140.捉えた!! 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
艦橋から格納庫へ続く通路は長い。普段なら「この艦の設計者はスポーツシューズメーカーと裏で繋がってるんじゃないか」としか思わないその長さが、今は後悔させるためにわざと引き延ばされているように感じられた。
足音が金属の床を規則正しく叩く。カウントダウンのように。
九〇秒。
その数字を知っているのは、通信で真紀がさっき報告したからだ。
「『神風』冷却進捗、六三パーセント。高次元切片の収縮速度、加速中。第一弾重力微塵網は依然有効だが、長くは保たない」
真紀の声がイヤホンから届く。冷静で、乾いていて、余計な感情の欠片もない。
「星野、あんたのウィンドウは一度きりよ。無駄にしないで」
「……その言い方、新人にはちょっと残酷じゃない?」
走りながら、私はつい口を挟んだ。
「かなり優しいバージョンを選んだつもりだけど」
「じゃあ優しくない方は何なのよ」
イヤホンの向こうが半秒ほど黙った。
それから真紀は、ごく平然と答えた。
「死ぬな」
……上等だ。この女は本当に、慰めの言葉を医療廃棄物処理マニュアルみたいに言える。
自分の息に噎せそうになった。おまけに、通信の向こうからジェスの堪えきれない笑い声まで聞こえてくる。
「安心しなさいよ、シモ。今日の九島はかなり口調が優しい方よ。本気で怒鳴りつける気なら、あんた今頃泣きながら出撃責任確認書にサインさせられてるわよ」
「泣いたことなんてないわよ」
「模擬試験の時――」
「あれは汗が目に入ったの」
「へえ?」
「そうよ」
「はいはい、汗ってことにしとくわ」
私は奥歯を噛み、この借りは帰ってきてからジェスに払わせると心に刻んだ。前提として、私が帰ってこられれば、だけど。よろしい、こんな時でも自動でそのツッコミを補完できるとは。ありがとう星野 シモ、あんたの自己ダメージ機構は今日も安定稼働中ね。
格納庫の外扉が開いた瞬間、音が先にぶつかってきた。
爆発でも、警報でもない。
機械の低い駆動音、油圧ロックが外れる短い息、牽引車の車輪が甲板を擦る音、それから遠くで整備員が番号を張り上げる声。すべてが混ざり合い、鉄と電気で組み上げられた巨大な生き物が暗がりの中で息をしているようだった。
そして、零式はそこにいた。
シミュレーターの中では何度も見てきた。三面図も、骨格図も、武装配置も、コクピットのレイアウトも。目を閉じたまま起動手順を暗唱できる自信さえある。だが、それらすべてを足し合わせても、今、本物の発進架の前に立って見上げた一瞬には到底かなわない。
大きくはない。
少なくとも雪風と比べれば、母獣の腹腔から抜き取られた骨の一本のように小さい。
だが、小さいからこそ余計に安心感がなかった。その細さは優雅さではなく、残酷さだ。設計した人間は最初からパイロットの快適さなど考えていない。生きた人間を最小限の形で武器に詰め込み、最速で撃ち出すことしか考えていなかったのだろう。
私は発進架の前で足を止めた。胸の奥が、理由もなく締まった。
整備員が私に気づき、すぐに手信号を送ってきた。
「零式一号機、発進架固定完了! 位相震動弾、単発装填完了! 近接推進系、正常!」
「……了解」
喉から出た自分の声は、本人よりもよほど落ち着いて聞こえた。不思議なものだ。人間は吐きそうな時でも、それらしく振る舞えるらしい。
アイダの声が通信に割り込んだ。
「星野、よく聞いて。あんたの位相震動弾は一発きり。かっこつけるための花火じゃないの。目標は撃沈じゃない、奴が縮もうとしている縁を裂いて、三次元空間にあと数秒長く留めさせること。数秒あれば、後のことはこっちでやる。分かった?」
「分かった」
「もう一度言って」
「撃沈じゃない。縁を裂いて、強制的に数秒多く露出させる」
「よろしい」
アイダは一拍置き、さらに付け加えた。
「それと、初めての実機出撃で教範を超える真似はしないこと。あんたが帰ってきた後、機体を直す前に骨を直す羽目になるのは御免だから」
「今の、全然祝福に聞こえないんだけど」
「祝福じゃないもの。予防的な愚痴よ」
ロイもこのタイミングで割り込んできた。声は安定していた。高次元の怪物と睨み合っているとは思えないほど、晴れた昼間に観光船の針路を微調整しているかのような落ち着きだった。
「発進後、相対姿勢はこっちでできるだけ平らに抑える。焦って桿を奪おうとするな。まずは機体にきちんと初速を食わせろ」
私は反射的に返した。
「了解、舵手殿」
ロイが少し笑ったようだった。
「海上遠足に送り出すみたいな呼び方はやめてくれ。今回の道はかなり悪い」
「ご忠告どうも。今日はてっきりピクニック日和だと思ってたのに」
今度は蘭までが、共用回線で小さく咳払いをした。笑いそうになったのを、こんな時に笑うのはプロ失格だと思い直して、咳で良心を埋めたような音だった。
「通信チャンネル、クリアにする」
蘭が言った。
「零式専用回線を優先。ノイズ抑制完了。星野、入艙後に心拍が上がりすぎたり呼吸が乱れたりしたら、マイクが全艦に生中継されるから。節度をもって」
「……それ、通信長が言うべき台詞?」
「善意の忠告よ」
「あんたたちの艦、本当に新人に優しくないわね」
「今日初めて知ったの?」
ジェスが即座に被せてきた。
私は返さなかった。これ以上続けたら、緊張を全部口喧嘩に変えてしまい、梯子の登り方まで忘れそうだった。
私はグローブをもう一度締め直し、搭乗用のラダーに足をかけた。
一歩目は問題なかった。
二歩目も、まあ問題なかった。
三歩目あたりから、自分の脚が見た目ほど落ち着いていないことをはっきり感じた。あからさまに震えているわけではない。ただ、筋肉の一つ一つが締まりすぎていた。肩から足首まで、出荷されたばかりでまだ馴染んでいない新品の部品に、全部取り替えられたような感覚だった。
情けない。理論試験の成績は悪くないし、シミュレーターの時間も十分積んでいる。普段は艦橋で他人の機動ウィンドウをそれらしく評価しているくせに。いざ自分の番になり、コクピットに滑り込むというただそれだけの動作で、頭に最初に浮かんだ感想はこれだ。
……狭い。
本当に、狭い。
棺桶とはエンジニアが発明したロマンチックな隠喩なのではないかと思うほどに。
片手でキャノピーの縁を掴み、もう片方の手でシートの縁を支えながら、体を滑り込ませた。背中がまず触れたのは冷たく硬い減震パッドで、続いて脚の横、肩の横、肘の周りに、一寸の余白もない圧迫感が次々と押し寄せてきた。
シミュレーターも当然この包み込まれる感覚を再現してくる。だが、偽物はやはり偽物だ。本物のコクピットには金属と油脂とシール材の匂い、それにほんのわずかな電気の焦げた匂いがある。「夢を見るな、これは本物だ」という言葉を粉にして、隅々にまで均等に振りかけたような空気だった。
私は頭をヘッドレストに預け、息を吐いた。
その息はそのまま護頸の内側で跳ね返り、まるで誰かが首筋に息を吹きかけているように熱かった。
……上等ね。これから先は、自分の呼吸にすら驚かされるってわけだ。
「星野、状態を報告しろ」
艦長代理がようやく口を開いた。
他の誰の声とも違った。艦長代理の声が入った瞬間、それまで乱れていた通信全体に、急に骨が通ったような感覚があった。声が大きいからではない。どんな乱れた感情も、彼の声に触れた途端、自動的に整列してしまうからだ。
私は主操縦桿に手を置いた。指先が少し冷たい。
「搭乗完了。固定作業中」
「手順通りにやれ」
艦長代理が言った。
「速さは要らない。要るのは正確さだけだ」
……こういうところが、この人の厄介なところだ。
他人の「頑張れ」なら背景音として聞き流せる。だが艦長代理の「速さは要らない、要るのは正確さだけだ」は、全部のバックルを軍用品展示会に出せるくらいきっちり締めたくなってしまう。
五点式のシートベルトを一本ずつ引き寄せる。
腰の片側。カチッ。
反対側。カチッ。
股間の固定。カチッ。
胸のストラップを下に引いて締めた瞬間、思わず息を呑んだ。
締めすぎた。
いや、自分で締めすぎたのだ。次の瞬間、誰かに座席ごと放り出されるのを恐れるように。
……この後本当にそうなる可能性を考えれば、その判断は間違っていないとも言えるが。
「呼吸して」
真紀の声が、突然単独回線に切り込んできた。
私は一瞬、動きを止めた。
「何?」
「今、呼吸が浅すぎる」
真紀が言った。
「吸って。ゆっくり。胸のベルトに先に絞め殺されたら、敵にとって達成感がないでしょ」
笑いそうになり、その笑いのせいで余計に吐きそうになった。
「それ、慰めてるつもり?」
「そう」
「あんたの慰めの定義、どこで壊れたのよ」
「あんたと同じところで」
……この女は本当にどこかおかしい。だが、こっちが崩れかけた瞬間だけ、狂ったように正確な場所へその『病気』を刺してくる。
彼女のリズムに合わせて息を吸い、吐いた。
一回。
二回。
三回目で、ようやく指先の強張りが少し解けた。
チェックを始める。
主電源、点灯。
姿勢制御、グリーン。
近接推進、待機。
武装安全装置、閉鎖。
位相震動弾懸架、接続正常。
照準補助フレームが展開すると、前方のサブスクリーンが一枚ずつ点灯し、冷たい白い光がキャノピーの内壁を照らした。もともと狭かった空間が、精密すぎて情け容赦のない臓器の内部のように見えた。
「零式一号機、内部気圧正常」
蘭が報告する。
「座艙密閉確認、正常」
アイダが続く。
「発進レール、クリア」
ロイが言う。
「高次元切片、再び収縮」
アカリの声が一秒前よりわずかに速くなった。
「重力微塵網、左二象限に剪断の欠損発生。奴は面を変えようとしてる、いえ、『切り方』を変えようと――」
「人間の言葉で言って」
ジェスが即座に遮る。
「私たちが見慣れない角度から縮もうとしてるのよ」
「その言い方なら人間の言葉ね、ありがとう」
「ジェス、戦術席に集中」
艦長代理が淡々と言った。
「はっ、艦長代理」
艦橋からの交錯する報告を聞きながら、私は自分の手を見た。
グローブが指先を包んでいて、どの動作も普段より少し鈍い。シミュレーターの中の、あのきれいで規則正しい入力遅延ではない。本物の機械フィードバックが返してくる、微妙な生々しさだ。まるで零式が自分のやり方で言っているようだった。私は本物だ。あんたも本物のつもりでいろ、と。
艙外の整備員が、最終確認の手信号を送ってきた。
私も返した。
次の瞬間、頭上から重い閉合音が伝わってきた。
キャノピーが閉まり始めた。
一音で終わる話ではない。まずスライドし、次に位置合わせをして、最後にロックされる。全部で数秒の動作なのに、まるで一枚の扉が、ひどく礼儀正しく世界を外側に閉め出しているようにゆっくりと感じられた。
開いている間は、格納庫の金属音も、足音も、どこかで誰かが番号を怒鳴る声も聞こえていた。
半分ほど閉まると、外の音が水に呑まれるように遠くなる。
ロックが完了した後に残るのは、自分自身の呼吸音と、座艙システムの、小さすぎて消えてくれない駆動音だけだった。
その瞬間、私はようやく分かった。
初めての実機出撃を怖くさせるものは、「敵が強い」などという大義名分のある理由ではない。
キャノピーが閉まり、世界に自分一人だけが残された時、嫌というほど具体的に分かってしまうことだ。これから何かを間違えても、教官が止めてくれるわけでも、シミュレーションがリセットされるわけでも、誰かが一時停止ボタンを押してくれるわけでもない、ということが。
「……零式一号機、キャノピーロック完了」
自分がそう報告するのを聞いた。
声が震えていなかった。
少し驚き、少し腹が立った。心臓は警鐘のように打ちつけているのに、喉だけは公務をこなしているような顔をしている。生徒会のあの連中よりもよほど白々しい。
「了解」
艦長代理が言った。
それから、共用回線が一拍だけ静まった。
短い一拍だった。今の私がコクピットに詰め込まれていなければ、おそらく気にもしなかっただろう。だが今の私はここに詰め込まれているから、その一拍がひどくはっきりと聞こえた。
次の瞬間、ジェスの声が響いた。
戦術報告の口調ではなかった。
軽く、素早く、誰かが止める前に滑り込ませたような一言だった。
「シモ」
「……何よ」
「機体の中で吐かないで。洗うの大変だから」
私はその場で目を白黒させた。
胸を潰しかけていた緊張が、そのゴミみたいな一言のせいで、無理やり一本の亀裂を走らせた。
「安心して」
私は操縦桿を握り直し、前方に点灯した誘導線を見据えた。
「本当に吐くとしたら、あんたの引き継ぎ報告書を優先するから」
ジェスが笑った。
短かった。
でも、聞こえた。
それから、真紀だった。
彼女は笑わなかった。ただ、平坦に言った。
「星野」
「うん」
「帰ってきてから、文句を言いなさい」
私はキャノピーに映った自分を見た。
青白く、若く、説得力がない。戦闘艇に詰め込まれるべきではない、ただの女の子みたいな顔だった。
……残念ながら、今は他に詰め込める人間がいない。
だから私は息を吸い、背中をヘッドレストに押しつけ、指を一本ずつ操縦桿とスロットルに固定し直した。
「零式一号機、出撃前チェック完了」
今度の声は、ようやく自分のものに聞こえた。
「最終発進手順への移行を要請する」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




