182.聖夜の前夜 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
雪は、顔に落ちた瞬間に熱を失って溶けた。
走り出して間もなく、私はこの悪天候が交通安全を試しているのか、それとも私の心臓の耐久値を試しているのか、本気で疑い始めていた。
ただでさえ路面は凍てつき、夜間で視界も最悪なのに、雪はさらにその密度を増していく。
ヘッドライトが切り裂く前方の視界は、まるで誰かが消しゴムで乱暴にこすったかのように、忌々しいほど真っ白で綺麗だった。
ヘートヴィヒは私の真後ろに座り、その細い腕を私の腰に回している。分厚いコートとマフラーを隔てているのだから、本来なら何も伝わらないはずだった。それなのに、彼女の手のひらが押し付けられている特等席には、強烈なまでの存在感があった。
今日一日の地獄のような残業がすべて消し飛ぶくらい、本当に致命的な戦はここから始まるのだと、嫌というほど思い知らされる。
私は心の中で己の意気地なさを罵りながらも、ハンドルを握る手は正直にスロットルを緩めていた。
「……寒いか?」
「大丈夫です」
ヘルメット越しだというのに、彼女の声は鼓膜のすぐ傍で響いた。
「あなたは?」
「私が今一番心配しているのは、これ以上雪がひどくなった場合だ。明日の学内新聞に『帰宅途中の生徒会役員二名、雪景色のロマンに殺害されかける』なんてマヌケな事故速報が載らないか冷や冷やしている」
ヘートヴィヒは二秒ほど沈黙した。
それから、くすくすと、鈴を転がすように小さく笑った。
「こんな状況でまで、そんな軽口が出てくるんですね」
「他に何を言えって言うんだ。まさかこの極寒の中で、私が愛の詩でも詠み出すと期待していたわけじゃないだろ」
「していません」
「ならいい。私の貧相な情緒に対して、間違った期待を抱かれても困るからな」
雪がヘルメットや肩に打ち付けられ、細かく砕ける音が響く。タイヤが積雪の縁を踏み締めるたび、ごく軽い擦過音が鳴った。
夜の道はほとんど無人で、時折、遠くの交差点をヘッドライトがゆっくりと滑っていくのが見えるだけだ。光の半分は雪霧に飲み込まれ、残りの半分も、まるで現実のものとは思えなかった。
私たちが学校の外周道路へと差し掛かった時、前方の小さな公園の街灯が、ぼんやりと視界に飛び込んできた。
私はそのまま減速して通り過ぎるつもりだった。しかし、交差点に差しかかった瞬間、ヘートヴィヒが後ろから私の制服の裾をごく軽く引いた。
「星野」
「ん?」
「少し、止まってください」
私は一瞬呆気にとられたが、それでも大人しくバイクを路肩に寄せた。
本当に、小さな公園だった。
昼間は子供たちがブランコで騒ぎ、夜になれば街灯とベンチがお互いの生存を確認し合うためだけに佇む、そんなありふれた場所。
だが今は激しい雪のせいで、空間全体がまるで別世界に切り取られたかのようだった。ベンチには白い絨毯が敷き詰められ、滑り台の縁も、鉄の柵さえも冷たく凍てついている。街灯から零れる暖かな琥珀色の光の下では、雪は結晶というよりも、ゆっくりと舞い降りる光の欠片のように見えた。
私はバイクを止め、ヘルメットを脱いで、白く大きな息を吐き出した。
「どうした?」
私はシートに腰掛けたまま、彼女を振り返る。
「どこか具合でも悪いのか?」
ヘートヴィヒもヘルメットを脱いだ。
風のせいで少し乱れた髪――その艶やかな金糸の束が、数本、白皙の頬に張り付いている。彼女はまずしなやかな手つきでそれを耳の後にかけ、それから真っ直ぐに私を見つめた。
「いいえ。ただ……少し、降りたくなったんです」
「……随分と我が儘な皇女殿下だな」
「駄目、ですか?」
彼女はひどく平然と問いかけてきた。
その瞳があまりにも澄んでいたせいで、本当にただ一息つきたかっただけなのか。それとも、このまま真っ直ぐ帰ってしまったら、今夜という特別な夜が永遠に指の隙間から零れ落ちてしまうと、彼女自身も気づいていたのか――一瞬、判別がつかなかった。
私はキーを抜き、彼女の隣へと歩み寄った。
「構わないさ」
私はポケットに手を突っ込み、街灯を見上げた。
「皇女殿下が今夜経験されたトラブル一覧――車道の全面封鎖、侍従長の高架での立ち往生、不本意なバイクへの乗り換え、そして道中の小公園での一時滞在要求。まあ、ギリギリ許容範囲内(合理的)なスケジュールだな」
「……その言い方、ずいぶんと嫌味の濃度が高くありませんか?」
「嫌味じゃない。あんたの今夜の『アクシデント報告書』を脳内で要約してやってるだけだ」
ヘートヴィヒは私を見つめ、その形の良い唇の端をごくわずかに綻ばせた。
「では、その報告書には……あなたご自身のことも書き込んでくださるのですか?」
「私?」
私は眉をひそめる。
「私はただ、運悪く皇室の物流トラブルに巻き込まれただけの哀れな副会長だ」
「ただ運が悪かっただけ、ですか?」
彼女の切り返しはあまりにも自然で、あまりにも滑らかだった。
胸の奥の、一番柔らかい部分を、鋭利なピンで不意に突かれたような錯覚に陥る。
私は彼女を見つめたまま、すぐには言葉を返せなかった。
雪はまだ、しんしんと降り続いている。
すぐ傍には暖色の街灯。周囲は異常なほど静まり返り、遠くを走る車の音さえ、分厚いカーテン越しのように遠く頼りない。
こういう状況で、二人の間の沈黙が二秒を超えると、本来なら聞こえない振りができたはずの『境界線』が、勝手に足元から浮かび上がってくる。
私は耐えかねて先に視線を逸らし、公園のベンチを投げやりな目で一瞥した。
「……まあ、完全に不運ってわけでもない。少なくとも、今夜の弁当は悪くなかった」
今度こそ、ヘートヴィヒは本当に笑った。
昼間の事務的な、見落としてしまいそうなほど微かな弧ではない。少しだけ声を漏らした、どこか呆れたような、幸福そうな笑顔。
彼女がそうやって笑うたび、あの端正すぎる、公式の場に飾られるべき気品が一角だけ崩れる。その隙間の見せ方が絶妙すぎて――こちらの理性を、酷く危険な領域へと引きずり込もうとするのだ。
彼女の笑顔のグラデーションを、ここまで正確に見分けられるようになってしまっている自分が、私は心底、嫌だった。
それはつまり、事態がとっくに引き返せないところまで発展しているという、何よりの証明だからだ。
「今日は、あまり不機嫌ではないのですね」
ヘートヴィヒが静かに言った。
「どこを見てそう思った?」
「バイクを止めてくれましたから」
彼女は一歩、私との距離を詰める。
「それに、早く乗るようにと急かしてもいません」
「あんたの目に、私は一体どんな人間に映っているんだ?」
「効率優先で、口が悪くて、普段はいつでも世界に対して白目を剥く準備をしているように見えて――」
そこで一度言葉を切り、彼女はさらに私を見上げた。
「――実は、受け止めるべきことは、すべて投げ出さずに受け止めてくれる人、です」
私は彼女を真っ直ぐに見返した。
「ヘートヴィヒ」
「はい」
「あんた、こういうシチュエーションでそんな台詞を吐くのが、普段の百倍は危険だって自覚して言ってるか?」
彼女は一歩も引かなかった。誤魔化すような仕草すら見せない。
ただ、狂おしいほど静かな眼差しで私を射すくめる。
「それは私への警告ですか? それとも、ご自分自身への戒めですか?」
――駄目だ、この女。この台詞は反則すぎる。
私はもっと鋭利な毒舌を返し、この過剰に接近しすぎた熱を強引に日常の生徒会のトーンに引き戻そうとした。
だが、言葉は喉の奥に引っかかったまま、どうしても形になってくれない。なぜなら私は、痛いほど理解していたからだ。
ヘートヴィヒは私を弄んでいるわけでも、駆け引きを楽しんでいるわけでもない。彼女はただ、極めて真摯に、逃げ場のない言葉の刃をここまで突き立てて、私がそれを受け止める覚悟があるかどうかを試しているのだ。
こういう人間が、一番タチが悪い。踏み込んでくる瞬間でさえ、完璧に気高く、礼儀正しいのだから。
私は刺すように冷たい空気を肺腑に吸い込み、あえて自分から一歩、間合いを潰した。
「あんたへの警告だよ」
私は声を低く沈める。
「雪で足元は滑るし、副会長は今夜残業しすぎて精神状態が正常とは限らない。あまり近くに立つと、巻き添えを食らうぞ」
「では……もうすでに、こんなに近くに立ってしまっていたら?」
私は俯いて彼女を見下ろし、彼女は顔を上げて私を見上げる。
雪が彼女の長い睫毛に落ち、華奢な肩に落ち、私が先ほど彼女自身が整えるのを見ていたマフラーの縁に積もっていく。その顔は、ほんのりと朱に染まっていた。ただ冷たい夜風に曝されただけかもしれない。だが、どちらにせよ――この距離は致命的だった。極めてまずい。
彼女の唇から吐き出される白い息が、細かく霧散し、すぐさま夜の闇へと溶けていくのが視認できるほどに。
私はふと思った。
昼間に格闘していたあの狂気じみた公文書の山なんて、これに比べれば微々たる脅威だ。本当に恐ろしいのは、今この瞬間だ。
公文書がいくら煩わしくても、少なくともどの欄を削り、どの項目を差し戻し、どの委員会を血祭りにあげればいいかはマニュアルが教えてくれる。だが、目の前のこの状況を処理する進行表なんて、世界のどこを探しても存在しない。
私は手を上げた。
本来はただ、彼女の髪に積もった雪を払ってやる、その程度のつもりだった。
だが、伸ばした指先が最初に触れたのは、彼女の柔らかな肩だった。
あまりにも軽い感触。なのにそれは、今夜交わしたどんな言葉よりも、直接的に私の脳髄を揺さぶった。
ヘートヴィヒの呼吸が、明らかに一瞬、止まった。
私の動きも硬直する。
……今ここで手を引けば、まだ引き返せる。そんな理性の声が聞こえた。だが、今ここで手を引くのは、あまりにも無様な敵前逃亡に思えた。
私は一度眉をひそめ、いっそ腹を括って彼女の肩の雪を払い、ついでに襟元に張り付いていた白い粒も乱暴に指先で弾き飛ばした。
「このまま帰ったら、確実に風邪を引くぞ」
「私の心配を……してくださっているのですか?」
ヘートヴィヒは私を凝視したまま、二秒のタイムラグを置いて、消え入りそうな声で尋ねた。
「いや」
私は即座に、冷淡に否定する。
「我が書記が明日風邪で休んで、生徒会の行政効率が著しく低下するのを防いでいるだけだ」
「……ふふ、その理由、いかにもあなたが言いそうですね」
「なら、私はまだ平時(正常)を保てているってことだ」
彼女はうつむき、愛おしそうに笑った。
その笑顔が、あまりにも近すぎた。
近すぎて――私はなぜさっきバイクを止めてしまったのか、なぜ彼女と街灯の下に立ってしまったのか、なぜこの小さな公園を、決定的な事故を起こすための完璧な舞台へと変えてしまったのか、本気で後悔し始めていた。
次の瞬間、ヘートヴィヒがそっと手を伸ばし、その指先で私のコートの胸元にとても優しく触れた。
私の全身が、電流が走ったように強張る。
「どうした?」
自分の声が、酷く掠れて乾いているのが分かった。
「雪、です……」
彼女は私の肩口や襟元に落ちたわずかな雪の欠片を、そっと払ってくれた。
その指先の動きはあまりにも繊細で、私に触れているというよりは、張り詰められた防衛線を越えることが、すでに私に許可されているかどうかを確かめているかのようだった。
こんな状況に直面して、未だに冷徹な計算を保てる人間がいるとすれば――それは悟りを開いた高僧か、あるいはとうの昔に心が壊れてしまった人間のどちらかだけだ。
そして残念ながら、私はそのどちらでもない。
ヘートヴィヒの細い手首を掴む直前、自分が一体何をしようとしているのかさえ、まともに考えていなかった。
強くはない。ただ、本能が命じた無意識の動作だった。
指が掛かった瞬間、彼女の手首の骨が、驚くほど華奢であることに気づく。手袋と袖口の厚い生地越しですら、彼女の狂おしいほどの体温が伝わってきた。
そのわずかな熱が指先から腕を伝って一気に燃え上がり、私の、ただでさえ不完全だった理性の防壁を、完全に粉砕しようと牙を剥く。
ヘートヴィヒが目を上げ、私を見つめた。
振り払おうとはしなかった。言葉も発しない。
小さな公園の中は、不気味なほどに静まり返っていた。ブランコは揺れず、滑り台は沈黙し、ベンチは雪に押し潰されて息を潜めている。
街灯はどこまでも暖かく、月はどこまでも冷酷で――そして私とヘートヴィヒはその真ん中で、致命的でありながら、絶対に後退できない泥沼の位置へと、綺麗に挟み込まれていた。
自分の声が、普段より一段と低く、押し殺したものに変わる。
「ヘートヴィヒ」
「はい」
「これ以上、そんなことを続けるなら――」
私は彼女を睨みつけ、喉がギリギリと引き締められるのを感じながら、言い放った。
「――今夜、ただあんたを家まで送るだけで終われるなんて、本気で思えなくなるぞ」
彼女は私を見つめ、一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
その双眸は雪の夜の中でひどく眩しく輝いていたが、拒絶の色は微塵もない。むしろ、彼女がずっと心の奥深くに大切に隠していた何かが、今夜の寒さによってついに静かにその扉を開いたかのようだった。
「では……どうするつもりですか?」
彼女は、私の胸元を掴んだまま問いかけてくる。
――この女、今夜は一体どうしてしまったんだ。普段はあんなに物静かな癖に、こういう絶対的な瞬間に限って、その言葉のすべてがやけに真っ直ぐで、躊躇いがない。
私はもっとトゲのある言葉を返し、少なくとも普段通り『ゴミみたいな冗談で身を守っている星野シモ』の皮を被り直そうとした。
だが、言葉は喉に引っかかったまま、ついに掠れた吐息にしかならなかった。
なぜなら、痛いほど理解していたからだ。ヘートヴィヒは私を追い詰めているわけでも、悪質なハニートラップを仕掛けているわけでもない。彼女はただ、極めて静かにここに立ち、すべての選択肢を私に委ねて、私がその先へと踏み込む度胸があるかどうかを、その瞳で試しているのだ。
そして、今の私の最大の問題は――。
私が、本気でその先へ進みたいと、心底願ってしまっていることだった。
ただ彼女を家まで送り届けるだけではなく。彼女の笑顔をただ遠くから眺めているだけでもなく。もっと最悪で、もっと意気地がなくて、どんな公文書の承認欄にも書き込めないような、おぞましい種類の「したい」という感情が、胸の内で暴れ狂っている。
私は俯いて彼女を見つめた。
雪の雫に濡れた、彼女の長い睫毛を。熱を帯びた、桃色の頬を。わずかに開かれた、不器用な唇を。そこから吐き出される白い息がすぐに闇に霧散し、また新しい呼吸で補われる、その一連の生々しさを。
近すぎる。
まるで世界の何者かが、理知と衝動を一緒にこの小さな公園に閉じ込め、ついでに外から鍵までかけてしまったかのように、私たちは近すぎた。
私はさらに少し、前へ身を乗り出す。
ヘートヴィヒは、決して退かなかった。
彼女はただ私を見つめていた。静かに、率直に――あるいは、すべてを許すかのような慈愛に満ちた眼差しで、私のすべてを受け止めようとしていた。
――私の、完全な負けだ。
――脳裏にその言葉が閃いた次の瞬間。
理不尽にも、私の内側に九島真紀の横顔が不意に浮かび上がってきた。
今ここに立っている誰かが、私を現実に引き戻したわけではない。夜風のせいでも、吹き付ける雪のせいでもない。忌まわしい道徳的良心が、自動的にエラーを吐いたわけでもない。
ただ唐突に。最も現れるべきではないこの瞬間に、私は突然、彼女のことを思い出したのだ。
夕方、蛍光灯の明かりの下で総括表をめくっていた彼女の凍てついた背中を。こちらを一瞥すらせず、ただ平坦な声で「雪がひどいから、ゆっくり走りなさい」と言った彼女を。
いつも冷静で、いつだって全員を冷徹に正しい軌道へと引き戻す力を持っているのに――どうしてもただの『生徒会長』という役割としてだけ割り切らせてくれない、あの歪な輪郭を。
そのシルエットが、そうして一瞬だけ脳裏を過った。
極めて短く。だが、容赦のない強制割り込み(ブレイク)だった。
すでに制御不能に陥りかけていた私の理性の急ブレーキを、誰かが床までベタ踏みしたかのようだった。
ほぼ同時に、どす黒い罪悪感が胸の奥から湧き上がってくる。
堂々と他人に説明できるような、そんな立派な倫理観ではない。もっと最悪な――自分自身のために弁明を並べることすら億劫になるような、泥濘のような後ろめたさ。
私はヘートヴィヒを睨みつけ、呼吸を乱しながらも、未だに彼女の細い手首を掴んだまま硬直していた。
あと少しだった。本当に、あと一ミリだった。もし真紀のあの顔がこのタイミングで突然乱入してこなかったら、私は今夜の『副会長としてあるべき正常な判断力』のすべてを、この純白の雪の中に永久に埋めてしまっていたに違いない。
ヘートヴィヒは私のその一瞬の停止を敏感に察知したのか、その長い睫毛を僅かに震わせた。
「……星野?」
低く、掠れた声で私の名を呼ぶ。
その声はあまりにも近すぎた。近すぎて、私は危うくまた前へ倒れ込みそうになる。
私は無理やり身体の動きをロックし、熱い息を吐き出し、喉仏を不格好に上下させ――最後にはとてもゆっくりと、少しずつ指の力を緩めるしかなかった。
だが、私の引き際は、お世辞にも綺麗とは言えなかったのだろう。
なぜなら、私を見つめるヘートヴィヒの表情は、明らかに「突然正気を取り戻して興ざめした人間」を見る目のそれではなかったからだ。
彼女が見ていたのは――唇が触れ合う寸前までいきながら、無理やり本能を堪え、堪えきれずに視線の奥へ、まだ押し殺せなかった獰猛な熱を宿している無様な男の姿だった。
今の自分の顔が、ひどい有様であることくらい自覚している。
呼吸はまともに整わない。目つきだって、たぶん常軌を逸している。さらに最悪なことに、さっき動きを止めたのは「したくなかったから」ではなく、「したすぎるあまり、最後の最後で引きずり込まれた罪悪感に囚われたから」だ。
言い換えれば――今の私は、ヘートヴィヒを拒絶しているようには到底見えないはずだ。
むしろ、自分が本当に彼女に牙を剥いてしまわないよう、必死に己の獣性を食い止めているように映るだろう。
そしてその表情は、率直に言って、致命的にまずかった。なぜならヘートヴィヒは、明快にそれを読み取っていたからだ。
彼女の白く細い耳の先が、ほぼ瞬時に鮮やかな朱に染まっていく。
それなのに、彼女は一歩も退かず、不快な色すら見せない。彼女はただじっと私を見つめ、その呼吸は酷く浅かったが、その眼差しは先ほどよりもさらに柔らかく、どこか熱を帯びていた。
私がこのように限界寸前で踏みとどまり、体面を保てないほど狼狽している無様な姿が――あろうことか彼女の、こんな場所で開花すべきではない『歪な嗜虐心』のスイッチを、完全に踏み抜いてしまったかのようだった。
……よし、最悪だ。これで終わった(チェックメイト)のは私だけじゃない。
私が今にも陥落しそうなこの情けない顔を、彼女が案外『気に入っている』らしいということが、私にも痛いほどはっきりと分かってしまった。
これはさっきの状況よりも、さらに泥沼だ。
私は一度きつく目を閉じ、ほとんど歯を食いしばるようにして、ようやく声の出し方を思い出した。
「ヘートヴィヒ」
押し殺した、低い声が漏れる。
「……こういう時に、そんな顔をするのはやめた方がいい」
彼女は小さく瞬きをした。
「どんな顔、ですか?」
「まるで――」
私は言葉を遮った。この先を明確な言語として口に出してしまったら、今夜は本当に引き返せなくなる。
「――私がさっき、どんな悍ましいことをしようとしていたか全部解っているくせに、それでも退く気がない、とでも言いたげな顔だ」
ヘートヴィヒは言葉を返さず、静かに私を見つめ続けた。
雪が一片、また一片と二人の間に落ちてくる。彼女の艶やかな金髪に、私のコートの肩に。
街灯の琥珀色の光がすべてを残酷なほどはっきりと照らし出し、自分がどれほど体面を失って狼狽しているか、肌が痛いほどに伝わってきた。
二秒の沈黙の後、彼女はとても静かに、その小さな口を開いた。
「……私はただ、確かめたいだけです。あなたが足を止めたのは、私に触れたくなかったからなのか。それとも……できなかったからなのか」
胸の奥を、ゆっくりと素手で握り潰されたような気がした。
この問いは的確すぎる。的確すぎて、ゴミみたいな冗談で煙に巻くことすら許されない。
私は彼女を睨みつけたまま、最後には自暴自棄になったように、乾いた笑い声を漏らすしかなかった。
「……あんた、今日はバイクを借りに来たのか、それとも私を尋問しに来たのか?」
「尋問など、していません」
彼女は一歩、さらに間合いを詰めて私を見上げる。
「私はただ……独りよがりの勘違いを、したくないだけです」
その言葉が彼女の唇から零れ落ちた瞬間、私の心の中で無理に張り詰めていた防壁のパーツが、音を立てて崩れ落ちた。
――そうだ。そこが一番、重要なのだ。
ヘートヴィヒは私に答えを強要して追い詰めているわけではない。彼女はただ、後から一人で勝手に推測し、勝手に身を引き、最終的にはすべての繋がりを自ら断ち切ってしまうような――あの拒絶のための『沈黙』を、今夜だけは頑なに拒んでいるのだ。
彼女が求めているのは勝利ではない。ただの、確証だ。
私は白く大きな息を吐き出し、ゆっくりと手を上げた。今度は彼女の手首を乱暴に掴むのではなく、彼女の頬の横にかかる金糸の髪に、とても優しく、壊れ物を触るように触れた。
「……したくないわけないだろ」
私の告白に、ヘートヴィヒの呼吸が明らかな秒数で停止した。
私は彼女を凝視し、自分でもゾッとするほど低い声で、一字一字を刻みつけるように続けた。
「今、私が本当に脳内で考えている通りに行動したら、この後の展開がひどく面倒なことになるから止めたんだ」
彼女の耳の先が、さらに深く赤く染まる。
だが、その美しい双眸は決して逃げず、後ろに手を引くことすらしなかった。
私はおそらく、彼女のその気高さに、本当の意味で完全に参ってしまっていたのだろう。だからこそ、次の言葉をこんなにも自暴自棄に吐き出してしまったのだ。
「それに、今の私の状態では、あんたをこれ以上半歩でも近づかせるわけにはいかない」
私は彼女の髪をそっと指先で払う。
「そうじゃないと、この後、ただの副会長が書記を家まで送り届けるだけだって――そんな建前を維持するのが、本当に難しくなる」
ヘートヴィヒはただ、私を見つめていた。
その瞳の奥にあるとても淡く、しかし確固たる光が、今度こそついに隠しきれなくなっていた。
彼女の唇の端が、ごく僅かに動いた。とても小さく、悪戯っぽい笑みの名残。それは、私が完全に体勢を立て直す前に、わざとトドメの最後の一押しを誘ってきたかのようだった。
「では……あなたは先ほど、本当にあと少しだったのですね?」
――この女、今夜は絶対に私を無傷で逃がす気がないらしい。
私は彼女を鋭く睨みつけ、最後には耐えかねて顔を背けるししか選択肢がなかった。これ以上、一秒でも長くその瞳を見ていれば、本当に取り返しのつかない事故を引き起こしそうだったからだ。
だが顔を背けたところで、今の自分の表情が救いようのない状態であることは、誰よりも自分がよく分かっていた。
完全に押し殺しきれなかった衝動、無理やりブレーキを踏まされた狼狽、そして彼女にすべてを見透かされたことへの僅かな苛立ち。それらがごちゃ混ぜになった顔は、十中八九、どんな真面目な回答よりも饒舌に、私の本心を証明してしまっていたはずだ。
そして――その制御を失う寸前の男の姿は、明らかにヘートヴィヒの嗜好にこれ以上ないほど合致していた。
なぜなら、彼女がとても微かに、満足そうに息を吸い込む音が聞こえたからだ。
恐怖ではない。怯えでもない。どちらかといえば――私の本音を、彼女が本当に、嬉しそうに受け取った合図だった。
私は手を伸ばし、彼女のマフラーを少しだけ上に引き上げた。動作はごく優しくだが、わざとそれ以上下の肌には触れないように距離を置く。
「帰るぞ」
私はひどく掠れた声で言い放った。
「これ以上ここにいたら、この後も今のまま『礼儀正しい副会長』でいられる保証はどこにもないからな」
今度は、ヘートヴィヒはもう追及してこなかった。
彼女はただ私を見つめていた。その眼差しは従順と言えるほど物静かだったが、同時に、一度火をつけられた人間にしか宿らない、静かな熱を帯びていた。
その熱は淡く、誇張されておらず、どこまでも克制的。だが、よりにもよってその『飾りのなさ』こそが、一番致命的に私の胸を抉った。
それから、彼女はとても小さく頷いた。
「ええ……」
たった一言。だがその「ええ」には、明らかに先ほどまでの、単に上司の指示に合わせるだけという意味以上の重みが含まれていた。
私はヘルメットを再び彼女の手へと手渡した。
「……この件の落とし前は」
私は視線を逸らしたまま言った。
「あんたを無事に家まで送り届けてから、じっくりつけさせて貰う」
ヘートヴィヒはヘルメットを受け取り、その指先が私の手に触れた時、ほんの短く動きを止めた。
「ええ、待っています」
たった一言。だがなぜか、先ほどのどんな長い言葉よりも、血の通った約束を交わしたように、雪の夜へと優しく響いた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




