183.無料の労働力 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
翌朝、私はいつも通りバイクのリアシートに真紀を乗せ、学校へと送り届けた。
雪は止んでいたが、完全には消え去っていなかった。
道路の端や街路樹の梢には、まだ昨夜の名残である純白がしがみついている。朝の光に照らされた街並みは、まるで誰かが冷水でざっと丸洗いしたかのように、綺麗すぎて少し現実感の薄い光景だった。
バイクが前へと滑り出すたび、タイヤが路上の半分凍りついた雪泥をシャリシャリと軋ませる。その微かな音が、まるで冬の精霊が耳元で小声で囁きかけてくるように聞こえた。
――『昨夜、あなたが小公園で何をしたか、私はちゃんと覚えていますよ』と。
……くそっ。天気まで私に対してトゲを持ち始めやがった。
真紀は後ろに座り、いつも通りに私の腰へと掴まっていた。
密着しすぎることもなく、昨夜のヘートヴィヒのように、道中ずっと私を交通事故の予備軍に仕立て上げるような狂おしい抱き方でもない。
普通だ。極めて、平時のホールド。
だが、その『いつも通り』の健全さが逆に、私の胸の内に後ろ暗い罪悪感をチクチクと呼び起こした。
私は前方のルートを睨みつけ、自分の脳ミソを『副会長』としてあるべき正しい位置へと無理やり押し込もうと奮闘する。
「……今日、ずいぶんと機嫌がいいのね」
不意に、真紀の声が背中越しに届いた。私は少し呆気にとられる。
「そうか?」
「ええ」
真紀は淡々と言った。
「今日は天気の悪口も言わないし、学校への呪いも吐かない。生徒会の愚痴すら零していないわ。あなたらしくない」
「……九島真紀、あんたの私に対する人間性の評価、偏見が過ぎやしないか?」
「偏見ではないわ。長年にわたる、定点観測の結実よ」
私は鼻を鳴らし、あえて振り返らなかった。
――まあ、機嫌が良いのは本当だった。しかも、それには十分すぎるほど正当な理由があった。
バイクを止め、ヘルメットを脱ぐ。肩のあたりにまだ朝の冷気がまとわりついていたが、私の身体はすでに染み付いた習慣に従って、まっすぐ生徒会室へと向かっていた。真紀もその隣に並び、端末の画面に目を落としながら、自然な動作で一緒に歩いていく。
生徒会室のドアの前に立ち、ドアノブを握った、まさにその瞬間だった。
「……あれ?」
――鍵が、かかっている。
私はその冷たい金属の扉を見つめたまま、半秒ほど脳内が真っ白になった。
真紀もその場に立ち止まる。
「どうしたの?」
私は閉ざされた扉を見つめ、それから傍らの誰もいない静かな廊下を見渡し――そこでようやく、昨夜の二十一時過ぎ以降、忙しすぎて脳のメモリから完全にこぼれ落ちていた『一つの真実』を、ゆっくりと思い出した。
仕事は、終わったのだ。
本当に、跡形もなく。
もう早朝から生徒会室に監禁され、各委員会の尻拭いをし、破綻しかけた予算の止血に追われ、進行表の縫合手術を執刀する必要はない。どこかの阿呆な部署がまた『無駄な儀式感』を持ち込んで、財務のロイを道連れに心中しようとするのを胃を痛めながら警戒する必要もないのだ。
今の私たちに許されているのは、基本的には――。
――ただ、最高に輝かしい『年末年始休暇』を待つことだけ。
鍵のかかった生徒会室の前に佇みながら、私は突然、刑期を終えて出所したばかりの元囚人のような全能感に包まれていた。
人間というのは、本当に哀れでチョロい生き物だ。普段は自由があってもその価値など忘れ果てているくせに、公文書とスケジュールと会議記録、そしてゴミ箱の配置によって長期間にわたり完璧に調教されすぎると――ただ鍵のかかった扉を見ただけで、不覚にも涙を流しそうになる。
銀河連邦では、各星区に分散して勤務する全人類のバイオリズムに対応するため、毎年、旧地球時代のクリスマスから元日を挟んだ数日間を、いわゆる『年末年始一斉休暇』と定めている。
つまり、今週三日休んで来週また数日休むような非効率な真似をするくらいなら、いっそまとめて一度に休んでしまおうという最高の方針だ。全連邦の人類が足並みを揃えて「仕事の話はひとまず棚上げにして、お互いにまだ人間らしい心が残っていると信じ合おう」という、集団休眠期間に突入する。
期間にして、およそ二週間から三週間ほどの大型連休。
ヘートヴィヒが数日前に教えてくれたが、銀河帝国側も似たような長期休暇があるらしい。ただし、あちらの文化圏では『クリスマス』なんて可愛らしい呼び方はしない。
彼女たちが祝うのは『皇帝陛下御即位記念日』だの『至高なる建国記念週間』だの、いかにもプロパガンダ用のポスターを大量増刷して、巨大な軍旗を掲げるのにぴったりな、物々しい名前の国家的行事だ。
さすがは帝国。祝日でさえ、国民に対して国家への感謝を強制することを忘れない。
一方、私といえば――。
これまでの人生、祝うどころか『祝日を享受すること』自体に実感がなかった。多くの人々にとって当たり前のはずのクリスマスも、新年も、家族での団欒も、プレゼント交換も、私にとっては基本的にショップのショーウィンドウや、割引広告、あるいはSNSに転がっている他人の写真の中にしか存在しない幻だった。
存在は知っているけれど、自分の頭上には絶対に降ってこない――そんな、どこか遠い世界の出来事。
だからこそ、鍵のかかった生徒会室の前に立って、「ああ、今年は私にも、本当に年末年始の休暇が与えられるんだ」と肌で実感した瞬間、その喜びは極めて素朴で、そして極めて爆発的なものだった。
簡単に言えば、私はその日の午前中ずっと、少し頭の悪い子供のように浮かれていた。
歩き方のステップは妙に軽やかだったし、とにかく気分が良かった。日差しを見れば「悪くない暖かさだ」と微笑み、中庭の積雪を見れば「風情があるな」と感傷に浸り、学食の日替わりスープに大根の切れ端がいつもより一個多く入っていただけで、食堂のおばちゃんに向かって危うく「連邦万歳(ジーク・ジオン風に)」と敬礼しそうになった。
真紀はそんな私を何度か冷ややかな目で盗み見ていたが、昼休み直前、ついに耐えかねたように尋ねてきた。
「……あなた、今日ずいぶんと嬉しそうね」
私はスープの器を両手で包み込みながら、大真面目に頷いた。
「ああ、最高に機嫌が良い」
「どうして?」
「『長期休暇』という二文字に対して、ここまで原始的かつ健全な信仰を捧げられる日が、私の人生に訪れるとは思っていなかったからだ」
真紀は二秒ほど沈黙した。
「……少し、可哀想な人生ね」
「そんなミリ単位の正確さで、私のこれまでの人生を総括してくれてありがとう、会長」
彼女は私を一瞥し、その形の良い唇の端をごくわずかに動かした。
笑いそうになって、寸前で堪えたのだ。その、真紀の顔にある『肉眼ではほとんど視認できないレベルの緩み』は、普通の人間の満面の笑みよりも遥かに凶悪な破壊力を秘めていた。
私は一瞬、さっきまで年末年始の到来を称えていたことを忘れ、この女が昨夜私の後ろに座り、そして今朝もまた何事もなかったかのように一緒に登校してきたこと、それなのに私の脳内には『他人に絶対に明かせない密輸品(秘密)』が山積みにされていることを思い出してしまった。
本当に、情けない。
人間の精神活動というのは、バカンスの直前であっても内乱(修羅場)を引き起こすものなのか。
ともあれ、その午前中までの私の幸福感は、間違いなく本物だった。
――そう。午後に、再び生徒会室へと足を運ぶまでは。
入室して三分も経たないうちに、午前中の貯金だったご機嫌な空気は綺麗さっぱり消え失せた。
うまく形容しがたい絶望感だった。
例えるなら、朝イチで憧れの高級ブランドバッグを購入し、ウキウキで街に繰り出したものの、午後にふとシリアルナンバーを検索したらスーパーコピー(偽物)だと発覚した――それも、非常に精巧に作られているせいで、余計に精神的ダメージが深い、そんな種類の裏切り。
生徒会室には、すでにメンバーが揃っていた。
真紀は上座のデスクの向こうに鎮座し、ロイは何か新しいデータ表を整理しており、蘭は机の端で静かに書類をめくっている。
ジェスはといえば、隣の席で「本日、誰が最初に処刑されるか」をすでに知っている観客のような、最高に不健康な笑顔を浮かべていた。
ヘートヴィヒも席に着いており、印刷されたばかりの注意事項を、静かにファイルへと挟み込んでいるところだった。
私は入室した瞬間、まだ午前中の残り香であるポジティブなオーラを纏っていた。
だが、真紀が口にした短い数言によって、私は再び、容赦なく残酷な現実のどん底へと叩き落とされることになる。
「――年末年始の期間中、我が生徒会は学内当直に入ってもらうわ」
真紀は言った。
私はその場で、完全に彫像のように凝固した。
魂が、二秒ほど本当に肉体を離脱して天井付近を彷徨った気がした。
「……は? なんて?」
「連連休の間は、生徒会と風紀委員会が交代で学内の警備当番に就くの」
真紀は話を続ける。その口調は、明日の天気予報でも読み上げるかのように穏やかで、冷徹だった。
「そうそう。当然、夜間巡回(夜番)もあるわよ」
「よ、夜番だとおおお?!」
私は絶叫した。
その声のボリュームは、廊下を通りかかった一般生徒が『生徒会副会長が中で公開処刑されている』と勘違いして憲兵を呼びかねないレベルだったかもしれない。だが、本当に抑えがきかなかった。
これはもう驚きなんて生易しいものではなく、信仰の崩壊だ。午前中をかけて私の脳内に建立した『休暇の神殿』を、真紀が大型の重機を運転して正面から跡形もなく轢き潰したのだ。
「嘘だろ……」
私はデスクの端に両手をつき、今にも膝から崩れ落ちそうな声で懇願した。
「いっそ……いっそ一発で楽にしてくれ……脳幹を撃ち抜いてくれ……」
するとジェスが即座に、これ以上ないほど慈悲深い聖母のような顔つきで、私の肩を優しく叩いた。
「安らかに眠れ、シモ」
彼女はニヤニヤと笑う。
「あんたの分のクリスマスとお正月まで、私が外で思いっきり楽しんであげるからね!」
「……その言葉、私の墓前でニヤつきながら最低な弔辞を読み上げてるサイコパスにしか聞こえないんだけど」
「ただの、親愛の情を込めた本音よ?」
「本音が剥き出しすぎて今すぐ殴りたい」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてねえよ!」
「解ってるって」
……くそっ。最近、なんでジェスまで私の毒舌のキレをラーニングして、私にカウンターを返してくるんだ。
真紀は私とジェスのこの低レベルかつ末期的な醜い言い合いを完全にスルーし、ただ分厚い書類の束を私の前へと押しやってきた。
「年末年始の間は、民間委託している学内のセキュリティースタッフも一部が休暇に入るわ」
真紀は淡々と説明する。
「当直の教官も一人か二人しか残らない。だから、そのセキュリティの穴を生徒会と風紀委員会が交代で補填するのよ」
私は手元に突きつけられた『当直業務注意事項』を、親の仇のような目で睨みつけた。
白紙に黒字。フォントは美しく整えられ、箇条書きのレイアウトも完璧に明確だ。一文字ずつなら確かに読める。だが、それらが組み合わさると――何かしら極めて悪質で冒涜的な、古代の呪詛(呪い)にしか見えなかった。
「なんでだよ……っ!」
私はほとんどその『だよ』の響きに血の涙を滲ませながら抗議した。
「休暇っていうのは! 人間が休むために存在しているんじゃないのか!? なんでその輝かしい休暇のど真ん中に、さらに過酷な労働を詰め込もうとする悪魔がいるんだ!? ショートケーキの中に鉄ネジを混入させるのと何が違うんだよ!」
すると、ロイが顔も上げずにスプレッドシートの手を動かした。
「鉄ネジには、少なくとも工業的な資産価値がある」
「……お前、さては学校側の回し者だな?」
「違う。私はただ、お前の不正確な比喩表現を、財務として正しく修正しただけだ」
蘭がその横で書類を静かに一枚めくり、淡々と追撃の弾幕を張る。
「それに副会長。ここは『軍士官学校(軍校)』ですから」
私は彼女を見た。
「軍校なのは百も承知だよ! だが、宇宙紀元にもなって、未だに真夜中の生身のパトロールなんて前世紀の遺物みたいなことをやる必要があるのか!? 星間超光速輸送も、軍用量子ネットワークも、星区間リアルタイム通信も完備されたこの令和の時代に、年末年始の凍える夜に学生がキャンパスを徘徊して、自分が十九世紀の歩哨だと錯覚することに何の戦術的意味があるんだよ!」
「二十世紀にも歩哨は存在していましたよ」
隣から、ヘートヴィヒが鈴を転がすような静かな声で訂正を入れてきた。
私は息が詰まりそうになる。
「ヘートヴィヒ、あんた今、どっちの陣営(味方)の人間だ?」
彼女はゆっくりと目を上げ、私を見つめた。その表情は、徹頭徹尾、完璧に平静だった。
「ただの、歴史的な事実に基づいた補足を差し上げただけです」
「なんであんたたちは、私が精神崩壊(メン破)を起こしかけている時にまで、そんな学術的で冷静なスタンスを維持できるんだよ……!」
ジェスが横で、とうとう我慢の限界とばかりに机を叩いて爆笑し始めた。
「あははは! だってシモ、今のあんた最高に面白いんだもん!」
「面白くねえよ!」
私はひどく沈痛な面持ちで、自らの胸に手を当てた。
「私は今、銀河連邦の歪んだ労働制度が生み出した、哀れな被害者(犠牲者)なんだぞ」
真紀は、私が十分に喚き散らして満足したと判断したのか、ようやく一言、救いの手を差し伸べるように付け足した。
「……安心しなさい。一応、良い知らせもあるわ」
私は縋るような思いで顔を上げた。
「……良い知らせ? 本当か?」
「ええ。当直の待機時間中は、業務に関係のない私物――ラノベや漫画を読んで過ごすことを特別に許可するわ」
――生徒会室全体が、一秒間、完全に静まり返った。
私もまた、一秒間、彫像に戻った。
それから私は、カメラのレンズのような虚無の目で、極めて真剣に口を開いた。
「……ああ、そいつは本当に、涙が出るほど素晴らしい『良い知らせ』だな、おい」
ジェスはその場でもう一度、机に突っ伏して引き付けを起こしたように笑い転げた。
蘭も口元を手で押さえて俯いたが、その華奢な肩が怪しくプルプルと震えている。あの冷徹なロイでさえ、ペンを走らせる手を止めて私に憐れみの視線を一瞥を送り、その瞳は『この言葉は非常に不文明(非論理的)だが、お前の絶望する気持ちだけは理解できる』と雄弁に物語っていた。
真紀は私の凄まじい皮肉に対しても一切気を悪くすることなく、ただ極めて平然とした動作で手元のバインダーを元の位置へと戻した。
「どういたしまして」
彼女は事も無げに応じる。
私は彼女の顔を見つめながら、手元の当直表を丸めて、そのまま自分の脳天に叩きつけたい衝動と戦っていた。
「……それから真紀」
私は、その不吉な日程表と夜番の注意事項をさらにめくっていく。めくればめくるほど、近代文明社会のルールそのものに裏切られているような最悪の気分になっていった。
「嘘だろ……まさか、正門の前に直立不動で衛兵(お飾り)まで立たせるつもりじゃないだろうな?」
真紀は、躊躇いなく一度頷いた。
「否定はできないわね」
私は顔を上げ、信じられないという思いで彼女を凝視した。
「……そこで肯定の頷きをするのか?」
「だから、ここは軍校だと言っているでしょう」
私はとうとう、本当に笑い出してしまった。
もちろん、嬉しい笑いなんかじゃない。現実に何度も容赦なく往復ビンタを食らいすぎた結果、精神の防衛本能がバグを起こして笑うしかなくなった、あの種類の狂気の笑いだ。
「信じられん……」
私はうつむいて当直表を睨みつけながら、呪詛のようにぼやき続けた。
「宇宙紀元にもなって、真夜中のパトロール、校門の解錠巡回確認、全寮の点呼確認、果ては機材室の封印のダブルチェックだなんて。大人しく外注の警備員を追加で雇って巡回させた方が、よっぽど合理的だろ」
「その提案なら、私もすでに学校本部に提出したわ」
真紀が言う。私は勢いよく顔を上げた。
「それで? 結果は?」
彼女は私物の端末をデスクに置き、その口調は、最初から100%通らないと分かっていた企画書の中身を淡々と読み上げるかのように、冷淡だった。
「『九島セキュリティー』なら即日対応可能だった。けれど、学校の理事会側が、特定企業への身内への利益誘導(癒着)という批判を避けたいと言って却下されたわ」
今度は私は本当に笑いを抑えきれず、鼻からフンと息を漏らして笑った。その笑いの半分は世界の荒唐無稽さへの呆れで、残りの半分は今すぐベランダから飛び降りたいという純粋な自殺願望だった。
「特定企業との癒着?」
私は真紀を見た。
「もし本当に九島グループとの利益相反を徹底的に排除しようとしたら、この惑星の人間は来週までに全員残らず飢え死にすることになるぞ」
「凍え死ぬ方が先かもしれないわね」
ジェスが即座に、愉しそうに追撃の弾幕を張る。
「学内のメイン暖房システムのインフラも、元を辿れば九島重工の製品だし」
「おそらく、その確率が極めて高いな」
ロイが淡々と同意する。私は彼を睨みつけた。
「お前までそんなことを言うのか、ロイ」
「高確率で発生している客観的な事実を、数理的に述べているだけだ」
彼は極めて冷静に返し、再び計算に戻る。
私はがっくりと項垂れ、手元の当直表を見つめた。
正確に言えば――見つめようと、努力した。
なぜなら、その悪魔の日程表は確かに目の前にあるのだが、いくら目を凝らしても、並んでいる日付の一行一行が、私を順番に処刑していくための墓碑銘にしか見えなかったからだ。
具体的に自分がどう配置されているか、誰と誰がペアを組まされ、どの日が昼番で、どの日が最悪の夜番なのか――生存本能としての緊急防御システムが作動し、今はこれ以上、魂をそのデータに近づけないことにした。
絶望的な真実というのは、早く知りすぎると健康寿命を著しく縮めるのだ。
私は当直表をデスクに放り出し、沈痛なトーンで宣言した。
「……現実社会の悪意というやつを、これでもかってくらい五感で理解したよ」
すると、私の隣に座っていたヘートヴィヒが、二秒ほど静かに私の様子を観察した後、淹れたての温かいお茶のカップを、そっと手元へと押しやってくれた。
「少し、お茶を飲んでください」
彼女は私を見つめる。
「……本当に、今にも泣き出しそうな顔をしていますから」
私はお茶のカップを受け取り、彼女を恨めしげに一瞥した。
「さっきまで、あっちの『歴史的補足を差し上げる側(敵陣)』にいた人間の差し出すお茶だからな。私はその裏切りを、来年まで絶対に忘れないから」
ヘートヴィヒは、その形の良い唇の端を、ごく僅かに、悪戯っぽく歪めた。
「私はどちらの陣営の味方でもありません」
彼女は声を低くし、私にだけ聞こえるようなトーンで囁く。
「ただ……当直の待機時間中に、本当にあなたがラノベを読み込むつもりなら、かなりのスピードで読破されるのだろうな、と思っただけです」
……くそっ。それはそれで、妙に筋が通っているから腹が立つ。
本当に、この女は――。
真紀がその時、デスクから立ち上がり、残りの書類をメンバーへ手際よく分配していった。
「とにかく、各自注意事項を持ち帰って頭に入れておくように」
彼女は言い放つ。
「当直の具体的な順番と組み合わせ(ペア)は、調整が終わり次第、後ほど正式に発表するわ」
私はその言葉に、即座に野生の勘(警戒センサー)を作動させた。
「……なんで、わざわざ後出しで発表するんだ?」
「風紀委員会側と、まだ一部のシフト配置で調整中の項目があるからよ」
真紀は極めて平然と言い切った。まるで、単なる通常の行政手続きを説明するかのように。
だがなぜか、私の副会長としての直感が、非常に、最悪な嫌な予感を告げていた。
ジェスもまた、同じ不吉な匂いを嗅ぎつけたらしい。彼女は即座に身を乗り出すと、まるで大災害の予兆を察知した優秀な災害救助犬のように、その両目を爛々と輝かせた。
「へえ――」
ジェスは、お世辞にも健全とは言えないニヤニヤ顔を浮かべる。
「……『組み合わせ(ペア)』も、あるんだ」
私は目を細め、彼女を鋭く睨みつけた。
「お前、今その邪悪な顔で何を考えてやがる」
「別に~?」
ジェスは肩をすくめる。
「ただ、今年の年末年始は、思ったよりも退屈しない、最高に面白いイベントになりそうだなーって思っただけよ」
「黙れ」
「ほら見なさいよ。あなた自身だって、内心そう思ってるくせに」
「思ってねえよ」
「嘘おっしゃい。今あんたの顔面全体に『終わった、絶対に何かが起きる(修羅場)』って大文字で書いてあるわよ」
私は深呼吸を一つ挟み、これ以上彼女と低レベルな泥仕合を繰り広げるのを放棄することにした。
なぜなら、酷く悲しいことに――ジェスのその邪悪な予言は、往々にして的外れではないことを、私が一番よく知っていたからだ。
九島真紀が「後で発表する」と口にする時。
それは大抵――すでに表面上は完璧に合理的でありながら、実際には当事者たちの人間関係と精神的健康を同時に極限までストレステストにかけるような、悍ましいハメ技(手配)を裏で完璧に構築し終えており、ただそれを今すぐこの場でドロップするタイミングではないと冷徹に判断した、ということを意味する。
そして、私は彼女のそういう『合理的配慮』に対して、これまでの人生でただの一度も、良い予感を抱けた試しがなかった。
私はその地獄の当直注意事項の束を腕に抱え、ヘートヴィヒが淹れてくれたお茶を一口、喉へと流し込んだ。
お茶は、どこまでも温かかった。
生徒会室も、完璧な空調で暖かかった。
けれど、私の年末年始休暇は、跡形もなく消え去った。
私はここにきて、ようやく真実を完全理解した。
銀河連邦が我々人間に与えてくれるのは、休息なんかじゃない。
より組織的で、より計画的で、おまけに読書の権利まで付いてくる――極上の形をした、ただの『洗練された拷問(労働)』の一形態だ。
本当に、我が連邦の福利厚生は、至れり尽くせりで涙が出る。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




