146.大人たちの催す葬列 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
最後にこの場を収めたのは、結局アッシュだった。
机を叩いたわけでもないし、声を張り上げたわけでもない。
アッシュはただ内線を倉庫につないで、いつもの――艦の中央竜骨みたいに、永遠に平らなあの声で、全員をもう一度、自分の望む位置に並べ直しただけだ。
ヘートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハとその随行は、当面、中層右舷の小さな独立区画に仮に置かれることになった。
そこはもともと臨時要員の待機区と物資バッファ倉庫が繋がった一角で、途中にハッチが二枚、外側の通路は狭くて見通しが利き、出入口も一つしかない。 言い方を選べば「護衛に適した場所」。 選ばなければ、「管理にきわめて都合のいい場所」だ。
両側の隔壁ハッチには、権限が掛け直される。
外側の通路には、持ち場が置かれる。
銃口をドアに突きつけるような荒っぽいやり方じゃない。標準的すぎてむしろ礼儀正しいと言っていいレベルの、連邦軍艦内警備だ。人はそこにいる。記録も残る。必要なら医療も食事も通信もシャワーも供給される。 ただ、どこまで歩いていいかは、彼女たち自身が決めることじゃない。
雑に訳せば、つまりこうだ。
――ようこそご乗艦くださいました。艦内の自由行動はご遠慮ください。
しかもそれを、非常に整った公式文書に仕立てて、十六ページの付録まで付けてくる類の「ご遠慮ください」だ。
ヘートヴィヒは、聞き終えても特に何も言わなかった。
てっきり、あの冷たくて教養のある刃捌きで、アッシュの命令をもう二、三度なぞってくるものだと思っていたのに。そうはならなかった。彼女はただ静かに聞いて、頷いた。「まあいいでしょう、そちらが最低限まともにやってくれるなら、私も安っぽい抵抗に時間は使わない」――だいたいそんな意味の頷き方だった。
むしろ反応したのは、彼女の傍らに控えていた専属の侍女――いや、侍女という格好をしているだけで、実態は「いつでも人間を三つ折りにしてから、床まできれいに拭き上げてくれそうな」高度危険物件のほうだった。
その瞬間、あの目が、かすかに動いた。
本当に、わずかに。
でも、私は見た。
あれは不満じゃない。
もっと職業的な計算に近い何かだ。ハッチの位置。通路の長さ。見張りの交代のリズム。監視の死角。緊急脱出ルート。
私はその場で、心の中であの通路に一本、蠟燭を立ててやった。
保安がそこで居眠りでもしたら、目が覚めたときには、もう艦底で折りたたみ椅子みたいに後ろ手に縛られているだろう。
ヘートヴィヒ本人は、倉庫を出る直前、こちらを一度だけ振り返った。
長くはない一瞥だった。
まず真紀を見て、次にアイダを見て、最後に私まで視線を滑らせて、唇の端がごくわずかに動いた。
「連邦への帰路が、せめて帝国の出迎えよりは、文明社会らしいことを願いますわ」
私は危うく笑い出しそうになった。
ジェスはまったく堪えられず、その場で顔をそらし、肩を、激辛の軍用レーションでも無理やり詰め込まれたみたいに震わせている。
真紀は表情ひとつ変えずに返した。
「それは、殿下が文明社会の生活時間に合わせてくださるかどうかによりますね」
……見事だ。
断言してもいいが、真紀のこの一言は、単に「夜中にうろつかないでください」という注意だけじゃない。この女の返しは時々こうだ。表面はただの生活指導、その下には刃がびっしり仕込まれている。
ヘートヴィヒはそれ以上何も言わず、侍女を連れて出て行った。
ハッチが閉まった瞬間、倉庫全体から、目に見えない重しが一枚、すっと抜き取られたような感覚がした。
ようやく、まともに息ができる。
そして最初に口から出たのがこれだ。
「なんか、さっき外で帝国駆逐艦と撃ち合ってたほうが、まだ気楽だった気がする」
ジェスがすぐに頷いた。
「少なくとも外の連中は直接撃ってくるからね。先に口調でこっちを薄切りにはしてこない」
「よく分かってるじゃない」
「横で見てて、けっこう入れ込んでたからね」
真紀が立ち上がる。こちらを見る気もなさそうだ。
「入れ込んでたなら、艦橋に戻ってから、さっきの記録を正式報告にまとめて。一行でも欠けたら認めない」
ジェスの顔が、きれいに半分崩れた。
「……副長、あんたって人は、本当に人の楽しみを潰す才能があるよね」
「ありがとう」
「褒めてないから」
「分かってる」
私はまた笑いそうになった。
アイダがそのとき端末を閉じ、立ち上がった。「ここまでは片付いた。この後さらに書式十枚と、権限更新二十項目が待っている」――そんな顔だった。
その顔を見た瞬間、私は理解した。
ロマンス、ドラマ、皇女、暗殺、外交――そういうものは結局、連邦軍のいちばん素朴で、いちばん残酷な本質に行き着く。
報告書を書くこと。
これこそが、本当に勝てない敵だ。
◇
艦橋に戻ったとき、雪風はすでに帰投プロセスに入り直していた。
「艦橋に戻る」と言っても、その光景自体がもう、事件の幕引きめいた空気をまとっていた。
というのも、橋上の誰もが、まだ本来の席には座っていなかったからだ。
もっと正確に言えば――
私たちは全員、まだ借り物の職務に座り続けていた。
アッシュは、相変わらず艦長代理の椅子にいる。
真紀は、相変わらず副長の代わり。
ジェスが戦術席を預かっているときの、あの「ちょっと見物に来ただけなのに、気づいたら船ごと自分の仕事になっていた」といういけずな空気は、いまだに一ミリも薄れていない。
蘭は通信と識別を、まだがっちり咥えたまま。
ロイは、姿勢制御と航路修正を日常の呼吸みたいにこなす男そのままに、雪風の骨格を相変わらず押さえ込んでいる。
アイダは、技術の穴を埋めながら政治の帳尻も合わせて、ついでにこの船がまだ正常な宇宙の物理法則の中にいるかどうかまで確認しているような立ち位置だった。
私たちは全員、まだ席を借りている。
伸びすぎた臨時公演みたいだ。役者はとっくに疲れているし、観客もそろそろ帰りたいのに、照明はまだ点いていて、幕もまだ下りない。だから全員、自分のものじゃない役を、最後まで演じ続けるしかない。
妙な感覚だった。
アッシュは主座で、余計なことは何も言わず、ごく短い命令をいくつか出した。
ヘートヴィヒと随行の仮の収容区、正式に運用開始。
外側通路は保安が輪番で詰める。名簿と交代間隔は暗号化、艦内放送では流さない。
艦内の対外通信権限を再分層。富士丸と帝国皇女に関わる記録は、すべて独立封存。
雪風、臨戦収縮態勢を解除。中程度巡航配置に復帰。
主航路――首都圏。
それだけだ。
演説はない。
「みんな、お疲れ」もない。
BGMでも流したくなるような、でも本当に忙しいときは誰も聞いていないきれいな言葉も、ない。
まだ、気を抜いていい段階じゃないからだ。
私たちはただ、もう一度、進路に戻っただけだ。
ロイが航跡を引き直し、推進出力を着実に上げていく。雪風は、泥からようやく足を引き抜いた獣みたいに、まず探るように前へ動いて、それから少しずつ自分のリズムを取り戻していった。
私は振り返り、主観測スクリーンを一度見た。
外の星の海は、もう「ここで死んでも誰も気づかないだろう」と思わせる、見知らぬ深宇宙じゃなくなっていた。
気のせいかもしれない。実際にはまだ距離があるし、首都圏だって遥か先だ。それでも、艦載システムが正式に「連邦管轄境界」と表示を切り替えた瞬間、星の光まで、少しだけ見慣れたものに戻った気がした。
馬鹿みたいな感覚だ。
でも、本当にそうだった。
長いこと迷子になって、ふらふらになりながら自分の住む街の外れまで戻ってきたときみたいだ。まだ家のドアも見えていないのに、コンビニの揚げ物と、下の階のコインランドリーの柔軟剤が混ざった匂いを先に嗅いでしまう、あの感じ。
人間なんて、だいたいそんなものだ。
宇宙戦艦も、似たようなものらしい。
そして、音が来た。
最初に入ってきたのは軍用識別波だった。
一波、二波、三波。
巡邏艦。
辺境哨戒ステーション。
中継航法ブイ。
自動送信される連邦軍の航路警告。
びっしりと並んだ応答コードが、冬の窓ガラスに戻ってくる霜の紋様みたいに、一筋ずつ「ここは秩序ある管轄宙域だ」という事実を、目の前に書き戻していく。
続いて、民間信号が重なった。
貨物船。
旅客船。
医療航路の譲行要請。
商用タグボートの周波数帯。
地区港務局の自動放送。
さらにその後ろから、公開波帯のローカルラジオまで、ぶつ切りで潜り込んできた。
「――本日十四時、首都圏外環農業コロニー帯の豆類先物は――」
「――東部星系交通委員会よりお知らせします。近隣の国境軍事演習に伴い――」
「――続いては、懐かしの名曲特集をお届けします――」
私は固まった。
それから、急に笑いそうになった。
内容が面白いからじゃない。あまりに普通だったからだ。
普通すぎて、馬鹿みたいで。
普通すぎて、鼻の奥が少しつんとした。
数時間前、私はまだ零式のコックピットで、射出座席に脊椎ごと力を叩き込まれながら、高次元切断面の気持ち悪さに、魂を計器盤に吐き出しそうになっていた。もう少し前には、この船ごと迷航して、同じ宇宙の物理法則が通用するかどうかも分からない何かと、命の取り合いをしていた。
それなのに今、連邦の公共波が最初に私の耳に押し込んできたのは、豆類先物と夜の懐メロだ。
これは、何と呼ぶべきなんだろう。
これが文明だ。
文明とは、英雄の演説でも、戦史に刻まれる碑文でも、誰かが艦橋で風を受けながら四十五度の角度で立っていることでもない。
文明とは、一度死にかけた帰り道に、ラジオの誰かが渋滞と農産物と番組表について真面目に話しているのが聞こえることだ。
私は椅子の背にもたれて、長く息を吐いた。
「……本当に、帰ってきたんだな」
声は大きくなかった。自分に言うようなつぶやきだった。
でも、真紀には届いていた。
彼女は副長席の横に立ったまま、前方の航路修正図から目を離さずに、淡々と返す。
「まだ」
「こういうときくらい、三秒だけロマンチックにさせてくれない?」
「無理」真紀は言った。「首都圏に入る前に、感動は取っておいたほうがいい。どうせこの後、誰かが通信から飛び出してきて、今夜中に供述書三通、戦闘報告四通、それから『なぜついでに帝国皇女を拾って帰ってきたのか』の特別説明書を出せって言ってくるから」
私は黙った。
くそ。
いかにもありそうな話だった。
しかもその特別説明書は、たぶん上下二巻構成で、機密添付資料が十二点くっついてきて、最後には「以上の内容に虚偽があった場合、連邦軍法に基づき責任を負う」という直筆確認まで要求してくるに決まっている。
ジェスがコンソールに突っ伏したまま、だるそうに口を挟んだ。
「私はむしろ、『雪風はなぜ出航するたびに、出航前より高くつく事態を持ち帰るのか』についての反省文を先に書くべきだと思うけどね」
「それはあなたが書いて」真紀が言った。
「やっぱりそう来ると思った」
蘭がふいに手を軽く上げた。
「防衛圏の前置識別エコー、受信しました」
艦橋全体が、半拍だけ静かになる。
緊張というより、全員が無意識に少し姿勢を正した、そんな感じだ。
蘭が続けて読み上げる。
「連邦辺境防衛網の認証、通過。雪風の識別コード、有効。航路修正案、送達済み。優先通信が三件、待機中――一件は辺境司令部、一件は連邦軍校通報チェーン、残りの一件は……」
蘭が、一瞬言葉を切った。
胸の奥で、嫌な予感が動いた。
「最高評議会国防委員会秘書処からです」
私は、そっとアイダのほうへ顔を向けた。
アイダの表情は、ほとんど動いていない。
本当に。
ほぼゼロだ。
それでも、端末を持つ角度が、ほんの少し内側に引かれたように見えた。彼女自身も分かっているんだろう。――さあ、本当に面倒な連邦版が、いよいよ動き出す、と。
ジェスがゆっくりと口笛を鳴らす。
「わお」
私は小声で言った。
「私たち、首都圏に入る前から、もう首都圏に見つかってない?」
誰も答えない。
答える必要がないからだ。
答えは、夜空に主砲の光条が走るくらい、はっきりしていた。
アッシュは主座に座ったまま、すぐには三件の通信を取りに行かなかった。
ただ前方のスクリーンを見ていた。再び密になって、再び騒がしくなって、再びいかにも連邦らしくなった信号の洪流を。片手で、肘掛けを軽く叩く。
一度。
二度。
まだ本当には落ちてきていない何かの重さを、先に測っているような手つきだった。
その背中を見て、私はふと理解した。
雪風は、確かに連邦に戻ってきた。
でも、帰ってきたということは、決して終わったという意味じゃない。
たいていの場合、それはただ――
「こちらに辿り着ける人間が、ようやくこちらを見つけられるようになった」という意味に過ぎない。
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