190.大晦日 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
十二月最後の日の昼間、街全体が酷く素直な顔を晒していた。
窓の外の光は白く、冷たく、誰かが街ごと水に浸けて丸洗いしてから、面倒くさそうに干したような色合いだった。
鉑橋街二十二番地も同様だった。昨夜までは臨時避難所のように乱雑を極めていたというのに、昼を迎える頃には、客間は辛うじて人に見せられる程度の秩序を取り戻していた。
毛布は畳まれ、カップは洗われ、食卓の隅に誰かが積み上げていた書類も綺麗に整えられている。
そして最も恐ろしいことに、それらの一部は、もともとそこにあったわけではなかった。
ヘートヴィヒが動かしたものだ。
食卓の脇に佇み、本来なら流し台の左側にあるはずの砂糖入れが、今は電気ポットの横に移動しているのを二秒ほど眺め、私は妙な危機感を覚えていた。
盗難事件ではない。
盗難よりも深刻な事態だ。
これは、いわゆる「居着き感」というやつだ。
「砂糖入れをそんな目で見つめるなんて、クーデターの現場でも目撃したみたいだよ」
ジェスがマグカップを抱えてソファの肘掛けに腰掛け、今日という日をもう少し混沌とさせるのを楽しみにしているような顔で言った。
「クーデターの現場そのものだからだ」
私は椅子を引いて腰を下ろした。
「うちの台所の区域再編が勝手に進んでいる」
「『うち』じゃなくて、『私たちの家』ね」
ジェスが素早く訂正を入れてくる。それから目を細め、さらに意地の悪い笑みを浮かべた。
「どなたが再編なさったかについては――まあ、あまり濁すのも野暮だし?」
「今すぐ黙れ」
「私だって黙りたいけど、あなたが最近ネタを提供しすぎるんだよ」
テーブルの上のスプーンを投げつけてやろうとしたが、手を挙げるより早く、廊下の方から足音が響いた。
顔を上げると、真紀が廊下から姿を現した。
九島真紀は今日、珍しく「次の瞬間に何らかの突発事故へ向かおうとしている」切迫した顔をしていなかった。制服の上着は着ておらず、薄手のニットを一枚羽織って袖口を手首まで折り上げ、手には整理し終えたばかりの当直記録を持っていた。
ようやく余裕ができた、という空気は、他の人間には解放感として映るかもしれない。しかし私にとっては、裁判所がようやく開廷日を決定したような心地がした。
ほぼ反射的に背筋を伸ばす。
ジェスはさりげなく少し横へずれ、「今日はただの観客」という顔を決め込んだ。
真紀が私を一度見た。
すぐには何も言わなかった。
その一瞥だけで十分だった。重くも冷たくもなく、殺気すらない。むしろ穏やかと言っていい。
それでも背中に、静かな冷や汗が伝った。
来た。
あの不祥事の清算が、ようやく空き時間を見つけたのだ。
「シモ」
真紀は記録帳を食卓に置いた。今日の昼は煮込み料理にしましょうか、とでも告げるような軽い口調で。
「今、時間ある?」
「その次の一言が『死ね』じゃなければ、あると思う」
「よかった」
真紀は頷いた。
「洗い終わった備品を戻すのを手伝って」
私は少し硬直した。
それだけ?
こんなに普通のことなのか?
次の瞬間、真紀が足元の洗濯籠をそっと足で前へ押し出してきた。
中には畳まれたタオル、替えのシーツ、制服のシャツが二枚、靴下が何足か、そして――
沈黙した。
言葉を介さずとも、世界の悪意を完全に理解できる瞬間というものが、人にはある。
その洗濯籠の中に、女性用の下着が何枚か、綺麗に畳まれて収まっていた。
特別に丁寧に。特別に端正に。特別に狙い澄ましたかのように。
ジェスは口に含んだばかりの茶をカップに噴き戻し、肩が痙攣しそうなほど身体を震わせた。
「わあ」
ジェスは心底感心したように言った。
「真紀、これは清算じゃなくて、利子の取り立てだよ」
「随分と手加減した方よ」
真紀は言った。
「どこが手加減だ」
洗濯籠を睨みつけながら言った。自分の人格的尊厳が四角く折り畳まれ、一般公開されているような気分だった。
「これ、完全に公開処刑じゃないか」
真紀がわずかに微笑んだ。
淡い笑みだった。冬の窓ガラスに薄く曇った息のように淡い。しかし、正面から激怒されるよりもずっと恐ろしかった。
「シモ、こういう引き継ぎ業務は得意じゃなかったかしら?」
真紀はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この程度の仕分け作業、副会長のあなたには大した負担じゃないと思うけれど」
息が胸のところで詰まり、自分の唾液で噎せそうになった。
ジェスはもうソファの背もたれに倒れ込んでいた。
「副会長」
ジェスが勿体ぶって繰り返す。
「専門分野だね」
「もう一言でも言ったら、お前のカップを庭に放り投げる」
「でもそれ、さっきヘートヴィヒ殿下が替えてくれたカップだよ」
振り向いた。
ヘートヴィヒが台所の入り口に佇んでいた。畳んだ布巾を手に持ち、いつもと変わらない静然とした表情を浮かべている。今の一言が場を爆発させるような起爆剤ではなく、ただの生活報告であるかのような顔で。
それ以上に問題なのは、この人が明らかにもうこの家の動かし方を掌握してしまっていることだった。
遠慮がちに端っこに立っている、というのではない。
カップがどこにあるか、茶葉がどの棚か、予備のマッチがどの引き出しか、昨日アカリが新しく買った雑巾がどれかまで、すべてを見通している、そういう意味での馴染み方だ。
酷く場違いな感覚がした。
避難してきた居候ではない。
後方支援を接収しに来た指揮官だ。
「場所が間違っていたものを、効率の良い位置に戻しただけです」
ヘートヴィヒは食卓の端に布巾を置きながら、天気の話でもするような口調で言った。
「それと、二階廊下の突き当たりの救急箱も整理し直しました。元の分類が悪くて、緊急時に手間取ります」
ジェスが目を見開いて、心からの拍手を送った。
「見た?」
ジェスは私に向かって感慨深そうに言った。
「これが本当の愛人――」
「ジェス」
真紀が静かに呼んだ。
ジェスは即座に口を噤み、俯いて茶を啜った。今まで生きてきた歴史すら存在しなかったかのような顔をして。
私は眉間を押さえ、厄介事の発生源は後回しにして、ヘートヴィヒの方を向いた。
「救急箱まで動かしたのか?」
「元の配置は記録してあります」
ヘートヴィヒは当然のように答えた。
「必要なら戻せます」
そこが一番恐ろしかった。
無闇矢鱈に動かしたのではない。
手順を踏んで合理的に動かしたのだ。
つまり、誰かが文句を言おうとしても、ヘートヴィヒはその場で修正前後の対照表を提示し、改善理由まで論理的に添えられるということだ。
真紀はヘートヴィヒを見て、不快な様子も見せず、ただわずかに首を縦に振った。
「思ったより早く馴染んだね」
「環境が判断に影響します」
ヘートヴィヒは言った。
「先に環境を把握した方が、無駄な手間が省けます」
この人は私の家に居候している身だというのに、なぜ前線指揮所を接収するような物言いをするのだろう。
しかも、言っていることが一理あるのが性質が悪い。
真紀の視線が戻ってきた。
まずい。
話題が還ってくる。
「というわけで、シモ」
真紀は洗濯籠の縁をトントンと軽く叩いた。
「備品」
「……分かった」
気が進まないながらも手を伸ばし、几帳面に畳まれた、まるで私の人格を嘲笑しているかのような布の束を受け取った。
ジェスが隣で、必死に堪えながらも完全に失敗した含み笑いを漏らした。
睨みつけると、ジェスはすぐに両手を挙げた。
「何も言ってない」
「顔が言っている」
「それは生まれつきだから私のせいじゃない」
「お前のその無駄な才能が発電に回せるなら、鉑橋街の今夜の電気代はいらないな」
真紀はそろそろ十分だと思ったのか、一番上のタオルを私の手からさらりと奪い、洗濯籠の上へと戻した。
その動作に力みはなく、むしろ流れるようだった。真紀はただ淡々と言った。
「はい、ここまで」
私は瞬きをした。すぐには意味を飲み込めなかった。
ジェスも硬直している。
真紀はいくつかの手荷物を手早く仕分けながら、いつもの、何でも処理できて必要とあれば私をも処理できる、あの落ち着いた口調へと切り替えた。
「下着は戻さなくていい。タオルとシーツは二階へ。残りは収納棚に」
真紀は少し間を置いてから付け足した。
「朝の件は、一度に全部清算しなくていいと言ったでしょう」
思わずその場で机を叩き割りたくなった。
放免ではなかった。
分割払いだったのだ。
この女は金融機関よりも人を長く苦しめる術を熟知している。
ジェスはとうとう堪えきれずに笑い声を上げ、ソファの肘掛けに倒れ込んだ。ヘートヴィヒは隣に佇んだまま真紀を見つめ、私を見つめ、この家内懲罰制度の運用論理を本気で分析しているような顔をしていた。
そこへ、ヘートヴィヒが静かに最後の一刀を突き刺した。
「必要なら、私も監督できますが」
振り向いた。
「お前はそういう余計なことを覚えなくていい」
「この家のルールに合わせているだけです」
「この家のルールは私を玩具にすることじゃない」
真紀がさらりと受け流した。
「今のところ、そうなっているけれど」
客間が一秒、静まり返った。
それから、ずっと向こうで情報端末を眺めていたハーヴィーまで、義理を欠いた鼻笑いを一つ漏らした。
タオルの束を抱えて立ち上がり、もう今すぐ家を飛び出したくなった。しかし残念なことに、この家の出口はすべて、私がどこへ向かうかを把握している人間に塞がれている。特にヘートヴィヒは、私が先に上着を取るか、先に靴を履くかまで計算していそうだった。
階段の手前で振り返る。
真紀は俯いて記録帳を整理していた。何事もなかったかのような顔で。ジェスはまだ笑っている。ヘートヴィヒは先ほど動かした砂糖入れを、電気ポットの横へとさらに数ミリ、丁寧に押し揃えていた。その動作の自然さが、奥歯にじりじりと障るような不快感を伴っていた。
その瞬間、はっきりと理解したことがあった。
「ヘートヴィヒが侵入してきた」という事実そのものより、遥かに面倒なのは――
この人が既に、無色の液体のように、鉑橋街二十二番地の日常の中に少しずつ溶け込み始めているということだ。
目立たず、騒がず、簒奪しない。
しかし、いつか本当に耐えきれなくなって振り返ったとき、多くのものがもう元の場所にはないことに気づくのだろう。
……最悪だ。
さらに最悪なのは、その変化の中に、警戒心から来るものと、ただ彼女が「こちらの方が使い勝手がいい」と思っているだけのものとを、私が既に区別できてしまっていることだった。
タオルを抱えて階段を上がりながら、酷く具体的な結論が導き出された。
今日の昼間、真紀は本当の意味では私を処刑しなかった。
刀を鞘から一寸だけ抜き、刃の冷たい反射を見せただけだ。
夜は――
夜は、たぶん別の誰かが割を食う番だ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
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「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




