184.第一日 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
下校する前、私はわざわざ正門横の警備員室へと足を運んだ。
急に愛校精神に目覚めて仕事熱心になったわけでもなければ、生徒会という悪魔の組織のスパルタ教育を経て、ついに自発的に校務の運営を把握しようとする優秀な次世代幹部へと更生したわけでもない。そんな美しいサクセスストーリーは現実には存在しない。考えすぎだ。
ただ、年末年始に無給労働者(実質タダ働き)として監禁されることが確定した以上、せめて自分がどんな風に擦り潰されるのか、その『死因』くらいは事前に把握しておこうと思っただけだ。これは積極性なんかじゃない。哀れな家畜の生存本能だ。
警備員室は校門のすぐ脇に佇んでいた。
細く開けられた窓からは、ガンガンに効いた暖房の熱気と共に、古いお茶の葉と、制服のウールコート、そして印刷用紙が長年同居した末にだけ醸成される、あの独特の乾いた匂いが混ざり合って漂ってくる。
今日の当番は、くたびれた中年の警備員だった。
おそらく日頃から、生徒会や風紀委員会の人間が出入りするのを嫌というほど見慣れているのだろう。
――『自分の処刑方法を確認しに来ました』と言わんばかりの死んだ魚の目で入口に突っ立っている私を見ても、彼は特に理由を尋ねることもせず、ただ手招きで私を中に招き入れた。
「……副会長さん?」
おじさんは私を一瞥し、すべてを察したように言った。
「年末年始の当直シフトの件でしょ?」
私は、お通夜の席のような非常に沈痛な面持ちで深く頷いた。
「そうです。自分が一人の人間(有給)としてここに赴くことになるのか、それとも学内インフラ(無給)の一部として稼働することになるのか、先に我が身の行く末を知っておきたくて」
相手は一瞬だけ呆気にとられたように瞬きをしたが、すぐにフッと声を漏らして苦笑した。
「心配しなくていいよ。そんな大げさな仕事じゃないからさ」
――経験上、この種の前置きは、たいてい致命的に危険だ。
人間が「そんな大げさなことはない」と言い出す時、その後に続く説明の九割九分は、事態が実はとんでもなく大げさ(最悪)であることを証明するデータで埋め尽くされているものだ。
私は即座にパイプ椅子を引き寄せて腰掛け、自分の年末年始の『葬儀説明会』に、人生で最も真摯な態度で臨む身構えをした。
だが、私の身構えに反して、おじさんは意外なほど親切だった。
当直業務のタイムラインを一通り、大雑把に噛み砕いて教えてくれたのだ。
昼間は主に校門の解錠確認、宅配便などの受け取り代理対応、簡単な学内巡回、臨時の出入り状況の管理。
夜間は、学校に残っている居残り教官たちの動向に合わせ、最後の一人か二人が退校したのを見届けてから、施錠すべき主要施設にロックをかけ、ログ帳に記録を残し、最後に生徒寮エリアと本館の外周をぐるりと一周チェックする。
理屈の上では『当直(警備)』だが、実際問題、誰もが浮かれている年末年始の長期休暇に、わざわざこのクソ寒い士官学校に侵入して問題を起こそうとする命知らずなんてそうそういない。だから、ほとんどの時間の中身は――。
「……ほとんどの時間の中身は?」
私が身を乗り出して尋ねると、警備員のおじさんは左右を不自然に見回した。
狭い警備員室の中には、私とおじさんの二人しかいないというのに、それでも彼は、大人の職場の暗黙の了解とでも言うように、声をグッと落として囁いた。
「――ただの『形式(お飾り)』だよ」
おじさんは悪戯っぽくウインクする。
「どうせ私たちは無給のボランティア労働者(奴隷)だからね。夜、教官たちが全員帰ったら大門を完全に閉めちまってさ、センサーに異常がなければ、あとは警備員室で朝まで寝てたって誰も怒りゃしないよ。自分で自分を怖がらせる必要はないさ。国境警備隊並みのガチ度で雪中行軍して、足跡を踏み固める必要なんてどこにもないんだから」
私はおじさんの顔を、二秒ほどじっと見つめた。
……ほう。
おいおい、意外と悪くないディールじゃないか。
もちろん、「当直制度そのものが素晴らしい」などと称賛するつもりは毛頭ない。そんな理不尽な制度は相変わらず今すぐ爆破してやりたい。
だが、もし夜番の本質が『最低限の施錠とログ記録を終え、ポーズとしての巡回を形式的にこなしたら、残りの時間は暖房の効いた警備員室でラノベを読み耽るか、仮眠を取っていい』という免罪符付きのものなら――話は別だ。
私の精神的な受け入れ許容量は、『いっそ今すぐ脳幹を撃ち抜いてくれ』という絶望から、『よし、遺影の準備をするのはまだ引き延ばしても大丈夫そうだ』というレベルにまで、劇的に浮上した。
私はその瞬間、この薄暗い警備員室という空間に対して、人間として持つべきささやかな親愛の情を抱いた。
「なるほど、よく理解できました」
私は大真面目に首を縦に振る。
「つまりこの業務の真の極意は、職務に忠実であることではなく――職務に忠実であるように『魅せる』プロフェッショナルになることですね」
警備員のおじさんは楽しそうに笑い、正面からの肯定は避けつつも、ただ「分かってるじゃないか」という視線を含ませながら、年季の入った湯呑みを口へと運んだ。
やはり、私の読み通りだ。
人類の近代文明が、欠陥だらけの法制度の下で今日まで何とか崩壊せずに機能し続けているのは、システムそのものが完璧だからではない。
そのシステムの内側にいる末端の人間たちが、どこまでは杓子定規に厳守し、どこから先は生存のための『逃げ道』として黙認すべきかを、暗黙の了解として心得ているからなのだ。
死刑宣告を免れた囚人のように、ほんの少しだけ気分を上向かせ、よし帰ろうと席を立ち上がった、まさにその時だった。
親切な警備員のおじさんが、蛇足としか言いようのない不吉な一言を、ぽつりと付け足した。
「……ただまあ、もし『風紀委員会』の連中と同じシフトになっちゃったら、あとは君の運次第だけどね」
私は、ドアノブにかけようとした手をぴたりと止めた。
「……どういう意味ですか、それ」
おじさんは、酸いも甘いも噛み分けた老練な看守のような表情を浮かべた。
「あっちには、本気で規則通りに徹夜で学内を練り歩くような、本物のガチ勢が混じってるからねえ」
おじさんはため息混じりに肩をすくめる。
「特に、あの風紀委員長のお嬢ちゃんは……私たち無給労働者を、朝まで安心して眠らせてくれそうな、そんな慈悲深いタイプには到底見えないよ」
……ほう。
よし、分かった。
つまりこの最悪なデスゲーム(当直)は、単に表面上のマニュアルを攻略すればいいという話ではなく――裏で誰と『ペア(組み合わせ)』を組まされるかという、実質的な人間関係の方が遥かに重要だった、というわけか。
たった今、地獄の底から拾い直したばかりの私のささやかな希望のライフゲージに、早くもミシミシと不吉なひび割れが走り始めていた。
◇
半分は安堵、そしてもう半分は最高に不吉な情報を携えて、鉑橋街二十二番地のアジトへと戻ると、リビングにはやはり明かりが灯っていた。
ドアを開けた瞬間、まず出迎えてくれたのは、温かいお茶とコーヒー、そして誰かがどこかからテイクアウトしてきたであろう、ジャンクな揚げ物の匂いが混ざり合った空気だった。
お世辞にも高級とは言えない、少し雑然とした生活臭。けれどそれは不思議と、私の荒んだ心に「今日の戦いは、まだ完全には終わっていないんだ」という奇妙な現実感を与えてくれた。
真っ先に私の帰還に気づいたのは、やはりジェスだった。
彼女はソファの肘掛けにだらしなく身体を預け、近代文明社会に対して不当解雇の訴訟でも起こそうとしている猫のような姿勢のまま、私を見るなりひらひらと手を振った。
「あ、副会長がお帰りになられたわよ」
ジェスは意地悪そうに目を細める。その声には、重大な災害情報を読み上げる直前の報道キャスターのような、プロフェッショナルな愉悦が滲み出ていた。
「ねえ、どうだった? 警備員室で拝み倒してきたのは、刑期を短縮する『減刑の知らせ』? それとも処刑の手順が書かれた『執行の詳細』?」
「……両方だよ」
私はため息混じりにマフラーを外し、ドア横のハンガーへと掛けた。
「良い知らせとしては、夜番の最中に忠犬ハチ公みたいに生身でキャンパスを夜明けまでグルグル巡回し続ける必要は、論理上(マニュアル上)はないってことだ。で、悪い知らせは――その素晴らしい前提条件が、教官どもの退校と大門の施錠がミリ単位の狂いもなく順調に完了する、っていう奇跡にかかっていることだな」
ディランは向かいの一人掛けのパーソナルチェアに深く腰掛け、どこから調達してきたのか、温かい缶コーヒーを手のひらで転がしていた。私の報告を聞いても、彼はただ抑揚のない瞳をゆっくりと向けただけだった。
「なるほど。つまり本質的には、成人がやり散らかして帰った校内を、未成年が尻拭いするシステムというわけか」
「……お前、その総括は的確すぎて非常に腹が立つからやめろ」
ハーヴィーはローテーブルの前にあぐらをかき、どこから入手したのか、校区の全体配置図のコピーを険しい顔で見つめていた。私の話を聞き終えると、彼が最初に尋ねたのは、私の疲労具合でも警備員室の暖房の効きでもなく、これだった。
「夜間に完全施錠した後、もし居残っている教官が臨時で外に出る必要が生じた場合、誰が解錠の対応をするんだ?」
私は上着を脱ぐ動きをぴたりと止め、顔を上げた。
「当直の人間が立ち会って身元を確認して、状況に応じて手動で対処することになってるが……それがどうした?」
「いや、ただ事前にリスクの穴を確認しておいた方がいいと思ってね」
ハーヴィーは棒付きキャンディーを口に咥えたまま、まだ半分眠っているかのような気だるいトーンで言った。
「ルールが厳格なルールである以上、そのシステムのどこに一番『面倒な綻び』が生じるのかを把握しておくのは基本だよ」
ディランが不審そうに彼を振り返る。
「……お前のその言い方、さっきから優雅な完全犯罪のシミュレーションにしか聞こえないんだが」
ハーヴィーは、何一つ悪いことなどしていないと言わんばかりに無邪気に瞬きをしてみせた。
「心外だな。私はただ、後から警察に犯罪記録を解析されないための、予防医学的な研究をしているだけだよ」
「ほら見なさいよ!」
ジェスが即座にソファの肘掛けをバンバンと叩き、私に向かって、他人の不幸をこれ以上ないほど美味そうに咀嚼する邪悪な(幸災楽禍の)笑みを向けた。
「これが、私がこの生徒会といるのが好きな最大の理由よ! ただ年末年始の憂鬱な当直シフトを組んでいるだけなのに、リビングの空気にはもう、重大な予備的犯罪の香香がプンプン漂い始めてるんだもん!」
「……それを世間では『香り』とは呼ばない。不吉な『前兆』と言うんだ」
私は革手袋を乱暴にテーブルへと放り出した。
リビングの向こう側では、ロイが食卓の端に陣取り、目の前にノートとペン、そして印刷したばかりの臨時のデータ表を広げていた。そのすぐ傍らには、蘭がさりげなく注いでくれた淹れたてのお茶のカップ。
この二人の放つ独特の存在感は、相変わらず言葉にし難い微妙な空気を醸し出していた。
分かりやすく甘ったるくて目立つ、という類のものではない。ただ、日々の業務における日常的な連携が幾重にも積み重なりすぎた結果生まれた――ある種の、完成された『熟年夫婦のような圧迫感』。
ロイがわずかに眉をひそめて資料を睨めば、蘭が何も言わずにペンのキャップを外して手元に置いておく。
蘭が別のデータシートに目を落とせば、ロイは視線すら向けずに、自分のコーヒーカップを彼女の方へと数センチほど押しやる。――『お前も飲め』という意味だろう。
このレベルの自然さは、もはや普通の「仲の良い同僚」という概念のデッドラインを遥かに越えている。
二人が将来、新居の電気毛布を購入する際、シングルサイズにするかダブルサイズにするかで、すでに一悶着終えていそうな夫婦の空気感。
私はそっと視線を逸らした。これ以上の当てつけ(ごちそうさま)を過剰摂取するのは、精神衛生上お腹いっぱいだったからだ。
真紀は食卓の上座に威然と腰掛け、その手元には、新しく出力されたばかりの数枚の書類が握られていた。私が戻ってきたのを確認すると、彼女はまず壁の時計に目をやり、それから私を真っ直ぐに見据えた。
「……ちょうどいいタイミングね、星野」
この台詞が九島真紀の唇から零れ落ちる時、歴史的な経験則から言って、意味は二つに一つしかない。
一、本当にタイミングがジャストである。
二、お前はもう、絶対に逃げられない。
今日という最悪な日付と、私の今期における人生の運勢を数理的に考慮すると、まず間違いなく後者の確率が有意に高い。
私は食卓の横のパイプ椅子を引き、諦めたように腰を下ろした。
「会長。その血も涙もない出だし、判決を言い渡す前に被告人を法廷へと出頭させる裁判長のトーンにそっくりです」
「それはあなたが、自分の置かれている絶望的な現状を誰よりも深く自己分析できている、という証拠よ」
「おかげさまで、一ミリも気分が上がらない教育的指導ですね」
真紀は私の虚しい抵抗など完全に無視し、手元の数枚の書類の端をトントンと机で整えると、それをローテーブルの中央へと滑らせてきた。
「教官側の居残りスケジュールは直前まで乱高下する可能性があるから、まずは最初の三日分(第一波)のシフトだけを正式に発表するわ」
ジェスが即座に、獲物を見つけたハイエナのように背筋をピンと伸ばした。
誤解のないように言っておくが、決して仕事熱心になったわけではない。彼女はただ、他人の人生に訪れる決定的な不幸に対して、極めて安定した鑑賞欲(オタクの性)を持っているだけだ。
「いいね、最高!」
彼女は両手を胸の前で組み合わせ、死刑執行の生中継を回す冷酷な女性司会者のような厳かなトーンで宣言した。
「――それではこれより、年末年始前三日間の『公開処刑(シフト発表)』を執り行います!」
真紀はそんな雑音に1ミリも影響されることなく、淡々と紙面に沿ってその冷徹な文字を読み上げた。
「――十二月二十五日。日番(昼の部)は私と星野。夜番(夜の部)はロイと蘭」
私は一秒ほど、完全に沈黙した。
それから、ゆっくりと首を回してロイの方を見た。
ロイもまた、ゆっくりと顔を上げて私を見ていた。その死んだ魚のような表情は、聖なるクリスマスの夜を、予算の決算報告書と同じベッドで過ごすよう宣告された囚人のそれだった。
対する蘭は至って冷静そのもので、手渡された当直表を手元に引き寄せると、それをロイのほうへとそっと押しやりさえした。
「……少なくとも、私たちは夜番だから。昼間のうちは、先に部屋で休めるわ」
彼女の慰めに、私はたまらず突っ込んだ。
「蘭。その『少なくとも』の使い方が随分と論理的(合理的)に聞こえるんだが、被害者の私の耳には、このクソ制度が『カップル枠』に対してだけ特別に優しい措置を取っているようにしか聞こえないんだが?」
ジェスが即座にガタッと立ち上がって賛同の意を示した。
「そうよそうよ! これは明らかな構造的優遇措置だよ! なんで他のメンバーはクリスマスの夜を二人きりで濃厚に過ごせるのに、我が副会長は、昼間の地獄の十二時間を会長と二人きりで『濃密な公務』に費やさなきゃいけないのよ!?」
「ジェス、お前のその不吉な台詞の中で、一番文脈的に怪しいのは『公務』じゃなくて『濃密』のフレーズだからな」
私は冷たく言い放つ。
ヘートヴィヒは真紀の左隣に静かに着席しており、ここまでの騒がしいやり取りをじっと聞いた後、そっと手元のお茶のカップを受け皿へと戻した。そして、静かに顔を上げて当直表の文字を見つめる。
彼女は一言も発しなかった。
だが、このクーデレ皇女が沈黙を保っている時というのは、何かを脳内のデータベースに真剣に記録している証拠なのだ。
真紀は私たちの動揺など意に介さず、二行目を読み進める。
「――十二月二十六日。日番はヘートヴィヒと風紀委員A。夜番は星野と、二階堂・フレイヤ」
私はその場に突っ伏して、固く目を閉じた。
よし、詰んだ。
昨日の時点では、まだ「夜番なんて警備員室でごまかせるイージーモードかもしれない」と淡い希望を抱いていたが、今日の現実が即座に私の顔面を殴って思い知らせてくれた。我が連邦のシステムは、私という人間を快適に過ごさせるほど甘くはない。
ジェスはすでに笑い始めており、しかもその笑い声のボリュームを抑えるつもりが微塵もない悪質な笑い方だった。
「ひゃははは! 副会長、あんたの不運の引きの強さ、本当に説得力の塊だね! 前日の昼は会長と、次の日の夜はあの『風紀委員長』と二人きりだなんて! この年末年始、あんたにとってはただの当直じゃなくて、完全にキリストの『受難週(ゴルゴダの丘)』じゃないの!?」
「まず第一に、受難週ではない。我が連邦の狂った教育体制が生み出した『罪証展示週間』だ」
私は完全に死んだ目でジェスを睨みつけた。
「……次に、お前がさっきからそこまで他人の不幸で白飯を食えているのは、明快にその地獄のスケジュール表の中に、お前の名前が一切記載されていないからだろ?」
「当然じゃない!」
ジェスは自分の顎に両手を当て、一ミリの羞恥心もなく満面の笑みで言い放った。
「他人の人生に訪れる破滅と不幸は、私の毎日の精神的安定を維持するための、最も重要な栄養源だからね!」
「……ある意味、恐ろしいほどの正直者だな、お前は」
ディランが傍らから、客観的な数理的評価を下した。
「正直者は最高の美徳よ!」と胸を張るジェスに、私はため息を吐く。
「いや、お前のそれは美徳の領域を通り越して、ただの精神疾患の初期症状に近い」
すると、ハーヴィーがそのタイミングでもう一度当直表に目を落とし、さっきよりもさらに平坦な、起伏のないトーンで呟いた。
「……ということは、二日目の夜番(星野のシフト)で、居残り教官たちの退校パターンの流れを、全メンバーの中で一番最初に実地経験することになるわけだ」
「そうだ。それがどうした」
私は不機嫌そうに彼を振り返る。ハーヴィーは口から棒付きキャンディーを抜き取ると、私が先ほど警備員室から持ち帰ってきた『門禁メモ』の数字を指差した。
「つまりそれは――鍵の保管場所、緊急出入口のセキュリティ、引き継ぎのログ、そして臨時解錠の手順を、他の誰よりも先に『完璧に掌握できる』立場になる、という意味だよ」
私は彼の底の見えない瞳を、二秒ほどじっと凝視した。
「……おいハーヴィー。次の一言で『それは便利(好都合)だね』とか吐き抜かしたら、今すぐお前を極寒のベランダの雪の中に放り投げて、脳ミソのオーバーヒートを冷却してやるからな」
ハーヴィーはフフッと声を漏らして笑い、両手を上げてお決まりの降伏のポーズをとった。
「滅相もない。私はただ、副会長の経験値が驚異的なスピードでレベルアップすることを、心から称賛していただけだよ」
「お前のその称賛は、どの角度から聞いても不吉な『前科』の積み重ねにしか聞こえないんだよ」
真紀は、私たちの雑談がこれ以上脱線してタスクの遅延を起こす前に、その細い人差し指を書類の三行目へとピタリと押し当てた。
「――十二月二十七日。日番は私と風紀委員B。夜番は星野と、ヘートヴィヒ」
――その瞬間。
今度こそ、リビングの空間全体が、短い間しんと静まり返った。
長くはない。ほんの一瞬、秒数にしてわずか一秒に満たない刹那の静寂。
だが、そのわずかなタイムラグだけで――隣のジェスの口角が、クリスマスツリーの電飾のように不吉に跳ね上がるには、十分すぎる時間だった。
私はすぐには何も言えず、ただその書類の三行目に刻まれた、冷徹な文字の羅列を見下ろしていた。
――夜番(夜の部)。私と、ヘートヴィヒ。
これがもし、単なる事務的な当直表であれば、なんてことのない普通の校務の話だ。
ただ、同じシフトに配置された二人の学生が、夜間の学校警備に就くだけのこと。業務内容の確認、前番からの引き継ぎ、学内の消灯、主要施設の施錠、そして朝の交代時間まで暖房の効いた部屋で耐え忍ぶ。どれも行政的で、非論理的で、形式上の響きはすべて同じはずだった。
問題は――昨夜のあの『秘密』を共有した特定のヒロイン(ヘートヴィヒ)の名前が、「夜番」という密室の文脈の中に放り込まれた瞬間、すべての物事が、マニュアルには記載されていない余分な意味を帯び始めてしまう、という事実だった。
ヘートヴィヒはその当直表の三行目を静かに見つめ、半秒ほどのタイムラグを置いた後、完璧にコントロールされた静謐なトーンで口を開いた。
「……承知いたしました。その日は、業務に必要な書類ホルダーと、防寒用の保温用品を、私の方で事前に一通り用意しておきます」
非の打ち所がないほどに、完璧な公務としてのスタンスだった。
あまりにも真面目で凛とした台詞回しだったせいに、ここで便乗して茶化すこと自体が、かえって自分の品性を疑われるのではないかと思わせるほどの完成度。
だが、隣のジェスという生き物は、他人が真面目にプロに徹しようとしている神聖な領域にこそ、最高の娯楽価値(萌え)を見出すことを人生の至上の喜びとしている狂人だ。
「あらあら~? ヘートヴィヒはもう、二人きりの夜のための『保温用品』の準備を脳内で始めちゃっているわけね?」
彼女は両手を頬に当て、わざとらしい甘ったるい作り声で身悶えしてみせる。
「うふふ、これぞ最上級の『同僚愛』ってやつじゃない? ねえ副会長、今のお言葉を聞いて身体の芯から感動しちゃったんじゃないの~?」
「……今、私の身体の芯が感じているのは、お前がこれ以上その薄汚い口から余計なノイズを零したら、今夜真っ先に『医療用品(救急箱)』の準備が必要になるのはお前の頭部かもしれない、っていう確固たる殺意だけだ」
「ほら見なさいよ! これが世間一般で言うところの、典型的な逆ギレ(図星)ってやつよ!」
「いいや、これは長年の経験に基づく、正当防衛の予備動作と言うんだよ」
するとその瞬間、ヘートヴィヒが、そっと視線を動かして私を一瞥した。
極めて短く、表面上は何の感情の起伏も含まれていない、ただの視線の交差。
なのに、なぜだろう。そのたった一度の一瞥だけで、私は胸の奥の一番柔らかい部分を、昨夜のようにチクリと突かれたような――他人に絶対に明かせない、もどかしい苛立ちに襲われていた。
真紀は当直表をスマートに手元へと引き戻し、全体の口調を平時に戻した。
「とにかく、最初の三日間の配置はこれで確定よ。その後のスケジュールは、教官側の出入り状況が確定し次第、随時更新していくわ」
「つまり」
私はパイプ椅子の背もたれにどっかりと体重を預け、極めて正確な絶望の総括を口にした。
「……今現在、私たちが突きつけられているこの絶望は、地獄の全体像(総資産)ではなく、ほんの『第一波(前衛)』に過ぎないということですね」
「その通りよ。状況を正しく自己理解できているなら十分だわ」
真紀が頷く。私は彼女を恨めしげに睨みつけた。
「会長。最近のあんたの部下を労るアプローチ、ただ残酷な現実を力づくで認めさせて精神を麻痺させてるだけになってませんかね?」
「それが、あなたという非論理的な個体(星野シモ)に対して、最も費用対効果が高いアプローチだからよ」
――あまりにも筋が通りすぎていて、一瞬、反論の糸口すら見つけられなかった。
ロイはそのタイミングで、ようやくデータ表を走らせていたペンを置き、肺の底から長く重いため息を吐き出した。
「……一つだけ、財務として確認したい項目があるんだが」
彼は眼鏡を指先で押し上げる。
「夜番の待機時間中は、論理上(マニュアル上)、教官たちの退校が完了した後はある程度の休息が認められている。ということは、待機室に外部からの『私物(食べ物や夜食)』を持ち込んでも、何ら規律違反には当たらない、という解釈でいいんだな?」
蘭が不思議そうに首を傾げ、彼を見つめた。
「……ロイ、あなた今のこの地獄の宣告の中で、一番気になっている項目がそこなの?」
「それ以外に、一体何があるって言うんだ」
ロイは疲れ果てた男の目で、蘭を真っ直ぐに見つめ返した。
「聖なるクリスマスの夜を、学校のチープな集中暖房と、教育体制のシステム暴力(タダ働き)だけで乗り切れとでも言うのか? そんなの暴動が起きるぞ」
蘭は半秒ほど静かに沈黙し、それから、彼女にしては意外なほど穏やかな声で、こっくりと首を縦に振った。
「……確かに、あなたの言う通りね。じゃあ、当日は私が温かい飲み物と夜食のベースを、事前に用意して持っていくわ」
「うわあ、もう限界! お腹いっぱい!」
ジェスがその場で自分の胸を両手で押さえ、大げさにのけぞってみせた。
「あいつら二人の夜番、もはや義務の当直なんかじゃなくて、公共の苦役を隠れ蓑にした『家族の冬キャンプ』の領域に突入してるじゃないのよ!」
ディランがその傍らから、冷徹な客観的評価の弾幕を張る。
「正確に定義するなら、初期投資を極限まで抑えた『冬の低コスト二人用野営』だな」
「「お前は黙ってろ」」
私とジェスのハモった突っ込みが、同時にディランへと炸裂した。
ハーヴィーはデスクの端に寄りかかったまま、声を漏らして二度ほどくすくすと笑い、それから再びその視線を、私が持ち帰った門禁ログのメモへと落とした。
あいつは表面上の表情こそほとんどピクリとも動かないが、その天才的な脳内では、あの学校のセキュリティルールを逆手にとったシミュレーションを、すでに最低でも三パターンは完結させているに違いない――。私の副会長としての野生の勘が、そう告げていた。
まあ、今はあえて触れないでおく。
中途半端に突っ込んで小賢しい言い訳をラーニングされるより、あいつが本当に何か致命的な大ポカをやらかそうとした瞬間に、現行犯で完璧に首根っこを押さえる方が、生徒会副会長としての教育的効果としては100%完全だからだ。
一方、私自身といえば――。
手元の三日分のシフト表を凝視しながら、脳内でうまく言語化できない、悍ましい違和感を覚えていた。
これは、単なる『引きが悪い(不運)』というレベルの話ではない。
本当の不運というのは、ただ面倒な仕事を大量に割り振られることだ。だが、私のこの三日間のラインナップは――まるで運命の女神が、数理的に計算された段階的な『精神耐久ストレス強度テスト(メンタル・デッドライン)』を、わざわざ私のためにピンポイントで設計してくれたかのような、そんな意図的な悪意を感じる。
一日目。真紀と日番。――超低温、静寂。十二時間の行政密室(二人きり)。
二日目。風紀委員長・二階堂フレイヤと夜番。――規律、厳格、警戒。一言一言の選択を誤れば即座に物理的衝突へと発展しかねない、ナイフの刃渡りのような緊張感。
そして、三日目――。
――ヘートヴィヒと、真夜中の夜番。
……断言するが、最後の三日目が、全日程の中でダントツで一番まずい。
なぜなら、この世で最も面倒な事態というのは、命の危険を伴うトラブルなんかじゃないからだ。
一番面倒で、一番恐ろしいのは――頭では『これは100%事務的な校務として割り切るべきだ』と理解しきっているはずなのに。静まり返った漆黒の夜の魔力の中で、二人の間の何かが、マニュアルの範疇を超えた別の意味を帯び始めてしまう衝動を、自分自身の手でどうしても食い止められなくなるかもしれないという――その、引き返せない予感だった。
「……副会長」
はっと我に返ると、隣からヘートヴィヒが、その澄んだ瞳で私をじっと見つめていた。
「……また、お得意の『考えすぎ(リスク計算)』の最中ですか?」
「いや」
私は、心臓の跳ね上がりを隠してポーカーフェイスを維持したまま、顔色ひとつ変えずに即答した。
「……ただの、年末年始における我が組織の『リスク評価』をしていただけだ」
ジェスはその私の苦し紛れの言い訳を聞いた瞬間、待ってましたとばかりにゲラゲラと笑い出した。
「へえー? で、その副会長直々の評価結果はどう出たのよ?」
私はデスクの上の、蘭が淹れてくれた温かいお茶のカップを手に取り、それを一口、喉へと流し込んだ。口内に広がる熱さによって、今にも表に出そうになっていた焦燥と苛立ちを無理やり胃の底へと押し込めてから、静かに、全メンバーに向けて宣言した。
「――暫定的なアセスメントの結果、今年の年末年始は……決して、穏やかな日常の範疇では終わらないと判定された」
その私の悲痛な判決に、真紀が満足そうに一度、深く頷いた。
「よかったわね。ようやく、あなたらしく正しい戦闘状態(平時)にマインドが切り替わったみたいで」
「会長。あんたが私の意見に対して全面的に肯定の頷きをする時って、なぜか私の脳内の嫌な予感メーターがデッドラインを突破する仕様になってるんですがね?」
「それは、あなたの副会長としての野生の直感(生存本能)が、まだ腐らずに生きているという何よりの証拠よ」
リビングに、またドッと楽しそうな笑い声が湧き上がった。
窓の外では、昨夜からの純白の雪が、今もしんしんと世界の雑音を覆い隠すように降り続いている。
室内の暖房は完璧で、お茶はどこまでも熱く、そして私たちメンバーは、まだ全員が五体満足で生きている。――少なくとも、今のところは。
本来なら、輝かしい聖なる祝日を迎えるための華やかな準備に追われているはずの高校生たちが。私たちはすでに、たった三日分の地獄の日程表を前にして、これからの過酷な運命を、まるで戦地へ赴く最前線の輪兵のように大真面目に議論し合っている。
客観的に見て、これ以上ないほど荒唐無稽で、世知辛い光景だった。
だが、そんな荒唐無稽な非日常を何度も何度も繰り返しているうちに、いつの間にかそれこそが、私たちの愛すべき『いつも通りの日常(実家)』に見えてくるから不思議なものだ。
私はその書類に刻まれた三行の文字を見下ろしながら、ふと、自嘲気味に笑いたくなっていた。
我が銀河連邦の課してくる祝日の組み方が、一筋縄ではいかない人類への一種の悪意であるならば。
我が生徒会という組織は、その悪意に満ちた極限環境の中で生き残るために培われた、最強の『適応器官』なのかもしれない。
どれだけ無様に文句を垂れ流しても、どれだけシステムへの呪詛を吐き散らかし終えても――最終的には全員が、温かい飲み物を手の届く場所に用意して、山積みのデータ資料を広げ、その腐りきった制度の隙間に自らの身体を無理やり押し込んで。
そうして、お互いの急所を言葉のナイフで楽しく刺し合いながら、泥臭く笑って生き延びていくのだ。
……まあ、そうやって泥沼を這いずり回るスタンスこそが、何だかんだ言って、一番『私たちらしい』のかもしれない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




