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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:ロスト
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136.帰路  3

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

艦橋の全員が所定の席についた後、空気が急に薄くなった。


酸素供給のトラブルではない。雪風が今更そんなところでヘマをするなら、全艦その場で解散して、みんなで仲良くジャガイモでも育てた方が社会のためになる。


空気を薄くしている正体は、「ついにこの時が来た」という静寂だった。


誰もが席につき、端末が点灯し、計器のランプが瞬いている。艦橋のメインスクリーンには新しい航道が宙域図の上に静かに横たわり、漆黒の闇に切り込んだ一筋の白線のようだった。


だが、全員が揃い、機械が稼働し、手順が整っているからこそ、その非現実感はより一層重みを増していた。


これまでだって、帰ることを考えなかったわけではない。


ただ、以前はそれが単なる強がりに近かった。


今のこれは、現実になりつつある。


「ロイ、新航道の設定を開始しろ」


艦長代理の声が落ちた。ことさら声を張り上げるでもなく、押し殺すでもない。だが艦橋全体が自動的に雑音を消し去る。この人間は天性、「今は雑談の時間ではない」という重力場を纏っている。腹立たしいが、実用的だ。


「はっ」


ロイは即座に両手を操舵台に押し当てた。新たな航線パラメータが次々と展開され、青白いナビゲーションフレームがメインスクリーン上に補正線を引いていく。まるで星図の上に、家へ帰るための縫い目を細かく縫い付けているかのようだった。


同時に、艦長代理は横を向き、サブスクリーンの通信画面に向かって言った。


「ハーヴィー、一旦そのままでいい。もし『神風』に少しでも心の問題があれば、すぐに私に報告しろ」


……心の問題。


私は思わず艦長代理の顔を見そうになった。


この言葉が他人の口から出たなら、詩的な表現か、酔っ払いの哲学的な戯言に聞こえただろう。だが艦長代理の口から出ると、こう聞こえる――彼は本気で『神風』を一つの心臓として扱っており、もしその不整脈を招くような真似をする奴がいれば、そいつの人生の脈拍を止めてやる、と。


画面越しのハーヴィーは、肩の耐熱ケープを少し上に押し上げた。背景は相変わらず、いつでも爆発しそうなのにまだ爆発していない、あの金属地獄のような輪機室だ。


「了解」


彼は短く応じ、余計な口も叩かず、おどけることもなく、通信を切った。


彼が冗談を十個言うよりも、この態度の方が事態の深刻さを物語っている。


ハーヴィーがまともな技術兵のように振る舞い始めた時、それは技術面が一切の妥協を許さない状態にあることを意味する。


「新航道、設定完了」


ロイの報告がすぐに続いた。


私は横目で彼を見た。


彼が雪風に乗艦した当初、初めて操舵台に触れた時の表情は、いつ自分の手首を噛みちぎるか分からない野獣を撫でるかのようだった。それが今、数ヶ月の地獄のような実戦を叩き込まれ、彼は別人のようになっていた。ハンサムになったという意味ではない――軍艦はアイドル養成所ではないし、そんな安い奇跡は起きない。手を出した後に迷いがない、あの安定感のことだ。


口が達者になる成長もある。


一番肝心な時に、手が震えなくなる成長もある。


大抵の場合、後者の方が役に立つ。


艦長代理は座標を確認した後、手を伸ばして壁掛けの通信機を取った。その動作は決して速くなく、むしろ極めて静かだったが、なぜかその瞬間、背筋が一本の線のように張り詰めるのを感じた。


全艦放送というものは、一つの意思を正式に言葉にする儀式に似ている。そして一度口に出してしまえば、それはもはや単なる「考え」ではなくなる。


「艦長代理、アッシュ・ヴァンダー三等大尉だ」


彼の声が全艦放送システムを通じて広がる。冷静で、乾いていて、余計な装飾は一切ない。


「超光速機関への過剰な負荷を避けるため、本艦は段階的超光速航行を実施する」


メインスクリーンの右側に、航程の分割図が同期して表示された。蘭は即座に通信チャンネルをクリアし、必要最小限の艦内回路のみを維持する。アカリの手元で戦術マーカーが次々と点灯し、現在宙域、突入予定ウィンドウ、離脱後の補正航帯をすべて枠内に収めた。


隣でジェスが戦術ボードを照合している。他人の誤字を見つけるために生まれてきたような速さだ。彼女を褒めたくはないが、事実として、この女は副手の席に座るたびにそれらしくなっている。


艦長代理は続けた。


「第一段階として、本艦は約四千五百万光年を航行する」


彼は一拍置いた。


「運が良ければ、おとめ座超銀河団外縁のフィラメント構造にある、最初の大型恒星密集宙域に到達する。以上だ」


放送終了。


艦橋は再び、計器の低い駆動音と報告の声だけが響く状態に戻った。あの短い言葉は、水に投げ込まれた石のようだった。表面上は何も変わらないが、艦の底ではすでに波紋が幾重にも広がっている。


四千五百万光年。


私の脳裏に最初に浮かんだのは――


この距離を交通費として申請したら、行政は間違いなく「往復の領収書を添付してください」という理由で突き返してくるだろうな、というくだらない考えだった。


第二の思考で、ようやく実感した。


本当に跳ぶんだ。


「全艦、超光速航行に備えろ。副長――」


「了解」


真紀が命令を引き継ぐ速度は、まるで最初からその言葉を待っていたかのようだった。壁掛け通信機を取る。声は高くないが、金属を金属で叩くような正確さがあった。


「全艦注意。これより橙色警戒を発令する。総員、直ちにワープ警戒配置に就き、安全帯を確認せよ」


私は振り返らなかったが、その声を聞いただけで、今日の九島真紀のコンディションが良好であることが分かった。つまり、冷たく、安定し、正確無比。もしこんな時に彼女の邪魔をしようものなら、極めて礼儀正しく死地へ送られるだろう。


「艦橋要員、安全帯を確認」


カチャ。


カチャ。


カチャ。


艦橋に一連のロック音が響く。乾いていて無駄がない。息は合っているが、あまり縁起の良くない合奏だ。私はうつむき、腰の固定バックルを定位置に押し込み、戦術席の安全拘束帯をもう一度確認した。


ジェスも確認を終え、私の右側の少し浮いていたバックルを押し込んでくれた。


「ここ、ちゃんと嵌まってない」


「……手はあるわよ」


「知ってる」


彼女は小声で言った。


「でも今のあんた、脳の半分は航線に、もう半分は平常心を装うことに使ってるから、手が空いてないかもしれないでしょ」


「黙れ」


「えー」


彼女は短く語尾を伸ばし、無実を訴えるような顔をした。おかげで私は、彼女の戦術ボードを没収したくなる衝動に駆られた。残念ながら今は内輪揉めをしている時間はない。本当に残念だ。


「艦橋、安全帯確認完了」


真紀が報告する。


アイダは技術モニターをメイン・サブ並列モードに切り替えた。『神風』の出力、超光速コイルの同調率、フレーム応力、慣性補償の予備値が、目の前のスクリーンに次々と表示される。彼女は眼鏡を押し上げ、無情なほど淡々とした声で言った。


「技術側、確認。『神風』出力安定。主駆動炉にブレなし。再度警告します。超光速起動後三十秒以内に吐き気を催した者は、エチケット袋を使用すること。私が調整したばかりのコンソールには絶対に吐かないように」


ロイが黙って「了解」と呟いた。


蘭も付け加える。


「通信チャンネル封鎖完了。艦内回路安定。跳躍中、対外通信は存在しないものとみなします。宇宙の誰かに無性に連絡したくなったとしても、我慢してください」


「それ、ジェスに向かって言うべきね」


私は低く言った。


ジェスが即座に身を乗り出してくる。


「なんで私なのよ? 私が超光速中に恋愛メールを送るような女に見える?」


私は彼女を一瞥した。


「超光速中に遺書を書いて、ついでにツッコミの注釈まで入れそうな女には見える」


「それは私に文学的素養がある証拠よ」


「病気の証拠よ」


そんな場違いな低声の応酬の中、艦長代理がついに操舵席へと視線を向けた。


「ハルトマン」


ロイが顔を上げる。


艦長代理の口調は静かで、極めて抑制された、上官としての礼儀すら帯びていた。


「我々を出発させろ」


隣のジェスが、ゴシップの匂いを嗅ぎつけた猫のように少しこちらへ身を寄せ、声を潜めて言った。


「ねえ、あれって連邦のどこかの名艦の艦長を真似してるの?」


私は無表情のまま前を向いた。


「黙れ」


「えー……」


「次口を開いたら、あんたの副手権限を『私にお湯を淹れるだけ』に変更するわよ」


「それ処罰じゃなくて昇進じゃない?」


……この女は一体なぜ、全艦が超光速に突入しようという時にまで、このレベルのゴミみたいな軽口を維持できるのだろう。


ある意味、これも才能だ。


ロイは私たちの低声の犯罪行為を無視した。彼の手がしっかりと速力指示器(テレグラフ)を握り――一気に、最大戦速へと叩き込んだ。


次の瞬間、雪風全体が震えた。


以前の旧式ボイラーのような震え方ではない。重くもなく、鈍くもなく、「年寄りだから勘弁してくれ」というような老朽機械の癇癪でもない。


今回の震えはもっと細かく、鋭く、艦の深部にある何かが一瞬で臨界点まで圧縮され、その脈絡全体が一気に発光したかのようだった。


輪機室の光景が目に浮かぶようだ。ヘリウム・水素駆動炉内の水元素が急速に加圧され、超イオン状態へと移行する。見えなかったエネルギーの経路が血管のように一寸ずつ輝き出し、最後には『神風』のコアの鼓動と完全に接続される。


ごまかしごまかし延命してきた残骸ではない。


これは、新しい心臓だ。


アイダが素早く数値を読み上げる。


「主炉圧、上昇正常。超光速コイル同調率、九十六パーセント……九十八……九十九。慣性補償、準備完了」


アカリがレーダーと戦術投影のオーバーレイ画面を睨み、相変わらず速く正確な声で報告する。


「前方宙域クリア。離脱ベクトル安定。重力ノイズ、許容値内」


蘭が補足する。


「艦内回路正常。異常フィードバックなし」


真紀はただ前を見据え、すべてのデータが形を成したその瞬間、極めて短く一言だけを発した。


「跳べます」


重い言葉ではない。


だがそれは、艦全体に残っていた最後の一糸の躊躇いを完全に釘付けにする響きがあった。


次の瞬間、操舵台の前にある三つの航行ランプが順に点灯した。


一つ目は、主駆動スタンバイ。


二つ目は、超光速コイルロック。


三つ目は、跳躍ウィンドウ展開確認。


三つの光が静かにそこにある。宇宙が珍しく、私たちに向かって一度だけ頷いてくれたかのように。


ロイは息を吸い込んだ。


「超光速航行――開始」


彼がボタンを押し込んだ。


そして、あの感覚が再び襲ってきた。


時間が一瞬、停止したような感覚。


文学的な誇張ではない。脳が何が起きたか判断する前に、身体が世界の法則から一時的にミュートされる、あの本物の感覚だ。


直後、全身を無理やり水の中に押し込まれたような圧が来る。


痛みではない。


圧迫感とも少し違う。


自分と艦全体が、理不尽なほど巨大な力に掴まれ、存在するはずのない方向へと引き伸ばされるような感覚。


メインスクリーンの星々が一瞬で歪み、細い線へと引き伸ばされる。


艦橋内の固定された設備が一斉に、ごく微かな共振音を立てた。


鼓膜の奥で何かがパチンと弾け、呼吸すら半拍遅れる。


雪風が極限まで引き絞られる。


ゴム紐のように。


ずっと飲み込んでいた言葉のように。


ついに跳ねることを余儀なくされた心臓のように。


そして――


パァン。


艦全体が元の宙域から解き放たれ、消失した。


煙もない。


炎もない。


安っぽいドラマが好むような巨大な閃光もない。


ただ、胃が抗議したくなるほどの極めて理不尽な無重力感と、次の瞬間にメインスクリーンが安定した後に広がる、まったく違う星空があるだけだった。


私は座席の肘掛けを死ぬほど強く握りしめていた。システムの警告音が一つ一つ回復し始めて、ようやく自分が本当に息を止めていたことに気がついた。


「……」


「……」


艦橋に二秒間の沈黙が落ちた。


そして、最初に声を出したのは、艦長代理でも真紀でもなく、この歴史的瞬間を歴史らしく語るべき立場の誰でもなかった。


ジェスだった。


彼女は前方を凝視し、ひどく真面目な顔で、ひどく真面目な口調で言った。


「正直言って、想像してたより溺れる感覚に近いわね」


私は歯を食いしばって息を吐き出した。


「とりあえず黙れ」


「でも私、文学的記録のために」


「あんたの文学的記録は死ね」


今度はロイでさえ、ごく小さく笑いを漏らした。


非常に短く、注意しなければ聞き逃すほどの音。


だが、私には見えた。


その瞬間、私はふと思った。今回の跳躍が重要だったのは、私たちがついに点対点超光速を現実のものにしたから、というだけではないのかもしれない。


雪風がこの瞬間、初めて「無理やり生かされている船」ではなくなったからだ。


彼女は、本気で私たちを連れて帰ろうとする船になったのだ。


前方の新しい星図が一寸ずつ展開されていく。おとめ座超銀河団外縁のフィラメント構造にある、最初の大型恒星密集宙域。それがメインスクリーンの奥に静かに浮かび上がる。暗闇の中でようやく誰かが遠くに明かりを灯してくれたような、だが意地悪く一気にすべてを照らすことはせず、自力で前に進むことを強いるような、そんな光。


私はその新しい星空を見つめた。耳の奥には、先ほどの超光速が身体を引き裂いていった錯覚がまだ残っている。


そして私は、自分が笑っていることに気がついた。


ごく薄く。


隣に座っているジェスくらいにしか気づかれないほど、薄く。


結果として、彼女は本当に気づいた。


「ねえ、星野」


「なに」


「あんた今、笑ったでしょ」


私は顔色一つ変えなかった。


「笑ってない」


「笑った」


「見間違いよ」


「見間違いじゃないわよ、あんたの今の顔、まるで――」


「ジェス」


今度彼女を遮ったのは、私ではなかった。


真紀だった。


彼女は副長席に座ったまま、振り返りもせずに淡々と言い放った。


「戦術副手がそこまで暇なら、航行後の記録整理を貴官のタスクに追加するが」


ジェスは即座に沈黙した。


二秒ほど黙った後、彼女は私に向かって非常に小さな声で言った。


「ほら、あいつ、あんたの口封じまで自然にやるようになったじゃない」


私はその場で端末パネルを彼女の頭に叩きつけてやりたくなった。


残念ながら、それはできない。


私たちは今、超光速の只中にいるのだから。


それに、正直に言えば――


彼女の言っていることも、あながち間違ってはいなかった。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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