138.不可視の敵 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
《テキサス》の白い墓標は、航行図の左後方にまだ掛かっていた。歴史が二百年遅れて補った句点のように。
そして雪風は、その句点を連れたまま前へ進んでいた。
『神風』冷却カウントダウン一五分が始まった後、艦橋の空気が変わった。
乱れたのではない。
張り詰めたのだ。
見えない薄膜が天井から床まで引き伸ばされ、私たち数人を、座席も、メインスクリーンも、操舵台も、通信パネルも、まだ発熱している『神風』の状態図も、そのまま一緒に包み込んだような張り詰め方だった。
誰もがまだ仕事をしていた。
誰もがまだ席についていた。
だが全員が知っていた。この一五分は休息ではなく、理不尽な猶予期間だということを。
私は戦術図を見つめ、強制脱出時の位相裂傷と本艦周辺の局所重力勾配を重ねて解析し続けた。長く見ていると目が痛くなり、頭も痛くなる。だがこういう時に痛いと言える資格は誰にもない。今の雪風に最も足りないのは、言い訳の理由ではない。
「右前方のデブリ群に偏移あり」
アカリが最初に口を開いた。
私は顔を上げた。
メインスクリーン左側の空域観測画面が即座に拡大された。画面の中で、本来なら慣性に従ってゆるやかに漂い続けるはずだった一群の氷の岩塊が、ごくゆっくりと、ある方向へと偏れていた。
落下でも、衝突で弾かれたのでもない。何か見えないものが、そこで静かに引いているような動き方だった。
だが、そこには何もなかった。
艦影はない。
熱源はない。
レーダー反射もない。
大きな岩一つもない。
ただ、空だった。
「自然潮汐の擾乱か?」
ロイが聞いた。
「違います」
アカリはすぐに答えた。
「双子巨星の残留重力モデルと周辺デブリの流速で再計算しました。この偏移は自然軌跡に合わない。まるで……」
彼女は少し止まった。こういうものに分かりやすい説明を与えることを、明らかに不本意に思っているような間だった。
「見えない質量が、そこで少し位置を変えたような偏移です」
艦橋で誰も続けなかった。
この言葉は続けにくかった。
聞こえなかったふりをするか、聞こえたと認めるか。後者の方が明らかに悪い。
「背景星光にも異常があります」
今度は蘭だった。
彼女は通信と観測の補助チャンネルを一層切り出し、遠方の星点の背景を、ほとんど光る針の列だけが残るまで拡大した。一見、何もないように見えた。だが三つの異なる時刻の画像を重ねた瞬間、おかしさが浮かび上がった。
ごく小さな一区画の星光が、曲がっていた。
瞬きでもない。
ぼやけでもない。
レーダーや光学補正の不具合による揺れでもない。
何かが、私たちには見えない一層の空間を隔てて、本来まっすぐ届くはずの光線を少し捻じった。そのせいで、いくつかの星の形に、極めてわずかだが、あってはならない切れ目と偏弧が生じていた。
まるで誰かが宇宙という黒い紙を裏側から突いて、浅い凹みを一つ作ったかのようだった。
「本艦の姿勢誤差ではありません」
蘭が言った。
「ロイの修正量を引いて、メインスクリーンの表示遅延も除外しました。動いているのは私たちではなく、あの一区画の空間そのものです」
ジェスはその切れた星光を二秒見つめ、低く言った。
「嫌い」
「さっきも言ったわよ」
私は言った。
「違う」
彼女は眉をひそめた。
「さっきは概念として嫌いだった。今は目で見えてる何かが、すぐそこで宇宙を揉んでいるのが嫌い」
……嘴が悪い女だが、たまに本当に正確なことを言う。
封じたくなるのに、封じると必要な直感まで消えるような正確さで。
「もう一つ、より悪いものがあります」
蘭がヘッドセットをさらに強く押さえ、初めて表情が沈んだ。
「どこ?」
艦長代理が聞いた。
「左後下方、約七度の偏角」
彼女は極細のスペクトル線を引き出した。
「この一帯の背景ノイズが、きれいすぎます」
私は対応する扇区を見た。
「きれいすぎる?」
「そうです」
蘭が言った。
「信号がないのではなく、あるべき雑質がない。こういう深宇宙の背景がこれほど平坦なはずがない。通常なら微中子散乱、残留輻射、遠距離の星間塵の信号が、この帯域に一層の底ノイズを積み上げるはずです。でもここは……」
彼女は少し言葉を選んだ。
「誰かに一口、食べられたみたいです」
艦橋が一段と静まった。
「何もない」ほど不快なものはない。
特にその「何もない」が、それ自体で何かの証拠になっている時は。
アイダはすぐにその方向の重力読値をメイン監視図に引き込んだ。本来なら滑らかに伸びるはずだった微弱な曲線が、左後下方の小さな区域で、ごくわずかだが明確に不連続な圧縮を示していた。
彼女が眉をひそめた。
「重力の漏れです」
艦長代理が彼女を見た。
「確か?」
「少なくとも自然背景ではありません」
アイダが言った。
「あの質量は、私たちのいるこの次元に完全には落ちていない。でも重力は正直です。こちら側に漏れてくる。ちょうど……」
彼女は手を上げ、空中で短い動作をした。
「大型の物体が見えない壁の向こうから、つま先だけこちら側に踏み込んでいるような感じです」
背筋が痺れた。
比喩が美しいからではない。
醜く、そして本物に近すぎたからだ。
「つまり完全には隠れていない」
私は画面を見ながら言った。
「大部分はまだ私たちのいる面にはいない。ただ……」
「説明はつく」
アカリが言った。
「デブリの偏移、星光の切れ、局所重力圧縮。すべて、同一の高次元質量が近傍区域で位置を変えた副作用として解釈できます」
真紀はすでに艦内警報パネルに手を置いていた。声が冷たく輝いた。
「目標は依然近傍にあり、本艦は接触区域内にあると確認。全艦、一級高次元伏撃警戒を維持」
「通常レーダーを最低権限まで落とせ。ノイズで覆われないよう」
艦長代理が命じた。
「全面的に重力微擾モードへ切り替える。不要な能動スキャンは停止、受動観測と重力監視のみ保持。ロイ、面舵いっぱい、針路〇九〇、最大推力、現在の異常重力勾配軸から離脱しろ」
「はっ、面舵いっぱい、針路〇九〇、最大推力!」
ロイは歯を食いしばり、両手で推進桿を一気に叩き込んだ。
次の瞬間、雪風全体が右側へと傾いた。
巨大な推力が全員を座席へと押しつけ、私の肋骨は固定バックルと再び因縁を結んだ。メインスクリーン上の異常軸線が左へ少し流れた。だが完全には切れなかった。まだそこにあった。放さない影のように、艦腹の外側を滑っていた。
「『神風』冷却、残り一二分」
アイダが報告した。
「通常推進、負荷上昇。艦体構造、許容範囲内」
「異常扇区、本艦の変位に追従中」
アカリが言った。
「ついてきている」
ジェスが短く息を呑んだ。
小さな音だった。だが私には聞こえた。
彼女がこういう無修飾の反応をすることは滅多にない。
だから警報音よりも、その一音の方が、状況の深刻さを証明していた。
私はその高次元の異常軸が雪風の左後方を滑り続けるのを見ながら、主砲の発射ボタンの上に指を浮かせ、半秒も押せなかった。
無駄だと分かっていたからだ。
狙えないのではない。
火力が足りないのでもない。
「目標」と呼べる完全な形のものが、まだ一つも見えていないのだ。
私たちに見えているのは、それが踏み抜いていった宇宙の床の足跡だけだった。
「艦長代理」
私は口を開いた。自分の額にじわりと汗が滲んでいることに気がついた。
「これは、おそらく無意味です」
艦長代理は振り返らなかった。
「言え」
私はメインスクリーンの異常軸線を見つめ、最も聞こえが悪く、最も本物に近い判断を一語ずつ吐き出した。
「何であれ、今の私たちは空気に向かって拳を振っている」
その言葉が落ちた、次の瞬間――
ドォン。
何の予告もない、くぐもった衝撃音が、雪風の艦底から伝わってきた。
爆発のような外向きの震えではない。
あるセクションが内側から押しつぶされ、鋼骨が応力線に沿って一節ずつ捻じれる時に出る、低く、こもった、歯の根が浮くような音だった。
艦橋の床が揺れた。
今回、警報は後だった。
先に鳴ったのは、艦体そのものだった。
雪風が痛みを上げたように。
「左舷三番気閘艙、内破!」
アイダの声が初めて、本当に速くなった。慌てているのではなく、速かった。両手が仮想パネルの上でほとんど残像を作り、白い制服の襟元が細かい汗で濡れていた。
「シールド完全!外殻完全!ただし――内部隔壁、全損!内圧構造、直接崩壊!」
私の全身が冷えた。
シールドは完全。
外殻は完全。
中が先に壊れた。
砲撃を受けるよりも悪い。
なぜなら、あれは私たちの防御を「抜いて」きたのではないからだ。
それはルールの外側から、三番気閘艙があった小さな一区画の空間を、別の方向へ向かって力ずく折り曲げたのだ。
「艦長代理」
アカリの声は相変わらず平静だった。残酷なほど平静だった。
「外来の投射物は観測されていません。レーダーに影一つありません」
「内破?」
真紀が一瞬だけ動揺し、次の瞬間にはその感情を完全に押し込んでいた。
「雪風のエネルギーシールドを迂回した?どうやって――」
「私たちのいる面を通ってきていないから」
私は自分がそう言っているのを聞いた。
自分でもその答えが嫌いだった。
だが、それはどんどん答えに近づいていた。
艦長代理はここで、逆に冷えた。
感情がなくなったのではなく、すべての感情を命令へと圧縮したような冷え方だった。
「全艦、赤色警報発令。第一種戦闘配置に付け。常規レーダー封鎖、全面的に重力微擾モードへ切り替える。面舵いっぱい、針路〇九〇、全速前進、現在の異常干渉軸から離脱しろ」
真紀はすぐにロイへ向いた。
「全艦、赤色警報!第一種戦闘配置!重力微擾モードへ切り替え!面舵いっぱい、針路〇九〇、最大推力!」
「面舵いっぱい、針路〇九〇、最大推力!」
ロイは歯を食いしばり、推進桿をさらに深く押し込んだ。まるで腕の力だけで雪風をその口から引きずり出せるとでもいうように。
巨大な加速度が艦橋全体を再び押しつぶした。
肩が固定バックルに食い込んで痛かった。指先は主砲のボタンの横に浮いたまま、行き場を失った間抜けのように、何もできなかった。
最悪の感覚だった。
戦術長が戦術席に座って、敵がいると分かって、そいつが今さっき雪風の気閘艙を一つ噛み潰したと分かって、それでも一発もまともに返せない。
私は何もない主幕を見つめ、歯を噛みしめた。
今度は声を落とさなかった。
もう落とす意味がなかった。
「何であれ、今の私たちは空気に向かって拳を振っている。そしてそいつは、もう私たちの顔を殴っている」
誰も反論しなかった。
聞こえが悪いほど、こういう時は本物に近い。
メインスクリーン上では、高次元の異常軸線がまだ雪風の左後方をゆっくりと滑っていた。
デブリ群はまだ空へ向かって偏れていた。
背景星光はまだ不自然に曲がっていた。
蘭が捕捉したノイズの空洞は、宇宙の一口分のように、まだそこに静かに掛かっていた。
そして私たちはついに分かった。
あれは現象ではない。
徴候でもない。
ゆっくり議論して、推論して、報告書にまとめるような奇妙なデータではない。
あれは敵だ。
ただ、まだその完全な姿が見えていないだけで。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




