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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:月面都市コペルニクス
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163.相変わらずの日々  2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

よその家が皇女を迎え入れた時、外交だの礼儀だの血統だのを気にするのかもしれない。この家がまず気にするのは――椅子が足りるかどうかだ。


その時、キッチン側でも気配があった。


ロイが流しの向こうから顔を覗かせ、手にはマグカップを持っていた。ロイのすぐ後ろには蘭がいて、肩がほとんど触れ合うほどの距離で、ポットを横にずらしていた。二人の距離は自然で、動きのタイミングもひどく滑らかだった。


一目見て、私は反射的に視線を逸らした。


パーク六号。


ホテル。


ドア。


夜の廊下。


士官学校生の頭の中にあるべきでない記憶の断片が、こういう時に限って浮かんでくるな。頼むから。


ロイは咳払いをした。


「……もう一杯、増やすか?」


「二杯」蘭が横で即座に言った。声はただ数字を補足しているだけのように平坦だった。「ジェスが横取りするから」


「横取りじゃない、あれは戦略的なテイスティングって言うの」ジェスが階段から抗議した。


「あんた、この前私のココアを戦損レベルまで飲んだじゃない」Dの声がソファの向こうからくぐもって飛んできた。


私はそこで初めて、ドワイト・"D"・バークリーがソファの角に埋もれていることに気づいた。さっきの玄関の騒ぎに一瞬ひるんで、口を挟むタイミングを逃していたらしい。


Dはその重みのある顔を上げ、ヘートヴィヒを見て、私を見て、これが人間関係の問題なのか、それとも国際問題の一種なのかを判断しようとするような、真剣な表情になった。


そして三秒ほど考えた末に、Dは非常に厳粛に結論を下した。


「ほう」


……上等だ。


これも一種の安定だ。


ヘートヴィヒは玄関とリビングの境目に立ち、この一切を静かに見ていた。


真紀はカップを取りに行き。


ジェスは階段でまだ半死半生のまま鎮圧されていて。


ハーヴィーは「あんたには絶対事情があるはずだが、今は掘り返す気力がない」という目で私をスキャンしていて。


アカリは椅子の数の算段を続け。


キッチンではロイと蘭が息を合わせすぎていて。


Dは、頼りになりそうでいて忘れられやすい、小さな低気圧のようにソファに座っていた。


二十二番地はこういう場所だ。


ごちゃごちゃしている。


人が多い。


物も多い。


秘密も多い。


誰もがそれぞれ厄介なところを抱えていて、それが一緒になると厄介さ同士が相乗効果を起こす。それでも妙なことに、その厄介さが十分に重なると、何とも言えない、でも確かに存在するバランスが生まれる。


ガムテープとネジとみんなの悪癖で、辛うじて修理された船のようなものだ。


ボロい。


でも、進む。


ヘートヴィヒがようやく口を開いた。


「ここ……想像していたより賑やかね」


ジェスがすぐさま食いついた。


「これでも精簡版なんだよ! 上院の先輩たちが三年になって引っ越したから。前はもっとぎゅうぎゅうだったんだから」


私は横で「精簡版」という単語を聞いて、複雑な気持ちになった。


そうだ。


今は確かに、だいぶ空いている。


アッシュ、アイダ、エヴリンが退居してから、二十二番地の空間は広くなった。だが、ある種の残り香はむしろ濃くなった。空いたベッド、空いたロッカー、人数が減った食卓。それらが、この場所が永遠にこのままではなく、常に入れ替わり続け、何か言葉にならないものを残し続ける場所なのだと、はっきり教えてくる。


真紀が温かい飲み物を持って戻ってきて、一杯をヘートヴィヒの前に、一杯を私に渡した。


受け取った時、指先がちょうどカップの縁に触れ、温もりが皮膚を通して伝わってきて、なぜか少し腹立たしくなった。


「ありがとう」ヘートヴィヒが言った。


「気にしないで」真紀はヘートヴィヒの向かいに座った。その所作は自然だった。「向かいの部屋、今日片付いたばかりでしょ。まだいろいろ忙しいんじゃない?」


「ええ。女官と連邦側の担当者が対応してくれてるわ」ヘートヴィヒは足元に帝国制服の入ったビニール袋を置き、口調は落ち着いていた。「私はただ、先にここに送られてきただけ」


私は危うく、熱い飲み物で舌を火傷するところだった。


先にここに送られてきた、だと?


その言い方はおかしいだろ。ここは皇女の一時預かり所じゃない。


だが奇妙なことに、二十二番地の誰も、その言葉に違和感を覚えていないようだった。


ジェスに至っては、「ああ、なるほどね、分かる」とでも言いたげな顔をしている。


ジェスが何をどこまで「分かっている」のか、心底気になったが、同時にあまり知りたくなかった。ジェスがこの表情をするのは、たいてい二つの場合に限られるからだ。一つは、本当に理にかなっている時。もう一つは、明らかにおかしいのに、まず理にかなっているふりをしておいて、後でネタにするつもりの時。


どちらも、ろくなことではない。


真紀が、ふっと笑った。


「なら、ちょうどいい」真紀は言った。「向かいが完全に落ち着くまでの間、二十二番地のドアの開け方を知っておくのも悪くない」


ヘートヴィヒは真紀を見た。


「いいの?」


その問いは、素直で、まっすぐだった。


火薬臭さは薄い。


だがその瞬間、空気がわずかに締まった。


私は横で、真紀とヘートヴィヒ、そして自分の手の中のカップを見比べながら、自分がまだ沸騰していない鍋に静かに沈められているような気分になっていた。


真紀は、それでも余裕を崩さなかった。


「もちろん」真紀は言った。「向かいに住むんだし、そのうち嫌でも顔を合わせることになる」


階段の方から、小さな、感心とも呆れともつかない「へえ……」という声が上がった。ハーヴィーに睨まれて、ジェスはそれをあわてて飲み込んだ。


ヘートヴィヒは小さく頷いた。


「じゃあ、これからもよろしく」


私はカップの中身を一口飲んだ。


熱すぎた。


舌が焼けるかと思った。


罵りたくなったが、結局口には出さなかった。ただ、熱が喉を落ちていくのを感じながら、ひどくはっきりと一つの事実を意識した。


ヘートヴィヒは、様子見に来たのではない。


愛想を言いに来たわけでもない。


向かいの住所は現実だ。


このドアが開いたことも現実だ。


そして今夜から、この二十二番地という、元々あまり安定していない船は、さらに一人分、ひどく高貴で、ひどく厄介で、しかも自覚の薄い重さを積むことになる。


……くそ。


家賃が上がらないことだけを祈る。


ドアが閉まる音は、実際には軽かった。


カチリ。


ただそれだけ。


だがなぜか、その音が落ちた後、二十二番地全体が、微妙な沈黙期に入ったように感じられた。静寂ではない。この家が静かになるはずがない。


冷蔵庫は低く唸り、湯沸かしポットは今火を落としたばかりで、二階のどこかにある、誰のものとも分からない古い扇風機が、臨終前のような擦過音を規則的に立てている。


それでも、はっきりと分かった。


――全員の意識が、今、私に向いている。


……くそ。


私はカップを持ったまま、リビングの真ん中に突っ立ち、自分がヘートヴィヒを見送ったのではなく、二十二番地のドア枠に時限爆弾を一つ取り付けたところで、今は住人全員が順番に私にこう訊きに来ているのだと感じた。


この爆弾、何秒後に爆発するの? それとも今すぐ?


最初に爆発したのはもちろんジェスだ。


「はい、それじゃあ今から!」ジェスは階段から飛び降り、さっきまで真紀に「黙れ」と言われていたとは思えない速度でスタンバイした。「事後検証会、その一! 星野シモ、君は統合作戦司令部へ出頭したのか、それとも帝国第三皇女を引き取って帰ってきたのか、どっちだい?」


「どっちでもない」私は仏頂面で答えた。


「じゃあ、さっきの後ろの人は何? 連邦最新式の官給品?」


「連邦が皇女を景品として配布するほど困窮してるなら、この国はもうすぐ終わるわ」


「でも、君は連れて帰ってきたわけでしょ」


「ついでだ」


「ついでに統合作戦司令部から帝国第三皇女を鉑橋街二十六番地まで送り届けて、その途中で二つ目のヘルメットまで被せたわけだ」


ジェスはそこで、わざとらしく言葉を切った。顔には、見慣れた、そして見るたびに花壇の下へ埋めたくなるあの表情が浮かんでいた。


「——そのヘルメット、本当は九島用だったんじゃない?」


私の手の中のカップが、危うく真っ二つになりそうだった。


「ジェス」私は穏やかに言った。


「何?」


「今日は交互に目を閉じて寝た方がいいよ」


ジェスは、心の底から楽しそうに笑った。


これがジェス・マッカロウという女だ。


他人の社会的死を日常の娯楽とし、その後の経過観察まで熱心に行う、類い稀な迷惑人間。


ハーヴィーはテーブルに座ったまま、さっきから手にしていた工具用のペンを指で回していた。一言も発していない。その沈黙には本来なら安心感があるはずだが、問題は、ハーヴィーの静けさが「見逃す」という意味を持ったことが一度もないということだ。彼女の沈黙は、私が自分で胸元まで穴を掘り終えるのを待って、最後のひと掬いの土をかけるためのものだ。


案の定、ハーヴィーが目を上げた。


「ヘルメットのサイズ、合ってた?」


私は一瞬、意味が分からなかった。


「……何?」


「ヘートヴィヒの」ハーヴィーは、あくまで装備の点検をするかのような口調で続けた。「あれ、九島のサイズで買ったんでしょ? ヘートヴィヒが被ってても隙間がなかったから、頭囲は近いはず」


私は二秒黙った。


こいつは、本当に救いに来ているわけじゃない。


ただのテクニカルアナリシスだ。


しかも最悪なことに、ハーヴィーがこういう分析をする時、悪意は一切ない。ただ純粋に、理性的に、そして真剣に情報の補足をしているだけなのだ。専用に作られた「相手の居心地を悪くする高精度機器」のように。


「貴重なサイズ観察をどうも」私は無表情で言った。「忘れかけてたのに、思い出しちゃったじゃない」


ハーヴィーはこくりと頷いた。


「どういたしまして」


いや、私は今、お礼なんて言っていない。


ソファの向こうで、ようやくDが話の全体像を飲み込んだようだった。


ドワイト・"D"・バークリーはマグカップを抱え、眉をひそめ、軍事シミュレーションの結果でも前にしているかのような真剣な顔つきで黙っていたが、三秒後、慎重な結論を出した。


「つまり、向かいに皇女が住んでるってことか」


客廳が一瞬、静まった。


私はDを見て、不意に泣きたくなった。


感動したわけではない。


今夜ここまでの出来事の中で、この一言が最もシンプルで、最も補足がなく、最も事実の核心に近い総括だったからだ。


「そう」私は言った。「向かいに皇女が住んでる。おめでとう、みんな。今日から鉑橋街二十二番地の日常は、正式に国際問題にグレードアップした」


Dはゆっくりと頷いた。ある種の残酷な運命の采配を受け入れるように。


「ほう」


また、それだ。


Dという人間は本当にすごい。


多くの事柄が彼女の口を経ると、反論不可能な客観的災害報告になる。


火災、停電、装備不足、あるいは――向かいに皇女が住んでいる、というように。


アカリは窓際に座っていた。端末の画面はまだ点いているが、同じページで止まって久しい。アカリは眼鏡を押し上げ、私の顔にしばらく視線を留めた。


「まず確認させて」アカリは言った。「この第三皇女殿下は、『向かいに住んでいる』のか、『よく来ることになる』のか、どっち?」


「今のところは前者」私はすぐに答えた。


「『今のところ』という言い方が、微妙に引っかかる」アカリは冷静に指摘した。


「真紀みたいに言葉尻を捕まえる話し方を覚えないで。本当に怖いから」


「怖いということは、たいてい効果的ということよ」


この面々は普段それぞれが変人で通っているくせに、いざ私を追い詰める時だけ、非常に不愉快なチームワークを発揮する。


これが共同生活の力というやつか。


あるいは共同の悪意か。


キッチンでは、ロイが洗い終わったカップを棚に戻し、前線の戦況には関わらないことをきわめて紳士的に決め込んでいた。蘭は横でテーブルを拭いており、こちらも特に口を挟んでいない。二人とも静かで、ほとんど背景と化していた。


だが、私には生まれつきの心理的陰影があるのかもしれない。ロイと蘭が「あまりにも自然な同一フレーム」に収まっているのを見るたびに、頭の中にパーク六号の扉と、壁灯と、あの夜の廊下の角度が自動的に再生される。


私は即座に視線を逸らした。


だめだ。


この家で二種類の秘密を同時に処理するのは無理だ。


少なくとも、今夜は。


潔絲はもちろん、私のその微妙な間を見逃さなかった。


「あー」彼女は声を引き伸ばし、顔中が一気に輝いた。「星野、今のその目、何か後ろめたいことあるよね」


「今あんたを見てる私の目にも後ろめたいものが宿ってる。分析してみる?」


「しない。私は火に油を注ぐ方が得意だから」


この一言だけは、感心するほど正直だった。


真紀がそこで初めて、まだ湯気の立っている自分のカップをテーブルに置いた。


コン。


カップの底が当たる音はそれほど大きくなかった。それでも客廳全体が、自動的に半寸ほど収縮した。


真紀が何かをしたからではない。


九島真紀が本当に口を開こうとしている時、この混乱が「ドタバタ劇」から「ドタバタ劇の整理」へ移行し始めるのを、全員が知っているからだ。


真紀が私を見た。


「ヘルメットの話は、ひとまず置いといて」


私は危うく、自分の唾を飲み込んで気管に詰まらせるところだった。


ひとまず置いといて。


その四文字が、直接触れるよりずっと怖いと、分かってる?


裁判所が「最も重大な訴因については後で触れます」と言った時と同じだ。その後に続くすべての項目で、十分に詰められる。


「今日、司令部での手配は確定したの?」


「だいたいは」私は咳払いをし、まだ生きているうちに報告することにした。「ヘートヴィヒは下院に編入、住居は向かい。学籍も住まいも連邦の手配。それと、今日はただ少し寄っただけで、正式な訪問じゃない」


「ただ少し寄っただけ」ジェスがすかさず言った。「それをバイクで迎えに行ったわけだ」


「向こうが玄関前で待ってたから」


「だから情に負けたんでしょ」


「負けてない」


「じゃあ、なんで引き返したの?」


「……」


詰まった。


くそ。


そうだ、なんで引き返したんだ。


自分の頭の中では、実はひどく筋が通っていた。走り出して、何かがおかしいと感じて、戻ってみたら、案の定まだ立っていた。だから基本的な人道と連邦への羞恥心から乗せた。一連の流れはごく合理的で、合理的すぎて当時は何も説明する必要を感じなかった。


だがジェスに「じゃあ、なんで引き返したの?」と一文に削られた途端、それが突然、強い主観的意志と個人的感情を持ち、公開朗読には適さない選択のように見えてくる。


私は口を開きかけ、結局こう言うしかなかった。


「まだ立ってたから」


ジェスが瞬きをした。


「名残惜しかったんでしょ」


「名残惜しくない!」


「じゃあ何? 連邦の景観管理に対する責任感?」


「そう、それ」


「星野」ハーヴィーが静かに一刀を入れた。「その理由、『名残惜しい』より名残惜しく聞こえるって分かってる?」


この家の住人の何人かは、もし私が裏庭に埋めても、刑事事件ではなく自然淘汰として処理されるべきだと思う。


真紀は熱い飲み物を一口すすり、あまり表情を動かさなかった。ただ、口角がごくわずかに動いた。


それはほんの一瞬だった。


でも私には見えた。


終わった。


真紀にまで笑われている。


この人生で一番嫌いなのは、見透かされた上で「分かった、今は言わないでおく」という顔をされることだ。


当場で宣告されるより、ずっと落ち着かない。


「とにかく」私は強引に話を引き戻した。「今日から向かいに帝国第三皇女が住む。これは非常に面倒で、非常に厄介な事実だ。みんなにお願いしたいのは、なるべく知らないふりをして、野次馬しないで、余計なことを言わないで、この棟を校内の名所にするような間抜けな行動は一切しないでほしい」


ジェスが手を挙げた。


「質問」


「却下」


「向こうから来たらどうする?」


「……」


深く息を吸った。


この質問は、腹立たしいほど現実的だ。


現実的すぎて、答えたくない。


「……普通に対応する」私は言った。


「『普通』って、どの普通?」アカリが学術的な熱心さで追いかけてきた。「二十二番地の日常の普通と、外向けの普通は、標準偏差がかなり違うんだけど」


「うちって外向けモードなんてあったっけ?」


「ある」ハーヴィーが淡々と言った。「まず潔絲の口を塞ぐことから始まる」


「それはひどすぎる!」


「いや、この家で一番コストパフォーマンスのいいセキュリティ対策だと思う」ロイが向こうからついに口を開いた。


蘭は拭き終わったテーブルクロスを折り畳み、頷いた。


「同意」


ジェスは目を丸くして、集団に裏切られた顔をした。


誰も構わなかった。


私は椅子の背にもたれ、少し疲れを感じた。


身体的な疲れではない。


別の種類の疲れだ。ただ司令部に行ってきただけのはずなのに、帰ってきたら生活の内容が三章分、二本のサブクエスト、そして高リスク新住人一人分、勝手に増えていた。


「でも」Dはカップを抱えたまま、また一拍遅れて結論を付け加えた。「少なくとも、悪い人には見えなかった」


客廳がまた止まった。


今度はジェスでさえ、すぐには口を開かなかった。


私はカップに残った熱い飲み物を見下ろし、二秒ほど経ってから、低く短く答えた。


「……分かってる」


だから、余計に面倒なんだ。


ヘートヴィヒが傲慢で、愚かで、皇女気取りの塊で、周囲を背景扱いするような人間なら、話は簡単だった。嫌えばいい。警戒すればいい。距離を取ればいい。


でも、そうじゃない。


ヘートヴィヒは帝国の旧制服が入ったビニール袋を自分で持って、連邦の作戦司令部の前で迎えを待っていた。


帝国の士官学校で数年過ごして、ナイフとフォークの使い方しか学べなかったと、顔色一つ変えずに言った。


連邦の制服を着て私の家の玄関に立ち、真紀に「お邪魔するわ」と言った。


私がわざとらしく安っぽい口調で声をかけた時も、顔色を変えずに後ろに乗ってきた。


こういう人間が一番厄介だ。


一つの立場に単純化できないから。


安心して嫌うことも、できない。


「星野」


真紀が突然、私を呼んだ。


顔を上げると、真紀は私を見ていた。表情は相変わらず落ち着いていた。さっきの一連の追い詰め合戦は、必要な手順に過ぎなかったようで、今ようやく、まともな話題に入れるという顔だった。


「向かいに誰が住むかは、あんたが決められることじゃない」


「分かってる」


「彼女がよく来るかどうかも、あんた一人が決められることじゃない」


「……それも分かってる」


「だから今夜は、一人で先走って怖がらなくていい」


私はしばらく黙った。


慰めでも命令でもない。


どちらかというと、すでに飛び出しそうになっていた私の頭を誰かがつかんで引き戻し、テーブルの上に戻して、こう言っているようなものだ。そんなに先まで走らなくていい。少なくとも今夜は。


私は口角をわずかに引いた。


「そう言われると、さっき私がやったことが全部空回りみたいに聞こえる」


「そんなことない」真紀はごく軽く笑った。「少なくとも、無事に送り届けた」


ジェスが即座に意味ありげな「へえー」を発した。今回は誰かに止められる前に、私が先に一睨みした。


「もう一回やったら、明日ハーヴィーの寝顔をこっそり撮ったコレクションを本人に転送する」


ジェスが石になった。


ハーヴィーがゆっくりと振り返った。


「……何のコレクション?」


客廳が二秒静まった。


それからジェスは階段の端から一歩大きく後退した。


「ちょっと待って、星野、家族は傷つけ合っちゃいけないって——」


私はついに笑った。


気分がいいわけではない。


ただ、こんなにめちゃくちゃな状況の中で、自分より先に死にそうな人間を見つけられたことが、純粋にありがたかった。


ジェスが必死に逃げ場を探し、ハーヴィーが無表情で立ち上がり、Dが「寝顔コレクション」は軍事機密に該当するかどうかをまだカップを抱えながら真剣に考えている、そういう光景の中で、私は今夜はまだそこまで悪くないかもしれないと、ふと思った。

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