が一瞬、静粛に支配された。


外部の連邦標準チャンネルは、未だに綺麗事だけで整形された新年の挨拶を垂れ流し続けている。電子鐘の残響が、未だに雪の夜の表面に薄く張り付いているような錯覚さえ覚えた。器のつゆから立ち上る湯気が、細微な光学の糸となって真紀の横顔を柔らかく曇らせた。


本当のところ、私がさっき「高かったろ」と出力したことよりも、遥かに厄介なのは別の論理だった。


この蕎麦というオブジェクトには、元来、いくつもの効率的な分配プロトコルが存在したはずだ。


家に保管しておくことも可能だった。


当直の任務が完全終焉を迎えてから実食することも可能だった。


あるいは鉑橋街二十二番地に持ち帰り、あの混沌とした連中に「ほら、年越し蕎麦だぞ」と提示して争奪戦(バトルロイヤル)を誘発させることもできた。結果として、誰一人としてまともな一本すら摂取できない、いつものオチに収束するとしてもだ。


だが、真紀はそのルートを選択しなかった。


零時を突破した今、夜勤の真ん中、この世界から隔離された小さな休憩室で、私と二人きりの空間において、その蓋を開放したのだ。


……本当に、どうしようもない人間だ。


顔を跳ね上げ、真紀の瞳を正面から射抜いた。


彼女は、私の演算回路が即座にその結論まで到達することを知悉していたかのように、ただ静かに、片方の箸を私の手元へと差し出してきた。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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