184.第一日 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
十二月二十五日。朝の六時四十分。
私は極寒の正門前に立ち、クリスマスという聖なる祝日が、人間(役職)によっては『単なる別種の大規模労働』に過ぎないという残酷な真実を、人生で初めて身をもって理解していた。
昨夜のうちに大雪は一度止んだものの、アスファルトの上には未だ半死半生の薄汚い白がへばりついており、踏み締めるたびに誰かが鼻で冷笑しているかのような、シャリシャリと不快な音を立てて砕けた。
校門のすぐ脇にある警備員室にはすでに明かりが灯っており、ガラス窓には内側の熱気でびっしりと白い霧が結んでいる。
中の暖房はまるで別文明の楽園のようだったが、私はその楽園の外に虚しく立ち尽くし、前番からの当直引き継ぎ簿と、ずっしりと思いた鍵束、そして真紀から無造作に押し付けられたホットコーヒーの缶を両腕に抱えながら――自分が明らかに、この世界における『格下の奴隷(無給労働者)』の側に属しているのだと、痛烈に実感させられていた。
「……ずいぶんと、これから出廷させられる被告人みたいな顔をしているのね、星野」
私のすぐ隣で、真紀が冷淡な一瞥を投げてくる。
彼女は今日も、普段より一枚多く防寒着を着込んでいた。濃いネイビーのウールコートの襟元を寸分の狂いもなく整え、マフラーまで校則の規定通りにガチガチに巻いている。
本当に、この女の精神構造はどうなっているんだ。メンバー全員が同じように理不尽なシステムに引きずり出されて絶望しているというのに、彼女だけは「私自身がこの学校のシステム(制度)よ」と言わんばかりの超然とした顔で佇んでいる。
私は温かい缶コーヒーを祈るように両手で包み込み、死んだ目で正直に答えた。
「本質的には、被告人の出廷とほぼ同義ですからね。唯一の違いは、普通の裁判所の判決(死刑執行)は、朝の七時ジャストから極寒の校門前に直立不動で立たされるところから始まらない、っていう一点だけです」
「そんな軽口(文句)を叩く余裕があるなら、まだ脳死には至っていないわね」
「会長。あんたのその部下を労るアプローチ、死にかけた患者の胸ぐらをドカドカ二回殴りつけて『よし、まだ心臓は動いているな』って確認する悪徳医師のそれによく似ているって、自分でも気づいてますか?」
真紀は私の愚痴には一切返事をせず、ただフンと鼻を鳴らすと、私の手から引き継ぎ簿をスマートにひったくった。
そして、今日一日の『居残り教官名簿』と『臨時出入許可証』のデータを、恐るべき速度で照合し始める。この手の事務作業を処理する時の彼女の指先の動きは文字通り神速であり、私の脳内には『九島真紀の脳内には、世界中の面倒な書類を専門にミンチにする、軍用規格の分類AIが標準搭載されているんじゃないか』という疑惑が、常々もたれていた。
年末年始の学校なんて、少なくとも生徒の大半は帰省しているのだから、ガランとして祝日らしい静かな余裕くらいは残されているだろう――。
そんな私の淡い期待は、午前七時を迎えた、まさにその瞬間に粉砕された。
私は己が、人類文明という名の化け物を、致命的なまでに過大評価していたのだと知ることになる。
――第一波は、保護者の群れ(レイダーズ)だった。
一人や二人なんて可愛いレベルではない。文字通りの集団突撃だ。
一秒前まで校門の外にはまばらな車のテールランプが見えるだけだったというのに、次の瞬間には「三年A組の男子寮はどっちかしら!?」「子供が部屋に忘れた荷物を取りに先に入っていい!?」「臨時の学内駐車許可証はどこでもらえるの!?」「学生証を紛失したみたいなんだけど、保護者の付き添いがあれば出られる!?」という、怒涛の弾幕が校門へと撃ち込まれ始めた。
親御さんたち一人一人の顔には、祝日前夜特有の、焦燥と殺気立った忙しさがこれでもかと滲み出ており、まるで『ここで五分余計なタイムロスを食らったら、家族の団欒が来年まで強制延期される』とでも盲信しているかのようだった。
私は校門の内側の防衛線に立ち、人生で初めて「――ちょっと聞いていいですか?」というごく一般的な九文字の羅列が、連射形式で脳内に撃ち込まれると、精神的にリアルな物理ダメージが発生するという驚愕の事実を理解した。
「副会長、駐車許可証のストックが切れた!」
「はい、今出します!」
「副会長、西寮エリアの通行名簿をこっちに!」
「ちょっと待ってください、今めくってます!」
「副会長! こちらの保護者の方が、外の吹雪の中で二十分も待たされたって激怒しているわ!」
「……二十分待ったくらいで、生徒会から『忍耐賞』の金メダルでも授与しろって言いたいんですか?」
過労で脳のフィルターが外れ、最悪な毒舌が口からダイレクトに飛び出した瞬間、目の前にいた母親の表情が、ピキリと信じられないものを見るかのように凍りついた。
だが、真紀は即座に手元のバインダーをパタンと閉じ、流れるような動作で私の一歩前へと割って入った。
「――大変申し訳ありません。我が組織の副会長は、今朝の六時四十分からずっとこの極寒の中で直立不動のまま稼働しておりまして、少々脳内の『お役所言葉』がフリーズしかけているのです」
真紀は完璧なプロの微笑みを浮かべる。
「お子様のお名前と、所属されている寮の棟番号を教えていただければ、今すぐ私の方で最優先でデータを確認いたしますわ」
その『言葉がフリーズしかけている』という真紀の超絶エレガントな言い回しは、実質的には『ウチの副会長は過労で社会化能力が限界突破(メン破)していますので、今すぐ保健室に叩き込むか殺処分するべき個体ですがご容赦ください』という死刑宣告と同義だった。
それでも、九島真紀という絶対的な存在がそれを口にすると、不思議と相手を平伏させて従わせる圧倒的な圧があった。激怒していた母親は一瞬で毒気を抜かれ、大人しく子供の名前を告げ始めた。
私は隣でデータをめくりながら、真紀に向かって小声で呪詛を吐いた。
「……会長。さっきの最高に上品な大人のオブラート、一般的な人間の言語(日本語)に翻訳したら『ウチの奴隷はもう壊れてます』って意味ですよね?」
「大体合っているわね」
真紀は手元を動かしたまま、視線すら向けずに応じる。
「ただ、少しだけ婉曲的にね。聖なるクリスマスのバカンスに、最も相応しい形のラッピングを施しただけよ」
「クリスマスの美学って、私の精神の摩耗を隠蔽するために存在してるんですか?」
「あなたもようやく、我が組織が誇るお役所言葉の『言語美学』の真髄を理解し始めたみたいで嬉しいわ」
……ありがとうございます。死んでも理解したくなかったです。
狂気の保護者ラッシュがようやく引いた後は、今度は『アポありの外部訪問者(来客)』のターンだった。
来客、という言葉は、字面の上では非常に論理的で、事前予約があり、明確な大人の目的を持った行為に聞こえる。
だがその実態は――公文書の皮を被った、ただの『理不尽なランダムイベント』の連続に過ぎなかった。
年末の追加書類のサインを求めてくる別部署の人間、年明け以降の提出資料を「今日が御用納めだから」とわざわざ持参してきた外部の担当者。果ては、事もあろうにクリスマスの朝に当たり前のような顔でやってきて、「○○教官はまだ中にいるかね?」と尋ねてくる老紳士まで。その悪びれもしない口調は、ここが厳格な軍士官学校(軍校)ではなく、自宅の近所の24時間営業のコンビニであるかのような軽さだった。
私は押し寄せる人間どもを適切なライン(防衛線)の外側でストップさせ、適切な問いかけを、適切な窓口へとマシーンのように誘導する歯車と化した。
この業務は、決して難しくもないが、決してイージーでもない。
攻略のための要点はただ一つ。――『自分自身の精神に、まだ1ミリでも「余裕」が残っているように見せないこと』。
少しでもこちらが涼しい顔をして余裕をこいているように見えた瞬間、この最悪な世界は即座に、処理不能な追加タスクをもう二、三件上乗せして押し込んできやがるからだ。
午前八時半頃になると、今度は休暇明けを見据えた『先遣の搬入業者』たちのトラックが、校門へと滑り込んできた。
大型のワンボックスカーが停まったかと思えば、その後ろには搬送用の小型トラックがぴったりと列をなしている。運転手たちが寒そうに手をこすり合わせながら運転席から降りてきて、受領票の束を手に、搬入先の棟番号の確認を求めてくる。
「年明けの初稼働で使う予定の新規機材と各種備品を、指定エリアに先行搬入しておきたいんだ。これ以上雪がひどくなって身動きが取れなくなる前にね」
業者の男は言った。その後にも、さらに二社が連続でやってくる。一社は学内の消耗品と清掃備品の納品。もう一社は、本館のメインインフラの年末特別点検。
名目上は『年末年始の大型連休』のはずなのに、このキャンパスの空気は、すでに「全員が、休暇明けに待っているさらなる面倒な始まりのために、裏で完璧に爪を研いでいる」という、殺伐とした工事現場のそれに酷く酷似していた。
校門で凍える指先を使って受領票の確認スタンプを押し続けながら、私はふと、奇妙な哲学に囚われていた。
人類社会が、新年を迎えた瞬間に「明けましておめでとう、心機一転だ!」などと万象更新のドラマを健気に演じられるのは、世界が本当に魔法のように新しく生まれ変わったからなんかじゃない。
いつだって誰かが、他人の目には絶対に触れないドブ底のような場所で、古い埃、古い機材、古い不条理、そして古い厄介事の数々を、一足先に一つ一つ身を削って片付けているからなのだ。
そして極めて不幸なことに――今日この場所で、そのドブさらいをさせられている片付け役の一人こそが、私だった。
「副会長、ここの承認の署名欄」
真紀が、私の目の前に一本のボールペンを突きつけてきた。私は我に返り、ペンをひったくるように受け取って受領票に追加のサインを叩きつけた。
「……さっきから、ずいぶんと魂が抜けた顔をして上の空だったわね」
「いいえ。世界を冷徹に見つめる、祝日限定の『システム定点観察』をしていただけです」
「ほう。で、その観察結果(結論)は?」
「――この世界が誇るクリスマスの華やかな新年の雰囲気の八割は、底辺に敷き詰められた末端労働力の『怨念』と『血尿』によって精製されている、という地獄の真実です」
真紀は、私の悍ましい皮肉に対して、意外にも、深く得心のいったように頷いてみせた。
「……非常に的確で、数理的に正しい観察眼ね、星野」
「っ……おいおい会長。あんたがそうやって急に全面的な同意をしてくるの、かえって私の脳内の生存本能が鳴り響いて怖いんだけど」
「今日は目の前で展開されている事実があまりにも明快すぎて、わざわざ反論を組み立てるコストを払う必要性を感じないだけよ」
よし、分かった。素晴らしい。
あの絶対的な冷徹の化身である九島真紀でさえ、この連邦の福利厚生の仕組みには多少なりとも邪悪なバグがあることを認め始めた。つまり、今日のこの地獄のような忙しさは、決して私が副会長として無能で弱すぎるせいなんかじゃない。システムそのものが狂っているのだ。
午前十時を迎える頃には、校門周辺のエリアは完全に『最前線の戦闘区域』と化していた。
我が物顔で乗り込んでくる保護者が居残り学生を車に回収し、解放された学生たちが巨大なトランクを引きずって歓喜の声を上げながら出て行き、業者の群れが段ボール箱や巨大な機材ケースを抱えて蟻のように入ってきて、アポなしの訪問者が入口で身分証明書が見つからないと大騒ぎし、どこかの部署の教官二人組が建物の配置図を地面に広げて、その場で「来年第一週の演習スケジュールをどう調整するか」を殺気立った顔で怒鳴り合っている。
全員がそれぞれ、世界の中心であるかのような正当な理由を掲げており、そのすべてが「今すぐ処理しろ!」とこちらに牙を剥いてくる。
結果として、私と真紀の二人はその混沌の渦の中央に直立し、校門の秩序が完全に崩壊しかける最初の津波を正面から受け止める、二枚の頑強な防波堤(消波ブロック)と化していた。
この時ばかりは、私は隣に九島真紀という『本物の怪物』が存在することの真の価値を、認めざるを得なかった。
役に立つ、なんて生易しいレベルじゃない。圧倒的に、決定的に不可欠だ。
ある一人の人間がただそこに背筋を伸ばして立っている、ただそれだけの事実によって、周囲の暴徒どもの雑音が自然と二段階はトーンダウンするのだ。
声を荒らげる必要もなく、表情をピクリとも変える必要もない。ただ、相手の名前、時刻、許可の有無、そしてマニュアルの手順を、淡々と冷徹に伝えるだけで、押し寄せる人間どもは『あ、私は別にここで国家に反乱を起こしに来たわけじゃなかったわ』と正気を取り戻していく。
一方、私はといえば――もう一つの『汚い汚れ役(デバフ担当)』を買って出ていた。
簡単に定義するなら、真紀が完璧な正論によって世界を正しい軌道へと引き戻す時、私はそのルールの抜け穴を突いて不法侵入しようとする悪質な個体を、あまりお上品とは言えないドスの利いた手段で物理的に叩き落とす、門番の役割だ。
例えば午前十一時頃、ある身勝手な父親が、事前の登録手続きを完全に無視して、直接マイカーで寮エリアの側門から強行突破しようと仕掛けてきた。
「子供の私物が入ったトランクを二箱回収するだけなんだよ! 一瞬で終わるからいいだろ!」
それが彼の言い分だった。私は電子フェンスの前に立ちはだかり、その男の『それくらい大人の融通を利かせてくれてもいいだろ』という醜いニヤニヤ顔を見つめながら、――なるほど、我が連邦のあらゆる凶悪な交通違反は、こういう特権意識に塗れた個体から生産されるんだな、と冷ややかに確信した。
「――駄目です。お引き取りを」
私はドスの利いた声で言い放つ。
「一瞬だって言ってるだろ! 融通の利かないガキだな!」
「大惨事を引き起こす致命的な交通事故も、大抵はその『一瞬の間』に発生するんですよ、お父さん」
「――っ」
男が言葉を詰まらせた瞬間、私の背後から真紀が冷徹にタスクを引き継いだ。
「お荷物の総重量が規定値を超えている場合は、今すぐあちらの受付で臨時登録を済ませていただければ、生徒会所有の手押しカートを無料でお貸しいたしますわ。ただし――いかなる特例があろうとも、未登録の民間車両をこれ以上学内インフラへ進入させることは、安全保障の規律上、不可能です」
その父親は、冷徹な真紀の瞳を凝視し、それから私の死んだ魚のような凶悪な目を交互に見比べ――おそらくその脳内で、どちらの防衛線を突破する方がより致死率が高いかというリスク計算を完了させたのだろう。大人しく、人間らしい態度へと降伏した。
「……チッ、分かりましたよ。カートを借りればいいんだろ」
男の背中が遠ざかった後、私はため息を吐きながら真紀に向かって小声で呟いた。
「……やっぱり、人間どもはあんたの『正論の威圧』の方に素直にひれ伏しますね」
「私は最低限の『礼儀』を以て交渉しているからよ」
「じゃあ、私の担当は何なんですか?」
「『脅威』そのものよ」
「それ、私の今後の人格形成にとって、一ミリも褒め言葉に聞こえないんですがね?」
「褒め言葉だなんて、私は一言も発していないわ」
……まあいい。任務がコンプリートできれば何でもいい。
正午を過ぎる頃、ようやく校門の熱線は少しだけ落ち着きを見せ始めた。
といっても、『水を飲む暇すらない地獄』から、『直立したままの姿勢でペットボトルを二口だけ喉に流し込める』という、奴隷のランクが一段階アップした程度に過ぎないが。
私と真紀は交代で、暖房の効いた警備員室へと逃げ込んで指先の感覚を蘇らせ、名簿のデータを照合し、午前の臨時出入記録のログを補完していった。
あのくたびれた中年の警備員のおじさんは、昼過ぎになっても私が一度も泡を吹いて倒れていないのを確認すると、なかなか感心したように深く首を縦に振ってみせた。
「いやあ副会長さん、よくここまで無傷で持ちこたえたねえ」
「ありがとうございます、おじさん」
私は完全に能面のような無表情のまま言った。
「……私の今のささやかな人生の目標は、新年のカウントダウンではなく、今日の午後二時まで生き残ることに、大幅に下方修正されました」
真紀は傍らでスマートに書類をファイリングしながら、その私の悲痛な愚痴を耳にすると、あらかじめ警備室のストーブの前で温めておいてくれた缶コーヒーを、そっと私の手元へと押しやってきた。
「……飲みなさい」
「――っ」
私は手渡された缶のずっしりとした熱量に、一瞬だけ動きを止めた。
「会長。あんたがそうやって、部下が死にかけている絶妙なタイミングで、誰にも見つからないように温かい飲み物を差し出してくる隠された習性――世間一般では、非常に重大な『誤解』を招きやすいから止めた方がいいですよ?」
「一体、どんな非論理的な誤解を招くと言うの?」
「――『驚いたことに、九島真紀という鉄の女の胸の内にも、実は1ミリくらいの人間の良心が残されていた』という、世界の法則を揺るがすレベルの致命的な誤解です」
真紀はそこで、ようやくデータから目を離し、ゆっくりと私を正面から見据えた。
「……星野」
「はい」
「つべこべ言わずに、その脳の稼働効率を上げるためのカフェインを、今すぐ胃袋へ流し込みなさい」
「……イエス・マイ・ロード」
――分かりました。大人しく従います。
私が素直にプルタブをパキッと引き抜いた瞬間、己の精神が致命的なまでに『チョロい(安上がりな)男』に変貌していることを痛感させられた。だが、ガンガンに効いた暖房の熱気と、温かいコーヒー、そして限界を超えた過労の三重点に囚われた哀れな人間にとって、完璧なプライド(人格)を維持することなど、そもそも生理学的に不可能なのだ。これは恥なんかじゃない。ただの、不可抗力な物理現象だ。
午後のシフトは、午前の狂気的なラッシュに比べれば幾分かはマシだったが、それでものんびりとお茶を引けるような甘い状況では到底なかった。
事前準備の搬入業者たちのトラックが次々と入れ替わり立ち替わり荷物を定位置へと運び込み、学内では巨大な脚立を立てる男、台車でコンテナを運ぶ男、そしてまるで宇宙決戦へでも赴くかのように厳重に頑強な梱包を施された長大な機材ケースを、本館の奥へと力任せに押し込んでいく作業員の姿があった。
外部の提携企業の担当者もさらに二社が滑り込み、新年の最初の営業日における『特別入校手続き』の承認スタンプを求めて、私の前で書類の山を並べ立てていく。
校門周辺のエリア全体が、崩壊(決壊)こそ免れているものの、決して静寂(平穏)には戻らないという、極めて絶妙なヒリつきを維持し続けていた。表面上は沸騰して泡を吹いてはいないけれど、鍋の底では常に猛烈な熱でグツグツと煮え繰り返っている――そんな、濃厚なスープのような飽和状態。
午後四時を迎える頃までぶっ続けで直立し続けていると、私は自分の両足の骨が、いつの間にかどこかの無機質な金属製のサイボーグのパーツと、勝手に取り替えられてしまっているんじゃないかと本気で疑い始めていた。
対する九島真紀は、未だに最初の1分目と変わらない凛とした直立不動のポーズを完璧に維持していた。安定しすぎていて、横で見ているこちらが理不尽な怒りを覚えるレベルの化け物っぷりだ。
「……なあ会長。あんた、本当は一ミリも疲れてないんだろ?」
私は耐えかねて、半ば八つ当たり気味に尋ねた。
「疲れているわよ。肉体的な疲労度は、数理的にもすでに規定値を超えているわ」
「じゃあなんであんたの顔面は、今から追加で『最高難度の会議記録』を三件と、さらに『別組織の予算審査』を二件同時にマルチタスクで完全処刑できそうな、冷徹なポーカーフェイスを維持できてるんだよ」
「――疲れを、そのまま無様に顔面に出していないだけよ」
「それ、生徒会長専用の特殊パッシブスキルか何かなんですかね?」
「いいえ」
彼女は本日最後となる訪問者ログのバインダーを、カチリとスマートにホルダーへと戻した。
「――ただの、組織を統率する人間としての『最低限の素養』よ」
私は二秒ほど、言葉を失って沈黙した。
「……なるほどな。今、なんであんたがこの狂った組織の会長に向いていて、私が『口頭での重大な規律違反は数知れないが、なぜか叩き出す業務実績(数字)だけは常にトップランキング』という、校史のブラックリストに名を残しそうな副会長に向いているのか、その構造的な理由が少しだけ自己理解できた気がしますよ」
「素晴らしいわね。当直の10時間目にして、ようやく正しい自己認識のプロセスが始まったようで何よりだわ」
「……なあ真紀。あんた、もしかして今日、実はめちゃくちゃ機嫌が良いんじゃないか?」
「いいえ。そんな非論理的な感情の起伏は発生していないわ」
「じゃあなんでさっきから、私に対する言葉のナイフのトゲのキレが、平時の三割増しで抉り込んでくるんだよ」
「――あなたが、私の手駒(副会長)として、最も『使い勝手』が良いからよ」
その冷酷な宣告は、なぜか世界のどんな美しい直接的な褒め言葉よりも、あまりにも九島真紀という人間を表しすぎていた。
冷徹で、極めて実用的で、一切の甘ったるい装飾が施されていない、剥き出しの事実。
――だが、不思議と、最悪な気分にはならなかった。
むしろ、彼女がそういう血も涙もない言い方を正面から崩さないからこそ、そこらへんに転がっているありふれた綺麗な綺麗事よりも、遥かに重い信頼の質量(重み)が、私の胸の真ん中へとまっすぐ突き刺さってくるのだ。
私は気恥ずかしさを隠すように強引に視線を外すと、校門の外のはるか暗暗としていく冬の空を見つめる振りを決め込んだ。
鉛色の分厚い雪雲が、またゆっくりと世界の天井を押し潰すように降りてきており、周囲の残光は灰白色から、さらに深い群青色の闇へと沈み込もうとしている。
午後五時を迎える頃には、あれほど殺気立っていた迎えの保護者の車両もほぼ完全に引き上げ、厄介な外部の来客も姿を消し、午後に入ってきた搬入業者たちも荷物をすべて指定の倉庫へと収めて順番にトラックを発車させていき、最後の数名が中で残りの備品カートを運んでいるだけになっていた。
朝の六時四十分からずっと、人間の怨念と熱線で埋め尽くされていたはずの校門口に、ようやく、冷たい風が吹き抜ける息をつけるだけの静寂(空白)が生まれた。
だが、この急に訪れたガランとした空間の空虚さが、かえって私の肉体に蓄積された疲労の数値を、より一層明快に浮き彫りにさせてくる。
忙しいバトルの最中は、脳内麻薬と怒りと生存本能だけで強引に身体のシステムを持ちこたえさせていられる。けれど、周囲が少しでも静かになった途端、私の細胞一つ一つが、一斉に主権を主張して発言権を取り戻し始めるのだ。――『おいご主人、実は私たちは今日の昼飯の時点でとっくに限界を迎えていたんだが?』と。
私は冷たい鉄柵の端にどっかりと片手をつき、肺の底からゆっくりと大きな溜息を吐き出した。
「……なあ会長。私、今日の一日を通じて、一つの普遍的な真理を完全理解した気がしますよ」
「何かしら?」
真紀が、私の隣に並んで同じ闇を見つめる。
「――クリスマスっていう聖なるイベントは。ある人種にとっては、シャンシャンの鈴の音であり、きらびやかなイルミネーションであり、甘いケーキであり、そして愛する家族との感動の再会だ」
私は、半分空っぽになった静かな校門の外の白銀の世界を見つめた。
「けれど、私たち生徒会という底辺の歯車にとっては――その『他の幸福な人間どもの鈴と、光と、ケーキと、再会』のすべてを、ただのトラブル(行政事故)を起こさずに、この校門から安全に外の世界へと叩き出す(送り出す)ためだけにあるんだ」
真紀は、私のその悲痛な哲学を耳にすると、そっと視線を動かして私を一瞥した。
「……あなたの口から出たにしては、意外なほど人間らしい温かみを孕んだ、詩的な表現ね」
「会長。あんた今日、さっきから私の人間性に対する失礼のキレが本当にデッドラインを越えてますよ?」
「あら、あなたの方こそ、今日はずいぶんと1分あたりの発言のノイズ(愚痴)がうるさかったわよ」
私がさらに倍の毒舌でカウンターを返そうと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
薄暗い校門の外の、しんしんと降り積もる薄雪の彼方から――また、新たな二つの人影が、サクサクと足音を響かせながらこちらへと近づいてくるのが視界に飛び込んできた。
一人は少し背が高く、もう一人は少し小柄。二人の歩幅の周期は、完璧な規則性を保って揃っている。
前を歩く男の影は、両手に巨大な荷物袋を提げ、その肩をごく僅かに縮めていた。寒さと、そしてこの過酷な現実社会の洗礼によって、今日一日で完璧に精神を教育されてきたことが一目で分かる、あの特徴的な縮め方。
その真横に並ぶ影は、歩き方の体幹が驚くほど安定しており、その手には上品な紙袋が握られ、その表情はどこまでも穏やかで――。
これから地獄の夜番のシフトをガチで引き継ぎにくる最前線の兵士というよりは、最初からすべての数字の破綻が分かっている『家庭の赤字家計簿』を、冷徹に仕分けしにやってきたベテランの主婦のような、そんな圧倒的な安定感(安心感)。
私は目を細め、その二人の輪郭が街灯の光の下ではっきりと視認できた瞬間――湧き上がりそうになる笑いを、ギリギリのところで噛み殺した。
――ロイと蘭が、ついに戦路の交代にやってきたのだ。
ロイは私たちの目の前までたどり着くなり、まず開口一番、酷く不機嫌そうに眉間をきつくひそめてみせた。
「……おいお前たち。二人とも、今すぐ死体安置所に叩き込まれてもおかしくないような、最悪な敗戦処理兵の顔をしてるぞ」
「その数理的なデータ判断は、100%正確だよ、ロイ」
私は死んだ魚の目のまま、力なく自嘲気味に笑った。
「ただ、今日の私たちの前に立ちはだかった敵軍の正体が、狂気的な保護者と、アポなしの訪問者、それから容赦ない物資の搬入業者だったっていう、ただそれだけの違いだ」
蘭はロイのすぐ隣に凛と佇み、まず校門の周辺に残されているわずかな人の動きをプロの目でスキャンし、それから私と真紀の疲弊具合を一瞥して――最後に、極めて実際的なトーンで問いかけてきた。
「――日番(昼の部)の業務ログの引き継ぎは、具体的にどの項目から始める?」
私は、目の前に並ぶその二人の歪なコンビの姿を見つめながら、胸の奥に、言葉にし難い不思議な安堵感を覚えていた。
もちろん、これでこの最悪な学内当直(地獄)のすべてが幕を閉じるわけなんかじゃない。まだ、最初の1/3が終わったに過ぎないのだ。
けれど。今日一日の、この過酷を極めた泥泥のバトンを――ついに、次の信頼できる走者の手へと手渡せる時間まで、私たちは無事に生き延びることができたのだ。
この後に待っている、真夜中の漆黒の夜番。
そこから先で、この狂った学校の規律と正面から血みどろで向き合う羽目になるのは――今度は、彼と彼女の順番だった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




