183.無料の労働力 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
再びバイクに跨った瞬間、ヘートヴィヒが私の腰に手を回してきた。
――その一瞬の衝撃は、さっき小公園で降りた時よりも、遥かに致命的だった。
これまでの人生、後ろに人を乗せたことくらいはある。背後から誰かにしがみつかれたことだって、初めてじゃない。
分厚い冬用コート、マフラー、制服、そして革の手袋。こちらの肌を遮るべき防壁は、すべて完璧に揃っている。理屈の上では、この程度の接触にいちいち動揺する理由など、世界のどこにも存在しないはずだ。
なのに。彼の手が回ってきたその瞬間、私はなぜかはっきりと、胸の奥がドクンと跳ねるのを感じていた。
激しい衝動ではない。
ハンドルを滑らせて、バイクごと二人で雪の中に突っ込むほどではない。
だが、恐ろしいほどに明確だった。
まるで世界の何者かが、私のまだかろうじて正常に動いていた理性のスイッチを、指先でそっと叩いて告げてきたかのようだった。
――『お気の毒ですが、あなたはもう、さっきまでの「最後まで何も知らないふりを通せる都合のいい副会長」には戻れませんよ』と。
私はハンドルを力任せに握りしめ、前照灯が白く切り裂く、霞んだ夜道を真っ直ぐに睨みつけた。
妙に、喉がカラカラに乾いていた。
こういう感情を抱くのは、絶対に駄目だ。
……少なくとも、冷徹な論理の上では。
ヘートヴィヒと私は、住む世界の違う人間だ。
国が違う。立場が違う。生きる階層が違う。表舞台に出る時の二つ名からして、普通の人間ならその重圧だけで押し潰されてしまうような、規格外の秩序によって隔てられている。
彼女はヘートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ。
あの厳格な侍従長が血相を変えて居場所を確認し、たとえ高架道路が全面封鎖されようとも、国家レベルで最優先に対処されなければならない特別な存在だ。
対して私は、ただの星野シモ。
生徒会室で真紀に公文書を顔面に叩きつけられ、ゴミ箱の配置と放送委員の予算見積書の後始末に追われる、しがない副会長に過ぎない。
その格差は、ちょっとやそっとのレベルではない。
解っている。そんなこと、他人に言われるまでもなく解りきっている。
だが、人間というのは時として、本当に情けない生き物だ。
駄目だと頭で理解していればいるほど、跳ねるべきではない心臓に限って、やけに元気よく脈打ってしまう。
ふいに、私の腰に回っていたヘートヴィヒの手が、さらに少しだけ前方へと引き寄せられた。
大した力ではない。わざとでさえなく、ただの微調整かもしれない。だがその些細な一動作が、「このまま黙って耐え忍べば、平穏に帰り着けるはずだ」という私の甘い幻想を、現実の外側へと容赦なく叩き出した。
私は冷たく光る空気を肺腑に吸い込み、ついに片手を上げ、手袋とコートの厚い生地越しに、私の腰に回っている彼女の細い手をそっと押さえた。
「……殿下」
押し殺した、低い声が漏れる。
「……そういうことをされると、自分でも制御が利きにくくなる」
言葉が口から飛び出した瞬間、私は自分をこのまま雪の中に生き埋めにしたくなった。
ストレートすぎる。本当に、あまりにも直球がすぎる。
普段の私なら死んでも口にしない台詞だ。まるで、行政の円滑化や生徒会のプライドや生存本能が必死に抑え込んでいたはずの『危険な本音』が、今夜に限って一斉にストライキを起こしたかのようだった。
インカムの通信の向こうが、半秒ほど静まり返る。
それから、ヘートヴィヒの声が、ヘルメット内蔵のマイク越しに、ひどく甘く、すぐ耳元で囁くように届いた。
『どうしたんですか?』
彼女はクスリと笑う。
『……ただこうしているだけで、そんなに気が散るのですか?』
――私の、完全な敗北だった。
本当に、一瞬だけ手が滑りそうになった。
誇張でも何でもなく、大真面目に。
幸い、その一言があまりにも破壊的すぎて反射的に身体が硬直したおかげで、ハンドルを取り落とさずに済んだ。そうでなければ、明日の学内ニュースは『生徒会副会長と書記、雪の夜の二人乗り中にヒロインからの甘い声に脳を焼かれ、理性ごとスリップ転落』という悲惨な見出しになっていたかもしれない。
私は奥歯をきつく噛み締めた。
「ヘートヴィヒ」
『はい?』
その『はい』という返し方が、あまりにも平然としていた。
まるで今しがた、私のただでさえ綱渡り状態だった精神の導火線に火をつけた自覚など微塵もないかのように、ただ普通に今夜の路面状況でも尋ねているかのような、澄んだトーン。
耳の根元がカッと熱くなるのを感じながら、私は無理やり声を冷徹に落ち着かせた。
「……今夜のあんたは、私を徹底的に狂わせる(困らせる)つもりで来てるのか?」
マイクの向こうから、ごく微かな、愉しそうな笑みの気配が伝わってくる。
『そんな大それたことはしていません。ただ……少し確かめたかっただけです。さっき小公園で、副会長が私に言ってくれた言葉が、今もまだ有効かどうか』
私はヘルメットの中で、そっと目を閉じた。
よし。非常によし。
忘れていないどころか、さっきの私の敗北宣言を、そのまま完璧な追撃の弾頭として再利用してきやがった。
私はこの瞬間、ようやく理解した。
本当に危険な人間というのは、分かりやすく積極的に攻めてくる肉食系タイプとは限らない。普段は静かで、一番面倒を起こさなそうに見えて――いざ本当に一歩踏み込んでくると決めた時だけ、定規で測ったように正確に、相手が一番向き合いたくない急所を容赦なく突いてくる、こういうタイプこそが最強なのだと。
私は少しだけ、バイクの速度を落とした。
雪の密度はさらに増し、ヘッドライトが前方を照らすと、純白の細片が絶え間なく視野を横切っていく。まるでこの街全体が、今夜二人の間に起きた出来事を、誰にも見つからないように静かに覆い隠そうとしているかのようだった。
道路脇の街路樹にも、フェンスにも雪がこんもりと積もり、街灯の下の地面だけが冷たく白く発光している。世界全体が息をひそめる中、ヘートヴィヒがインカム越しに届けてくる吐息はどれも、ダイレクトに私の神経の真ん中を刺激していた。
「……三分間だけ、黙ってくれないか」
『駄目、ですか?』
「駄目だ」
私は迷わず即答する。
「今は運転に集中しなきゃならない」
『そうですか』
彼女は楽しそうに言葉を紡ぐ。
『……副会長の集中力は、後ろに乗っている人間に、そんなに影響されてしまうのですね』
「あと一言喋ったら、家まで送り届けた後、正式な『事故報告書』を起票するからな」
『タイトルは、何にするのですか?』
まだ続けてきやがる。
私は湧き上がりそうになる笑いを、ギリギリのところで噛み潰した。
「『雪の夜の帰路において、某皇女殿下が継続的に運転者への精神的干渉(精神攻撃)を行い、任務遂行効率に著しい支障をきたした件』だ」
ヘートヴィヒは、インカムの向こうで少しだけ沈黙した。
それから、どこか試すような、静かな声で言った。
『では……その報告書の、最後の結論は?』
私は〇・五秒、沈黙する。
……この人は今夜、本当に、こちらの防壁が薄くなる絶妙なタイミングを心得すぎている。
積雪がやや厚くなっている角を慎重に曲がり終えてから、私はようやく、押し殺した低い声で口を開いた。
「結論は――運転者の意志力は未だ完全には崩壊していないが、すでに警戒値を大幅に突破している、だ」
ヘートヴィヒは、すぐには返事をしてこなかった。
ようやく解放してもらえるかと思った、まさにその次の瞬間。
私の腰に回っていた彼女の細い腕が、さらに、きゅっと力を増して締められた。
気のせいなんかじゃない。今度は明快に、確信犯的な意図を持ったホールドだった。
背筋を一瞬、甘い痺れが駆け抜ける。
「ヘートヴィヒ!」
私は声を荒らげないように抑えながら怒る。
「本当に、お前――」
『わかりました』
彼女はついに、哀れな敗者に慈悲でも与えるかのようにクスリと笑った。
『もう、困らせません』
その言葉自体は、なんてことのない普通の台詞だった。
問題は、言い終えた後も、彼女の腕がすぐに緩まなかったことだ。
緩まないどころか、さっきの、あの曖昧で、あの過剰で、あの熱をそのまま手袋の奥まで伝えてくるような至近距離を、当然の権利のように維持し続けている。
私は自分が、完全に彼女の手のひらの上で転がされているのだと悟った。それも、徹底的に。
「……それのどこが『もう困らせない』の範疇なんだよ」
『ええ』
ヘートヴィヒは事も無げに応じる。
『ただ、振り落とされないようにしっかり掴まっているだけです』
「あんたの『しっかり』の定義は、あきらかに一般社会の基準から逸脱している」
『雪が降っていますから。路面が滑って、落ちてしまうのが怖くて』
「その言い訳は、ジェス相手になら通じるかもしれないな」
『では……あなたには?』
私は言葉を詰まらせた。
その問いかけはとても軽く、ほとんど無邪気とさえ言える響きだった。だが、私には解る。彼女は「信じるか信じないか」という表面上の言葉を聞いているのではない。
――『あなたは、この可愛い嘘を、あえて暴くつもりがあるのですか?』と聞いているのだ。
暴かなければ、黙認したも同然。暴けば、この危険な会話をもっと剥き出しの言葉で続けなければならなくなる。
……くそっ。
私はいつから、雪の夜にバイクを走らせながら、生徒会書記と命がけの『意味深な綱引き』を繰り広げる羽目になったんだ。
普通の高校生活というのは、定期試験、部活、課題、それにせいぜい面倒な委員会を適当にこなすくらいのものではないのか。なぜ私の方のルートは『年間公務を片付け、皇女殿下を送り届ける道中、ヘルメットのマイク越しに相手に心拍数を乱され続ける』という特異な展開になっているんだ。
この話の流れの、一体どこが『普通』なんだ。
「今、信じるかどうかなんて関係ない」
私は次の交差点を歯を食いしばって通り過ぎてから、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
『では、何が関係あるのですか?』
「関係あるのは――」
私はハンドルを握り直す。
「――これ以上そういうことをされると、副会長としての職業倫理に反した行動を取りそうになる、という事実だけだ」
ヘートヴィヒは二秒ほど黙った。
それから、静かに尋ねてきた。
『例えば……どんな行動ですか?』
……分かってた。
今夜の彼女は、そう簡単に引き下がるつもりがないことくらい、最初から分かっていた。
そして最も腹立たしいのは――私がそんな彼女の追及を、ほんの少しも嫌だと思っていないことだった。
私はバックミラーを一瞥した。当然、ヘルメット越しでは彼女の細かな表情まではっきりとは見えない。ヘルメットとマフラーに収められた愛らしい輪郭と、私にぴったりと寄り添う影だけだ。だがその曖昧なシルエットだけで、脳内の、本来なら厳重に管理下に置いておくべき記憶の映像が、また制御を外れて暴れ出しそうになる。
私は即座に視線を正面に戻した。
「例えば――今すぐバイクを停車したくなる」
私の告白に、ヘートヴィヒの呼吸がインカム越しに一瞬、止まった。
よし。今度は私だけが翻弄されているわけじゃない。
私はこの勢いに乗った。いや、正確にはこう言うべきかもしれない。溺れかけている人間が、最後の足掻きで相手の手首を掴んで道連れにしようとした、と。少なくとも、自分だけが無様に狼狽したまま終わるのだけは御免だった。
「そして停車した後は」
私はさらに声を低く沈める。
「……さっきの公園みたいに、最後の最後で踏みとどまれる保証はできない」
マイクの向こうが、今度こそ完全に静まり返った。
ただ、風の音だけが聞こえていた。エンジンの重低音。雪がヘルメットの外殻に当たる細かなプチプチという音。それと――自分の心臓が、少し速く打ちすぎている不快な音。
しばらくして、ヘートヴィヒがようやく口を開いた。
今度の声は、さっきまでの余裕に満ちたものより、少し低く、少し速度が遅かった。
『……星野シモ』
フルネームで呼ばれた瞬間、私の背筋がまた一度、きつく引き締まる。
「なんだ」
『今のあなたの顔は……ひどい有様ですか?』
私は、不覚にも笑い出しそうになった。
この女は本当に――。
「……後ろから見えるのか?」
『全部は見えません。でも……さっき小公園で、一度間近で見ましたから』
喉の奥がギチリと締まるのを感じた。
よりにもよって、あの瞬間を持ち出してくる。しかも、あれほど平然と。まるで今夜、私が一歩ずつ自分の防衛線を崩していった無様な過程を、彼女が丁寧に復習させてくれているかのようだった。
「……それを知っていて、まだ続けてくるのか、あんたは」
『だって、あの時のあなたの顔が――』
ヘートヴィヒは一瞬、言葉を詰まらせてから、とても愛おしそうに、微かに笑った。
『――とても、可愛かったので』
私は本当に、危うくハンドルを取り落として自爆しかけた。
「ヘートヴィヒ……っ!」
『本当のことを、言っているだけです』
「黙れ」
『はい』
返事だけは早すぎる。従順すぎる。明快に、わざとだ。
そして次の瞬間――彼女のヘルメットの額の部分が、ごく軽く、私の背中にコト、と触れた。
厚いコート越しで、冬の夜の寒さ越しで、吹きすさぶ雪と風のノイズ越しだ。その物理的な重さなんて、大したことはなかった。
だからこそ、さらに始末が悪かった。
からかっているのでもなく、ふざけているのでもない。さっきまでのすべての探り合いと挑発と確信犯的な行動の果てに、彼女はただ静かに、全幅の信頼を乗せて身を預けてきたのだ。
その一動作が、今夜交わしたどんな甘い言葉よりも、致命的だった。
私は突然、何も言えなくなった。
前方の街灯が一つ、また一つと過去へと流れていく。雪の乱反射が夜道を果てしなく白く照らし出している。街は深い冬の夜に埋もれ、すべての雑音は遠ざかり、背中にある彼女の重みと温度だけが、くっきりと私に張り付いて離れない。知らないふりなんて、もう絶対にさせてくれなかった。
長い、長い沈黙の後。私はようやく、低く息を吐き出した。
「ヘートヴィヒ」
『はい』
「……それは、かなりの反則だぞ」
彼女は私の背中に額を預けたままだったせいで、インカムから届く声は少しだけくぐもっていた。だがその響きの中には、隠しきれない愛おしげな笑みが混ざっていた。
『……何年の刑ですか?』
私は一瞬呆気にとられ、それから吹き出しそうになるのをギリギリで堪えた。
「情状酌量の余地によるな」
『今は?』
「今は完全に累犯だ。しかも犯行後の態度が極めて不遜で、反省の色がまったく見られない」
『重そうですね』
「非常に重い。一発で実刑だ」
『では、副会長は……私をどう処理するつもりですか?』
私は二秒ほど、言葉を止めた。
雪はまだ降っている。道はまだ前へ続いている。耳元の風の音は、不思議なほどもう煩くはなかった。
こういう時、一番安全なルートは冗談で煙に巻くことだ。無理やり話題を変えること。生徒会の規律か交通安全を盾にすること。それこそが普段の私の得意技だった。
だが今夜はすでに、あまりにも多くの本音を、自分の口で言ってしまいすぎた。
これ以上、無様に誤魔化すのは――少し格好が悪すぎる。
私はハンドルを握りしめ、雪の光に照らされた前方の道を睨みつけ、最後にはやはり、観念したような低い声で言った。
「……保留にしておく」
『保留?』
「ああ。天気が良くなって、路面も完全に乾いて……私の頭が少しまともな状態(平時)に戻ってから、正式にどう落とし前をつけるか考える」
今度こそ、彼女は本当に、嬉しそうに笑った。
インカムから漏れる笑い声はとても軽く、とても低く、まるで私の背中の布地をゆっくりと滲み通って、直接心臓を温めてくるようだった。
『わかりました。では……副会長からの正式な通知を、大人の態度で待ちます』
……チェックメイトだ。
小公園でのあの一瞬が、今夜の最悪だと思っていた。
だが今となっては、本当の底なし沼は別の場所にあったのだと理解できる。彼女が私に逃げるかどうかを問うたことでも、私が限界寸前だったのを見透かされたことでもない。
一番最悪で、一番愛おしいのは――すべてを見透かされた後で、彼女がこれほど素直に、私の不器用な建付きに付き合ってくれていることだ。
これは雪の夜に書記を送り届けているのではない。公然と、私の心臓の耐久テストをさせられているのだ。
私はバイクの速度を極めて保守的な範囲に保ったまま、雪の積もった街路を一区間ずつ慎重に走り抜けていった。
ヘートヴィヒはその後、本当にもう何も言わず、ただずっとそうやって静かに私に抱きついていた。だが静かであればあるほど、さっきまでの言葉がどれも冗談ではなかったことが、より一層鮮烈に際立っていく。彼女は自分が何をしているかを完璧に理解した上で、ある種の『了解(未来)』を、少しずつ私の手へと手渡してきていた。
そして私が一番嫌で、一番愛してしまっているのは――そんな彼女の体温を、心の底から心地いいと、嬉しいと感じてしまっている自分自身だった。
――これは本当に、もう手遅れだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




