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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:月面都市コペルニクス
549/568

191.カウントダウン 3

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

当直室のドアが開放された瞬間、外部の、耳の端を削ぎ落とすかのような極冷気が最初からドアの前で整列して待機していたかのように、一挙に侵入してきた。


暖房と茶によって弛緩していた皮膚が、ほぼ瞬時に覚醒を余儀なくされる。鼻腔に雪の結晶を含んだ寒気が滑り込み、次いで夜の校舎特有の残香が漂ってきた。コンクリート、鉄製の手すり、半乾きの落ち葉、昼間に踏み荒らされ、夜を迎えてからようやく冷え戻る地面の粗糲な匂いだ。


ドアを完全にクローズし、懐中電灯を掌へと収め、真紀の後を追うように当直室前の狭隘な踊り場へ進み出た。


彼女はすぐには音声を y 語らなかった。


九島真紀(くしま・まき)が正式な当直(ミッション)のフェーズへと移行すると、その存在の質量そのものが沈み込む。冷徹に硬化するのではなく、薄く、そして鋭利に研ぎ澄まされるのだ。鞘に収まっていた刀身が数ミリだけ押し出されたかのような状態であり、刃の反射は未だ眩くはないものの、誰の目にも一目瞭然だった。それは、単なる装飾品ではない。


前庭の表面には、既に薄く雪が堆積していた。歩行を阻害するほどの深度ではないが、校内のノイズを半分ほど圧殺するには十分な量だった。靴底を踏み出すたびに、細微で、低く押し殺されたような摩擦音が響いた。遠方に位置する教室棟が夜の闇の中に整列して起立し、窓面は悉く暗黒に塗り潰され、非常灯の光源だけが点灯して、無人の廊下を淡い白光の静寂へと切り分けていた。


真紀は階段の手前で半拍だけ停止し、校門の内側を一望し、前庭と当直室の窓の防衛線を点検してから、ようやく口を開いた。


「まず前庭と校門内側を確認して。それから同一のルートで東側連絡廊下へ進むわよ」


「了解だ」


今度は素直に応答した。


従順に変質したわけではない。夜の学校という空間には、人間を圧倒する特有の強制力が備わっているのだ。当直室の障壁を離脱すると、音声は自然現象として低音化し、足取りは確実に静粛へと沈み、普段であれば脳内で暴れる思考の群れも、夜の暗黒によって一層ずつ圧殺されていく。


真紀が前衛に立ち、私はその半步後方へと位置取った。


このディスタンスは、曖昧な妥協でも引き下がりでもなく、巡回(パトロール)時における最も合理的なフォーメーションだ。前衛の人間が視野と動線の全域を索敵し、後衛の人間が死角と側面を補う。論理として説明すれば単純極まりないが、実際に歩を進め始めれば、これが牧歌的な散歩などではなく「当直」という任務であるという現実を嫌というほど突きつけられる。


前庭は、昼間よりも広大であるかのように錯覺させられた。


いや、空虚という概念が、より純粋な空虚として顕現しているのだ。昼間の生徒らの喧噪も、部活動の熱量もすべてが簒奪され、街灯の白光と雪の結晶だけが、地面を洗浄しすぎるほど清潔に洗い上げていた。真紀の投射する光源は一切ブレなかった。門柱、掲示板の底部、当直室の外壁が落とす陰影、そして最後に門錠の内側へと、流れるような軌道で闇を掃いていく。


「内側、正常よ」


彼女は言った。


私も自身の懐中電灯を反対側の座標へと向かせ、花壇のフチ、ベンチの底部、教室棟へと連続する石畳を照射した。


「前庭、異常なし」


そう残響を返した。


真紀がわずかに首を縦に振り、東のセクターへと舵を切った。


前庭の端を横切る際、風速がわずかに増大した。細微な雪片がマフラーと肩口へと落下し、瞬時に融解して湿った質量へと変質する。手袋をウェビングへと引き上げ、右側に位置する行政棟のガラス窓へと視線を滑らせた。内部は完全な暗黒であり、その反射面には街灯の白光と、私たち二人の影の輪郭だけが投影されていた。この校舎の内部に未だ、静粛で歩調の完全に同調した幽霊の巡回部隊が潜伏しているかのような錯覚を覚える。


だが、今夜はあの二階堂がいない。


その事実に直面し、思わず肺の酸素を半分だけ吐き出した。


真紀は私の歩調のわずかな乱れを感知したらしく、振り返る動作を排したまま問うてきた。


「どうしたの?」


「何でもない」


光源を前方へと落とし、石畳の雪だまりを照射した。


「今夜は、随分と静かだなと思ってな」


「静寂であることは、防衛上、最上の状態よ」


「風紀の観点にとってはそうだな。だが、現実に生存している人間にとっては、必ずしもそうとは限らない」


「あなたが騒音を撒き散らしている時、自身の状態を『生存している人間』と定義していたけれど?」


「厳然たる事実だからだ」


「今夜はその事実を維持して、職務怠慢というアクシデントに進化させないで頂戴」


思わず口元が微かに歪んだ。しかし、その音声の大部分は風のノイズにかき消された。


これくらいのディスタンスが、現在の私たちには丁度いい。


口説き文句でも無駄な雑談でもない、紛れもない当直中の通信だ。互いが普段どういう性質の人間であるかを掌握しているからこそ、余計な虚飾を施す必要性はない。だが、夜の空虚な校舎の内部において、作為的にその空気を汚染するような愚行もしない。


もう間もなく、東側連絡廊下の角の座標へ到達する。


昼間は何の変哲もない空間だが、夜を迎えるといつも妙に引き伸ばされたように長く見える。片側が教室棟の外壁であり、もう片側が巨大な窓面と側庭を視認できる半開放区域(セミ・オープンエリア)となっており、木枯らしが通過するたびに音波も光量も引き伸ばされるのだ。夜が深度を増すと、自身の足音が別の座標から追尾してくるかのような錯覚に陥る。


真紀は角の手前で半歩だけ歩調を緩め、懐中電灯の入力を先へと叩き込んだ。


光線がコンクリートを滑り、壁際、排水溝の蓋、廊下入り口の前半分を照射した。東側連絡廊下は天井のクリアランスが低く、照明の光量も本棟より暗質で、夜間は意図的に狭隘に押しつぶされた通路のように見えた。窓の外のセクターは完全な黒に染まり、積雪の反射だけが各窓面に白い光学膜を張らせていた。


「廊下に侵入したら、光源をガラスに反射させないで」


真紀が言った。


「まず地面と、扉の境界線を確認して」


「ガラスの反射に視界を遮られるからな」


「死角の視認性も著しく低下するわ」


「了解だ」


彼女はいつもこうだ。発言せずとも理解できる領域が多い。それでも真紀は言葉にする。それは信頼の欠如から来るものではなく、発言すべきプロトコルをすべて遂行することが、自身のためにも、同行する人間のためにも、リスクの装甲をさらに一層削ぎ落とす最適解だと知悉しているからだ。


こういう完璧主義な周到さは、時として精神的なプレッシャーとして作用する。


しかし夜の闇に包まれると、こういう絶対的な人間が前衛を歩行してくれるという事実は、確かにこちらの神経を安堵させる。


一前一後のフォーメーションを維持したまま、東側連絡廊下へと足を踏み入れた。


足音の性質が切り替わった。


雪面のくぐもった摩擦音から、硬質な床が奏でる、空洞へと反響する物理音へ。タン、タン、タン――速度を上げず、急ぎもせず、しかし廊下の空間がその残響をわずかに引き伸ばし、閉鎖空間全体が足音を復唱しているかのようだった。私の光源は右前方のセクターを照射し、真紀の光源は中央左寄りのラインを押さえ、二つの光線は交錯することなく、前半分の地面と壁際を正確に分割して照らし出していた。


前半のセクターには、何のイレギュラーも存在しなかった。


窓面の施錠は正常値、排水溝の閉塞もなし、壁際に放置されたモップや機材の類も見当たらない。年末のこのタイミングに、何者かが侵入して不埒な真似を働くような気配も、当然ながら皆無だった。沈静すぎるほどに、すべてが統制されていた。


だが、夜勤(ミッション)というのは時としてそういう性質のものだ。


真の専門性とは、数千回に一度発生する突発事象への対処ではなく、何も発生しない虚無の時間においても、規則通りにすべてのプロトコルを完全に踏破することにある。平たく表現すれば、「退屈」という敵に対して真剣に向き合い続けることだ。英雄譚のような華々しさは微塵もないが、これが現実の当直における厳然たる骨組みだ。


光源を前方へと送り、三枚目の窓の下の壁面を照射した。


「右側、異常なし」


「左側、異常なしよ」


真紀が静かに残響を返した。


音声のボリュームは、双方ともに極限まで抑えられていた。暗黒に潜む何かを驚愕させるのを危惧しているかのように。迷信や、オカルト的な雰囲気に呑まれているわけではない。こういう閉鎖空間において過剰な大声を発すれば、自身の反響音(エコー)によって先に神経を削られることになる。恐怖というよりは、空っぽの校舎に嘲笑されるのが面倒なだけだ。


四本目の柱の付近を通過する際、外部から一陣の木枯らしが吹き抜け、窓面がかすかに戦慄いた。


カン――。


反射的に視線を跳ね上げる。


真紀もその歩調を停止させたが、それも半拍だけのフリーズだった。


懐中電灯の光線を窓枠のフチへと正確に照射し、クレセント錠の噛み合わせが緩んでいない事実を点検してから、彼女は淡々と切り替えた。


「内外部の温度差、および風圧による構造の微振動よ」


「ああ」


一言だけ残響を返し、それ以上の追撃は排した。


本日の巡回は、厳格に職務を遂行する性質のものであり、誰かの精神的防壁を瓦解させるためでも、観察の隙を突くためでもない。それに今夜の相棒は九島真紀であり、あの二階堂ではないのだ。真紀と二階堂のシステムは根本的に異なっている。前者は内面にどれほどの熱量を孕んでいようとも、公務の完遂を最優先に配置する人間だ。後者は内面のオブジェクトを、当直のプロトコルの一部として内包して持ち込んでくる人間だ。どちらも面倒極まりないが、その面倒のベクトルが違っている。


そう思考を巡らせながら、もう一歩前に踏み出した。


その刹那、足元がわずかに滑った。


重大な過失ではない。廊下の内部へと持ち込まれた微量の雪片を靴のフチが踏み締め、重心のバランスがわずかに傾斜しただけだ。しかしその一瞬、真紀が私よりも遥かに速い反応速度で手を伸ばし、私の腕を強固に掌握した。


確実な、ホールドだった。


ブレもなく、もたつきすら一切なかった。的確にグリップし、私の姿勢が復元した事実を確認してから、静かにその手を解放した。


一連の挙動は、すべて合わせても二秒に満たなかった。


足元の融解しかけた雪片を見つめ、次いで自身の腕へと視線を落とす。


「……感謝する」


真紀は光源を地面へと落とした。先ほどのアクシデントなど、当直のプロトコルの一環に過ぎないという風情で。


「歩行の際は、足元の座標を凝視して」


「凝視していたさ」


「視認していたにもかかわらず、機能していなかったわ」


「物言いが、本当に相変わらず感じが悪いな」


「副会長が第一回目の巡回において、無様に新年の床へと転がり込むのを未然に防ぐためなら、この程度の感じの悪さは必要経費よ」


吹き出しそうになった。


これは鋭利だが、通常の範囲内における切れ味だ。作為的に刺しているわけでも、私怨を晴らしているわけでもない、標準仕様の真紀式コレクション(矯正)だ。先ほどの強固なグリップと同様、温かみのあるシーンでも、大げさに文芸化できる性質のものでもない。ただ彼女がその座標に佇んでおり、視界に入ったから、肉体が駆動した。


だからこそ――何でもない出来事として圧殺することが、どうしても出来ない。


懐中電灯を掌で握り直し、音声のトーンをさらに一段階収束させた。


「了解した、会長殿」


真紀は反論を返さず、再び前衛へと歩を進めた。


東側連絡廊下の前半のセクターが終焉を迎える手前に、左手側に位置する機材室への小扉が存在した。真紀が歩調を停止させ、光線を扉の隙間とレバーハンドルの底部へと照射した。私はコンクリートと扉際の壁面をバックアップとして照らし出し、引き摺り痕も、新しい泥汚れも、年末にわざわざ侵入して不埒を働くような形跡が皆無であることを確認した。


「機材室外周、異常なしよ」


真紀が言った。


「地面、異常なし」


そう残響を返した。


応答のサイクルがあまりにも自然に同調しすぎていて、自分自身でもわずかに驚愕を覚えた。


真紀もその同調を感知したらしく、首を横へと巡らせて私を凝視した。その一瞥は淡泊であり、当直室の内部で漂っていたような、消えきらない私的な熱量の残響(テイル)は簒奪されていた。現在の彼女は純粋に公務を遂行していたため、視線がこちらへと落下してきた際、それは酷く真っ直ぐに私の核心を射抜いた。


「思ったよりも、状況は良好ね」


彼女は言った。


瞬きを一つ。


「一体どれほど最悪なコンディションをシミュレーションしていたんだ?」


「少なくとも、余計な口答えが二回は増大すると予測していたわ」


「今夜の私は、客観的に見てもかなり優秀な部類だろ」


「辛うじて及第点、というだけよ」


「九島真紀、そういう冷酷な評価システムは、人間の尊厳を傷つけると自覚しているか?」


「風速が強すぎて、何を言っているのか聞こえないわね」


「その手口は、流石に卑劣すぎるだろ」


「巡回中につき、業務効率を最優先に選択しているだけよ」


今度は本当に、笑みが漏れた。静かに、そして少しばかり呆気にとられながら。


まあ、いい。


少なくとも、終始空気を氷結させたままの監獄よりは、遥かにマシだ。


廊下の前半のセクターの確認を完了させてから、真紀は手首の時計へと視線を落とした。


「タイムスケジュールは問題ないわ。後半のセクターへ移行するわよ」


首を縦に振り、手首を少しだけ回旋させ、凍りつきかけていた指先を懐中電灯のウェビングへと巻き直した。


廊下の構造は未だ長く伸び、照明の光量は未だ暗質で、外部の雪片も未だ落下を継続していた。第一回目の巡回は幕を開けたばかりであり、この先の方角には中央階段、教室棟の外扉、そして当直室へと帰還する前の全セクターの最終確認が控えていた。劇的な刺激など皆無だが、完全に意識を空っぽに退避させることも許されない。


当直というのは、時としてそういう性質のものなのだ。


永続的に突発事象が発生するわけではなく、二人で人間の存在しない無機質な空間を並んで歩行しながら、「何もない」という平穏な事実を次の時間帯の帳簿へと引き渡せるまで、反復して確認を継続する。


平凡な業務に聞こえる。


しかしその平凡さという概念は、この雪の降る夜に、校舎が空虚と化した後に、懐中電灯の光線とブーツの足音だけが支配する廊下の内部においては、妙に重々しい質量を帯びてくる。


今夜、本当に防衛すべきオブジェクトは、校門とこの廊下の構造だけではないような、そんな確信が胸の奥に去来した。


未だ言語として出力していない、しかし先にしっかりと着地点を落ち着かせておかなければならない何かしらの核心をも、含めて。


その言葉は、決して口外しなかった。光線を前方へと投射し、真紀の後を追うように、東側連絡廊下のさらに深淵へと歩を進めていった。


「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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