184.第一日 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ロイを連れて警備員室の裏手へと向かう頃には、空の帳はすっかりと下りきっていた。
昼間のうちにあれほど狂気的な保護者どもや、アポなしの訪問者、そして物資の搬入業者といった、自分には120%正当な権利があると盲信している各種の人間どもに踏み荒らされた正門前は、この時間になってようやく、静かにまともな呼吸ができる空間を取り戻していた。
雪はもうそれほど激しくは降っていなかったが、アスファルトの上には未だに昨夜の生き残りである薄汚い白がへばりついており、街灯の琥珀色の光に照らされると――まるで我らが士官学校の殺伐とした現実主義の上に、賞味期限の切れた粉砂糖を一重だけ乱暴にぶちまけたかのように、地面が鈍く発光していた。
ロイは私の真横を並んで歩いており、その手にはさっき真紀から受け取ったばかりの『当直業務ログ』のバインダーが握られていた。
顔色そのものはそこまで死んではいないものの、その瞳の奥には、「本当なら今夜、私は普通の世界(平穏なクリスマスイブ)を生きているはずだったのに」という、やり場のない疲弊感がはっきりと滲み出ている。
私は手にした鍵束の先端で、裏口の横にある半ば錆びついた鉄柵をカチカチと叩き、彼のほうへと首を傾けてみせた。
「……白状するけど、ここの設備、そこまで最悪ってわけでもないぞ」
私はぶっきらぼうに苦笑する。
「ほら見ろよ。一応、シャワールーム完備だし、トイレだってある」
ロイはそこでピタリと足を止め、私をジロリと睨みつけた。その生真面目な眉間が、瞬時にきつく寄せられる。
「……星野」
「なんだよ」
「なんでお前は、さっきからそんなニヤニヤした邪悪な顔で私を見てるんだ。酷く気味が悪いんだが」
私はノータイムで、彼の無防備な脇腹へと肘打ち(エルボー)を叩き込んだ。
「ほらほら~?」
私はわざとらしく声を弾ませる。
「……蘭ちゃんとの『夜の密室当直シフト』の件さ。まさか私と真紀の二人だけが、何も気づかずにスルーしてると思ってたわけ? まだ平気な顔してシラを切り通すつもり?」
ロイは私の不意のエルボーに、ふらりと半歩ほど体勢を崩し、即座に露骨な嫌悪の表情を浮かべて距離を取った。
その顔色は先ほどまでの疲労困憊から一転し、プライベートの機密(秘密)を強制的にガサ入れされた、限界寸前の財務担当者のそれに一瞬でアップデートされていた。
「……余計なノイズを口にするな」
彼は周囲を警戒するように声を低く沈める。
「ここは校門のすぐ目の前だぞ」
「ほう、あんたでもそんな風に『低調』に立ち回る術を知ってたんだな」
私はわざとらしく語尾をねちねちと引き延ばしてみせた。
「じゃあさっき、全体ミーティングで当直表のラインナップを見つめていた時――脳内の計算機で『蘭ちゃんとクリスマスイブの夜を二人きりで濃厚に過ごすための、規律上のコストパフォーマンス』を必死にソロバン弾いてたみたいな顔をしてたのは、一体どこのどいつだったっけ?」
「あれは、純粋な当直業務におけるリソースのコストを計算していただけだ!お前の薄汚い脳内に渦巻いている、訳のわからない不純な妄想とは根本的に違う!」
「ほう? つまり、あんたの頭の中に、何かしら『計算(思うところ)』があること自体は、今あっさりと自白したわけだ」
「何も自白していない!」
「いいや、財務のプロであるお前のその余裕のない否定の仕方は、数理的(論理的)に言って八割がた『全面肯定』しているのと変わらないんだよ」
ロイは、今度こそ本気で私を殺さんばかりの鋭い視線で睨みつけてきた。
もちろん、本気で怒り狂っているわけではない。どうしても他人に認め合いたくない、けれど今さら明快に全否定することもできないという、一番柔らかいデッドラインを的確に突っつかれ、脳内のすべての不満と焦燥を眉間のシワの上に積み上げている――そんな、実に見事な敗者の表情だった。
生徒会の財務として、学内の膨大な予算、機材調達、決算報告書を処理している時は、いつでも氷のように正確で冷徹な彼が。こと蘭ちゃんという絶対的なヒロインが絡んだ瞬間にだけ、この極めて不器用で、タイムラグのある遅延反応を見せる。
それはまるで、普段は完璧なグリスで滑らかに駆動している精密機械が、あるべきではない位置の螺子が突然変な方向に回り始めて、カクカクと不自然な奇行を曝け出してしまうかのようだった。
――正直に言って、観察対象としては最高級の娯楽価値があった。
だが、今日の私は午前中の過労を乗り越えてそこそこ機嫌が良いので、これ以上の精神的レジスタンスは一旦保留にしてやることにした。
私は警備員室の側面のドアを押し開け、中に立ってひょいと手を挙げた。
「――ここが、私たちの最前線の前哨基地だ」
案内したその小空間は、お世辞にも豪華とは言えない代物だった。
年季の入ったスチール製の当直デスクが一つ、パイプ椅子が二つ、半人の高さほどの無機質な鉄製ロッカー。そして壁には、古い棟区域の監視映像が映し出された、砂嵐の混じるホロ・パネルが寂しげに掛かっている。
先進的とは到底言えないが、だからといって粗末すぎて使えないわけでもない。いかにも軍士官学校らしく、『システムは旧式だが、未だに頑強に生きながらえている』という、泥臭いタフさがあった。
私は親指で、そのさらに奥にある暗いスペースを指差した。
「で、その奥が待機室(休憩室)だ」
私は説明を続ける。
「広さにして、およそ畳二枚分。無給労働者(奴隷)二名が、交代で近代文明社会の最果て(境界線)へと無様に倒れ込むには、ミリ単位の計算でギリギリ足りるスペースだ。一応、受信状態の最悪な旧式のホロ・プロジェクター(テレビ)が一代鎮座していて、理論上は番組を投影できる。けれどその実態は、この世界のエンタメのクオリティと我が校の当直制度はまったくの同価値であり、どちらも『ただの運次第』であるという残酷な真実を、当事者に思い知らせるためだけに存在している感じだな」
ロイは入口の境界線から、不審そうにその奥を二度ほど覗き込んだ。
「……想像を絶する狭さだな」
「おいおい、タダ働きの無給ボランティアに対するインフラが、どれだけVIP待遇(高級仕様)だと思ってたわけ?」
私は呆れたように肩をすくめる。
「学校の理事会側が、クリスマスバカンスの夜に私たちを凍死させないための最低限の四角い空間を提供してくれている、その一点だけで――システム側には、最大級の仁慈と合理的配慮があると言えるレベルなんだよ」
ロイはさらに部屋の片隅にある、あからさまに時代の進化に追いつこうと足掻いた挙句、最終的に完璧な礼儀正しさで時代そのものに置いていかれたような、骨董品の投影機に目を留めた。
「……あれは、本当にまともに起動するのか?」
「ああ、起動するぞ」
私は大真面目に頷いた。
「ただ、投影される画面が、時折オカルト映画の心霊現象みたいに不吉に乱れることと――スピーカーから流れる音声が、いつでも『隣のスタジオで、誰かが水の中に水没しながらニュース原稿を音読している』みたいな、悍ましいノイズ交じりになることだけは、大人の態度で受け入れる必要があるがな」
彼は半秒ほど絶望の沈黙を挟んだ。
「……そこまで最悪なプレゼンをされると、むしろ起動させる権利を永久に放棄したくなるんだが」
「おめでとう、ロイ。これにて、あんたの精神マインドも、正しい当直の絶望(心構え)へと完全調整されたわけだ」
ロイはフンと冷淡に鼻を鳴らした。この状況において、私に対して何かポジティブなフィードバックを返すつもりなど、微塵もないことは明白だった。
彼は手元のバインダーを自分の胸へとパシッと叩きつけ、一瞬で冷徹な仕事モードへと脳内を切り替える。
「……無駄話はここまでだ。業務の引き継ぎ事項は?」
私はそんな彼の姿を、1ミリの起伏もない能面のような無表情で見つめ返した。
それから――非常に、誠実に、正直に応じた。
「――それは、今すぐ真紀に聞いてくれ。彼女の分類AIなら、私の消し炭になった脳ミソの百倍は詳しくマニュアルを説明できるから」
ロイは、獲物を値踏みするような鋭い目で目を細めた。
「……お前、さては一本もマニュアルを記憶していないな?」
「記憶していないんじゃない」
私はきっぱりと言い放つ。
「今日の私は、朝の七時からこの瞬間まで、脳ミソの全メモリが干上がるまでブラック労働を処刑し続けてきたんだよ。今ここでこうして二本の足で直立し、あんたに向かって警備員室のルームツアーを提供できている事実そのものが、副会長としての最後の『プロフェッショナルな尊厳(奇跡)』なんだよ」
断言するが、これっぽっちも誇張なんかじゃない。
朝の七時からここまでぶっ続けで極寒の校門前に監禁され、押し寄せる暴徒(保護者)どもの書類にスタンプを押し続けるだけの『ただの動く物理障害(路障)』へと退化(進化)していないだけで、生徒自治の精神には十二分に貢献しているはずだ。
ここからさらに、教官連中の退校プロテコール、真夜中の正確なパトロールルート、各主要施設の鍵のナンバー、そして臨時緊急開錠の権限一覧にいたるまで、一条の漏れもなくロイの前で暗唱してみせるなんて――それは人間の神経系における『耐熱限界値』というものを、あまりにも過大評価しすぎている。
ロイは私の、たぶんもう実質的なスクラップ寸前(廃棄寸前)の死んだ魚の目を凝視し、最終的にはそれ以上の追及(追い打ち)を断念した。ただ、低くため息混じりの舌打ちを漏らす。
「……お前、今日の一日を、よくそんな満身創痍で持ちこたえられたな」
「すべては、システムへの純粋な『怨念』と、カフェイン(コーヒー)、そして近代文明社会に対してかろうじて残されていた、最低限の『副会長としての責任感』の三重点による賜物だよ」
「後ろの二つのリソースは信頼してやるが、観察する限り、最初の一大エネルギー(怨念)こそがメイン燃料(主燃料)にしか見えないんだが」
「最高の褒め言葉をありがとう、ロイ」
「褒めてねえよ」
「解ってるさ。でも、今日の私はすでに、世界の善意と悪意を精密に仕分けるための余力なんて、1バイトも残されてないんだよ」
当直用のデスクへと戻った時、九島真紀はすでに、前番からの引き継ぎに必要な書類のすべてを完璧にスマートに整理し終えていた。
彼女はデスクの傍らに凛と直立し、ログ帳のバインダーと、ずっしりとした鍵束をその細い手に握りしめている。
その真横では、蘭ちゃんが夜間の緊急出入メモのデータに目を落としており――一人が冷徹に説明し、もう一人が寸分の狂いもなくそれをログに記録していくという、効率過剰な『お役所仕事の模範教材』のような、静謐な光景が展開されていた。
ロイがデスクへと近づくと、真紀は何の装飾もなくダイレクトに本題の引き継ぎ(タスク)へと入った。
説明を紡ぐ彼女の会話のスピードは、平時と変わらず完璧に一定されており、その内容は恐ろしいほどに正確そのもの。
『九島真紀の脳内には、真夜中に学内のどの電子フェンスが一番ジャミングを起こしてシステムエラー(詰まり)を引き起こしやすいかまで、事前にすべて数理的に分類されたログデータが存在しているんじゃないか』と、横で見ていて本気で戦慄を覚えるレベルだった。
私はその二人のプロの会話を横で二言三言盗み聞きしただけで、副会長としての、極めて迅速かつ正しい数理的判断を下した。
――断言するが、これは今の私が立ち入っていい聖域(世界)ではない。
九島真紀がこの『完全なるプロフェッショナル(効率至上主義)』のモードに突入した時、周囲の末端の人間ができる最大の貢献というのは――余計な口を挟んで、彼女のタスクに1ミリのノイズ(邪魔)も与えないことだ。
特に、今の私のように、脳ミソは過労で半熟(消し炭)になり、両足の骨は完全に半死半生を迎えている戦闘不能の個体が、プライドのために無理やりその会話に介入したところで、システムの流れを遅延させる『お役所仕事の雑音』に成り下がるのがオチだからだ。
だから、私は極めて自然な動作で、一歩、後ろへと下がった。
――さらにもう一歩。
最終的には、警備員室の冷たい壁にどっかりと背中を預け、ポーカーフェイスのまま、『――私は確かに物理的にはここに存在していますが、私の精神はとっくに定時で退勤しました』という、完全なる無音(気配遮断)の状態へと突入した。
すると、蘭ちゃんがその私の気配の消失(限界)に目敏く気づいたらしい。彼女はデータからゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「……副会長。大丈夫、ですか?」
「もしその質問が、私の肉体的なバイタルデータ(体の状態)を心配してくれているものなら、答えは『辛うじて生物としての呼吸は維持している(生きている)』だ」
私は壁に頭を預けたまま、掠れた声で応じる。
「……けれど、もしその質問が、私の現在の精神の健全度を心配してくれているものなら、私は今すぐ『弁護士の同席を求める権利』を全面行使して完全黙秘を貫きたい、というレベルだな」
蘭ちゃんは、私のその徹底的なキレ芸(愚痴)に、不覚にもクスリと吹き出しそうになったが――最終的には、お淑やかにその白く細い指先で自らの口元をパッと押さえ、プロの書記として、何事もなかったかのようにその笑顔の痕跡(緩み)を完璧にパージしてみせた。さすがのポーカーフェイスだ。
ロイは、真紀から渡された引き継ぎのページをスマートにめくりながら、私に向かって冷淡な追撃の弾幕を張った。
「……星野。今日の業務における、お前の最大の功績(貢献)は、人間の『過労』というパラメーターが、どれほど凶悪なまでの攻撃性(毒舌)へと変換され得るのかを、学内の全組織に向けて実地に証明してみせたことだと思うぞ」
「お前、それは明らかな事実誤認だ」
私は死んだ目のまま言い返す。
「これは攻撃性なんかじゃない。この狂った連邦の労働制度が生み出した『システムトラウマの可視化された結実』と言うんだよ」
すると、上座の真紀は、手元のバインダーから一切顔を上げることすらなく、極めて冷徹なトーンで一言だけカウンターを撃ち込んできた。
「――その結実のデモンストレーション(アピール)なら、本日の一日で、十二分に成功しているわよ、星野」
「会長。あんた、いつの間にか『部下を最低限の言葉で励ます』のパッシブスキルと、『ついでにその心臓を言葉のナイフで抉る』の攻撃スキルを、同じスキルツリー(系統)の中に統合してマルチタスクで完全処刑するハメ技を身につけやがったんですかね?」
「それが、最も行政上の時間対効果(効率)が良いからよ」
高効率、合理的、そして――部下の精神的健康に対する良心の質量、完璧にゼロ。
本当に、ブレない女だ。
すべてのデータと鍵束の引き継ぎが完了した時、壁の時計が指し示す時刻は、私の過労でバグを起こした体感時間よりも、幾分かは遅い数字を示していた。
実際の秒数としては、そこまで夜深い深夜というわけではないのだろう。けれど、朝の七時からこの瞬間まで、極限の緊張感の中で直立不動のまま監禁され続けていると、人間の時間の認識システム(バイリオズム)なんてものは、とっくの昔に粉々に壊れてしまうものだ。
昼と夕方の境界線なんてものは完全に曖昧な泥濘へと溶け去り、世界はただ、『――現在、猛烈に酷使されている最中(労働中)』と、『――ようやく、この地獄の檻からエスケープできる(帰宅中)』という、極端な二つの生存状態に分かれるだけになる。
そして今は――。
少なくとも、私と九島真紀の二名の個体にとっては、かろうじて後者の『解放(帰宅)』のフェーズへと滑り込むことが許された瞬間だった。
駐輪場へと向かい、自分のバイクを引き出した瞬間、夜の凍てつく冷たい風が正面から容赦なくぶつかってきて――かえって、私の消し炭になっていた脳ミソが、少しだけ強制起動された。
それは、活力が魔法のように戻ってきたなどというポジティブな現象では到底なかった。
ただ、これまでは過労によってぼんやりと一つの巨大な絶望の塊のようだった肉体の疲労度が、冷気によって冷やされたことで、ようやくパーツごとに識別できる明確なエラーコードへと切り分けられた、という程度。
要するに、『――あ、現在の私のシステムは、まず最初に腰の骨と、次に右足の筋肉が完全にスクラップを迎えたんだな』という、自分の『死因』のデータが正確に把握できるようになった、というだけの話。
真紀は私のすぐ隣で、手元を動かして革手袋をはめているところだった。その一連の動作の周期は、やはり寸分の乱れもなく整然としている。
彼女だって、今日の一日、私と全く同じだけの地獄の防衛線(校門前)に直立し続けてタスクを処刑し続けてきたのだ。肉体的な疲労度は、数理的にも絶対に限界値を突破しているはずだ。
だが、九島真紀という生き物は――そういう過酷なエラー(疲労)のすべてを、自らの強固な骨格の内側へと、完璧に綺麗に格納しきってしまう。
外側から観察する限り、彼女はただ、いつも通りに超然と安定しているようにしか映らない。その強固なヨロイの内側が、一体どれほど泥臭く、どれほど凄まじい精神力によって持ちこたえさせられているのかは――本人がその口から弱音として零さない限り、世界の誰にも、永久に観測できないブラックボックスなのだ。
私が、彼女に向けてヘルメットを差し出そうとした、まさにその刹那だった。
私の副会長としての野生の勘(視界の端のセンサー)が、異質なノイズをとらえた。
見ると、駐輪場の薄暗い影の中で、蘭ちゃんが自分の持っていた紙袋の中から、一つの四角くて小さな、薄型の箱をそっと取り出すのが見えた。
その指先の動きは非常に素早く、まるで公務のついでに、何か学内の予備の事務備品でも手渡しているかのような、極めて事務的な動作。
――だが、そのたった一瞬。
あのいつでも冷静沈着な蘭ちゃんにしては、あからさまに不自然な、躊躇いがちな指先のタイムラグ(迷い)が発生していた。
そのほんのわずかなノイズ(違和感)が、その空間の画面全体に、何かしら極めて怪しい、インモラルな空気感を爆発的に与えていた。
さらに決定的(致命的)だったのは――。
――街灯の光に照らされた、蘭ちゃんの白い耳の根元が、見たこともないほどに、鮮やかな朱(赤)に染まっていた、という事実だった。
私は瞬きを一つ挟み、――生物としての防衛本能(オタクの野生)に従って、もう一度、その手元をプロの目でガン見した。
上司である蘭ちゃんからその謎の薄型のケースを、うつむきながら、両手でずっしりと受け取ったロイ。
その瞬間、彼の完璧だったポーカーフェイスの表情が、一瞬だけ、完全に『虚無(空白)』のデータへとフリーズした。
秒数にして、わずか〇・五秒ほどのタイムラグ。だがそれは、横で定点観測している傍観者(私)に対して、処理不能なほどの過剰な情報をダイレクトにインプットするには、あまりにも十分すぎる時間だった。
街灯の光の下、その手元に握られた、四角くて薄い箱の表面のロゴ(パッケージ)のデザインへとピタリと焦点が合う――。
――見えた。
私の、2.0の視力は、その文字の羅列を、恐ろしいほどの高解像度ではっきりと視認してしまった。
ケースの表面にデカデカと刻まれた、文字。
――【極薄】。
私は、そのあまりにもクリスマスイブの夜番に相応しすぎる、特級のミリタリーインフラ(防寒用の極薄型携帯カイロ、あるいは超軽量アルミブランケットの類い)の文字を目にした瞬間。
胸の内の、すべての副会長としてのプロフェッショナリズムをゴミ箱へと投げ捨て、この上なく真摯で、この上なく誠実な、剥き出しのトーンでこう呟いた。
「……へえ。極薄、ねえ」
すると、ちょうどマイヘルメットの顎紐をカチリと締め終えた真紀が、不思議そうに小首を傾げて、その冷徹な瞳を私へと向けてきた。
「……星野。今、何が『極薄』だと、非論理的なうわ言を口にしたのかしら?」
私は、全身の筋肉をポーカーフェイスのまま完璧にロックし、一瞬にしてその高度にプライベートな、我が生徒会の公務とは1ミリの資産価値の互換性もない物品から、機械的に視線をパージした。
「……いいえ、何でもありません、会長」
私は、正面の夜道を睨みつける。
「ただの、私たち一般組織の人間(部外者)には……一生、何の関係(縁)もない、最高級の防備インフラ(物資)だと思っただけです」
だが、カチリと自分の口からそのセリフが飛び出した次の瞬間、私は自分の脳内の危機管理アラームがエラーを吐く音を聞いた。
――詰んだ。
今のは、黙ってスルーするよりも、遥かに最悪なカウンター(墓穴)を掘り抜いてしまった。
人類の言語学の法則において、「何でもない」という大人のオブラートは、大抵の場合『ここには今すぐ隠蔽すべき重大な機密が存在します』という最低な言い訳と同義であり。
さらに、クリスマスの夜に「私たちには一生関係がない」なんて極端なフレーズを一度でも口にしてしまったら――それはシステム上、自動的に第二層、第三層、果てはこれ以上深追いして解析すべきではない第四層のインモラルな意味(――つまり、俺とあんたの二人の関係性には、そんな大人の防備グッズなんて一生必要ねえよな、という特大の勘違いフラグ)が、勝手に足元からタケノコのようにニョキニョキと生えてきてしまう、最も危険なバグ表現だったからだ。
案の定、私の失言を耳にした九島真紀の動きが、半秒ほど、ピタリと彫像のように停止した。
彼女は、私の顔をじっと見つめる。
私もまた、彼女の冷徹な瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
夜の極寒の風が、二人のバイクの横をヒョオオオと冷たく吹き抜けていき、遠くの中庭の雪の乱反射が、地面を白く幻想的に浮かび上がらせる。
警備員室の前の空間全体が、一瞬だけ、世界のルールがバグを起こしたかのように、不自然なほどにしん静まり返った。
長い、果てしない一秒の沈黙の後。真紀は、何事もなかったかのように極めて平穏なトーンで、その視線をフイッと前方の夜道へと戻した。
「……そう。なら、よかったわ」
「――っ」
……ちょっと待て、会長。
今のは、一体どういう数理的アルゴリズムから弾き出された『そう、ならよかったわ』なんだよ。
この台詞の処理は、システム的に非常に問題があった。
今すぐバグを修正するような大きなエラーではないが――この後の帰り道、バイクのハンドルを握りながら脳内でふと思い返して解析しているうちに、じわじわと精神のデッドラインをおかしくさせていく、あの最もタチの悪いタイプのシステムバグ。
彼女が今の私の致命的な誤解(失言)を、果たして私が今脳内で危惧している通りの『あの悍ましい大人の意味』として100%正確にレシーブしてしまったのかどうか。
そのエラーコードを確認するため、私がもう一度口を開きかけた、まさにその次の瞬間だった。
向こう側の暗がりに佇んでいたロイが、この世の終わりのような凄まじい大音量で、ゴホンゴホンとわざとらしい全力の咳払い(ブロッキング)を叩き込んできた。
ピュアな物理的手段を用いて、このバグりかけた会話のタイムラインを、強引に通常の世界のプロテコールへと引き戻そうとする、哀れな敗者の必死の抵抗だった。
「……星野。お前は今、この場所で、ただの一ピクセル(データ)の光景も目撃していない。いいな?」
「ああ、安心しろよ、ロイ」
私は真紀へとヘルメットを手渡しながら、これ以上ないほど誠実で親愛の情に満ちた、極上のトーンで応じた。
「我が連邦の年末年始の労働制度は血も涙もない残酷な代物だが――少なくとも、監禁されている末端無給労働者(奴隷)に対しても、成人の最低限の『個人的な自由(夜の防寒対策)』だけは完璧に保障されているんだな、っていう最高の真実が完全理解できたからさ」
「星野……っ!!」
「分かった分かった、完全黙秘を貫いてやるから、そんな殺気立った目で睨むなよ」
蘭ちゃんはロイのすぐ隣に、何事もなかったかのように凛と直立していた。
その白い耳の根元だけは、未だに鮮やかな朱に染まったままだったが、その顔面のパーツは、すでに普段通りのあの氷のように冷静なプロの書記の表情へと、完璧に再起動されていた。本当に、このヒロインのシステム制御能力は恐ろしいものがある。
並の一般生徒なら羞恥心でその場に爆発四散(社会的死亡)していてもおかしくない修羅場のシチュエーションだというのに、わずか三秒のタイムラグで、『――私はただ、同僚に夜番用の事務日用品を手渡しただけですが、何カシラ?』という、完璧なお役所公務のスタンスへとマインドを調整してみせるのだから。
むしろ、その真横の財務担当者のほうが、自らの魂がこのまま校外の彼方へと完全離脱(現実逃避)していくのを、必死の意志の力だけでギリギリ繋ぎ止めているように見えて、哀愁が凄まじかった。
まあ、あいつの自業自得だとは思う反面、同じ組織の男としては、ほんの少しだけ同情を禁じ得なかった。
生徒会の同僚(私)の網膜に一度でもデータとして焼き付いてしまった以上、その事実を無かったことには絶対にできない。特に、私たちのアジトには、あのジェスという名の最悪なゴシップモンスター(情報生命体)が生息しているのだ。来週一週間にわたる彼らの生徒会室での平穏なシェアハウス生活のタイムラインは、数理的にもかなり悲観的な予測(修羅場)しか弾き出せそうにない。
その時、真紀はすでにバイクのリアシートへとその細い身体をしなやかに預け、まるで最初から何も発生していなかったかのような、平時の冷淡なトーンで告げた。
「……星野。アジトへ帰還する前に、どこかで何か、燃料補給(食事)でもしていく?」
「――え?」
私は片手でハンドルを握ったまま、上半身をひねって彼女を振り返った。
「この時間から開いてる店なんて、駅前の24時間営業のチェーン店くらいしか選択肢がないぞ?」
私は尋ねる。
「……何が食べたいんだよ、会長」
真紀は、コンマ一秒の迷いのタイムラグすら挟むことなく、即答した。
「――寿司」
私は、不覚にも少しだけ呆気にとられて瞬きをした。
「……は? スシ?」
けれど、冷静になって考えてみれば、これ以上ないほどに『九島真紀らしい』完璧な最適解だった。
朝の七時から10時間以上も過酷なブラック残業(労働)を処刑し終えた後、普通の一般人間の脳内に浮かび上がるのは、大抵の場合、濃厚なラーメンだの、ギトギトの揚げ物だの、あるいは大量の塩分と脂分の暴力によって、バラバラに壊れかけた精神を力づくで元の肉体に貼り直せるような、そんなジャンクな燃料の群れのはずだ。
だが、この鉄の女は――こういう限界の極限状態にあってなお、明日の朝の決議書を冷徹に審査する時と全く同じ口調のまま、どこまでも超然と、落ち着き払って「寿司」と言い放てるのだ。
私はポケットから私物の端末を取り出し、音声アシスタントを起動した。
「ナビ。現在地から最も近い、まだ営業中の寿司のチェーン店をスキャンしてくれ」
画面が青く発光し、三秒の処理速度の後に、いくつかの候補データがラインナップされた。
ざっとスクロールしてログを確認してみるが、どれもこれも名前からして『企業のスローガン』と『低コスト』を安易に組み合わせて量産されたような、ありふれた量産型チェーン店ばかりだった。
だが、そのデータの一番最下層の欄に差し掛かった瞬間、私はおや、と片方の眉を跳ね上げた。
「……あ、あったぞ」
私は、端末の画面をリアシートの真紀の方へと少しだけ傾けてみせる。
「――『鮨 浪速丸』はどうだ? ここならルートの直線上でまだ開いてる」
真紀はその画面のログを冷ややかに見つめ、店名の下にデカデカと記載されている、キャッチコピーの文字列を一度だけ声に出さずに黙読した。
【――首都星デュナンが誇る、第一級水産プラント養殖業者直営。旧地球時代の天然魚類のバイオデータを、遺伝子レベルで完璧に再現――】
彼女の動きが、そこで少しだけ止まった。
その『旧地球時代の魚類を完璧に再現』という最先端の売り文句(宣伝)が、果たして技術革新の偉大なる勝利を意味しているのか、それとも、ただのマーケティング部の人間どもが祝日前夜に集団発狂して書き殴った誇大広告(不審な自白)なのかを、数理的に真剣にプロファイルしているようだった。
最終的に、彼女は小さく一度、満足そうに頷いた。
「いいわね。そこに決定しましょう」
私は思わずフッと鼻から声を漏らして笑い、ナビのルート案内をスタートさせた。
「会長。あんたがさっきコンマ数秒だけフリーズしてたの、さてはあの広告のポエムが『科学技術の勝利』なのか、それとも『宣伝部の集団発症』なのかを冷徹に仕分けてただろ?」
「――その二つの事象は、近代ビジネスの論理上、何ら矛盾なく同時成立するわよ」
「……お見事。筋が通りすぎていて、1ミリも反論の隙が見つからないな」
セルのスイッチを押してエンジンを強制起動させる直前、私は最後にもう一度だけ、背後の薄暗い警備員室の窓へと視線を振り返った。
ロイと蘭ちゃんの二人の影は、すでに引き継ぎ簿のバインダーを抱えて、暖房の効いたインフラの奥へと吸い込まれて消えていた。
これだけ距離が離れてしまっては、二人が今、あの狭い空間の中で一体どんな無様なポーカーフェイスを繰り広げ合っているのかまでは視認できない。
けれど――あの蘭ちゃんの手から手渡された特級のミリタリーインフラ『極薄(携帯カイロ)』が、今夜という聖なるクリスマスの夜の間、ずっしりと重い夜間記録簿と、淹れたての温かいお茶のカップ、そしてあの受信状態の最悪な旧式のホロ・プロジェクターと同じ『畳二枚分の密室空間』に同居し続けるのだと思うと……。
私は不覚にも、この理不尽な世界という名のシステム(神様)は、ある特定のニヤニヤしたいシチュエーションにおいては、本当に完璧極まりない番組の演出(ハメ技)を構築してくれるものだな、と感心せずにはいられなかった。
……まあ、それは今夜、無罪放免となった私がわざわざ胃を痛めて心配してやるべきタスクではない。
私は前を向き、革手袋のフィット感を確かめるように両手をきゅっと握り直した。
すると、私の背中のすぐ後ろから、真紀のごく淡い、しかし実家のような安心感のある一言が、インカムのノイズを隔てずにダイレクトに届いた。
「――行きましょう、シモ」
「了解、会長」
ヘッドライトが鋭い閃光を放って点灯した、まさにその瞬間。
私は胸の奥に、ひどく奇妙で、しかし心地のいい感覚を覚えていた。
今日の朝の六時四十分からずっと、私の脳内を埋め尽くしていたあの泥泥の不条理が、ようやく一箇所、光によって綺麗に切り開かれたかのような、そんな全能感。
これまでのタイムラインには、狂気的な保護者、外部の来客、搬入業者、引き継ぎマニュアル、制度の暴力、そしてクリスマスを怨念で呪うだけのブラックな労働現場しか存在していなかった。
けれど、これからの前方のルートに待っているのは――ただの静かな真夜中の夜道と、吹きすさぶ冷たい風、そしてナビの画面に光る、チープなチェーン店の寿司の名前だけ。
そして何より――今日の一日中、私の真横で全く同じだけの地獄の防波堤として直立し続けてくれて、それでもなお、最後には「寿司」というたった二文字の、剥き出しの現実(本音)だけで、世界のすべてを私の『手が届く、愛すべき範囲』へと力づくで引き戻してくれる絶対的な相棒(真紀)が、私のすぐ後ろで私の腰をしっかりと掴んでくれている。
そうやって論理を組み立てて考えてみれば。
最先端の水産プラントでバイオ製造された養殖のフェイク魚(寿司)を食べるだけのクリスマスディナーだって、そこまで悲惨な敗戦処理には聞こえなくなるから不思議なものだ。
――少なくとも、今夜の私は、あの地獄の夜番(密室)に監禁されずに済む。
ただそれだけの客観的な事実だけで、今の私にとっては、十分に神様から与えられた最大の『祝日の福利厚生』と呼ぶに相応しい救済だった。
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