183.無料の労働力 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
バイクがようやく停止した時、私はこの道中、自分がただの一度も息を抜いていなかった事実に気がついた。
――比喩でも何でもない。本当に、肩の骨が軋むほど全身を硬直させていた。
指先は血が止まるほど力任せにハンドルに食い込んでいた。ヘートヴィヒを無事に送り届けていたというよりは、無数の地雷が埋まった雪原を、文字通り命がけで突っ切ってきたかのような極限状態だった。
私はゆっくりとハンドルを正面へと戻し、サイドスタンドを蹴り降ろして、エンジンを切る。
重低音の駆動音が止まった瞬間、世界は突然、嘘のようにしん静まり返った。
雪はまだ、しんしんと降り続いている。
細かく、高密度な純白の結晶が、ヘルメットのシールドに当たっては砕け、マフラーや肩の上へと静かに積もっていく。まるで世界の何者かが、意図的に今夜という時間を、もう少しだけ長引かせようと画策しているかのように。
玄関前のポーチライトが点灯し、その薄琥珀色の柔らかな光が、私たちと地面の積雪を優しく包み込んでいた。
周囲は静寂に支配され、吹きすさぶ風のノイズと――そして今夜、完全に職務放棄を決め込んでいる、私自身の心臓のうるさい鼓動だけが響いていた。
ヘートヴィヒは、すぐにはシートから降りなかった。
彼女の細い腕は、未だに私の腰へと回されたままだった。
一秒、あるいはほんの半秒。
だがその空白は理不尽なほどに長く、私に余計な思考を巡らせるには十分すぎた。
『さっきの道中、彼女は本当に雪道が怖かったからしがみついていたのか。それとも、自分がそうすることで私がどんな無様な有様になるか、すべて理解した上でやっていたのか』
私は小さく咳払いをして、まだ辛うじて持ち合わせているはずの自制心をかき集め、声を絞り出した。
「……着いたぞ」
『ええ……』
ヘートヴィヒが後ろで応じる。
ヘルメット越しにくぐもったその声は、驚くほど近かった。彼女がまだ、この道中で起きた出来事のすべてを、ただの雪のように冷たく払い落とすつもりなど毛頭ないのだと確信させるほどに。
さらに二秒ほどの猶予を置いてから、彼女はゆっくりと腕の力を緩め、後部座席からしなやかに降りた。
バイクがふっと軽くなる。
だがなぜか、私はかえって、胸の奥にひどい空虚さを覚えてしまっていた。
私が先にヘルメットを脱ぐと、刺すような冷気が一気に顔へと押し寄せ、過熱していた脳ミソがようやく使い物になるパーツを回収し始めた。
ヘートヴィヒもヘルメットを脱ぐ。
長い間密閉されていたせいで、艶やかな金糸の毛先には少しだけ雪の結晶が混じり、それがマフラーとコートの襟元に張り付いていた。彼女は細い指先で、髪をさらりと後ろへと整える。
その何気ない、ごく普通の仕草のはずなのに――私はなぜか、そこから一瞬たりとも目を離すことができなかった。
……本当に、情けない。
私はいつから、こんなに『チョロい男』に成り下がってしまったんだ。
以前の私なら、ヘートヴィヒが目の前でその輝かしい金髪をすべてほどいて編み直したところで、「さすがは皇女殿下、髪の毛一本一本にまで厳格な秩序が宿っているな」と冷ややかに感心するだけだったはずだ。それが今や、ヘルメットを脱ぐ彼女を見るだけで、今後の睡眠に多大な支障をきたすような幻影が脳内に自動生成され始めている。
おかしい。非常におかしい。世界のバグを疑うレベルだ。
ヘートヴィヒが、ヘルメットを私へと返してきた。
私がそれを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、指先が触れ合う。
ほんの一瞬。雪の結晶が肌の熱で融ける間もないほどの、刹那の接触。
なのにその一瞬で、私は無意識に動きをピタリと止めてしまっていた。
ヘートヴィヒはそんな私を真っ直ぐに見つめたまま、何も言わない。
彼女の今夜一番恐ろしいところは、まさにここだった。
畳み掛けない。追い詰めない。わざと言葉を明確にして、白黒つけようとは決してしない。ただこうやって静かに私を見つめるだけで、昼間は完璧に稼働していた私の思考回路を、ネジの一本に至るまで綺麗に分解していくのだ。
私はヘルメットを引き取ると、振り返ってそれをバイクのホルダーへと掛け、ついでに自分の表情を作り直すための半秒を強引に稼いだ。
「……雪、強くなってきたな」
その言葉は、自分でも失笑するほどマヌケだった。
ヘートヴィヒが道中ずっと目を閉じて乗っていたのでもない限り、雪の勢いが増したことなど彼女が知らないはずがない。
完全に行き詰まった挙句の話題探し。それは『すみません、今の副会長は著しくIQが低下しているため、天気予報を口実にして時間を稼がせてください』と当場で白旗を上げているようなものだった。
ヘートヴィヒは案の定、その愛らしい唇を満足そうに歪めて、ごく微かに笑った。
「ええ、知っています」
「……知ってるなら、別にいいけど」
「でも、あなたがわざわざ言葉にして教えてくださったのですから」
彼女は私を見上げ、その声をひどく愛おしげに弾ませた。
「――一応、お返しをしなければいけないと思って」
「……こういう時まで、皇室の礼儀作法を気にしてるのか?」
「礼儀ではありません」
ヘートヴィヒは首を小さく横に振る。
「……私の、本当の『返事』です」
その言葉自体には、大した意味はない。誰でも使える、ごく一般的な名詞だ。
だが今、この場で。あの小公園での決定的な瞬間の後で、そして帰り道の後部座席でのあの狂おしい時間の後で――その『返事』という二文字は突然、私の許容量を超えるほどの悍ましい重みを持ち始めていた。
私は耐えかねて視線を逸らし、バイクのシートに薄く積もった白い雪を無意味に見つめた。
「……もう夜も遅い」
私はぶっきらぼうに告げる。
「先に入れ。外は冷える」
「星野シモ」
名前を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。
ヘートヴィヒはポーチライトの暖かい光の下に佇み、私を真っ直ぐに見つめていた。その長い睫毛には、細かな雪の粒が静かに付着している。
その表情はどこまでも静謐だった。だがだからこそ、彼女がこれから紡ぐ言葉は一つ一つが、前々から彼女の胸の中で温められていた本音であり、決してその場の思いつきや悪戯なんかではないのだと理解できた。
「さっき小公園で……そして、この道中で」
彼女は一歩、踏み出す。
「私は、あなたをからかっていたわけではありません」
「……」
――やっぱり、そうか。
この人は言葉を口にする時、いつも私が一番直視したくない、最も面倒な急所を正確に射抜いてくる。
私は二秒ほど沈黙し、最後には、すべての建前を捨てて正直に応じるしかなかった。
「……解ってるよ」
ヘートヴィヒの肩から、ふっと微かに力が抜けたようにも見えた。だが、その美しい双眸は未だ私を捉えて離さない。
「では……あなたが先ほど言ってくださった言葉も、有効ですか?」
雪が絶え間なく落ちてくる。私の肩に、彼女の金髪に。
私はふと思った。今夜のこの雪は、我が生徒会に対して何か個人的な恨みでもあるに違いない。でなければ、こんなに絶妙すぎるタイミングを見計らって、本来なら正気に目覚めるべき瞬間に、世界全体をこれほど目覚めにはふさわしくない甘美な空気で敷き詰めるはずがないのだ。
私はゆっくりと、白く大きな溜息を吐き出した。
「ヘートヴィヒ」
「はい」
「あんた……自分が今夜、どれだけ人を追い詰めるのが上手いか、自覚してやってるか?」
「そうですか?」
「そうだ」
私は彼女を真っ直ぐに睨みつける。
「しかも、一番無邪気で、一番無害に見えるやり方で踏み込んでくる。本当にタチが悪い」
彼女は少しだけ黙り込んだ。まるで、自分の行動をほんの少しだけ反省しているかのようにも見えた。
だが、そんな殊勝な態度は一瞬しか持たなかった。次の瞬間には、またあの極めて平静で、極めて理不尽なまでの澄んだ声が鼓膜を揺らす。
「……でも、私がこうして今ここで聞いておかなければ」
彼女は私を見つめる。
「あなたは明日になったらまた……何事もなかったかのように、ただの『副会長』の仮面を被ってしまう気がしたから」
「――っ」
……これもまた、恐ろしいほどの正論だった。
正確すぎて、ぐうの音も出ない。
なぜなら、彼女の言う通りだからだ。もし今夜、このまま曖昧に別れていたら――私は明日の朝、自分を副会長という『役職』の中に無理やり詰め込み、ただの進行表として、ただの会議記録として、各委員会の後始末担当として機械的に稼働していただろう。そして、あの雪の夜も、小公園での体温も、帰り道の後部座席から伝わってきた彼女の呼吸も心拍も、すべては『悪天候による一時的なエラー(判断ミス)』だったことにして闇に葬っていたはずだ。
それこそが私の得意技であり、そして私の、最も卑怯で最悪な防衛本能だった。
私は手を上げ、痛む眉間を指先できつく押さえ――最後に、降伏の溜息を漏らした。
「……分かったよ」
ヘートヴィヒは静かに私を見つめたまま、決して急かそうとはしなかった。
私はゆっくりと手を下ろし、ついに正面から、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「有効だ」
カチリ、と私の口から決定的な言葉が零れ落ちる。
彼女の瞳の奥が、ごく微かに揺れた。
私は急激に喉がカラカラに乾いていくのを感じながらも、それでも退かずに言葉を紡ぎ続けた。
「さっき言ったことも、道中で言ったことも、小公園で漏らした本音も――全部、有効だ」
私は彼女を見つめる。
「冗談でもなければ、ただの口の滑りでもない。私の、本心だ」
ヘートヴィヒは、すぐには言葉を返してこなかった。
だが――彼女の呼吸の周期が、一瞬だけ、微かに乱れたのを私は見逃さなかった。ほんの短く、ほんの軽く。今夜の私が、彼女の微細な一挙手一投足に異常なほど神経を尖らせていなければ、普通の人間なら絶対に見落としていたであろう、小さな動揺。
それが唐突に、非常に卑怯で、しかし極めて現実的な安堵を私に与えてくれた。
――なんだ。限界を迎えて参っているのは、私だけじゃなかった。
私の口角が、自嘲気味に、しかしどこか優しくごく軽く動いた。
「ただし」
私はすかさず、トゲのある釘を刺す。
「……だからといって、これからは今夜の私を、何でも言うことを聞く都合のいいアッシー君(移動ツール)だと思っていいという意味じゃないからな」
ヘートヴィヒは今度こそ、本当に嬉しそうに声を立てて笑い出した。
軽やかで、しかしさっきのどんな笑顔よりも、はっきりと形作られた笑顔。
「ただの移動ツールだなんて、これっぽっちも思っていません」
「そうならいいけどさ」
「本当に、思っていません」
彼女は一歩、私に近づく。
「どちらかといえば……」
そこで、彼女は意地悪に言葉を切った。
この女、最近になって本当に、こちらが一番焦れる絶妙なタイミングで間を取ることを覚えやがった。
「……どちらかといえば、なんだ?」
「――あなたの後ろに乗っていると、世界で一番、安心するんです」
「――っ!」
今度は、私が完全に言葉を失う番だった。
その台詞が、大げさな愛の告白だったからではない。むしろ、その逆だ。あまりにも純粋で、あまりにも普通で、あまりにもヘートヴィヒという人間が剥き出しのままで放った『本音』だったからこそ――それは致命的な威力を伴って私の胸の真ん中を打ち抜いた。
好きだの嫌いだの、触れたいだの逃げたいだの、そんな激しい言葉よりも。こういう静かな本音の方が、男としては遥かに受け止めきれないほどに重い。
なぜなら――それが、一片の偽りもない事実だからだ。
私は耐えかねて強引に顔を逸らし、わざとらしく一つ咳払いをした。
「……あんた、今日は私を完全に徹夜(不眠)にさせるつもりで仕掛けてきたのか?」
「いいえ」
ヘートヴィヒは、いたずらが成功した子供のように微笑む。
「……ただの、私の『返事』です」
また『返事』だ。
くそっ。その究極のキラーワードを、今夜あと何回使うつもりだ、この女は。
私はバイクのハンドルに薄く積もった雪を、意味もなく乱暴に払い落とした。ただ、何でもいいから手元を動かす作業を作りたかっただけだ。さもなければ、このまま彼女のポーチライトの下に立ち尽くした挙げ句、明日、真紀に対して絶対に言い訳が立たないような一線を越えてしまいそうだったから。
――九島真紀。
その絶対的な名前が脳裏を過った瞬間、さっきまで熱く乱れ狂っていた胸の内の何かが、そっと冷やされて沈殿していくのを感じた。
感情が消え去ったわけではない。ただ、猛烈に沸騰していた熱湯の中に雪の結晶が滑り落ちたかのように――まだ完全には融けきっていないが、静かにその形を変え始めていた。
ヘートヴィヒはその一瞬の私の硬直(変化)に、確実に気がついたはずだった。
だが、彼女はそれ以上追及してこなかった。
これもまた、彼女の本当に恐ろしいところだった。彼女は押してくる。至近距離まで近づいてくる。私が嘘や冗談で誤魔化せない絶対的なデッドラインまで的確に追い詰めてくる。だが――私が本当に『すぐには暴きたくない、開けたくない心の層』の入り口に触れた瞬間、彼女は完璧な理知をもって、ピタリと足を止めてくれるのだ。
まるで、私に勝ちたいわけではなく、ただ私と一緒に、その答えの場所へ辿り着きたいだけのように。
私は顔を上げ、彼女を見つめた。
「もういいだろ」
私は少し声をぶっきらぼうにする。
「早く入れ。これ以上立ち往生してたら、あんたのところの侍従長が本当に除雪車を強奪してここに突撃してくるぞ」
ヘートヴィヒは私を見つめ、二秒ほどの静寂の後、ごく優しく頷いた。
「ええ……」
彼女は応じた。だが、やはりその足はすぐには動かなかった。
ただその場に佇んだまま、まだ何か伝えたい言葉があるようでもあり、あるいはただ、この奇跡のような雪の夜がこんなにあっさりと終わってしまうのを、名残惜しそうに惜しんでいるだけのようでもあった。
――正直に言えば、私だって、全く同じ気持ちだった。
だが、だからこそ、人間は自分から半歩引いて防衛線を張らなければ、後から本当に人生の収拾がつかなくなる。
今夜の小公園は、もう十分すぎるほどだった。帰り道のあの密室のような後部座席だって、あれで限界だった。ここでこれ以上二人の時間を引き延ばしたら、今夜が最終的にどういう大惨事の『年間事故報告書』に化けるか、分かったものではない。
私がもう一度、帰宅を催促しようと口を開きかけた、まさにその時。
ヘートヴィヒが不意に一歩踏み込んで、そっと手を伸ばしてきた。
彼女の細い指先が、私のコートの肩に落ちていた白い雪を、優しく、愛おしそうに払い落とす。
あまりにも自然で、あまりにも、私の胸を締め付ける動作。
それから彼女は私を真っ直ぐに見つめ、こう言った。
「――おやすみなさい、シモ」
私は一瞬、全身の血液が沸騰したかのように固まった。
そのセリフ自体が特別だったからではない。
彼女が今夜初めて、公的な役職も、公文書も、会議も、他の生徒会メンバーの存在もすべて取り払って――ただこの純白の雪の中に二人きりで立って、私の名前をそのまま、完全に、一人の男の名前として呼んだからだ。
反則だ。本当に、どこまでも反則な女だ。
私はきつく喉を動かし、最後にはやはり、観念したような低い声で返した。
「……おやすみ、ヘートヴィヒ」
私の声をその耳で受け止めると、彼女は満足そうに唇の端をほんの僅かに歪め、今度こそ身を翻して邸宅の中へと歩き出した。
私はバイクに跨ったまま、彼女の美しい後ろ姿が扉の奥へと吸い込まれていくのを、ただじっと見つめていた。
ポーチライトの明かりが彼女を背後から照らし、その肩と髪の上の雪を白く、幻想的に浮かび上がらせている。
重厚な扉が完全に閉まるその直前――彼女は何かを思い出したように不意に振り返り、一度だけ、私を見た。
たった一度の、視線の交差。
だがその最後の一瞥は――今夜の私の残された安眠(睡眠のクオリティ)を、根こそぎ奪い去るには十分すぎるほどの、凶悪な破壊力を秘めていた。
パタン、と扉がついに閉まった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




