137.墓標船 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
超光速起動後の最初の数秒間、人間の頭はあまり自分のものらしく働かない。
誰かに氷水へ突っ込まれ、引き上げられ、適当に頭蓋骨の中へ放り戻された、そんな感覚に近い。
使えるには使える。かろうじて、だが。すぐに普段のように筋道立って、こちらの体面まで守ってくれる状態に戻ると期待しない方がいい。
視界がまず一瞬白くなり、続いて水底から無理やり引き上げられたように焦点が戻ってくる。耳に届く音はすべて一枚膜を隔てた向こうで鳴っていて、まるで他人の人生を遠くから覗いているようだった。
艦橋天井の主照明が一格ずつ点灯していくのを見て、私はようやくはっきりと理解した。
跳んだのだ。
「跳躍準備」ではない。
「シミュレーション成功」でもない。
「理論上は可能」でもない。
もう、越えてしまったのだ。
艦橋の灯りは素早く戻っていった。まず各席のステータスランプ、次にメインスクリーン縁のナビゲーション回路、そして最後に頭上の一列――少し冷たく、無愛想だが、この瞬間だけは妙に頼もしく見える白い作業灯だった。
その段階的な復明は、暗闇の中で誰かが理性を一つずつ返してくれているようだった。
私は無意識に息を吐き、そこで初めて自分が本当に息を止めていたことに気がついた。
「姿勢、安定」
最初に口を開いたのはロイだった。
その声は相変わらず安定していた。たった今、全艦を宇宙の中で一度折り畳んでから弾き返した張本人が自分だとは、まるで思っていないような落ち着きぶりだった。
「針路偏差、〇・〇三以下。修正中。慣性補償器正常、操舵フィードバック正常」
よし。
いい。
舵手が私たちを宇宙の缶詰にしなかった。表彰ものだ。
「レーダー、復旧」
アカリの指がコンソールの上でほとんど残像を作りながら走り、淡い青の戦術フレームが一層また一層とメインスクリーンの外へ広がっていく。
「本艦、元の宙域を離脱済み。前方に大質量天体反応二、恒星級。周辺に高密度のデブリ帯が散在。外縁のディスク構造を確認。新区域インデックスを構築中」
彼女の話し方は、感情のかけらもない機器マニュアルを読み上げているように聞こえる。だが、そんな読み方をするからこそ、私にはその現実味がかえって強く伝わってきた。
アカリの声が震える日があるとしたら、それは「驚愕」という生易しい意味ではない。「総員、遺書を書け」という意味だ。
「通信回路正常、艦内全周波数、復旧済み」
蘭が片側のイヤホンを押さえ、視線をチャンネル一覧の上で素早く走らせた。
「対外エコーは極めて微弱。超光速安定期の通常の減衰と判断。ノイズの混入なし、未確認の呼出もなし」
彼女は一拍置き、こう付け加えた。
「簡単に言うと、宇宙は今のところ、私たちを怒鳴りつける気はないみたいです」
「もったいないわね」
ジェスが隣で小声で言った。
「四千五百万光年先の人たちが、少しは礼儀正しいかどうか見てみたかったのに」
「変わらないわよ」
私は無表情のまま戦術ボードを睨みつけた。
「ただ遠いだけ。喧嘩になっても、時間がかかるだけよ」
「技術側、正常」
アイダが眼鏡を押し上げた。その口調はいつも通り、安心できるほど平坦で――同時に、彼女が数値を読み上げている間にこっそり遺言を書きたくなるほど平坦だった。
「『神風』出力安定。主コイル温度、予測区間内。船体フレーム応力ピーク値、警戒線以下。超光速機関は血を吐いても痙攣もしていません。少なくとも今のところ、死にそうには見えません」
彼女はわずかに首を傾け、モニターの前方へ滑らかに伸びていく出力曲線を一瞥してから、淡々と付け足した。
「これは朗報です。ただし、もし今すぐ感動して泣きたい人がいるなら、十分待つことをお勧めします。工学的には、十分間生き延びてから喜ぶ方が科学的ですので」
私は危うく吹き出しそうになった。
この女は本当に、祝福の言葉すら病状悪化の通知を延期したような口調で言える人種だ。腹立たしいことに、言われた後には――ああ、確かに、と納得してしまう。
「戦術区、正常」
私は自分の声をいつもの調子に引き戻し、再構築されつつある空域図を見渡した。
「周辺に即時の敵性反応なし。デブリ帯の密度は高いが、本艦との相対距離は現在のところ安全圏内。戦術観測を一級監視へ移行」
「戦術副手、正常」
ジェスがすかさず続いた。
「それに私、まだ生きてる。つまり、さっきの一発で脳みそが吹っ飛ばなかったってことね。まあ正直、元からそんなに詰まってたかは怪しいけど」
「自分についてそこまで正確な認識を持っているとはね」
私は言った。
「ちょっと感動したわ」
「ありがとう、星野。あんたの承認は超光速より希少価値があるわね」
「どういたしまして。これからはもっとケチにするから」
口では彼女と斬り合いながら、私の視線はすでにメインスクリーン中央、新たに展開された宙域へと釘付けにされていた。
雪風の正面、突き刺すような極光ブルーを放つ二つの巨星が、理不尽なほど巨大な宇宙の心臓のように、深宇宙の中で肩を並べて懸かっていた。
ただの青ではない。
残酷なほど明るい青だ。
稲妻とオーロラ、氷層の底の深海の冷光――そのすべてを溶かし合わせ、恒星の表面から一層ずつ焼き出したような色。
左の星はやや大きく、光芒も強い。外層のコロナが、音もなく燃え盛る青白い炎の海のようにうねっていた。右の星はより凝縮されていて、色は深く、極限まで追い詰められたコバルトブルーの高温金属核が放つ、幽かな輝きのようだった。二つの星はあまりにも近く、その光と熱が互いに引き合い、食い合い、接触面に眩い電光の縁を織り成している。まるで宇宙が、そこにある自らの傷口を焼いて発光させているかのようだった。
その外側には、恒星風に吹き荒らされた銀青色の星雲の帯が渦を巻いていた。細く、ねじれ、発光する帯。誰かが深宇宙の幕を一条一条引き裂き、その裂け目を光で縫い合わせたかのようだった。
そして、この双子巨星の外縁には、スケール感を忘れさせるほど巨大な原始惑星系円盤が、宇宙に横たわる黒いレコード盤のように静かに広がっていた。
静かだ、というのは正確ではない。
あれは静止などしていないからだ。
回転している。ただ、あまりにも巨大すぎて、人間の目では即座にその動きを捉えられないだけだ。幾重にも重なる盤面の紋様から、地質年代にも似た途方もない流動を、かろうじて感じ取ることができる。
無数の黒い岩塊と氷塊、大小さまざまな原始天体の残骸が、その盤面の上に同心円状の灰白い軌跡を描いていた。近景には輪郭のくっきりした、表面がクレーターで覆われた巨岩――惑星になり損ねた失敗した野心のような塊。中程は潮のように密集したデブリの奔流で、二つの青い星の冷光を擦り、幾重もの鈍い反射光を放っていた。さらに遠くを見れば、粒子は塵のように細かくなり、朧げな銀灰色の波紋となって双星の周りに幾重にも広がっている。まるで創造そのものが手ずから刻み込んだ、古の紋様盤のようだった。
メインスクリーンのさらに奥、背景の深宇宙は群青、ネイビーブルー、そして墨の黒が幾層にも重なった色をしていた。
空ではない。
深さだ。
本能的に人を黙らせる深さだった。
右上方には明るい星の帯が一筋走り、砕けたダイヤモンドの屑のような細かい白い星々が、幽かな青い塵霧の中で静かに輝いていた。全体の光景は、あまりにも礼儀知らずなほど美しかった。ここに転がる岩の一つが船体を貫通しうるし、わずかな重力ノイズ一つで全艦もろとも祖先のもとへ送られかねないと分かっていても、なお思ってしまう。
本当に、見事だ、と。
私はその星景を二秒ほど見つめた。頭に浮かんだ最初の考えは、戦術でも、リスク評価でも、「ここで敵艦に待ち伏せされたら、なかなか芸術的な死に方になるだろうな」でもなかった。
そうではなく――
宇宙というやつは、「壮観」という言葉を、ここまで容赦なく形にしてくるものなのか、という思いだった。
「観測映像、同期記録完了」
蘭が低く告げた。
「同期しなくてもいいくらいよ」
ジェスが小声で応じた。
「私の目が勝手に焼き付けてるから。これを見せられて『人生なんて平凡なものよ』とか言える人がいたら、その人はどこかおかしいと思うわ」
「あんたのその台詞の問題はね」
私は言った。
「今がこんな景色じゃなくても、あんたはどうせ他人をおかしいと思ってるってことよ」
「それは安定した世界観って言うの」
「それは手遅れって言うのよ」
ロイが軽く咳払いをした。口元に浮かびかけた笑みを隠そうとして、失敗していた。
正直、この光景を前にして完全に無感動でいられる人間がいるなら、聖人か、どこか壊れているかのどちらかだ。今の雪風に足りないのは部品であって、聖人ではない。
「副長」
艦長代理が口を開いた。
「はっ」
真紀はほとんど間を置かずに応じた。
「全艦の安定を確認しろ」
彼女はすぐさま内線に切り替え、その声を艦内放送に乗せた。先ほど超光速警報を発令した時とは違い、今回の口調には逼迫感が半分ほど抜け、本当に肩の力を抜かせるだけの余地が加わっていた。
「全艦注意。第一段超光速航行は安定期に移行した。各区は現配置を維持し、設備および身体状態の監視を継続せよ。異常があれば直ちに報告、遅延は許さない」
彼女はそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「繰り返す。雪風は無事、第一段超光速安定期に移行した」
その言葉が落ちた瞬間、艦全体が一緒に肩の力を少し抜いたのが、はっきりと感じられた。
気の緩みではない。
最初の一歩で踏み外さなかったと、ようやく信じてよくなった――そういう安堵だった。
艦長代理は各席からの最終確認を一巡見届けてから、ようやく各モニターから視線を戻した。
彼はすぐに「ご苦労」とも言わず、「やり遂げたな」などという芝居がかった台詞も口にしなかった。
いかにも彼らしい。彼は、たとえ本気で感動していたとしても、まずデータを三回確認し、圧力値を二回洗い直し、ついでにミスの起こりうる箇所を全部リストアップし直してからでないと感情に触れないような人間だ。
結局、口から出たのはいつも通りの短い指示だった。
「現在の航態を維持。ロイ、新航道に沿って推進を継続。アカリ、盤面外縁のデブリ流を追跡し続けろ。蘭、必要最小限の通信回路を保て。アイダ、『神風』に少しでも変動があれば直ちに報告しろ。戦術区、観測を継続」
「はっ」
「了解」
「承知」
「了解」
一連の応答が艦橋に落ちた。短く、安定していて、無駄がない。
その声の連なりの中で、私は不意に、はっきりと気がついた。
雪風は、本当にもう出発したのだ、と。
第三の惑星で資源を強引にかき集めていた時ではない。
輪機室で『神風』を叩き起こした時でもない。
さっき超光速のボタンを押し込んだ、あの瞬間でさえない。
今、なのだ。
灯りが戻り、データが戻り、それぞれがまだ自分の席に座っていて、窓の外には魂まで射抜いてきそうな青い双子巨星が静かに懸かっていて、私たちは散らばりもせず、割れもせず、爆発もせず、ただ既定の航道通りに前へ進み続けている――今この瞬間。
これこそが、本当の意味での「出発」だ。
「星野」
我に返ると、真紀がいつの間にかこちらを見ていた。
「何?」
「あんた、さっき半秒ほど上の空だった」
……見られていた。
「外を見てたのよ」
「知ってる」
彼女は平坦に答えた。
「でも、あと二秒長く見てたら、ジェスがその隙にあんたの戦術監視表を私に投げてきたと思うわ」
「ちょっと」
ジェスが即座に抗議した。
「私はそんな卑怯な真似しないわよ。せいぜい、先にきれいに整理してから投げるくらいで」
「聞いたでしょ」
私は木でできたような顔のまま言った。
「これが、今の私の職場環境よ」
真紀の唇の端が、ごくかすかに動いた。
幻覚かと思うほど短い弧だった。だが、私は見た。
そして、見たのは私だけではなかった。
「ねえ」
ジェスがまた小声で身を寄せてきた。
「今の、もしかして――」
「黙れ」
「まだ言い終わってない」
「あんたの心の中ではもう言い終わってる」
「あんた、私のことよく分かってるじゃない、戦術長」
「長期被害から来るリスク予測よ」
今度は蘭までもが横を向き、小さく笑いを漏らしてから、職業意識できちんと表情を引き締め直した。
そういうものだ。人間、生き延び続けていれば、同僚の忍び笑いすら共有体験になる日がやってくる。
艦橋前方、双子の青い巨星は深宇宙の中でなおもゆっくりと回転していた。
その外周を巡る巨大な原始惑星系円盤は、古く沈黙したレコード盤のように、無音のまま宇宙自身の年輪を刻み続けている。
そして雪風は、その宏大で残酷なほどの光景の前で、細く頑固な一本の金属の針のように、自らの航道に沿って少しずつ前へと切り進んでいった。
私は手を操作盤の上に戻し、深く息を吸って、景色に攫われかけていた意識を引き戻した。
戦術監視図、安定。
船体数値、安定。
『神風』、安定。
第一段超光速、安定。
よし。
少なくとも今、この艦は奇跡頼みで前に進んでいるわけではない。
新しく開けた宙域を見つめながら、私は心の中で、ごく小さくこう呟いた。
――帰るということが、本当に冗談で終わらないこともあるんだな。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




